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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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休むことから始まる夢

第35章 休むことから始まる夢


1 走れない朝


ワールドカップ優勝から数日が過ぎた。


柚月の右ふくらはぎには、まだ固定具が巻かれていた。


痛みは少しずつ和らいでいる。


しかし、ボールを蹴ることはできない。


走ることもできない。


所属クラブの仲間たちは、すでに次の試合へ向けた練習を再開していた。


SNSには、ピッチを走る選手たちの写真が並んでいる。


朝のトレーニング。


ボールを使ったメニュー。


紅白戦。


試合へ向かうバス。


柚月は自宅のソファに座り、その画面を眺めていた。


自分だけが時間の外へ取り残されたように感じる。


世界一になったばかりなのに、今の自分は一歩も走れない。


リハビリで許されているのは、足首をゆっくり動かすことと、痛みの出ない範囲で筋肉を伸ばすことだけだった。


柚月は携帯電話を伏せる。


「みんな、もう次へ進んでるっちゃ」


キッチンから徹の声が返る。


「柚月も進んでる」


「どこがだべ。座って足首動かしてるだけだっちゃ」


徹は飲み物を二つ持ち、柚月の隣へ座った。


「昨日より動く範囲が広がった」


「ほんの少しだべ」


「その少しが回復だ」


柚月は右脚へ目を落とす。


「オリンピックまで時間がないように感じるっちゃ」


「まだ来年だ」


「代表争いは、もう始まってるべ」


「だからこそ焦るな」


徹は、柚月の右ふくらはぎへ視線を向ける。


「早く戻ることが目標じゃない。戻ったあと、もう一度全力で走れることが目標だ」


柚月はすぐには答えなかった。


頭では分かっている。


無理に復帰すれば、再発するかもしれない。


再発すれば、オリンピックどころではなくなる。


それでも、仲間たちが走っている姿を見ると、気持ちは前へ行こうとする。


身体だけが、その場に残されている。


「休むって、難しいな」


「試合より難しいか」


「自分で頑張った感じがしねぇからな」


「今は、頑張りすぎないことを頑張れ」


柚月は徹を見る。


「ややこしい言い方だべ」


「柚月には、そのくらいでちょうどいい」


2 自宅の書斎


その日の午後、柚月の自宅を訪ねてきた人たちがいた。


ユリの父、雄二。


母、愛子。


そして兄の大志。


三人は、ユリの遺影を持ってやってきた。


愛子が玄関で柚月の固定具を見る。


「まだ痛むの?」


「だいぶ良くなったっちゃ。でも、走るのはまだ駄目だって」


雄二が穏やかに言う。


「今はゆっくり治した方がいい」


「みんな同じこと言うなぁ」


大志が笑う。


「みんなに同じことを言わせるくらい、柚月さんが無理しそうだからですよ」


「大志まで徹みたいなこと言うべ」


「決勝を見てたら、誰でもそう思います」


徹が後ろからうなずく。


「よく分かってる」


「そこで意気投合しなくていいっちゃ」


小さな笑いが玄関に広がった。


四人は、自宅の書斎へ移動した。


書斎には、柚月がこれまで出場した大会の写真や、代表ユニフォーム、試合で使用したスパイクが並んでいる。


本棚の一角には、ユリとの思い出の品が置かれていた。


二人で撮った写真。


子どもの頃に使っていたボール。


一緒に書いた、将来の夢。


そこには、少し色あせた紙が残されていた。


二人でなでしこジャパンに入る。


幼い字で書かれた約束。


柚月はその紙を見ながら、静かに言う。


「一人では入れなかったけど、ユリと一緒に行けた気がするっちゃ」


愛子は、ユリの遺影を机の上へ置いた。


