三十秒のジョギング
第41章 三十秒のジョギング
数日間の慎重な調整を終え、柚月は再び屋外へ出る許可を得た。
ただし、今回の内容は細かく決められていた。
芝生の上を三十秒だけ走る。
速度は全力の三割。
直線のみ。
急な停止も、方向転換も禁止。
誰かにとっては準備運動にもならない時間だった。
しかし、柚月にとってはワールドカップ決勝以来となる、最初のジョギングだった。
1 走る前の十秒
ベガルタ仙台レディースの練習場。
柚月は芝生の端に立ち、何度も右脚の感覚を確かめていた。
スパイクの裏が芝へ沈む。
足首をゆっくり回す。
右膝を軽く曲げる。
ふくらはぎへ体重を乗せる。
痛みはない。
張りもない。
それでも、胸の奥には小さな恐怖が残っていた。
ワールドカップ決勝の後半。
全力で戻ろうとした瞬間、右ふくらはぎが固くなった。
脚が地面を押し返せなくなり、走り方が崩れていった。
あの感覚が、身体の記憶として残っている。
トレーナーが柚月の隣へ立つ。
「スタートから三十秒です。速度は三割。直線を進み、時間になったら徐々に歩きへ落とします」
「ぴったり三十秒?」
「ぴったりです」
「三十二秒くらいなら誤差じゃねぇべか」
「誤差にしません」
少し離れたところで、山田羽美監督が腕を組んでいた。
「始める前から延長交渉しないの」
柚月は苦笑する。
「確認しただけだっちゃ」
「その確認をする選手ほど信用できない」
トレーナーが腕時計を確認する。
「今日の目的は、速く走ることではありません。走る動作に対して、右ふくらはぎがどう反応するかを見ることです」
「分かってるべ」
「怖さはありますか」
柚月は一瞬だけ迷った。
以前なら、大丈夫だと答えていたかもしれない。
けれど今は、無理に強がる必要はないと分かっていた。
「少しある」
「どんな怖さですか」
「一歩目で、また痛くなるんじゃないかって」
トレーナーはうなずく。
「怖さがあるまま走って構いません。ただし、怖さを隠して速度を上げないでください」
柚月は深く呼吸した。
前方には、芝の直線が伸びている。
走る距離ではなく、走る時間。
たった三十秒。
それでも、その一歩目はワールドカップ決勝よりも緊張した。
2 最初の一歩
「準備はいいですか」
柚月はうなずく。
トレーナーが時計を構える。
「始めます。三、二、一、どうぞ」
柚月は左足を出した。
次に右足。
芝を踏む。
右ふくらはぎが伸び、縮む。
痛みはない。
もう一歩。
腕を軽く振る。
歩くより少し速い程度の速度。
ジョギングと呼べるかどうかも分からないほど、ゆっくりとした走りだった。
それでも、両足が一瞬だけ地面から離れた。
柚月の身体が、再び走る動きを思い出す。
「速くしないでください」
トレーナーの声が聞こえる。
「分かってるっちゃ」
五秒。
芝の感触が足裏へ伝わる。
右脚は問題なく動いている。
十秒。
呼吸も乱れない。
身体が前へ進む。
柚月の口元に、少しずつ笑みが浮かんだ。
十五秒。
目の前には、広いピッチがある。
仲間たちが練習している。
誰かがパスを出す。
誰かが走り込む。
柚月も、同じ芝の上を走っている。
速さは違う。
練習内容も違う。
それでも、もう窓越しに眺めるだけではなかった。
二十秒。
柚月の頭の中に、ワールドカップ決勝の光景が浮かぶ。
アメリカの選手たち。
満員のスタンド。
仲間の声。
交代を告げられた瞬間の悔しさ。
そして、ベンチから見届けた世界一。
あの試合で止まった時間が、少しだけ動き始める。
二十五秒。
右ふくらはぎに異常はない。
柚月は、無意識に速度を上げそうになった。
その瞬間、徹の声が頭に浮かぶ。
一日早く進むために、一か月を失うつもりか。
柚月は力を抜いた。
三割の速度を守る。
「三十秒です。ゆっくり歩きへ移ってください」
柚月は急に止まらず、歩幅を少しずつ狭くした。
ジョギングから速歩きへ。
速歩きから通常の歩行へ。
最後に足を止める。
トレーナーがすぐに右脚の状態を確認する。
「痛みは?」
「ない」
「張りは?」
柚月は目を閉じ、ふくらはぎへ意識を向けた。
