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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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ボールと走る

**第43章「ボールと走る」**




**方向転換を含むジョギングを問題なく終えた柚月。**




**次の段階では、ボールを足元へ置いたまま走るメニューが始まる。**




**ゆっくりとしたドリブル。**




**左右への緩やかな持ち替え。**




**五メートル先へのパス。**




**動きながらボールを扱うことで、右ふくらはぎへ新たな負荷がかかる。**




**一方、代表候補合宿では、早川莉奈が自分の判断で試合を動かし、原町監督から高い評価を受ける。**




**しかし、代表選考の日程が近づく中、報道は再び柚月と莉奈を比較し始める。**




**「復帰を目指す世界王者か、新しい時代を担う二十歳か」**




**その見出しを見た莉奈は、記者へ静かに答える。**




**「どちらか一人を選ぶ話にしないでください」**




**そして柚月には、所属クラブの全体練習へ部分的に合流する可能性が伝えられる。**




**次回、**


**第43章「ボールと走る」**




**走れる身体へ、ボールを扱う感覚を重ねていく。**




**柚月はようやく、サッカー選手としての動きを取り戻し始める。**


# 第43章 ボールと走る


## 1 足元に置かれた次の課題


方向転換を含むジョギングを問題なく終えた柚月は、いよいよボールを使った走行練習へ進んだ。


ベガルタ仙台レディースの練習場には、十メートルほどの間隔でコーンが並べられていた。


最初は直線。


その先に、緩やかな右へのカーブ。


さらに左へのカーブ。


最後に、五メートル先へパスを出すための目印が置かれている。


トレーナーが、柚月の足元へボールを置いた。


「今日は歩く速度から始めます」


「走るんじゃないの?」


「最初は歩きながら、ボールを左右へ持ち替えます。問題がなければ、軽いジョギングへ進みます」


柚月は少し不満そうにボールを見る。


「もう二十分走れるっちゃ」


「ボールを扱わずに、です」


「ボールがあっても同じだべ」


「同じではありません」


トレーナーはコーンを指した。


「ボールを追うと、無意識に歩幅が広がります。身体から離れれば、急に速度を上げることもあります。右脚で踏ん張る場面も増えます」


山田羽美監督も近くで見守っていた。


「柚月はボールが転がると、けがのことを忘れるからね」


「そこまで単純じゃねぇべ」


「前に紅白戦のボールを反射で追いかけようとした人は誰だったかな」


柚月は言葉に詰まった。


「今日は追いかけません」


「ボールを追いかける練習なのに?」


「監督、言い方が意地悪だっちゃ」


周囲に小さな笑いが起こる。


トレーナーが真剣な表情へ戻った。


「大切なのは、ボールを失わないことではありません。身体の動きを崩さないことです。ボールが少し離れても、急に追いつこうとしないでください」


「はい」


「右ふくらはぎに張りが出たら、その場で止めます」


「分かってるっちゃ」


今度の返事には、以前のような焦りはなかった。


柚月は右足の内側で、ボールを小さく前へ押した。


ワールドカップ決勝以来、初めて芝の上でボールと一緒に前へ進む。


その一歩が、ゆっくりと始まった。


## 2 歩幅とボールの距離


一つ目のコーンまでは直線だった。


右足で触る。


二歩進む。


左足へ持ち替える。


また二歩進む。


ボールを身体から離しすぎない。


一回のタッチで進める距離は短くする。


柚月は下ばかり見ないように、時折顔を上げた。


目の前のコーン。


その先のトレーナー。


右側で練習する仲間たち。


久しぶりに、ボールと周囲を同時に見る。


「タッチが少し強いです」


トレーナーから声が飛ぶ。


柚月は次のタッチを弱めた。


「これくらい?」


「はい。今の距離を保ってください」


右へ緩やかに曲がる。


右足の外側でボールを少し内側へ動かし、身体も大きな弧を描く。


