再び芝の上へ
第39章 再び芝の上へ
1 スパイクを履く朝
ワールドカップ決勝以来、柚月は初めてスパイクを履いた。
玄関で椅子に座り、ゆっくりと靴ひもを結ぶ。
右足を包む感触は懐かしかった。
トレーニングシューズとは違う硬さ。
芝をつかむためのスタッド。
足首を支えるフィット感。
何年も当たり前のように繰り返してきた動作なのに、この日は一つひとつが特別に感じられた。
柚月は右足を床へつける。
少し立ち上がり、足裏の感覚を確かめた。
「どう?」
隣で見ていた徹が尋ねる。
「まだ走ってもいないのに、もう試合に戻ったみたいだっちゃ」
「今日は歩くだけだろ」
「分かってるべ」
「本当に?」
柚月は振り返る。
「最近、そればっかり聞くなぁ」
「最近、そればっかり確認しないといけないからな」
徹は柚月の右ふくらはぎを見る。
腫れはない。
痛みも落ち着いている。
立った状態での三メートルのパス練習も、問題なくこなせるようになった。
それでも、全力疾走や強いキックにはまだ遠い。
柚月は立ち上がり、家の中を数歩歩いた。
スパイクのスタッドが床へ当たる小さな音がする。
「家の中で歩く靴じゃない」
「ちょっと感覚を確かめただけだべ」
「芝へ着いてから確かめろ」
「徹、最近トレーナーみたいになってきたな」
「柚月が患者みたいなことばかりするからだ」
柚月は少し頬を膨らませたが、すぐに笑った。
久しぶりにスパイクを履いて外へ出る。
それだけで、身体の奥に眠っていた選手としての感覚が目を覚まし始めていた。
2 再び踏んだ芝生
ベガルタ仙台レディースの練習場。
青空の下に広がる芝生。
朝露が少し残り、足元から草の匂いが立ち上っていた。
柚月はピッチの入口で立ち止まった。
目の前には、何度も走った芝がある。
ワールドカップへ向かう前、仲間たちと汗を流した場所。
けがをしてからは、クラブハウスの窓越しにしか見ることのできなかった場所。
山田羽美監督が隣へ立つ。
「どうしたの?」
「ちょっとだけ、緊張してるっちゃ」
「ボールを蹴るわけでもないのに?」
「だから緊張するんだべ。蹴りたいのに、蹴っちゃ駄目だから」
山田は少し笑う。
「今日は芝の上を歩くことと、足の裏で軽くボールを動かすことだけ。距離も時間も決めてあるからね」
「はい」
「紅白戦には絶対に入らない」
「分かってます」
「ボールが転がってきても追わない」
「分かってるっちゃ」
「味方に呼ばれても参加しない」
「そこまで念押しされる?」
「されるような人だから」
柚月は苦笑した。
ゆっくりと、右足を芝へ置く。
スパイクのスタッドが草の間へ沈む。
左足を出す。
次に右足。
一歩ずつ、芝の感触を確かめながら歩く。
屋内の床とは違う。
わずかな凹凸がある。
土の柔らかさ。
草の抵抗。
足首が細かく調整しなければならない。
右ふくらはぎが、以前より多くの情報を受け取っている。
「痛みは?」
トレーナーが尋ねる。
「ないです。でも、室内より脚を使ってる感じがする」
「芝の上は完全な平面ではありません。足首とふくらはぎが細かく働いています」
柚月は二十メートルほど歩く。
折り返す。
ゆっくり戻る。
たったそれだけだった。
それでも、胸の奥には大きな喜びがあった。
「戻ってきたなぁ」
誰に言うでもなく、柚月はつぶやいた。
3 すぐ隣にある紅白戦
柚月が歩行練習を続けるすぐ隣で、ベガルタ仙台レディースの紅白戦が始まった。
鋭い笛の音。
ボールを蹴る乾いた音。
仲間たちの声。
「右、空いてる!」
「背中!」
「切り替え!」
「一回落として!」
テンポの速い攻防が続く。
ボールが左右へ動く。
守備陣がラインを押し上げる。
中盤の選手が身体を入れて奪う。
前線が一気に裏へ走る。
柚月は歩きながら、自然と紅白戦の動きを目で追っていた。
右サイドの選手が前へ急ぎすぎる。
中央が空く。
柚月の頭の中に、次の展開が見える。
「今、一回戻した方がいいべ」
小さくつぶやいた直後、右サイドから中央へ無理なパスが入った。
相手チームのMFが奪う。
一気にカウンター。
ゴール前まで運ばれ、シュートが決まった。
柚月は思わず声を上げる。
「ほらぁ! 一回戻せばよかったべ!」
紅白戦に参加していた選手たちが振り返る。
一人が笑いながら言う。
「柚月さん、外からでもうるさいです!」