「うん。あの子も一緒にいたと思う」


徹がテレビの電源を入れる。


この日、みんなで見るために用意していたのは、ワールドカップ全試合のハイライト映像だった。


スウェーデン戦。


カナダ戦。


韓国戦。


フランス戦。


ブラジル戦。


イングランド戦。


そして、決勝のアメリカ戦。


柚月は椅子へ座り、右脚を少し高い位置に置いた。


隣には愛子。


反対側には雄二と大志。


徹は少し後ろに座る。


ユリの遺影は、全員から画面が見える位置に置かれていた。


「ユリも一緒に見ような」


柚月が声をかける。


映像が始まった。


3 最初の一勝


グループリーグ初戦。


相手はスウェーデン。


画面には、緊張した表情でピッチへ入る選手たちが映っている。


愛子が尋ねる。


「このとき、緊張してた?」


「かなりしてたっちゃ。初戦は、どんな大会でも難しいべ」


映像では、日本が無理に前へ出ず、相手の動きを見ながら試合を進めている。


「この試合のテーマは、外す勇気だったんだ」


大志が首を傾げる。


「外す勇気?」


「通せそうでも、相手が待ってるなら出さない。攻めることより、攻めない判断を大事にしたんだっちゃ」


やがて、日本の決勝点が映る。


雄二が静かに拍手する。


「最初の一勝は大きかったんだろうな」


「うん。ここで勝てたから、みんな少し落ち着いたべ」


ユリの遺影が、画面の中の選手たちを見つめている。


柚月は、写真の中のユリへ話しかける。


「初戦から見てたべ。うちら、かなり慎重だったよな」


胸の中で、声が返ってくる。


「慎重なくらいでちょうどよかったっちゃ。最初から飛ばしすぎたら、柚月の脚が先に終わってたべ」


柚月は小さく笑った。


愛子が気づく。


「ユリ、何て言ってるの?」


「最初から飛ばしすぎなくてよかったって」


「本当に言いそう」


4 九つのゴール


映像は、準々決勝のブラジル戦へ移る。


スコアが激しく動く。


日本が先制する。


二点差に広げる。


ブラジルが追いつこうとする。


日本が突き放す。


またブラジルが迫る。


そして四対四。


愛子は、結果を知っているのに両手を握っていた。


「もう一度見ても怖いね」


雄二も画面から目を離さない。


「よく勝ったな」


柚月は苦笑する。


「やってる方も、何が起きてるか分からなかったっちゃ」


決勝点の場面。


美里がボールを奪う。


柚月がつなぐ。


藤森の折り返し。


最後は黒川がゴール左隅へ流し込む。


五対四。


大志が思わず立ち上がる。


「真緒さん、本当に冷静ですね」


「真緒は、ああいう場面ほど落ち着くんだべ」


「柚月さんも、ずっと走ってますね」


徹が横から言う。


「だから脚に疲労が残った」


柚月は振り返る。


「今それ言う?」


「事実だからな」


愛子が少し笑う。


「徹さんがいてくれて、本当によかった」


「ほら、愛子さんもそう言ってる」


「味方が増えすぎだっちゃ」


それでも、柚月の表情は穏やかだった。


ブラジル戦の映像を見ると、身体の苦しさまで思い出す。


だが、それ以上に、仲間たちが最後まで諦めなかった姿が胸に残る。


5 ユリの声が支えた時間


準決勝のイングランド戦。


黒川の先制点。


柚月の追加点。


菜月のPKストップ。


そして三対ゼロでの勝利。


菜月が葵のお尻を軽くたたき、葵が「任せとけ〜」と答える場面も映った。


大志が吹き出す。


「ここ、何度見ても面白いですね」


「世界一を目指してる最中なのに、あの二人だけ少し軽いんだべ」


徹が答える。


「でも、あの軽さで緊張がほどけた」


「そうなんだよな」


柚月も笑いながらうなずく。


やがて映像は決勝戦へ進む。


アメリカの先制点。


黒川の同点ゴール。


藤森が倒されて得たPK。


