後継者ではなく、競争相手
第38章 後継者ではなく、競争相手
1 代表合宿に現れた二十歳
ロサンゼルスオリンピックへ向けた、なでしこジャパンの代表候補強化合宿。
ワールドカップを制した主力選手に加え、国内リーグや海外クラブで結果を残した若手選手たちが招集されていた。
その中で、報道陣から最も多くの視線を集めていたのが、二十歳のMF早川莉奈だった。
早川は中盤の中央に入り、ボールを受ける前に何度も首を振る。
前方だけではない。
背後。
左右。
味方の位置。
相手の立ち位置。
次にボールが来たとき、どこへ運び、誰へ渡すのか。その準備を、受ける前から始めていた。
練習試合では、相手の縦パスを予測して前へ出る。
身体を寄せて奪うと、すぐに前線を見る。
左へ走り出した味方には出さず、中央を経由して逆側へ展開する。相手の守備が一度左へ寄ったことを確認してから、右の空いた場所へボールを通した。
その攻撃から、代表候補チームの先制点が生まれた。
周囲の選手たちが早川へ駆け寄る。
「莉奈、よく見えてたね」
「左へ出すかと思った」
早川は息を整えながら答えた。
「相手が左を切ろうとしてたので、逆側が空くと思いました」
ベンチの原町監督は、腕を組んだまま小さくうなずく。
岩出コーチも手元のノートへ書き込んだ。
早川には、状況を見て判断を変える力がある。
ワールドカップの優勝メンバーが築いてきた「最初から答えを決めないサッカー」を、若い世代も理解し始めていた。
練習試合の後半には、ゴール前へ遅れて走り込み、こぼれ球を右足で押し込んだ。
一得点、一起点。
攻守に存在感を示した早川を、カメラが一斉に追いかけた。
2 後継者と呼ばれて
練習終了後、早川は取材エリアへ呼ばれた。
額には汗が残っている。
緊張した表情で報道陣の前へ立つと、最初の質問が飛んだ。
「今日の練習試合で一得点に絡みました。ご自身の出来をどう評価していますか」
「得点に関われたことはよかったです。でも、ボールを失った場面もありましたし、守備の戻りが遅れた場面もありました。まだ満足できる内容ではありません」
別の記者が尋ねる。
「大船柚月選手がけがで離脱している中、早川選手には中盤の新たな中心として期待が集まっています」
早川の表情が少し硬くなった。
「柚月選手の後継者と呼ばれることについて、どのように感じていますか」
早川は、すぐには答えなかった。
言葉を慎重に選ぶ。
「私は、柚月さんの代わりになりたいわけではありません」
報道陣のペンが一斉に動く。
早川は続けた。
「柚月さんには、柚月さんにしかできないプレーがあります。私はまだ、代表候補として合宿へ呼ばれたばかりです。後継者と呼んでいただけるような段階ではないと思っています」
「今日のプレーでは、高い判断力を見せました」
「一つの試合でうまくいっただけです」
早川は首を振った。
「私は、まだまだ先輩方から教えていただかなければならないことがたくさんあります」
言葉には謙遜だけではない、率直な自己評価が込められていた。
「特に、ボールのキープ力、相手を一人外す突破力、それから試合全体の戦況を読む力です。柚月さんは、目の前の相手だけではなく、その先で何が起きるかまで考えてプレーしています」
早川は、ワールドカップの試合を思い出していた。
ブラジル戦。
激しくスコアが動く中で、柚月は速く攻める場面と、あえてボールを落ち着かせる場面を使い分けていた。
イングランド戦。
高さで勝る相手に対し、同じ方向へ攻め続けず、何度もボールの進行方向を変えた。
アメリカとの決勝。
ボールを持たれる時間が続いても慌てず、相手が疲れる場所へ誘導し続けた。
「私は、まだまだ柚月さんには遠く及ばないと思っています」
「それでも、代表のポジションを争う相手になるのではありませんか」
