一分を走り切った日
第42章 一分を走り切った日
三十秒のジョギングを二本。
合計一分を問題なく終えた柚月は、次の段階へ進んだ。
走行時間は三十秒から一分へ。
速度は全力の三割から四割へ。
まだ短い。
まだ遅い。
それでも、身体は確実に戻り始めていた。
1 一分という長さ
ベガルタ仙台レディースの練習場。
柚月は芝の端に立ち、右ふくらはぎへ軽く手を当てた。
痛みはない。
張りもない。
前日までのジョギングを終えたあとも、夜間や翌朝に悪化は見られなかった。
トレーナーが腕時計を確認する。
「今日は一分間、続けて走ります」
柚月の顔が明るくなる。
「途中で止まらなくていいんだべ?」
「一分間は続けます。ただし、速度は四割までです」
「五割でもいけそうだけどな」
「今日は四割です」
山田羽美監督が少し離れた場所から言う。
「始まる前から増やさないの」
「確認しただけだっちゃ」
「最近、その言い訳も聞き慣れたね」
柚月は苦笑した。
一分。
普通の練習なら、何も考えずに走り切る時間だった。
試合中なら、攻守の切り替えを何度も繰り返し、相手の背後へ走り、守備へ戻っている。
しかし今は、その一分を無事に終えることが一つの目標だった。
「怖さはありますか」
トレーナーに尋ねられ、柚月は正直に答えた。
「前よりは少ない。でも、速度を上げる瞬間は少し怖いっちゃ」
「怖さが出たら、身体を固めないでください。呼吸を続けて、歩幅を小さく保ちます」
柚月は前方を見る。
直線に置かれたコーン。
その先には、仲間たちがボールを使った練習をしている。
すぐ近くにある日常へ、少しずつ戻っていく。
「始めます。三、二、一、どうぞ」
柚月は走り出した。
2 三十秒を越えて
最初の十秒。
足取りは慎重だった。
右足で芝を押す。
左足へ体重を移す。
腕を振る。
呼吸を整える。
二十秒。
前回までなら、そろそろ終了を意識していた時間。
この日はまだ続く。
三十秒。
柚月は、ここから先へ進む。
「速度、そのままです」
トレーナーの声が飛ぶ。
柚月は少しだけ前へ出ようとする身体を抑えた。
四十秒。
右ふくらはぎに異常はない。
脚は前へ出る。
着地も乱れていない。
四十五秒。
呼吸は少し速くなった。
身体が走ることを思い出し始めている。
五十秒。
柚月は思わず笑った。
走れている。
三十秒を越えても、脚は止まらない。
あの決勝で動かなくなった右脚が、今は自分の意思に応えている。
「あと五秒です」
五十六秒。
五十七秒。
五十八秒。
五十九秒。
一分。
「歩きへ落としてください」
柚月は急に止まらず、少しずつ歩幅を狭めた。
ジョギングから速歩きへ。
速歩きから通常の歩行へ。
最後に立ち止まる。
トレーナーがすぐに右脚を確認する。
「痛みは?」
「ないです」
「張りは?」
柚月は目を閉じて感覚を探る。
「使った感じはある。でも、嫌な張りじゃねぇべ」
「息は?」
「少し上がった。でも普通です」
トレーナーはうなずいた。
「一分、問題なく終えました」
柚月は両手を腰へ当て、空を見上げた。
「走れたなぁ」
小さな声だった。
しかし、その言葉には大きな実感がこもっていた。
3 身体が戻ってくる
一分間のジョギングを終えてから、柚月のメニューは少しずつ増えていった。
次の日は、一分を二本。
その次は、一分半。
さらに二分。
速度は四割のまま。
走る時間だけを少しずつ伸ばす。
身体の反応を確認しながら、次の段階へ進む。
二分間を走った日の夜、右ふくらはぎには軽い疲労感があった。
しかし、翌朝にはほとんど消えていた。
三分。
五分。
直線を何度も往復する。
急な停止はしない。
折り返すときは大きな弧を描く。
柚月のフォームも少しずつ戻ってきた。
最初は右脚を守るように、左足へ長く体重を乗せていた。
それが次第に、左右の接地時間が近づいていく。