「見えたから言っただけだっちゃ!」
山田監督が腕を組む。
「リハビリ中でも監督みたいになってるね」
「監督より先に見えました」
「それは聞き捨てならないな」
周囲から笑いが起こった。
しかし、次の瞬間には柚月の表情が曇る。
仲間たちはまた走り始める。
ボールを追う。
身体をぶつける。
ゴールを狙う。
柚月は、その輪へ入れない。
すぐそばにいるのに、距離は遠かった。
足元へボールが転がってきた。
紅白戦から外れたボール。
柚月の身体が反応する。
右足を出し、前へ追いかけようとする。
「柚月さん」
トレーナーの声が飛んだ。
柚月は止まった。
ボールは数メートル先で別のスタッフに拾われる。
「追わない約束です」
「反射で動いただけだっちゃ」
「その反射を止めるのも、今日の練習です」
柚月は唇を噛んだ。
目の前のボールを追わない。
それが、今の自分に必要な判断だった。
4 柚月のロードマップ
その日の午後。
柚月は自宅の書斎で、大きな紙を机へ広げていた。
横軸には、今日からロサンゼルスオリンピックまでの時間。
縦には、復帰に必要な段階を書き込んでいく。
徹が書斎へ入ると、机の上には何枚もの資料が並んでいた。
クラブの試合日程。
代表候補合宿の日程。
代表選考の想定時期。
オリンピック予選の日程。
最終登録メンバーが決まる時期。
メディカルスタッフから示された、リハビリの段階表。
徹が紙を見る。
「本格的だな」
「考えずに焦るより、見える形にした方がいいと思ったっちゃ」
柚月はペンを持つ。
最初の欄には、現在地。
屋外歩行、軽いボールタッチ、三メートルのパス。
その次。
軽いジョギング開始。
さらにその先。
直線でのランニング。
方向転換。
ボールを使った低強度メニュー。
部分合流。
対人練習。
全体練習への完全合流。
所属クラブでのベンチ入り。
短時間の実戦復帰。
先発復帰。
代表候補への再招集。
柚月は一つひとつ書き込む。
「理想では、予選が始まる前に所属クラブで数試合出たい」
徹が尋ねる。
「何試合くらい?」
「最低でも三試合。できれば五試合。短時間の出場から始めて、少なくとも一度は先発で六十分以上出たいっちゃ」
「代表に戻るための結果も必要だな」
「うん。出場しただけじゃ足りない。ボールのキープ、運動量、守備への戻り、試合を落ち着かせる判断。けがの前と同じか、それ以上だって見せないといけないべ」
柚月は別の紙へ、代表選考の流れを整理した。
オリンピック予選前の候補合宿。
予選登録メンバーの発表。
予選本大会。
その後に行われる強化試合。
最終候補合宿。
そして、オリンピック本大会の登録メンバー発表。
日程を並べると、残された時間が具体的に見えてくる。
「思ってたより、余裕ないな」
柚月の声が少し沈む。
徹は紙を見たまま言う。
「余裕がないことと、無理をすることは別だ」
「分かってる。でも、予選の前に戻れなかったら、選考はかなり厳しくなるべ」
「予選に間に合わせることだけが目標か?」
「オリンピックに行くには、予選からチームに入りたい」
「入りたい気持ちは分かる」
徹は柚月の書いたロードマップを指でなぞる。
「でも、これは日程表であって、身体への命令書じゃない」
柚月は黙る。
「身体が一週間遅れたら、予定を一週間ずらす。それだけだ」
「その一週間で、代表の枠が埋まるかもしれねぇべ」
「焦って再発したら、一週間どころじゃ済まない」
柚月はペンを置いた。
書斎の棚には、名取百合子の遺影がある。
その隣には、ワールドカップの金メダル。
柚月はユリへ語りかけるように言う。
「予選には間に合わせたいんだよな」
胸の中で、ユリの声が返ってくる。
「間に合わせるんじゃなくて、戻れる身体を作るんだべ」
「同じように聞こえるけど、違うんだな」
「全然違うっちゃ」
徹が柚月を見る。
「ユリも同じ意見か」
「うん。なんか二人で相談してる?」
「柚月を止めるためなら、相談したいくらいだ」
5 今できること
柚月はロードマップの一番下へ、新しい欄を作った。
今できること。
そこへ具体的な項目を書いていく。
右ふくらはぎの治療。
足首の可動域。
左右の筋力差の改善。
上半身と体幹のトレーニング。
食事。
睡眠。
試合映像の分析。
若手選手の特徴の把握。
戦術理解。
メンタルトレーニング。