「少し使った感じはある。でも嫌な張りじゃねぇべ」
「呼吸は?」
「普通です」
トレーナーはうなずいた。
「今日は成功です」
柚月は芝の上で、右脚を見つめた。
三十秒。
距離にすれば、それほど長くない。
誰も歓声を上げない。
得点にもならない。
記録にも残らない。
それでも、柚月にとっては世界一のゴールに近いほど大切な三十秒だった。
3 戻ってきた笑顔
少し離れた場所で練習していた選手たちも、柚月が走り終えたことに気づいた。
一人の選手が手をたたく。
「柚月さん、走れた!」
それをきっかけに、仲間たちから拍手が起こる。
柚月は照れたように手を上げた。
「三十秒だけだべ!」
「三十秒でも走ったことに変わりないです!」
別の選手が声をかける。
「今度は一緒にアップしましょう!」
「すぐ追いつくっちゃ!」
山田監督がすぐに言う。
「すぐは駄目」
周囲から笑いが起こった。
柚月も笑った。
久しぶりだった。
けがをする前のように、芝の上で仲間たちと笑う。
それだけで、胸の奥に溜まっていたものが少し軽くなった。
山田監督が近づいてくる。
「どうだった?」
「怖かったです」
柚月は正直に答えた。
「一歩目で、また痛むんじゃないかと思った。でも、途中から楽しくなったっちゃ」
「速度を上げなかったね」
「上げたくなったけど、我慢しました」
「そこが今日一番の成果かもしれない」
柚月は少し不満そうな顔をする。
「走れたことじゃなくて?」
「走れたことも大事。でも、自分で止められたことも大事」
柚月は右ふくらはぎへ手を添える。
「また走れるべか」
「今日の夜と明日の朝の反応を見てから」
「まだ喜びきっちゃ駄目?」
「喜んでいいよ。ただし、明日のメニューを勝手に増やさない」
「はい」
今度の返事には、以前のような不満はなかった。
4 早川莉奈が選んだ一本
同じ頃、代表候補合宿では、早川莉奈が紅白戦へ出場していた。
前日の課題は、試合全体の変化を読むこと。
何度も周囲を確認するだけではない。
その時間帯に相手が何を待っているのか。
味方が何を必要としているのか。
柚月から教わった言葉を、早川は何度も頭の中で繰り返していた。
全部を見ようとしなくていい。
必要なものを選んで見る。
流れが分からなくなったら、一度簡単なパスを入れる。
紅白戦の序盤。
早川は中盤の中央でボールを受ける。
前線の選手が背後へ動いた。
縦のコースが一瞬見える。
しかし、相手のボランチは身体を少し内側へ向けていた。
待っている。
早川は縦へ出さず、左のセンターバックへ戻した。
相手の前線が一斉にボールを追う。
ボールは逆サイドへ展開される。
早川は中央で立ち位置を変える。
再びパスを受けたとき、相手の守備は横へ広がっていた。
今度は縦のコースが本当に空いている。
早川はワンタッチで前を向き、前線へ鋭いパスを通した。
味方FWが足元で受ける。
相手DFが寄せる。
FWは右へ落とす。
走り込んだ選手がシュートを放った。
ゴール。
得点の起点となった早川へ、味方が駆け寄る。
「今のよかった!」
「最初に戻したから、中央が空いたね」
早川はうなずく。
「一度、相手を動かしたかったんです」
ベンチで見ていた原町監督は、岩出コーチへ言った。
「前より待てるようになったな」
岩出も答える。
「大船の助言が効いているようです」
「柚月は自分が離れていても、チームへ影響を与えている」
原町監督はピッチ上の早川を見る。
「ただし、莉奈には莉奈の判断へ変えてもらわなければならない」
その数分後。
早川は同じような位置でボールを受けた。
今度は相手が下がっている。
横へ動かす必要はない。
早川は迷わず自分で前へ運んだ。
一人を引きつけ、左へパスを出す。
クロス。
ゴール前で合わせる。
今度は得点にはならなかったが、攻撃の流れは変わった。
柚月の答えをそのまま繰り返すのではない。
目の前の状況に合わせ、自分で選ぶ。
早川は少しずつ、代表の速度へ近づいていた。
5 原町監督へ届いた報告
紅白戦を終えたあと、原町監督と代表スタッフのもとへ、ベガルタ仙台レディースから柚月の復帰状況に関する報告が届いた。