腕の振りも自然になる。
上半身の揺れも減る。
山田監督が、柚月の走りを横から見ながら言った。
「前より身体が傾かなくなったね」
「自分でも分かるっちゃ」
「右脚をかばう動きも減ってきた」
「少しずつ、走り方を思い出してるべ」
「思い出すだけじゃなくて、作り直してるんだよ」
山田は柚月の右脚を見る。
「けがの前と同じに戻すだけではない。以前より壊れにくい身体へ変える」
柚月はうなずいた。
以前の自分へ戻る。
それだけでは足りない。
オリンピックで世界の強度に耐えるためには、けがをする前以上の身体を作らなければならない。
走れる距離が伸びるたび、柚月の表情も明るくなっていった。
五分。
八分。
十分。
ゆっくりではあるが、芝の上を走り続けられる。
仲間たちの練習を眺めるだけだった日々から、確実に前へ進んでいた。
4 早川莉奈、自分の答え
一方、代表候補合宿では、早川莉奈が紅白戦に出場していた。
柚月から教わったこと。
見るものを選ぶ。
流れが分からなくなったら、一度簡単なパスを入れる。
相手が何を待っているかを見る。
その考え方を、早川は練習の中で何度も試していた。
しかし、この日の相手は前日とは違った。
守備の寄せが速い。
横へ戻そうとすると、そこへも前線が追ってくる。
早川は一度、センターバックへパスを下げた。
相手FWがすぐに追う。
さらに外へ展開しようとしたが、サイドも消されている。
前回と同じように一度戻せば、相手が広がるとは限らない。
早川は一瞬迷った。
柚月なら、どうする。
その考えが頭に浮かんだ。
次の瞬間、原町監督の声が飛ぶ。
「莉奈。大船の答えを覚えるな」
早川が顔を上げる。
「大船がなぜその答えを選んだかを考えろ」
プレーは続いている。
早川はもう一度、周囲を見る。
相手の前線は外側を消そうとしている。
中央に人数をかけていない。
ならば、一度戻す必要はない。
早川はボールを受け直すと、身体を半分だけ開いた。
右へ出すように見せる。
相手が一歩外へ動く。
その瞬間、左足で中央へ運んだ。
ボランチの横を抜ける。
相手DFが前へ出る。
早川は自分で突破せず、斜め前へ走り込んだ味方へパスを出した。
味方がワンタッチで落とす。
早川はそのまま前へ走り、再び受ける。
ゴール前。
右サイドへ展開。
クロス。
シュート。
ゴール。
味方が早川へ駆け寄る。
「今の判断、よかった!」
早川は息を整えながら、原町監督の方を見た。
原町は何も言わない。
ただ、小さくうなずいていた。
柚月の答えをまねたのではない。
柚月が何を見て判断しているのかを考え、自分で別の答えを選んだ。
それが、早川にとって大きな一歩だった。
5 早川からの報告
練習後、早川は柚月へメッセージを送った。
『今日、前回とは違う形で相手に前から追われました』
柚月はリハビリ後の冷却をしながら、返信を読んだ。
次の文章が届く。
『最初は柚月さんならどうするか考えました。でも原町監督から、大船さんの答えではなく、なぜその答えを選んだのかを考えろと言われました』
続いて、得点場面の映像が送られてくる。
柚月は何度も再生した。
相手が外側を消す。
早川は中央へ運ぶ。
自分で一人を引きつけ、斜めへ通す。
味方との連係から右へ展開する。
「いい判断だべ」
徹が隣から画面をのぞく。
「早川か」
「うん。前より自分で状況を見てる」
「柚月なら、同じプレーをしたか?」
柚月は少し考える。
「たぶん、うちは最初からもう少し低い位置へ落ちて受けてた。でも莉奈は前を向く速さがあるから、中央へ運んだ方が生きるっちゃ」
「違う答えだな」
「うん。でも間違ってない」
柚月は早川へ返信する。
『今のは莉奈の答えだべ。うちと同じプレーをする必要はない。何を見て決めたか、自分で説明できるなら、それが正しい判断になる』
数分後、返事が来る。