渡瀬の勝ち越し。


そして柚月と菜月の交代。


画面の中で、柚月は右脚をかばいながらタッチラインへ向かっている。


愛子の表情が曇る。


「このとき、かなり痛かったの?」


「痛いというより、ふくらはぎが固まっていく感じだったっちゃ」


徹が言う。


「走り方が完全に変わってた」


「今なら分かるべ。あのまま残ってたら、もっと大きなけがになってた」


「そう思えるなら、少しは成長したな」


「上からだなぁ」


画面では、交代で入った宮原が走り続けている。


藤森がボールを奪う。


宮原へ渡る。


ゴール正面で黒川が受ける。


右足を振り抜く。


ゴール右隅。


三対一。


その直後、試合終了の笛。


愛子の目から涙がこぼれた。


雄二も唇を強く結ぶ。


大志は画面を見つめたまま、何度も目をこすっている。


表彰式。


金色のメダル。


青い紙吹雪。


美里がトロフィーを掲げる。


柚月がユリの遺影を高く上げる。


「ユリ、世界一だっちゃ!」


書斎の中が静かになった。


映像が終わっても、誰もすぐには話さなかった。


6 家族からのありがとう


最初に口を開いたのは、雄二だった。


「柚月さん」


柚月が顔を向ける。


雄二は深く頭を下げた。


「ユリの夢を一緒にかなえてくれて、ありがとう」


柚月は慌てる。


「頭上げてけろ。うちだけでかなえたんじゃねぇべ」


愛子も涙を拭いながら言う。


「それでも、ユリをずっと一緒に連れていってくれた」


「ユリが、うちを連れていってくれたんだっちゃ」


「そう言ってくれることが、嬉しいの」


大志も柚月を見る。


「柚月さん、本当にありがとうございます」


「大志まで」


「ユリも絶対に喜んでます」


大志は遺影へ目を向ける。


「姉ちゃん、ずっとなでしこジャパンに入りたいって言ってました。ワールドカップで優勝したいって、何度も話してました」


声が少し震える。


「自分ではピッチに立てなかった。でも、柚月さんが一緒に連れていってくれた。だから、姉ちゃんの夢は消えなかったんだと思います」


柚月の目に涙が浮かぶ。


「うちの方こそ、ありがとうだっちゃ」


「柚月さんが、ですか?」


「ユリの家族が、うちにユリの遺影を預けてくれた。表彰台まで連れていくことを認めてくれた。だから、あの景色を一緒に見られたんだべ」


柚月はユリの遺影を抱き上げる。


「ユリがいなかったら、うちはここまで頑張れなかったと思う」


愛子が柚月の手へ、自分の手を重ねる。


「これからも、ユリと一緒に夢を見てあげて」


柚月は大きくうなずいた。


「もちろんだっちゃ」


7 天国からの言葉


柚月は、ワールドカップの金メダルをケースから取り出した。


ユリの遺影の前へ置く。


「ユリ。改めて見てけろ」


金色の表面が、書斎の照明を反射する。


「これが、うちらの金メダルだよ」


風のない部屋の中で、カーテンがわずかに揺れた。


天国のユリは、家族と柚月たちが集まる書斎を見つめていた。


父の雄二。


母の愛子。


兄の大志。


親友の柚月。


そして、柚月を支える徹。


自分が生きていた頃には見ることのできなかった光景。


それでも、不思議と寂しさはなかった。


ユリは笑っていた。


「柚月。本当にありがとうだっちゃ」


柚月の胸に、その声が届く。


「夢をかなえてくれて、ありがとう」


柚月は涙を流しながら答える。


「うちらでかなえたんだべ」


「んだな。みんなでかなえた夢だっちゃ」


「次はオリンピックだよ」


「もう次の話してるのか」


「ワールドカップとオリンピックの二冠、目指すって約束したべ」


「覚えてるっちゃ。でも、その前にやることあっぺ」


柚月は右ふくらはぎを見る。


「休むことだべ」


「正解」


「ユリに言われると、逆らえねぇな」


「徹さんには逆らうのか」


徹が隣で首を傾げる。