柚月は、早川莉奈の名前も書いた。
徹が気づく。
「早川の分析もするのか」
「代表で一緒にプレーするかもしれないからな」
「競争相手でもある」
「だからこそ知りたいっちゃ。何が得意で、どこにボールを出せば生きるのか。うちと一緒に出たとき、どんな形が作れるのか」
徹は小さくうなずいた。
「前よりいい考え方になったな」
「前は後継者って言葉に勝手に追い出された気分になってたべ」
「今は?」
「うちが戻って、莉奈も残ればいい。二人とも必要だって思わせればいいっちゃ」
柚月は紙へ大きく書いた。
代表へ戻ることではなく、代表に必要な選手へ戻る。
その下へ、もう一つ加える。
予選に間に合わせるのではなく、予選を戦える身体を作る。
文字にすると、自分が本当に目指すべきものが少し見えた。
ただ早く復帰することではない。
もう一度、代表の強度で戦えること。
短い出場で終わるのではなく、オリンピックで最後まで走り切れること。
ワールドカップのとき以上の自分になること。
ロードマップは、焦りを煽るための表ではなかった。
今の自分が、何をするべきかを確認する地図だった。
6 発表された予選日程
数日後。
ロサンゼルスオリンピック予選の日程が正式に発表された。
柚月はクラブハウスで、発表資料を見つめていた。
予選開始までの期間。
代表合宿。
国内リーグの日程。
移動。
休養。
想像していたよりも、間隔は詰まっていた。
山田羽美監督が柚月の隣へ立つ。
「日程、出たね」
「はい」
「どう見える?」
「余裕はないです」
「それだけ?」
柚月は資料を閉じる。
「でも、焦っても日程は延びない。今できることをやります」
山田は少し驚いたように柚月を見る。
「成長したね」
「毎日、徹とユリと監督とトレーナーに同じこと言われてますから」
「少しは効いた?」
「少しは」
山田は笑った。
「今日は屋外でボールタッチを増やす。ただし、歩きながらね」
「ジョギングは?」
「まだ」
「少しだけなら?」
「まだ」
「直線だけでも?」
「まだ」
柚月はため息をつく。
「成長したばっかりなのに、もう試されるんだな」
「毎日が試験だよ」
7 増やしたくなる五分
屋外でのリハビリは、前回より少し進んだ。
芝生の上を歩きながら、足元でボールを転がす。
右足の裏で止める。
左足へ移す。
また右足で軽く触る。
歩く速度は速くない。
ボールも身体から離しすぎない。
十メートル進み、折り返す。
柚月は少しずつ感覚を取り戻していた。
「張りは?」
「ないです」
「痛みは?」
「ない」
「呼吸は?」
「普通だっちゃ」
トレーナーが時間を確認する。
「あと五分です」
柚月は紅白戦を見た。
仲間たちは激しく走っている。
自分は歩いている。
予選までの日程が頭をよぎる。
あと五分。
今日の練習量では、足りないように感じる。
「十分、延ばせない?」
「予定どおり終わります」
「状態いいべ」
「状態がいいから、予定どおり終わるんです」
「五分だけ」
「駄目です」
柚月は何も言わず、練習を続けた。
しかし、終了の声がかかったあと、ボールを戻すふりをして、もう一往復しようとした。
歩幅を少し広げる。
右足でボールを前へ出す。
その瞬間、右ふくらはぎの奥に小さな張りを感じた。
柚月の足が止まる。
強い痛みではない。
けれど、無視してはいけない感覚だった。
トレーナーがすぐに近づく。
「どうしました」
「少し張った」
「どこですか」
柚月は右ふくらはぎの内側を指す。
すぐに練習は中止された。
椅子へ座り、スパイクを脱ぐ。
トレーナーが慎重に触診する。
大きな損傷を示すような痛みはない。
腫れもない。
しかし、負荷を増やしたことによる筋肉の緊張が出ていた。
山田監督の表情が厳しくなる。
「予定より増やした?」
柚月は視線を落とした。
「一往復だけ」
「どうして?」
「予選の日程を見たら、少しでも進めたくなったっちゃ」
「ロードマップは何のために作ったの?」
「焦らないためです」
「今の行動は?」
柚月は答えられなかった。
8 一日と一か月
その日の夜。
柚月は自宅のソファへ座り、右ふくらはぎを冷やしていた。
徹は向かいの椅子に座っている。
怒鳴ってはいない。
しかし、その静かな表情が、かえって柚月には重かった。
「大きな損傷ではないって」
柚月が先に言った。
「聞いた」