痛みはない。


次は左。


右脚が外側になり、芝を押す力が少し強くなる。


柚月の上半身に、わずかな力みが出た。


「肩の力を抜いてください」


柚月は息を吐く。


右脚だけで踏ん張らず、細かな歩幅で曲がる。


最後の直線へ入る。


五メートル先に、トレーナーが立っていた。


「止まってからパスです」


柚月はボールを右足の裏で止めた。


身体を整える。


左足をボールの横へ置く。


右足の内側で、ゆっくりと押し出した。


ボールは五メートル先へ、ほとんどぶれずに届いた。


トレーナーが足元で止める。


「一本目、問題ありません」


柚月の顔に笑みが浮かぶ。


「久しぶりにサッカーらしいことしたっちゃ」


「まだ入り口です」


「入り口でも、中に入ったことには変わりねぇべ」


ボールが返される。


二本目。


今度は歩く速度を少し上げる。


足元にボールがあるだけで、身体の感覚が変わった。


いつ、どちらの足で触るか。


次の一歩をどこへ置くか。


顔を上げる瞬間。


ボールへ目を戻す瞬間。


単純な歩行やジョギングでは使わなかった判断が、一つずつ戻ってくる。


## 3 ボールと一緒に走る


数本の歩行ドリブルを終えたあと、トレーナーは右ふくらはぎの状態を確認した。


痛みはない。


強い張りもない。


「次は軽いジョギングへ移ります。速度は三割です」


柚月はすぐに立ち上がった。


「待ってました」


「ボールのタッチは、今よりさらに小さくしてください。離れても急に加速しないこと」


「はい」


「最初は直線だけです」


「曲がらない?」


「一本目は曲がりません」


柚月はスタート地点へ立つ。


足元にボール。


前方には十メートルの直線。


「始めてください」


右足で、ボールを小さく押す。


一歩目。


二歩目。


軽いジョギングへ移る。


ボールと一緒に走る。


それだけの動作が、柚月の胸を高鳴らせた。


ボールがわずかに右へ流れる。


右足の内側で中央へ戻す。


左足で前へ押す。


顔を上げる。


もう一度、足元を見る。


右脚は動いている。


ふくらはぎも、着地と蹴り出しを受け止めている。


五メートル。


七メートル。


十メートル。


柚月は急停止せず、数歩かけて速度を落とした。


最後に足の裏でボールを止める。


「どうですか」


「大丈夫。痛くない」


「怖さは?」


柚月は少し考えた。


「ボールに集中してたら、前より気にならなかったっちゃ」


「それが危険でもあります」


トレーナーは注意した。


「怖さを忘れて速度を上げる可能性があります。ボールだけでなく、身体の感覚も確認してください」


柚月はうなずいた。


「分かったべ」


二本目。


今度は途中に緩やかな右へのカーブが入る。


柚月はタッチを細かくする。


ボールを右へ運び、身体もその後を追う。


急がない。


大きく曲がる。


そのまま直線へ戻る。


三本目には、左へのカーブも加わった。


右ふくらはぎへ横方向の負荷がかかる。


柚月は一瞬だけ動きを慎重にしたが、止まらなかった。


右足でボールを身体の内側へ置く。


左へ曲がる。


無事に抜ける。


最後の五メートルパス。


トレーナーの左足へ正確に届いた。


山田監督が拍手する。


「今のはよかったね」


「代表レベルでした?」


「リハビリとしてはね」


「そこは素直に代表レベルって言ってけろ」


「代表レベルの速度は三割じゃないでしょう」


柚月は苦笑した。


それでも、山田の言葉が正しいことは分かっていた。


今はまだ、代表の自分と比べる段階ではない。


昨日の自分から、どれだけ戻れたか。


見るべきなのは、そこだった。


## 4 再び作られる二者択一


同じ頃、代表候補合宿では早川莉奈が自分の判断で試合を動かし始めていた。


紅白戦の中盤。


相手は中央を厚くし、早川へ前を向かせない守備をしていた。


早川は無理に受けようとしなかった。


一度、相手のボランチから離れる。


センターバックが前へ運べる空間を作る。


相手がボールへ寄った瞬間、早川は再び中央へ入った。


パスを受ける前に、左後方を確認する。


次に右前方。