屋外での直線ジョギング。
三十秒。
速度は全力の三割。
急停止、方向転換なし。
実施中の痛みなし。
終了直後に強い張りなし。
翌朝まで経過観察。
原町監督は資料を読みながら、チームドクターへ尋ねた。
「予選に間に合う可能性はあるか」
代表のメディカルスタッフは、慎重に答える。
「現時点では、間に合う可能性はあります」
「どの程度だ」
「まだ数字では示せません。直線のジョギングを始めたばかりです。今後は速度を上げ、走る時間を伸ばし、方向転換、急停止、対人接触へ進む必要があります」
岩出コーチが日程表を見る。
「所属クラブで実戦復帰する時間も必要だ」
「はい。代表合宿へ呼ぶ前に、クラブでの出場時間と試合後の反応を確認しなければなりません」
原町監督は腕を組む。
「予選には間に合うかもしれない。ただし、急がせれば間に合わなくなる」
誰も反論しなかった。
柚月の経験は必要だった。
ワールドカップで見せた試合を読む力。
相手の狙いを外す判断。
激しい展開でも、自分たちの時間を作る力。
若手選手が増えるほど、柚月のような経験を持つ選手の存在は大きくなる。
それでも、名前や実績だけで招集することはできない。
オリンピック予選は、復帰確認の場ではない。
勝つための大会だ。
原町監督は資料を閉じた。
「クラブへ伝えてくれ。こちらから復帰時期を急がせることはしない」
「はい」
「ただし、可能な範囲で経過は共有してほしい。柚月が戻れる状態になったとき、すぐに判断できるようにしておく」
岩出コーチが尋ねる。
「予選メンバーの選考は?」
「予定どおり進める。柚月のために席は空けない」
原町監督の答えに迷いはなかった。
「戻ってきたとき、柚月が今の候補選手より必要だと判断すれば選ぶ。それだけだ」
6 クラブと代表の復帰計画
数日後、ベガルタ仙台レディースと代表スタッフによるオンライン会議が開かれた。
クラブ側からは、山田羽美監督、チームドクター、トレーナー。
代表側からは、原町監督、岩出コーチ、メディカルスタッフ。
柚月本人も会議へ参加した。
画面には、柚月の復帰までの段階が表示されている。
第一段階。
低速の直線ジョギング。
第二段階。
走行時間と速度の段階的な増加。
第三段階。
緩やかな方向転換。
第四段階。
ボールを使った走行。
第五段階。
非接触での部分合流。
第六段階。
対人練習。
第七段階。
全体練習。
第八段階。
所属クラブでの短時間出場。
そして、試合後の反応を見ながら出場時間を増やす。
原町監督が柚月へ尋ねる。
「この計画を見て、どう感じる」
「正直、もっと早く進みたいです」
柚月は率直に答えた。
「でも、前みたいに勝手に一段飛ばすつもりはありません」
山田監督が画面越しに笑う。
「その言葉、録音しておきたいね」
「みんな同じこと言うなぁ」
会議に少し笑いが起こる。
柚月は続けた。
「うちが目指してるのは、予選の登録日に名前を入れてもらうことだけじゃない。予選で戦えることです。だから、身体がついてこないなら計画をずらします」
原町監督はうなずく。
「その判断ができるなら、復帰へ近づいている」
「ただ、うちは代表へ戻るつもりです」
「知っている」
「席を空けて待ってろとは言いません。でも、戻ったときは今のうちを見て判断してください」
「当然だ」
原町監督は即答した。
「ワールドカップ優勝選手だから選ぶこともなければ、けがをしたから過去の選手として扱うこともない。戻った時点のプレーで判断する」
「はい」
「早川たち若手も伸びている」
「それも分かってます」
「怖いか」
柚月は少し考えた。
「怖いです。でも、楽しみでもあります」
「なぜだ」
「莉奈と一緒に出たら、なでしこはもっと強くなるかもしれないから」
原町監督の表情がわずかに緩んだ。
「なら、その可能性を見せに戻ってこい」
「はい」
7 三十秒のあとに残ったもの
会議を終えた夜、柚月は自宅の書斎へ入った。
名取百合子の遺影の隣には、ワールドカップの金メダルが置かれている。
柚月は椅子へ座り、遺影へ話しかけた。
