初めて触れるボール
第37章 初めて触れるボール
1 待ち続けた感触
右ふくらはぎの筋損傷から、少しずつ回復を続けていた柚月は、ようやく松葉杖を使わずに二十歩を歩けるようになった。
歩幅はまだ小さい。
右脚へ体重を移す瞬間には、筋肉の奥にかすかな緊張が残る。
それでも、以前のように上半身を左へ傾けたり、右足を早く床から離したりすることは少なくなっていた。
一センチ。
一歩。
昨日より少しだけ前へ進む。
その小さな積み重ねが、ようやく柚月を次の段階へ連れてきた。
ベガルタ仙台レディースのリハビリルーム。
柚月は背もたれのある椅子へ腰掛けていた。
トレーナーがボールを一つ持ってくる。
白い表面に青い模様。
長年、何度も触れてきたはずの五号球が、今日は特別なものに見えた。
トレーナーが、そのボールを柚月の右足の前へ置く。
「今日からボールを使います」
柚月の表情が一気に明るくなった。
「蹴っていいの?」
「触っていいと言いました」
「同じことだべ」
「違います」
トレーナーは柚月の勢いを止めるように、先に練習内容を説明した。
「椅子に座ったまま、右足の裏でボールを止めてください。そのあと、前へ三十センチほど転がします」
柚月はしばらく動かなかった。
聞き間違えたのではないかと思った。
「三十センチ?」
「はい」
「三十メートルじゃなくて?」
「三十センチです」
「それ、蹴るって言わねぇべ」
「ですから、蹴るとは言っていません」
柚月は大きく息を吐いた。
目の前には、ずっと触れたかったボールがある。
全力で蹴りたい。
追いかけたい。
味方の足元へ鋭いパスを送りたい。
しかし、許されているのは、椅子に座ったまま数十センチ転がすことだけだった。
「強い力は使わないでください。足首とふくらはぎへ、急な負荷をかけないことが最優先です」
「痛くなかったら、少しくらい強くしてもいい?」
「駄目です」
「まだやってもいないのに?」
「柚月さんが何をしようとしているか分かるからです」
柚月は不満そうに口を尖らせた。
それでも、右足をボールへ乗せる。
足の裏に、ざらりとした表面の感触が伝わった。
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
ワールドカップ決勝以来、初めて触れるボール。
何千回、何万回と触れてきた相棒なのに、久しぶりに再会した友達のようだった。
柚月は、足の裏でボールを止める。
右ふくらはぎに必要以上の力を入れないように注意する。
そして、ゆっくりと前へ押し出した。
ボールが小さな音を立てて転がる。
三十センチほど進んだところで、トレーナーが手で止めた。
「今の強さです。十回続けましょう」
再びボールが戻ってくる。
止める。
押し出す。
戻ってくる。
また止める。
同じ動作を、ゆっくりと繰り返す。
五回目を終えたところで、柚月が尋ねた。
「もう少し距離を伸ばしていい?」
「駄目です」
「痛みは出てねぇべ」
「今、痛みが出ていないからこそ、ここで止めます」
六回目。
七回目。
柚月は無意識に力を加えた。
ボールは三十センチを越え、五十センチほど転がる。
トレーナーがすぐに止めた。
「強くしないでください」
「ほんの少しだっちゃ」
「その少しを我慢する練習でもあります」
柚月は視線を落とした。
「ごめんなさい」
もう一度、ボールが戻される。
今度は決められた距離を守り、ゆっくりと押し出した。
世界一になった選手が、三十センチを守る。
誰にも注目されない、小さな約束。
しかし、その約束を守れなければ、もう一度世界のピッチへ戻ることはできない。
2 うれしさより先に来る焦り
十回の練習が終わると、トレーナーはボールを片づけようとした。
柚月は反射的に右足で押さえた。
「もう終わり?」
「今日はここまでです」
「まだ触っただけだべ」
「初日は、それで十分です」
「運動した感じが全然しねぇっちゃ」
「これまで使っていなかった動きを、右脚へ少しだけ戻しました。今日の夜から明日の朝にかけて、痛みや張りが強くならないか確認します」
柚月は、名残惜しそうにボールから足を離した。
トレーナーがボールを持ち上げる。
「明日も状態が良ければ、また使います」
「明日は一メートル?」
「明日の状態を見て決めます」
「また三十センチかもしれない?」
「その可能性もあります」
柚月は椅子の背もたれへ身体を預けた。
ボールへ触れたことは、確かにうれしかった。
それでも、思い切り蹴れない焦りの方が強く残った。