最後に、自分の背後へいる相手の位置を見る。


ワンタッチで右へ落とす。


すぐに前へ動く。


右サイドから戻ってきたボールを、今度は前を向いて受ける。


相手DFが出てくる。


早川は縦へ急がず、少しだけボールを運んだ。


相手を一歩引きつける。


その背後へ、味方が斜めに走った。


早川は右足の外側で、相手の足元を避けるようにパスを通した。


味方が抜け出す。


折り返し。


中央でシュート。


ゴール。


原町監督は、すぐにメモを取った。


受けるために動いたのではない。


味方が運べる空間を作るため、一度離れた。


再び入ったときには、次の展開を準備していた。


早川は、目の前のプレーだけでなく、その一つ前から攻撃を組み立て始めていた。


練習後、報道陣が早川を囲んだ。


「今日も得点の起点になりました。代表の中盤で存在感が増しています」


「ありがとうございます。でも、まだ修正するところは多いです」


「大船柚月選手も、所属クラブでボールを使ったリハビリへ進んだと報じられています」


早川の表情が少し明るくなる。


「そうなんですね。順調に戻られているなら、嬉しいです」


記者は続けた。


「復帰を目指す世界王者か、新しい時代を担う二十歳か。代表選考では、お二人のどちらを選ぶべきかという議論も起きています」


早川の表情から、笑みが消えた。


少し考えたあと、静かに答える。


「どちらか一人を選ぶ話にしないでください」


報道陣が一斉にペンを動かす。


「代表の枠に限りがあることは分かっています。私も選ばれるために結果を出さなければいけません。でも、柚月さんと私は違う選手です」


「同じ中盤のポジションを争うのではありませんか」


「競争はします」


早川は迷わず答えた。


「でも、競争することと、どちらかが必要ないと決めることは違います。私は柚月さんから学びたいことがたくさんありますし、一緒にプレーしたいと思っています」


「将来的には大船選手を越えたいですか」


早川は少しだけ笑った。


「越えたいです。でも、けがで離れている間に過去の選手として扱って、勝ったことにしたくありません」


記者たちの空気が変わった。


「柚月さんが戻ってきて、同じ状態で競争して、そのうえで私が必要だと思ってもらえる選手になりたいです」


その日の夕方、早川の発言は大きく報じられた。


しかし見出しの多くは、本人の意図とは少し違っていた。


**「早川、世界王者への挑戦状」**


**「柚月を越えると宣言」**


**「二十歳の新星、世代交代へ強い覚悟」**


早川は記事を見ながら、小さくため息をついた。


「そこだけ切り取るんだ……」


## 5 画面越しの再会


その夜、早川から柚月へ連絡が入った。


『少しお話ししてもよろしいですか』


柚月は自宅の書斎にいた。


名取百合子の遺影と、ワールドカップの金メダルが並ぶ机の前で、早川から送られてきた映像を見ていたところだった。


『いいよ。今なら話せるっちゃ』


間もなく、画面に早川の顔が映った。


代表合宿の宿舎らしい部屋。


早川は練習着から部屋着へ着替えていたが、髪はまだ少し濡れていた。


「こんばんは。お疲れのところ、すみません」


「うちより莉奈の方が疲れてるべ。合宿中だろ」


「今日は紅白戦がありました」


「映像見たよ。いいパス通してたな」


早川の表情が少し明るくなる。


「本当ですか」


「受ける前に一度離れたところがよかった。自分が受けるためじゃなくて、センターバックが運ぶ場所を作ったべ」


「そこまで見てくださったんですね」


「見るのが仕事みたいなもんだからな」


「私はまだ、プレーの中へ入りすぎてしまうことがあります」


早川は少し考えながら話した。


「自分がボールに触らなければ、試合に関われていないように感じるときがあって」


「代表に入ったばかりなら、なおさらだべ。何かしなきゃって思うからな」


「柚月さんも、若い頃はそうでしたか」


「めちゃくちゃそうだったっちゃ」


早川は意外そうに目を見開く。


「柚月さんでも?」


「うちを何だと思ってるんだべ」


「最初から試合全体が見えていた選手だと思っていました」


柚月は笑った。


「そんなわけねぇべ。若い頃は、ボールを受けたら前。奪ったら前。味方が走ったら、とりあえず出す。かなり単純だったっちゃ」