早川は、今度は迷わず答えた。
「はい。代表へ入りたいので、競争から逃げるつもりはありません」
報道陣の空気が変わる。
「ただ、柚月さんが戻れないことを願って席を取るのではなく、柚月さんが戻ってきたうえで、自分も必要だと思ってもらえる選手になりたいです」
その日の夕方、早川の発言は大きく報じられた。
「早川莉奈、後継者報道を否定」
「柚月の代わりではなく、自分の力で代表へ」
「先輩から学び、同じ舞台で競いたい」
世代交代という言葉で対立を作ろうとしていた報道の一部も、早川の率直な言葉を無視できなかった。
3 三メートルのパス
同じ頃、柚月はベガルタ仙台レディースのリハビリルームにいた。
椅子に座ったままボールを転がす段階を終え、この日から立った状態でのパス練習が始まる。
柚月の正面には、トレーナーが立っていた。
二人の距離は三メートル。
柚月は思わず床を見る。
「本当に三メートル?」
「三メートルです」
「もう少し離れても届くべ」
「届くかどうかを試す練習ではありません」
トレーナーは右ふくらはぎの状態を確認する。
「軸足は左です。右足の内側で、ゆっくりボールを押し出してください。振り抜かず、足首を強く固定しすぎないようにします」
「インサイドパスくらい、目をつぶっててもできるっちゃ」
「今日は目を開けてください」
「例えだべ」
トレーナーは真顔のままだったが、近くで見ていた山田羽美監督は小さく笑っていた。
柚月はボールの前に立つ。
右足を少し後ろへ引く。
その瞬間、ふくらはぎの奥が緊張した。
痛みではない。
けれど、決勝で動かなくなっていったときの感覚が、一瞬だけよみがえった。
右足が止まる。
トレーナーは急かさなかった。
「怖いですか」
柚月は少し迷ってから、正直にうなずいた。
「また痛くなるんじゃないかって、ちょっと思った」
「それが普通です」
「世界一になった選手なのに?」
「世界一でも、けがをした筋肉は怖さを覚えます」
柚月は一度、深く息を吐いた。
左足へ体重を乗せる。
右足を振るのではなく、ボールの横から軽く押し出す。
ボールは三メートル先のトレーナーへ、ゆっくりと転がっていった。
トレーナーが足元で止める。
「痛みは?」
「ない」
「張りは?」
「少しだけ。でも、怖かった分の力みかもしれねぇべ」
「もう一度やりましょう」
ボールが戻される。
二本目。
三本目。
徐々に右脚の動きが滑らかになる。
十本目には、ボールがほとんどぶれず、トレーナーの右足へ届いた。
柚月の表情が明るくなる。
「今の、よかったべ」
「よかったです」
「五メートルにする?」
「三メートルのままです」
「褒めたあとに伸ばしてくれる流れじゃねぇの?」
「治療計画に、その流れはありません」
山田が後ろから声をかける。
「三メートルを百本正確に蹴れない選手が、三十メートルを語らないの」
柚月は振り返る。
「監督まで厳しいっちゃ」
「過去かどうかは、次の一本が決めるって言ったでしょう」
「言われました」
「なら、その一本を雑にしない」
柚月は再びボールへ向き直った。
右足の内側で、丁寧に押し出す。
歓声もない。
観客もいない。
しかし、柚月にとってはワールドカップのどのパスにも負けないほど、大切な三メートルだった。
4 記事の中の早川莉奈
リハビリを終えた柚月は、クラブハウスで早川のインタビュー記事を読んだ。
『私は柚月さんの代わりになりたいわけではありません』
その一文を見た瞬間、柚月は少し驚いた。
記事を最後まで読む。
ボールのキープ力。
突破力。
戦況を読む力。
まだ先輩には遠く及ばない。
代表の席を争うことからは逃げない。
柚月の復帰を願いながら、自分も同じチームに必要とされる選手になりたい。
読み終えた柚月は、しばらく携帯電話の画面を見つめていた。
山田が隣へ座る。
「何を読んでるの?」