『ありがとうございます。少しずつ、自分で試合を動かせるようになりたいです』
柚月は笑った。
『うちも少しずつ走れるようになってる。今日は一分走ったよ』
早川から、すぐに返事が届く。
『一分、おめでとうございます』
柚月は思わず笑う。
『世界一の選手に一分おめでとうって、変な感じだべ』
『でも、昨日より進んだ一分ですよね』
柚月はその言葉を見つめた。
昨日より進んだ一分。
それは、若い競争相手にも分かる大切な前進だった。
6 初めて曲がる
数日後。
柚月のメニューに、初めて方向転換が加えられた。
芝の上には、三つのコーンが緩やかな角度で置かれている。
直線ではない。
右へ曲がる。
次に左へ曲がる。
角度は急ではないが、走る方向を変えることで右ふくらはぎには新たな負荷がかかる。
トレーナーが説明する。
「速度は三割です。コーンの直前で急に切り返さず、大きな弧を描いて曲がります」
「サイドステップは?」
「まだです」
「ボールは?」
「まだ使いません」
柚月はコーンを見る。
「曲がるだけなのに、ずいぶん慎重だな」
「直線で走るときと、方向を変えるときでは筋肉の使い方が違います。特に外側へ踏ん張る動きでは、ふくらはぎへ横方向の負荷がかかります」
柚月は右脚へ目を落とす。
「痛みが出たらすぐ止める」
「張りでも止めます」
「分かってるっちゃ」
一つ目のコーンへ向かって走る。
速度は三割。
右側へ大きく弧を描く。
身体を傾けすぎない。
右足で強く踏ん張らない。
曲がる。
違和感はない。
次のコーン。
今度は左へ。
右脚が外側になる。
少しだけ横方向へ力がかかる。
柚月は一瞬、身体を固くした。
「力を抜いてください」
トレーナーの声が飛ぶ。
柚月は呼吸を続ける。
急がない。
大きく回る。
左へ曲がりきる。
最後の直線を走り、徐々に歩きへ落とす。
「どうですか」
「右へ曲がるより、左へ曲がる方が少し怖かった」
「右脚が外側になり、踏ん張る力が増えるからです」
「痛みはない」
「もう一本行います。同じ速度です」
二本目。
最初より身体の力みが減る。
右へ。
左へ。
曲がる。
ただそれだけの動きが、柚月にとっては新しい挑戦だった。
試合では、選手はまっすぐだけ走るわけではない。
相手をかわす。
味方のパスコースへ動く。
守備で相手の進路をふさぐ。
何度も加速し、止まり、曲がる。
世界へ戻るためには、身体にもう一度その動きを教えなければならなかった。
7 走れる距離が伸びていく
方向転換の練習を始めてからも、柚月の身体は順調に回復していった。
最初は大きな弧だけだった。
やがて角度が少しずつ小さくなる。
四十五度。
さらに少し鋭い方向転換。
速度も三割から四割へ。
走行時間は十分から十五分へ。
一度に長く走るのではなく、短い走行と休憩を組み合わせる。
五分走る。
二分休む。
また五分走る。
終わったあとに右ふくらはぎを確認する。
夜の反応。
翌朝の反応。
問題がなければ、次の負荷へ進む。
ある日、柚月は合計二十分のジョギングを終えた。
以前なら準備運動の途中だった時間。
それでも、今の柚月には大きな節目だった。
「二十分、走れたっちゃ」
トレーナーが記録表へ書き込む。
「フォームも安定しています。最後まで右脚をかばう動きは出ませんでした」
「次は三十分?」
「次回の反応を見て決めます」
柚月は笑う。
「もう勝手に増やさねぇよ」
「ようやく信用できるようになってきました」
「ようやく?」
「ようやくです」
柚月は芝の上へ座り込み、空を見上げた。
走れる距離が伸びていく。
身体が戻ってくる。
右脚へ体重を乗せることが怖かった日。
椅子に座り、ボールを三十センチだけ転がした日。
三メートルのパスを繰り返した日。
三十秒だけ走った日。
そのすべてが、今の二十分へつながっている。
8 ロードマップの更新