「でも、今は試合の速度を変えられます」


「失敗して覚えたんだよ」


柚月は少し姿勢を正した。


「代表って、うまい選手が集まる場所だべ。でも、うまいだけじゃ残れねぇっちゃ」


早川は真剣な表情になる。


「代表としての心構えを教えていただけますか」


「急に大きな質問来たな」


「今のうちに、聞いておきたいです」


柚月はしばらく考えた。


かつて自分が代表へ入った頃。


周囲には、自分より経験も技術もある選手がいた。


試合へ出たい。


認められたい。


その思いが強いほど、自分のプレーを見せようとしていた。


「まず、代表のユニフォームを着たら、自分が目立つことより、日本が勝つことを優先する」


「はい」


「当たり前に聞こえるべ。でも、難しいっちゃ。試合に出たいし、評価されたい。得点に絡みたい。自分の良さを見せたい。そう思うのは普通だよ」


早川はうなずく。


「でも、味方が生きるために自分が消える時間も必要になる」


「消える時間?」


「自分がボールを受けないことで、相手を連れていく。味方が前を向ける場所を作る。触らなくても、試合を動かせることがあるっちゃ」


早川はすぐにメモを取った。


「今日、莉奈が一度外へ離れた動きもそれだべ。センターバックが運べたから、相手の一列目が崩れた。莉奈がボールを受けたのは、そのあとだ」


「触らない時間も、攻撃の一部なんですね」


「そう。代表では、みんなボールを持てる。だからこそ、誰が持たなくてもチームが進む形を作らないといけない」


## 6 観察するということ


早川は次の質問をした。


「柚月さんが言う観察力は、具体的に何を見ることなんでしょうか」


「相手の位置だけじゃねぇべ」


柚月は机の上に小さなボールを置いた。


その周囲へ、ペンや消しゴムを並べる。


即席の作戦盤だった。


「相手の身体の向き。走る速度。目線。呼吸。誰が声を出してるか。誰が声を出さなくなったか」


「呼吸も見るんですか」


「近ければ見る。苦しくなると、寄せの一歩が遅くなる。身体が起きる。戻るときに前を向かなくなる」


柚月は消しゴムを少し後ろへ動かした。


「ワールドカップの決勝で、アメリカにボールを持たせた時間があったべ」


「はい」


「前半は、持たせても相手の走力が落ちなかった。でも後半になると、サイドから中央へ戻る選手の速度が少しずつ遅くなった」


「そこで奪ったあと、速く攻めたんですね」


「うん。数字だけ見れば、相手にボールを持たれてた。でも、相手の身体を見れば、うちらが奪ったあとの方が速く動ける状態になってたっちゃ」


「ボールだけを見ていたら、分からないですね」


「そう。戦況を読むっていうのは、点数や時間だけじゃない。相手と味方の身体が、今どっちへ傾いてるかを見ることだべ」


早川は少し考え込む。


「全部見ようとすると、また情報が多くなりそうです」


「だから、時間帯ごとに問いを一つ決める」


「問い?」


「今、相手はどこで奪いたがってるか。誰を疲れさせたいか。どの選手が焦ってるか。自分たちは何を嫌がってるか」


柚月は指を一本立てる。


「一度に全部の答えを探さなくていい。一つの問いを持って試合を見ると、必要な変化が見つかりやすくなるっちゃ」


「今、何を見るべきかを自分で決めるんですね」


「そう。観察って、たくさん見ることじゃない。必要なものを見落とさないことだべ」


## 7 相手との駆け引き


早川は、さらに尋ねた。


「相手との駆け引きは、どう覚えましたか」


柚月は少し笑った。


「何度も引っかかったからだな」


「引っかかった?」


「パスコースが空いてると思って出したら、待たれてた。前を向けると思って受けたら、後ろから潰された。そういう失敗を何回もしたっちゃ」


柚月はボールの横に置いたペンを動かした。


「駆け引きって、相手をだますことだけじゃない。相手が何を信じたがってるかを考えることだべ」


「信じたがっていること?」


「例えば、莉奈が二回続けて縦へ出したら、相手は三回目も縦だと思う。そこまでが莉奈の作った情報になる」


「三回目に横へ変える」


「それでもいい。でも、相手が縦を消すために中央へ寄ったなら、外が空く。大事なのは、変えること自体じゃなくて、自分の前のプレーで相手がどう動いたかを見ることだっちゃ」