「ユリ。今日、三十秒走ったよ」
胸の中で、ユリの声が返ってくる。
「どうだった?」
「最初の一歩、ちょっと怖かった」
「痛くなった?」
「ならなかった」
「速度上げた?」
柚月は少し得意げに笑う。
「上げなかったっちゃ」
「珍しいべ」
「褒めるところだぞ」
「はいはい。よく我慢したっちゃ」
柚月は右ふくらはぎへ手を当てた。
夜になっても、強い張りは出ていない。
「たった三十秒なのに、すごく長く感じた」
「止まってた時間が長かったからだべ」
「走ってる途中、決勝のこと思い出したよ」
「怖かったか」
「少し。でも、また芝の上を走れて嬉しかった」
ユリの声が優しくなる。
「また走れるようになるっちゃ」
「うん」
「でも、明日いきなり一分に増やすなよ」
「トレーナーが決めるべ」
「柚月が勝手に増やさないか心配してるんだっちゃ」
「もうやらねぇよ」
「本当に?」
柚月は笑う。
「みんな同じこと聞くなぁ」
書斎の扉が開き、徹が顔を出した。
「何が同じなんだ」
「ユリにも、本当に勝手に増やさないのかって聞かれた」
「みんな柚月を理解してるんだな」
「信用がねぇべ」
「信用は、これから取り戻せばいい」
徹は柚月の隣へ座る。
「走った感想は?」
「楽しかった」
「怖くなかったか」
「怖かった。でも、怖いままでも走れたっちゃ」
徹はうなずく。
「それでいい」
「次は何秒だべな」
「明日の脚に聞け」
柚月は笑った。
ユリと同じ答えだった。
8 時間では測れない前進
翌朝。
柚月は目を覚ますと、ベッドの上で右足首をゆっくり動かした。
ふくらはぎに強い痛みはない。
立ち上がる。
右脚へ体重を乗せる。
張りもほとんどない。
それでも、すぐに走ろうとはしなかった。
トレーナーへ状態を報告し、指示を待つ。
少し前の柚月なら、自宅の廊下で軽く走って確認していたかもしれない。
今は違う。
自分で確かめるために負荷を加えるのではなく、身体の反応をそのまま伝える。
それもまた、復帰へ向かう技術だった。
練習場へ到着すると、トレーナーが言った。
「昨日の反応に問題はありません。今日は三十秒を二本行います」
柚月の顔が明るくなる。
「合計一分だべ」
「間に十分の休憩を入れます。二本目も速度は三割です」
「分かってるっちゃ」
柚月はスタート地点へ立つ。
昨日より、少しだけ恐怖は小さい。
それでも、なくなったわけではない。
怖さを消す必要はなかった。
怖さがあることを認めたうえで、決められた一歩を踏み出す。
三十秒。
休憩。
もう三十秒。
世界へ戻る道は、一本の長い疾走ではない。
短い走りと、長い休息。
進む日と、止まる日。
成功と、修正。
そのすべてをつなぐ道だった。
柚月はゆっくりと走り始める。
三十秒という短い時間の中に、止まっていた日々がある。
世界一になった夜がある。
走れなくなった朝がある。
三十センチだけボールを転がした日がある。
芝の上で余計に一往復し、張りを出した失敗がある。
そして今、もう一度走っている自分がいる。
短い時間の中に、これまでと未来のすべてが詰まっていた。
次回予告
第42章「一分を走り切った日」
三十秒のジョギングを二本。
合計一分を問題なく終えた柚月は、少しずつ走行時間を延ばしていく。
三十秒から一分。
速度は三割から四割へ。
しかし、走れる時間が増えるほど、柚月は次の段階を急ぎたくなる。
一方、代表候補合宿では、早川莉奈が柚月の助言を生かしながらも、自分の判断で試合を動かし始める。
原町監督は、莉奈へ告げる。
「大船の答えを覚えるな。大船がなぜその答えを選んだかを考えろ」
柚月と莉奈。
一人は身体を取り戻し、一人は代表で戦う思考を身につけようとしている。
そんな中、柚月に初めて方向転換を含むメニューが提示される。
右へ。
左へ。
緩やかな角度で進路を変える。
直線では問題のなかった右ふくらはぎに、横方向の新たな負荷がかかる。
次回、
第42章「一分を走り切った日」
まっすぐ進むだけでは、試合には戻れない。
世界へ帰るために、柚月はもう一度、曲がることを覚えていく。