その夜、柚月は自宅の書斎でロードマップを開いた。
これまで達成した項目へ、印をつける。
屋外歩行。
軽いボールタッチ。
三メートルのパス。
低速の直線ジョギング。
一分間の連続走。
緩やかな方向転換。
項目の横へ、小さく日付を書き込む。
次の目標は、ボールを使いながらのジョギング。
速度を上げたランニング。
急ではない停止。
さらにその先には、部分合流。
対人練習。
実戦復帰。
柚月は、名取百合子の遺影へ顔を向けた。
「ユリ。今日、二十分走ったよ」
胸の中で、ユリの声が返ってくる。
「三十秒から、ずいぶん伸びたっちゃ」
「うん。曲がる練習も始まった」
「ちゃんと曲がれた?」
「最初は少し怖かったけどな」
「人生もサッカーも、まっすぐだけじゃ進めねぇべ」
柚月は笑った。
「急に深いこと言うなぁ」
「たまには言うっちゃ」
「身体、戻ってきてるよ」
「焦らず続ければ、もっと戻るべ」
「代表予選、間に合うかな」
ユリはすぐに答えなかった。
「前よりは近づいてる。でも、まだ決まってねぇっちゃ」
「相変わらず厳しいな」
「大丈夫って言って無理させるより、正直な方がいいべ」
「うん」
「今日の二十分を喜べばいい。明日の三十分は、明日考えろ」
柚月はロードマップを見る。
以前は、未来の日程ばかりを気にしていた。
今は、達成した項目にも目を向けられる。
身体は戻っている。
距離も伸びている。
まだ代表へ復帰したわけではない。
まだ試合にも出ていない。
それでも、柚月は確実に世界へ近づいていた。
9 曲がった先にある景色
翌日の練習。
柚月は再びコーンの間を走る。
右へ。
左へ。
前へ。
前回より自然に身体が動く。
右ふくらはぎも、横方向の力を受け止めている。
走行の最後には、ゆっくりとしたボールタッチも加えられた。
右足で押す。
左足へ移す。
大きく曲がりながら、ボールを身体の近くに置く。
ボールが少し離れた。
以前なら反射的に追いかけていた。
柚月は速度を上げず、次の一歩でゆっくり追いつく。
トレーナーがうなずく。
「今の判断はよかったです」
「無理に追わなかったから?」
「はい。ボールを失わないことより、身体を守ることを優先できました」
柚月は少し笑った。
「ワールドカップでは、ボールを失わないことばっかり考えてたけどな」
「今は身体を失わないことが大事です」
「うまいこと言うなぁ」
練習を終えた柚月は、芝の向こうを見る。
仲間たちが紅白戦をしている。
以前より、その距離は近く感じられた。
まだ入れない。
まだ接触はできない。
それでも、走る速度も距離も戻っている。
真っすぐだけではない。
右へ曲がり、左へ曲がりながら、柚月はピッチへ近づいていた。
世界へ帰る道は一直線ではない。
遅れる日もある。
戻る日もある。
曲がる日もある。
それでも、進み続けている限り、道は終わらない。
次回予告
第43章「ボールと走る」
方向転換を含むジョギングを問題なく終えた柚月。
次の段階では、ボールを足元へ置いたまま走るメニューが始まる。
ゆっくりとしたドリブル。
左右への緩やかな持ち替え。
五メートル先へのパス。
動きながらボールを扱うことで、右ふくらはぎへ新たな負荷がかかる。
一方、代表候補合宿では、早川莉奈が自分の判断で試合を動かし、原町監督から高い評価を受ける。
しかし、代表選考の日程が近づく中、報道は再び柚月と莉奈を比較し始める。
「復帰を目指す世界王者か、新しい時代を担う二十歳か」
その見出しを見た莉奈は、記者へ静かに答える。
「どちらか一人を選ぶ話にしないでください」
そして柚月には、所属クラブの全体練習へ部分的に合流する可能性が伝えられる。
次回、
第43章「ボールと走る」
走れる身体へ、ボールを扱う感覚を重ねていく。
柚月はようやく、サッカー選手としての動きを取り戻し始める。