「明日休めば、たぶん大丈夫だって」
「たぶん、だろ」
「うん」
徹はしばらく黙っていた。
「一日早く進むために、一か月を失うつもりか」
柚月は何も言えなかった。
「今日は予定どおり終わればよかった。五分増やして何が変わる?」
「少しでも先へ進みたかった」
「その結果、明日は完全休養だ」
柚月は右脚を見る。
「分かってる」
「分かってたのにやった」
その言葉が胸へ刺さる。
「予選の日程を見て、怖くなったんだべ」
柚月の声が少し震えた。
「うちが戻る前にメンバーが固まるんじゃないかって。莉奈たちがどんどん先へ行って、うちの入る場所がなくなるんじゃないかって」
徹はすぐに否定しなかった。
「怖いのは分かる」
「だったら」
「怖いから身体を壊していい理由にはならない」
柚月の目に涙が浮かぶ。
徹は隣へ移動し、柚月の手を握った。
「柚月がオリンピックへ行きたいのは知ってる。俺も行ってほしい」
「うん」
「でも、予選に間に合わせるためだけに無理をして、オリンピック本番へ行けなくなったら意味がない」
柚月は涙を拭う。
「今日の張りで、また全部戻った気がした」
「戻ってない」
「でも、明日は休みだべ」
「休む判断を覚える日が増えただけだ」
徹は、書斎のロードマップを指さす。
「あの表に、もう一つ書け」
「何を?」
「予定から遅れる日も、復帰までの道に含まれるって」
柚月は少し笑った。
「長いな」
「大事なことは、長くても書け」
9 踏み出さない一歩
翌朝。
柚月は練習場へ行かなかった。
自宅で治療と上半身のトレーニングだけを行う。
右ふくらはぎの張りは、前日より落ち着いていた。
書斎へ入り、ロードマップを開く。
予定表の端に、新しい言葉を書き加える。
遅れる日も、戻る道の一部。
さらに、その下へ書く。
踏み出さない一歩が、未来の一歩を守る。
名取百合子の遺影へ目を向ける。
「ユリ。やっちまったっちゃ」
胸の中で、呆れた声が返ってくる。
「一往復、余計にやったんだべ」
「うん」
「徹さんに怒られた?」
「怒鳴られてないけど、かなり効いた」
「そりゃそうだべ」
柚月は椅子へ深く座った。
「予選、間に合うかな」
「知らねぇっちゃ」
「そこは大丈夫って言ってくれないのか」
「間に合うかどうかは、うちには決められねぇべ」
ユリの声は、いつものように正直だった。
「でも、今日休むことは柚月が決められる」
「うん」
「今できることを見ろって、自分で書いたんだべ?」
柚月はロードマップを見る。
今日できること。
治療。
休養。
上半身。
映像分析。
食事。
睡眠。
走らなくても、できることはある。
「今日は、ちゃんと休むっちゃ」
「それでいいべ」
「明日は?」
「明日の脚に聞け」
柚月は笑った。
戻りたい場所が目の前にあるほど、待つことは苦しい。
芝の匂い。
ボールの音。
仲間の声。
すべてが、今すぐ戻ってこいと呼んでいるように感じる。
それでも、本当に戻るためには、その呼び声へすぐ応えてはいけない日がある。
柚月は右ふくらはぎへ手を添えた。
一日早く進むことより、最後まで走れる身体を作る。
予選に間に合わせることより、予選を戦える選手へ戻る。
ロードマップの出発点は、予定どおりに進むことではなかった。
身体の声を聞きながら、予定を書き直し続けることだった。
次回予告
第40章「走らない勇気」
右ふくらはぎに現れた小さな張り。
検査の結果、再損傷は確認されなかったものの、柚月のリハビリは数日間、一段階前へ戻される。
再び屋内でのパス練習。
再び三メートル。
一度踏んだ芝から離れ、柚月は自分の焦りと向き合うことになる。
一方、代表候補合宿では早川莉奈が守備面の課題を指摘され、初めて大きな壁にぶつかる。
期待される若手。
復帰を急ぐ世界王者。
立場は違っても、二人は自分に足りないものと向き合っていた。
莉奈から届く一通のメッセージ。
「柚月さん。試合の流れが見えなくなるとき、何を見ればいいですか」
柚月は映像を開き、莉奈へ初めて具体的な助言を送る。
競争相手へ教えることは、自分の座を危うくするのか。
それとも、なでしこジャパンを強くするのか。
次回、
第40章「走らない勇気」
前へ進むことだけが、強さではない。
立ち止まり、見直し、もう一度正しい一歩を選ぶこともまた、世界へ戻るための力になる。