目の前にあるのに、追いかけることができない。
足元にあるのに、遠くへ送り出すことができない。
サッカーボールが、これほど遠い存在に感じられたことはなかった。
3 後継者という言葉
リハビリを終えた柚月は、クラブハウスの休憩室へ移動した。
右ふくらはぎを冷却しながら、携帯電話を開く。
画面には、ロサンゼルスオリンピックへ向けた代表候補合宿の記事が表示されていた。
合宿では、二十歳の若手MF、早川莉奈が高い評価を受けていた。
細かなボールタッチ。
受ける前の状況確認。
攻守の切り替えの速さ。
練習試合では二得点に関わり、代表スタッフからも積極性を評価されている。
柚月も映像を見た。
早川はいい選手だった。
ボールを受ける前に何度も首を振り、次の選択肢を準備している。
パスを出したあとも足を止めず、すぐに次の場所へ動いている。
若いだけではない。
代表で戦うための判断を持ち始めていた。
記事の見出しには、大きな文字が並んでいる。
「柚月の後継者候補が台頭」
「なでしこ中盤に世代交代の波」
「世界女王、若返りへ」
柚月は画面を下へ動かす。
早川が成長することは、日本代表にとって喜ばしい。
そのはずだった。
しかし、自分の名前と「後継者」という言葉が並ぶと、胸の奥がざわついた。
後継者。
それは、自分がいなくなることを前提にした言葉にも聞こえる。
ワールドカップで世界一になってから、まだそれほど時間はたっていない。
それなのに、報道の中ではすでに過去の選手として扱われ始めているように感じた。
柚月は携帯電話を伏せた。
それでも気になり、もう一度開く。
代表の練習着を着て、笑顔でボールを蹴る早川。
一方の自分は、椅子に座って三十センチだけボールを転がしている。
「うちは、もう過去の選手なのかな」
「過去の選手は、リハビリルームであれほどボールを蹴りたがらないと思うけど」
後ろから声がした。
ベガルタ仙台レディース監督の山田羽美だった。
柚月は携帯電話を伏せる。
「いつからいたんですか」
「『過去の選手なのかな』の少し前から」
「一番聞かれたくないところを聞かれたっちゃ」
山田は柚月の向かいへ座った。
「早川莉奈、いい選手だね」
「はい。代表合宿の映像も見ました」
「冷静に評価できるんだ」
「ボールを受ける前の確認が速いし、パスを出したあとも動きを止めない。守備への切り替えも速いっちゃ」
「そこまで分かっているのに、どうして自分のことになると急に弱気になるの?」
柚月は答えられなかった。
「後継者って書かれてたべ」
「記事を書いた人が、代表選手を決めるの?」
「決めませんけど」
「世代交代と書かれたら、柚月の技術や経験が消える?」
「消えないです」
山田は立ち上がり、棚からボールを一つ取った。
柚月の足元へ、静かに置く。
「過去かどうかは、次に蹴る一本が決める」
柚月はボールを見つめる。
「今のうち、蹴れねぇべ」
「今日は三十センチ転がしたでしょう」
「たった三十センチです」
「昨日は、その三十センチすらできなかった」
柚月は黙り込む。
山田は、携帯電話に表示された早川の記事を指さした。
「早川は今、自分にできることをやっている。柚月も同じ。競争は、二人が同じ練習場に立ってから始まるものじゃない」
「でも、向こうは代表合宿で、うちはリハビリだべ」
「だから何?」
山田の声は厳しかった。
「早川が成長することと、柚月が復帰することは両立する。若い選手が伸びたからといって、柚月が消えるわけではない」
「代表の枠には限りがあります」
「戻ったら奪えばいい」
山田は迷わず答えた。
「過去の実績ではなく、今の結果で」
柚月が顔を上げる。
「ワールドカップで優勝したから選んでほしいと思う?」
「思いません」
「だったら、今の柚月を見て選びたいと思わせるところまで戻りなさい」
厳しい言葉だった。
それでも柚月の胸に、少しずつ力が戻ってくる。
守られるのではない。
もう一度、取りに行く。
それこそが、柚月の望む代表への戻り方だった。
4 名取百合子の遺影
その日の夜。
柚月は自宅の書斎へ入った。
棚には、ワールドカップの金メダルが置かれている。
その隣には、親友である名取百合子の遺影。
写真の中のユリは、子どもの頃から変わらない明るい笑顔を見せていた。
柚月は椅子へ座る。
「ユリ」
遺影へ向かって、ゆっくりと話し始める。
「今日、初めてボールに触ったよ」
少し笑う。
「椅子に座って、三十センチ転がしただけだけどな。ちょっと強くやったら、すぐ怒られたっちゃ」
胸の中で、ユリの呆れた声が返ってきた。