「何て言われた?」


柚月は涙を拭いながら笑う。


「ユリが、ゆっくり休めって」


徹はうなずく。


「正しい」


「あと、徹には逆らうのかって聞かれた」


雄二たちが笑う。


徹も少し笑いながら答える。


「ユリの言うことなら聞くんだな」


「徹の言うことも、最近は少し聞いてるべ」


「少しか」


「大きな進歩だっちゃ」


天国のユリも、家族と一緒に笑っていた。


「柚月。今はゆっくり休んで」


その声は、いつもより優しかった。


「また走れるようになったら、次の夢を一緒に追いかけよう」


柚月は遺影へ手を添える。


「うん。まだまだ一緒に夢見ような」


8 休むことも、夢の途中


ハイライト映像を見終えたあとも、四人はしばらく書斎で思い出を語り続けた。


ユリが子どもの頃、負けず嫌いだったこと。


シュート練習で外すと、暗くなるまで帰ろうとしなかったこと。


柚月とけんかをしても、次の日には何事もなかったようにボールを持って迎えに来たこと。


大志が笑う。


「姉ちゃん、柚月さんとけんかすると、家ではずっと文句言ってましたよ」


柚月は驚く。


「うちには何も言わなかったべ」


「次の日には仲直りしてましたから」


愛子も懐かしそうに笑う。


「あの子にとって、柚月ちゃんは特別だったの」


「うちにとっても、ずっと特別だっちゃ」


夕方になり、雄二たちは帰る準備を始めた。


愛子は玄関で、柚月の右脚をもう一度見る。


「無理しないでね」


「はい」


雄二も言う。


「オリンピックは逃げない。まずは治すことだ」


「分かってるっちゃ」


大志が念を押す。


「本当に?」


柚月はため息をつく。


「今日だけで何回確認されるんだべ」


徹が答える。


「回数が必要だからだろ」


「もう逃げ道ねぇな」


みんなが笑った。


三人を見送ったあと、柚月は書斎へ戻る。


画面には、映像の最後で停止したままの表彰台が映っていた。


トロフィー。


紙吹雪。


仲間たち。


ユリの遺影。


柚月は車椅子から、その光景を静かに見つめる。


世界一になった。


だが、次の夢へ向かうためには、今すぐ走る必要はない。


今は立ち止まる。


痛みを治す。


筋肉を戻す。


もう一度、全力で走れる身体を作る。


それもまた、オリンピックへ続く道の一部だった。


柚月は金メダルをユリの遺影の隣へ置く。


「今日は、何もしなくていいべか」


胸の中で、ユリが答える。


「何もしないことを、ちゃんとやればいいっちゃ」


柚月は笑った。


「やっぱり難しいな」


それでも、もう焦って立ち上がろうとはしなかった。


夢へ向かう最初の一歩は、歩かないことから始まる日もある。


柚月はようやく、その意味を受け入れ始めていた。


次回予告


第36章「一センチずつ戻る脚」


リハビリを始めた柚月。


最初の目標は、ボールを蹴ることではない。


松葉杖を使わず、正しい姿勢で十歩を歩くこと。


痛みを確かめながら足首を動かし、右脚へ少しずつ体重を戻していく。


世界一になった選手にとって、あまりにも小さく見える目標。


しかし、焦って一段飛ばせば、再発の危険が待っている。


一方、ロサンゼルスオリンピックを目指す代表候補の強化合宿が発表され、若手選手たちの名前が並ぶ。


柚月の名前は、けがのため招集外。


その現実を前に、柚月の心が再び揺れる。


「うちがいない間に、代表の居場所がなくなったらどうする」


徹は静かに答える。


「居場所は守るものじゃない。戻って、もう一度つくればいい」


次回、

第36章「一センチずつ戻る脚」


夢へ向かう距離は、走った長さだけでは決まらない。


今日動かせた一センチが、

いつか世界へ届く一歩になる。

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