「早川のインタビューです」
「どうだった?」
「いい子ですね」
「選手としては?」
「いい選手だっちゃ」
柚月は素直に認めた。
「自分に足りないものも分かってる。あれだけ結果を出してるのに、勘違いしてない」
「怖くなった?」
山田の問いに、柚月は少し考えた。
「怖いです」
「正直だね」
「でも、前みたいに自分が終わるとは思わなくなったっちゃ」
柚月は記事の写真を見る。
「早川がうちの代わりなら、どっちか一人しかいらない。でも、違う選手なら、二人でできることもあるべ」
「例えば?」
「早川は前を向くのが速い。守備から攻撃への切り替えも速い。うちが少し低い位置で試合を落ち着かせて、早川が前で変化をつける形もできる」
山田は満足そうにうなずく。
「もう一緒にプレーすることを考えてるんだ」
「代表へ戻る気ですから」
「いい顔になったね」
柚月は少し笑う。
「ユリにも、早川と一緒に選ばれればいいって言われたっちゃ」
「そのとおりだと思う」
「またユリの味方ですか」
「今回は柚月も同じ側でしょう」
「確かに」
5 早川から届いたメッセージ
その夜。
自宅で右ふくらはぎを冷却していた柚月の携帯電話が鳴った。
知らない番号から、短いメッセージが届いている。
『突然ご連絡して申し訳ありません。代表候補合宿に参加している早川莉奈です』
柚月は身体を起こした。
続けて、二通目が届く。
『原町監督から連絡先を教えていただきました。記事で後継者と呼ばれていますが、私は柚月さんの代わりになれるとは思っていません』
三通目。
『ワールドカップで柚月さんのプレーを見て、試合の流れを読むことの大切さを学びました。私はまだ、目の前のプレーに精いっぱいになることがあります』
柚月はゆっくりと文章を読む。
最後のメッセージには、こう書かれていた。
『ロサンゼルスオリンピックで、柚月さんと一緒にプレーしたいです。そのうえで、私も代表に必要だと思ってもらえる選手になりたいです』
柚月は小さく笑った。
隣で夕食の準備をしていた徹が振り返る。
「どうした?」
「早川からメッセージ来た」
「何て?」
柚月は画面を見せる。
徹は最後まで読んだ。
「しっかりしてるな」
「二十歳だぞ。うちが二十歳の頃、こんな文章書けたかな」
「無理だろうな」
「即答するなっちゃ」
柚月は返信を考える。
一度、長い文章を入力した。
しかし、読み返してすべて消した。
もう一度、今度は自分らしい言葉で打つ。
『メッセージありがとう。記事も読んだよ。莉奈はうちの後継者じゃなくて、代表の座を争う競争相手だと思ってる』
少し考え、続きを加える。
『うちが戻るまで待つ必要はない。今できることを全部やって、代表に必要だと思わせてけろ。うちもけがを治して、結果を出して戻る』
最後に一文を書く。
『ロサンゼルスで一緒にプレーしよう。でも、ポジションは簡単に譲らねぇからな』
送信する。
数分後、早川から返事が届いた。
『はい。私も譲っていただくつもりはありません』
柚月は声を上げて笑った。
「いいべ、この子」
徹も画面を見て笑う。
「かなり強いな」
「ますます一緒にやりたくなったっちゃ」
「その前に、まず三メートルだ」
「分かってるべ」
6 名取百合子へ報告
柚月は書斎へ入り、名取百合子の遺影の前へ座った。
「ユリ、聞いてけろ」
携帯電話の画面を遺影へ向ける。
「早川からメッセージ来たよ」
胸の中で、ユリの声が返ってくる。
「なんて?」
「うちと一緒にオリンピックでプレーしたいって。でも、ポジションを譲ってもらうつもりはないってさ」
「いい子だっちゃ」
「うん。かなり気が強いべ」
「柚月と相性よさそうだな」
「どういう意味だっちゃ」
「二人で負けず嫌いになって、原町監督を困らせそうだべ」
柚月は笑った。
「うち、今日から立ってパス蹴ったよ。三メートルだけど」