「初日から言うこと聞いてねぇのか」
「ほんの少しだべ」
「その少しを我慢するのが、今の練習だっちゃ」
柚月は苦笑した。
「ユリまで同じこと言うんだな」
携帯電話を取り出し、早川の記事を遺影の前へ置く。
「代表合宿で、若い子が結果出してる」
ユリの写真へ、画面を見せる。
「早川莉奈。いい選手だよ。うちの後継者候補なんだって」
少し間を置く。
「世代交代だってさ」
押さえていた不安が、少しずつ言葉になる。
「うち、もう必要とされてねぇのかな」
書斎が静かになる。
外を走る車の音が、遠くに聞こえた。
柚月は、名取百合子の遺影を見つめ続ける。
やがて胸の奥へ、はっきりとした声が届いた。
「柚月。まだ二十八歳だべ」
柚月が顔を上げる。
「今から老け込んで、どうするっちゃ」
「老け込んでねぇべ」
「『うちはもう過去の選手なのかな』って、それを老け込んでるって言うんだべ」
柚月は言い返せなかった。
天国のユリは、腕を組みながら柚月を見下ろしているようだった。
「柚月が経験する、初めての大きなけがなんだべ」
「うん」
「今までできてたことが急にできなくなって、怖くなるのは当たり前だっちゃ」
柚月の目に涙が浮かぶ。
ユリの声は厳しい。
それでも、柚月の弱さを否定してはいなかった。
「焦るのも、不安になるのもいいべ。泣きたかったら泣けばいい」
「でも、代表は待ってくれねぇべ」
「待ってもらおうとするなっちゃ」
ユリの言葉が、柚月の胸へまっすぐ届く。
「代表を奪われたなら、また結果で取り返せばいいっちゃ」
柚月は黙った。
「ワールドカップで優勝したから選んでくださいって言いたいのか?」
「言いたくねぇべ」
「だったら、治して、走って、また結果出せばいい」
「簡単に言うなぁ」
「簡単じゃないから言ってるんだっちゃ」
ユリは、昔からそうだった。
ただ慰めるだけではない。
柚月が泣くことを許し、そのうえで背中を押す。
「柚月がワールドカップでやったこと、もう忘れたのか」
「忘れてねぇよ」
「ブラジルに四点取られても、五点目を取りに行ったべ。アメリカに先制されても、みんなで逆転したべ」
「うん」
「だったら、けがで少し遅れたくらいで終わった顔すんなっちゃ」
柚月は涙を拭う。
「代表合宿は、どんどん先へ進んでる」
「なら、柚月はリハビリを進めればいいべ」
「三十センチずつ?」
「今日は三十センチ。明日は五十センチかもしれねぇ。最初はそれでいいっちゃ」
柚月は泣きながら笑った。
「世界一になった選手が三十センチだぞ」
「世界一になった選手だからこそ、その三十センチを雑にすんな」
その言葉に、柚月は息を止めた。
山田羽美監督と同じだった。
今できることを、きちんと積み重ねる。
過去の実績ではなく、次の一本で自分を示す。
ユリは続ける。
「早川って子、いい選手なんだべ?」
「うん。かなりいい選手だっちゃ」
「なら、一緒に代表でプレーすればいい」
柚月は少し驚いた。
「一緒に?」
「後継者って言葉に勝手に追い出されるな。二人とも選ばれれば、なでしこはもっと強くなるべ」
「代表の枠は限られてる」
「だから結果で取り返すんだっちゃ」
「容赦ねぇなぁ」
「柚月に甘いこと言ったら、すぐ調子に乗るべ」
「親友に対する評価が厳しすぎるっちゃ」
「間違ってる?」
柚月は少し考える。
「全部は否定できねぇな」
5 徹の答え
書斎の扉が静かに開いた。
徹が温かい飲み物を二つ持って入ってくる。
「ここにいたのか」
「ユリに説教されてた」
徹は机の上の遺影を見る。
「何て言われた?」
「まだ二十八歳なのに、今から老け込んでどうするって」
徹はすぐにうなずいた。
「その通りだな」
「代表を奪われたなら、結果で取り返せって」
「それも正しい」
柚月は少し頬を膨らませる。
「徹、ユリの味方ばっかりだべ」
「柚月の味方だから、正しいことを言っている方につく」
徹は飲み物を机へ置き、柚月の隣に座る。
「記事を見たんだな」
「うん。後継者とか、世代交代とか書かれてた」
「早川莉奈はいい選手だ」
「徹まで言うのか」
「いい選手を、いい選手だと言っただけだ」
柚月は黙り込む。
徹は少し間を置いてから続けた。
「でも、早川と柚月は違う」
「何が?」
「早川には早川の判断と強みがある。柚月には、柚月の経験と試合を読む力がある。どちらか一人しか存在できないわけじゃない」
「ユリと同じこと言ってる」
「それなら、二人の見方は間違っていない」
柚月は遺影を見る。
「うち、代表に戻れると思う?」