早川はうなずいた。


「自分のプレーが、次の相手の判断を作るんですね」


「そう。駆け引きは、今の一回だけじゃない。前の一回と、次の一回までつながってるべ」


「では、あえて同じプレーを続けることもありますか」


「ある。相手が変えるまで同じ場所を使う。変えた瞬間に逆を取る」


柚月はペンを右へ動かし、消しゴムを中央へ寄せた。


「一度目で抜こうとしなくていい。二度、三度と同じ形を見せて、相手の位置を変えさせる。その変化を使って、味方が進めばいいっちゃ」


早川の表情に、納得したような色が浮かぶ。


「私は一回のプレーで答えを出そうとしすぎていたかもしれません」


「若い選手は、そうなりやすい。代表合宿で見せ場を作らなきゃって思うからな」


「はい」


「でも、代表の試合は長い。九十分の中で、相手に何を覚えさせるかも大事だべ」


「九十分かけた駆け引き」


「そう。最初の一本が、後半の一本につながることもあるっちゃ」


## 8 先輩と競争相手


話が一段落したところで、早川は少し言いにくそうに口を開いた。


「今日、取材で柚月さんと私のどちらを選ぶべきかと聞かれました」


「記事見たよ」


「私の言ったことと、見出しがかなり違っていました」


「よくあることだべ」


柚月は苦笑した。


「『柚月を越えると宣言』って書かれてたな」


「越えたいとは言いましたけど、ああいう意味ではなくて」


「分かってるっちゃ」


「柚月さんは嫌な気持ちになりませんでしたか」


「全然」


柚月は即答した。


「越えたいって言われるくらいじゃないと、うちも困るべ」


「でも、私はまだ先輩方から学ぶことがたくさんあります」


「学ぶことと、越えようとすることは両立するっちゃ」


柚月の声は穏やかだった。


「うちも先輩から教わった。でも、試合に出たら遠慮しなかった。先輩の席だからって、譲る必要はねぇべ」


「はい」


「莉奈がいいプレーをしたら、うちの復帰が厳しくなるかもしれない。それでも、手を抜いてほしいとは思わない」


早川は画面越しに柚月を見つめる。


「怖くないんですか」


「怖いよ」


柚月は正直に答えた。


「うちが戻る前に、莉奈たちが結果を出して、代表の形が完成するかもしれない。うちが入る場所がなくなるかもしれない」


「柚月さんでも、そう思うんですね」


「当たり前だべ」


柚月は少し笑う。


「でも、怖いからって莉奈に成長するなとは言えねぇっちゃ。それなら、うちがもっと必要な選手に戻ればいい」


早川は深くうなずいた。


「私は、柚月さんと一緒に代表でプレーしたいです」


「うちもだよ」


「それでも、競争では負けたくありません」


「それでいいべ」


柚月は画面へ少し顔を近づけた。


「莉奈。うちは先輩として教えられることは教える。でも、代表の席を譲るつもりはないっちゃ」


早川も、まっすぐに答える。


「私も、教えていただいたからといって遠慮するつもりはありません」


「言ったな」


「はい」


「面白くなってきたべ」


二人は同時に笑った。


先輩と後輩。


教える者と学ぶ者。


そして、同じ代表の座を争う競争相手。


どれか一つだけではない関係が、少しずつ作られていた。


## 9 部分合流への条件


翌日、柚月は山田羽美監督とトレーナーから呼ばれた。


会議室の机には、ここ数週間のリハビリ記録が並べられている。


走行時間。


速度。


方向転換の角度。


ボールタッチの回数。


パスの距離。


練習後と翌朝の痛みや張り。


いずれも大きな問題は出ていなかった。


トレーナーが説明する。


「現在、全力の四割程度であれば、ボールを扱いながら二十分前後の走行ができています」


「はい」


「次の段階では、全体練習のウォーミングアップと、非接触のパスメニューへの部分合流を検討します」


柚月は一瞬、言葉を失った。


「みんなと一緒に練習していいの?」


「すべてではありません」


山田監督が念を押す。


「最初はウォーミングアップの一部。対人なし。ダッシュなし。接触なし。途中で個別メニューへ戻る」


「紅白戦は?」


「まだ」


「ボール回しは?」


「守備役のいないパス練習だけ」


「シュートは?」


「まだ強く蹴れないでしょう」


柚月は少し残念そうな顔をしながらも、すぐに笑みを取り戻した。


「でも、仲間と同じ列に並べるんだべな」


「条件を満たせばね」


「条件は?」


トレーナーが資料を示す。


全力の五割までの直線走行。


左右への方向転換。


ボールを持った状態での安定した走行。