「昨日は五十センチだったべ。ずいぶん伸びたっちゃ」
「世界までは、まだ遠いけどな」
「三メートルを何回もつないだら、世界まで届くべ」
ユリの言葉に、柚月は遺影を見つめた。
「莉奈って子が伸びることを怖がるな。強い仲間が増えたら、なでしこも強くなるっちゃ」
「分かってる」
「競争に負けたくなかったら、治して結果出せばいい」
「それも分かってるべ」
「なら、今日はちゃんと休め」
柚月は苦笑する。
「最後はそこに戻るんだな」
「一番大事だからだっちゃ」
柚月は遺影の隣にある金メダルへ触れた。
「次はオリンピックの金メダルだよ。早川も一緒に、みんなで取りに行く」
「楽しみにしてるっちゃ」
7 競争が生み出すもの
翌日。
代表候補合宿では、早川が再び中盤へ入っていた。
前日の得点に浮かれることなく、守備の位置取りを何度も修正する。
先輩選手へ積極的に質問する。
「今の場面、私がもっと内側を閉めた方がよかったですか」
「ボールを受ける前、逆側まで見る時間はありましたか」
自分が評価されることよりも、何を身につけなければならないかを考えていた。
一方、仙台では柚月が三メートルのパスを繰り返していた。
右足の内側。
左足へ体重を乗せる。
上半身を傾けない。
振り抜かず、押し出す。
一本目。
二本目。
十本目。
前日より、ボールの速度が安定している。
トレーナーが三メートル先で受ける。
「今日は左右へ少しずらします。身体の正面だけでなく、足を動かして位置を合わせてください」
右へ五十センチ。
柚月は小さく足を動かし、ボールの正面へ入る。
止める。
返す。
左へ五十センチ。
右脚へ急な負荷をかけないように移動する。
止める。
返す。
早川は代表のピッチで、自分の足りないものと向き合っている。
柚月はリハビリルームで、失った動きを一つずつ取り戻している。
二人は同じ場所にはいない。
同じ練習もしていない。
それでも、すでに競争は始まっていた。
相手を蹴落とすための競争ではない。
互いの成長によって、自分も立ち止まれなくなる競争。
柚月は最後のボールを正確に返した。
「今の、よかったべ」
トレーナーがうなずく。
「今日一番でした」
柚月は足元へ戻ってきたボールを見つめる。
報道が何と呼ぶかは、もう気にならなかった。
後継者。
世代交代。
元世界王者。
どの言葉も、次のピッチでの結果を保証するものではない。
早川莉奈は、柚月の代わりではない。
柚月も、過去の実績だけで代表へ戻るつもりはない。
二人は、同じ場所を目指す競争相手だった。
そして、いつか同じユニフォームを着て、同じ金メダルを目指す仲間になるかもしれない。
柚月は胸の中でつぶやいた。
「待ってろよ、莉奈。すぐ追いつくっちゃ」
遠く離れた代表合宿のピッチで、早川は次のボールへ走り出していた。
次回予告
第39章「再び芝の上へ」
三メートルのパス練習を重ねた柚月に、ついに屋外でのリハビリが許可される。
ワールドカップ決勝以来、初めてスパイクを履いて立つ芝生。
しかし、許されたのは歩行と軽いボールタッチだけ。
目の前では、ベガルタ仙台レディースの仲間たちが激しい紅白戦を行っている。
歓声。
ボールを蹴る音。
仲間たちの呼び合う声。
すぐそばにあるのに、柚月は練習へ加わることができない。
そんな中、ロサンゼルスオリンピック予選の日程が正式に発表される。
復帰までに残された時間を意識し、柚月は再び練習量を増やそうとする。
しかし、右ふくらはぎに小さな張りが現れる。
徹は柚月へ告げる。
「一日早く進むために、一か月を失うつもりか」
次回、
第39章「再び芝の上へ」
戻りたい場所が目の前にあるほど、待つことは苦しくなる。
それでも、本当にピッチへ帰るためには、踏み出さない一歩を選ばなければならない。