徹はすぐに大丈夫とは言わなかった。
柚月が欲しいのは、根拠のない励ましではないと知っている。
「今のままでは戻れない」
「うん」
「でも、けがを治して、身体を作り直して、所属クラブで結果を出せば、戻れる可能性はある」
「保証はない?」
「ない」
山田羽美監督と同じ答えだった。
「代表は、世界一になった選手を保存しておく場所じゃない。今、必要な選手が選ばれる場所だ」
「厳しいなぁ」
「柚月が好きな場所だろ」
柚月は思わず笑った。
「監督にも同じこと言われたべ」
「みんな、柚月をよく分かってるんだな」
「そんなに分かりやすい?」
「かなり」
徹は柚月の右ふくらはぎへ視線を落とす。
「今日はボールへ触れたんだろ」
「三十センチだけ転がした」
「昨日は触れなかった」
「うん」
「なら、今日は前進した」
柚月は、足の裏へ伝わったボールの感触を思い出す。
わずか三十センチ。
それでも、再び世界へ向かって動き始めた一球だった。
6 昨日より二十センチ先へ
翌朝。
柚月は再びリハビリルームへ入った。
椅子の前には、昨日と同じボールが置かれている。
トレーナーが右ふくらはぎの状態を確認する。
「昨日の練習後、痛みや張りは強くなりませんでしたか」
「大丈夫だったっちゃ」
「本当に?」
「本当です。夜もちゃんと冷やしたし、徹にも確認されたべ」
トレーナーは慎重に触診する。
腫れはない。
痛みも強くなっていない。
「今日は五十センチまで伸ばします」
柚月の顔が明るくなる。
「一メートルじゃないの?」
「五十センチです」
「でも、昨日の倍近いな」
「距離ではなく、動きの正確さを意識してください」
柚月は椅子へ座る。
右足の裏でボールを止める。
前へ押し出す。
昨日より二十センチ遠くへ、ボールが転がった。
戻ってくる。
再び止める。
今度は足の内側で、ゆっくりと送り出す。
「力の入り方はいいです」
「もっといけそうだべ」
「今日は五十センチです」
「分かってるっちゃ」
柚月は、本当に力を抑えた。
ユリの言葉が胸に残っている。
世界一になった選手だからこそ、三十センチを雑にしない。
代表を奪われたなら、また結果で取り返す。
その結果へたどり着くには、今日の五十センチを確実に終えなければならない。
五回。
十回。
十五回。
右ふくらはぎの感覚を確かめながら、同じ動きを繰り返す。
最後の一球を足の裏で止める。
柚月はボールへ向かい、小さく語りかけた。
「また一緒に世界まで行こうな」
トレーナーが首を傾げる。
「ボールと話していました?」
「久しぶりに会った相棒だからな」
「相棒なら、大切に扱ってください」
「分かってるべ」
早川莉奈は、今も代表合宿で成長を続けている。
ほかの若手選手たちも、ロサンゼルスオリンピックを目指して結果を求めている。
誰も柚月の復帰を待ってはくれない。
だからこそ、柚月も立ち止まらない。
今は走れない。
強く蹴ることもできない。
それでも、昨日より二十センチ遠くへボールを動かした。
小さな一球を、次の日へつないでいく。
柚月は心の中で、名取百合子へ語りかける。
「ユリ。うち、まだ老け込むには早いべな」
天国から、明るい声が返ってくる。
「当たり前だっちゃ。二十八歳は、まだまだこれからだべ」
「代表、もう一回取りに行くよ」
「結果で取り返せ」
「早川とも一緒にプレーしてみたい」
「それでこそ柚月だっちゃ」
観客はいない。
中継もない。
歓声も拍手も聞こえない。
リハビリルームの床を、ボールが五十センチ転がっただけだった。
それでも、その一球は確かに、再び世界へ向かって動き始めていた。
次回予告
第38章「後継者ではなく、競争相手」
ロサンゼルスオリンピックへ向けた代表候補合宿。
二十歳の若手MF、早川莉奈が攻守で存在感を示し、報道から柚月の後継者と呼ばれる。
しかし、莉奈自身はその呼び方に戸惑っていた。
「私は柚月さんの代わりになりたいわけではありません」
一方、柚月は立った状態でのパス練習を許可される。
距離はわずか三メートル。
それでも、右脚でボールを蹴る感覚が少しずつ戻り始める。
やがて莉奈から、柚月へ一通のメッセージが届く。
「オリンピックで、柚月さんと一緒にプレーしたいです」
後継者ではない。
席を譲られるのを待つ選手でもない。
互いに結果を求め、代表の座を争いながら、同じ世界一を目指す仲間。
次回、
第38章「後継者ではなく、競争相手」
誰かが伸びることは、自分が終わることではない。
競い合う二つの力が、なでしこジャパンをさらに前へ進める。