五メートルから十メートルのパス。


練習後と翌朝に、痛みや強い張りが出ないこと。


「これを数日間継続できれば、部分合流です」


柚月は資料を見つめた。


夢にまで見た全体練習。


まだ完全復帰ではない。


同じメニューを最後まで行うこともできない。


それでも、仲間たちの輪へ戻る入り口が見えてきた。


「やります」


「急がないで」


「分かってるっちゃ」


山田監督が少し笑う。


「その返事、前より信用できるようになったね」


「やっとですか」


「やっとだね」


## 10 走れる身体に判断を重ねる


その日の屋外メニュー。


柚月はボールを足元へ置き、ゆっくりと走り始めた。


右。


左。


細かなタッチ。


顔を上げる。


前方のコーンだけではなく、仲間の位置も見る。


誰が右へ動いたか。


誰がボールを受けようとしているか。


今はパスを出す相手はいない。


それでも、代表の試合を想定しながら見る。


一つの問いを持つ。


今、相手がいるなら、どこで奪いたがるか。


自分が二回続けて右へ運んだら、三回目に相手はどう動くか。


早川と話した内容は、柚月自身の頭も整理していた。


人へ教えることで、自分が無意識に行っていた判断が言葉になる。


なぜ見るのか。


なぜ待つのか。


なぜ外すのか。


なぜ同じプレーを繰り返すのか。


身体だけではなく、サッカー選手としての思考も、少しずつ研ぎ直されていた。


最後のコーンを左へ曲がる。


ボールを身体の前へ置く。


五メートル先のトレーナーへパス。


正確に足元へ届く。


トレーナーが返す。


柚月は動きながら受ける。


止めすぎず、次の方向へ置く。


右ふくらはぎに異常はない。


ボールを扱う感覚も戻っている。


「今の受け方、よかったです」


「次の動きまで考えて置いたっちゃ」


「身体も流れませんでした」


柚月は笑顔を見せた。


世界へ戻るには、走れるだけでは足りない。


ボールを扱えるだけでも足りない。


走りながら見る。


見ながら判断する。


相手の反応を読み、味方を生かす。


戻り始めた身体へ、これまで培ってきた経験を重ねていく。


柚月はようやく、ただの負傷者ではなく、再び一人のサッカー選手として練習場に立ち始めていた。


書斎へ戻った柚月は、名取百合子の遺影へ報告した。


「ユリ。部分合流が見えてきたよ」


胸の中で、明るい声が返る。


> 「よかったべ」


「莉奈とも、いろいろ話した」


> 「先輩らしいこと言えたのか」


「ちゃんと言ったっちゃ。代表の心構えとか、観察力とか、駆け引きとか」


> 「ずいぶん立派になったなぁ」


「昔のうちを何だと思ってるんだべ」


> 「ボール持ったら、とりあえず前へ突っ込む人」


柚月は笑った。


「莉奈にも同じこと言ったよ」


> 「失敗も、ちゃんと誰かの役に立つんだっちゃ」


「うん」


柚月は金メダルへ指を触れた。


「うちも、莉奈から刺激もらってる。教えてるだけじゃねぇべ」


> 「いい競争相手ができたな」


「でも、席は譲らない」


> 「莉奈も同じこと言うべな」


「うん。だから面白いっちゃ」


窓の外には、仙台の夜が広がっていた。


身体は戻ってきている。


ボールと走れる距離も伸びている。


そして、遠く離れた代表合宿には、同じ場所を目指す若い競争相手がいる。


柚月の復帰は、もう一人だけの戦いではなくなっていた。


# 次回予告


## 第44章「仲間の列へ」


復帰へ向けた条件を満たした柚月に、ついに全体練習への部分合流が許可される。


仲間たちと同じ列に並ぶウォーミングアップ。


短いパス交換。


声を掛け合いながら進める非接触メニュー。


しかし、柚月だけは途中で列を離れ、個別練習へ戻らなければならない。


みんなと同じ場所へ戻れた喜びと、まだ最後まで一緒にいられない悔しさ。


一方、代表候補合宿では、早川莉奈が柚月から教わった観察と駆け引きを使い、先輩MFとのポジション争いへ挑む。


そして原町監督のもとへ、柚月の部分合流開始が報告される。


「復帰が見えてきた。だが、代表へ呼ぶ基準は変えない」


所属クラブで結果を残すこと。


実戦の強度へ耐えること。


代表に必要な選手であると、もう一度証明すること。


次回、

**第44章「仲間の列へ」**


戻るとは、元いた場所へそのまま入ることではない。


離れていた時間を抱えたまま、もう一度、自分の場所をつくり直すことなのだ。

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