世界一まで、あと十七分
第31章 世界一まで、あと十七分
後半二十八分。
渡瀬のペナルティーキックが、アメリカゴールの左隅へ吸い込まれた。
日本2―1アメリカ。
なでしこジャパンが、ついに勝ち越した。
さらに、藤森を倒したアメリカのDFにはレッドカードが示されている。
残り時間は十七分と、アディショナルタイム。
得点でも、人数でも、日本が優位に立った。
だが、原町監督の視線は、喜びの輪へ駆け寄った柚月の右脚へ向けられていた。
柚月は笑っていた。
渡瀬の肩を抱き、黒川と拳を合わせ、美里へ声をかけている。
それでも、走り方は隠せない。
右脚で踏み込むたび、ほんの少しだけ歩幅が狭くなっていた。
ふくらはぎをかばうように、左脚へ体重を逃がしている。
ベンチ脇で見ていた徹が、原町監督へ言った。
「もう限界に近いです」
原町は目をそらさない。
「肉離れの可能性は?」
「今すぐ切れたとは思いません。ただ、もう一度強いスプリントをかけたら危ない」
「本人は残ると言うだろうな」
「間違いなく」
原町は短く息を吐き、交代用紙を受け取った。
世界一まで、あと十七分。
柚月にとっては、何年も夢見てきた時間だった。
だが、夢のために身体を壊させるわけにはいかない。
1 最後まで立ちたい
試合が再開される前、原町監督がタッチライン際へ出た。
「柚月!」
柚月が振り返る。
「交代だ」
その顔から笑みが消えた。
「まだ行けるっちゃ」
「行けるかどうかを決めるのは、今はお前じゃない」
「あと十七分だべ。ここまで来たんだ。最後までピッチにいさせてけろ」
「駄目だ」
柚月が右ふくらはぎへ手を当てる。
「痛くねぇ。ちょっと張ってるだけだっちゃ」
徹も近くまで出てきた。
「柚月。今の走り方、自分で分かってるだろ」
柚月は答えない。
「右で蹴ったあと、左へ逃げてる。いつもの走りじゃない」
「それでも走れる」
「走れることと、走っていいことは違う」
徹の声は穏やかだった。
それがかえって、柚月の胸へ強く刺さる。
原町監督が続ける。
「お前の仕事は終わっていない。ベンチへ戻って、次の選手に見えているものを伝えろ」
「でも……」
「世界一になる瞬間は、ピッチに立っている十一人だけのものじゃない」
柚月は唇を噛んだ。
ユリの顔が浮かぶ。
最後まで走りたい。
最後の笛を、芝の上で聞きたい。
けれど。
ユリなら、きっと言う。
「無理して倒れたら、みんな心配すっぺ。今できることやればいいっちゃ」
柚月は目を閉じ、ゆっくりとうなずいた。
「分かった」
そして、原町を見た。
「絶対、勝ってよ」
「そのために交代させる」
2 二人同時の交代
原町監督は、もう一人の交代も決断していた。
GKの桐生菜月。
準決勝から二試合続けて先発し、イングランド戦ではPKを止め、決勝でもアメリカの強烈な攻撃を受け続けてきた。
身体への負担は大きい。
肩。
腰。
太もも。
そして、何度も飛び込んだ際に受けた接触。
菜月はプレーを続けられる状態ではあったが、反応速度がわずかに落ち始めていた。
残り時間、アメリカはロングボールとセットプレーを増やす。
ここで、フレッシュな葵を投入する。
第四審判が交代ボードを準備する。
柚月に代わって、攻守に走れる宮原彩乃。
菜月に代わって、正GKの伊達葵。
ボールがタッチラインを割る。
主審が交代を認めた。
実況
「日本、ここで二枚替えです! 大船柚月とGK桐生菜月を下げます!」
解説
「柚月は脚に張りがあるようですね。そしてGKも交代。終盤の空中戦を見据え、葵を投入します」
柚月はゆっくりとタッチラインへ向かう。
美里が近寄り、肩を抱いた。
「ここまでありがとう」
「まだ終わってねぇべ」
「うん。だから、最後まで一緒に戦って」
柚月は美里の背中をたたく。
「絶対、世界一になろうな」
「なるよ」
交代ラインの前で、宮原が待っていた。
柚月は宮原の両肩へ手を置く。
「相手の右、戻りが遅い。奪ったら迷わず左へ走って」
宮原が強くうなずく。
「任せてください」
「あと、真緒が中央で空く。最後まで見てけろ」
「はい」
二人が手を合わせる。
宮原がピッチへ入った。
その隣では、菜月と葵が交代する。
菜月は葵の前まで歩くと、苦しさを隠すように笑った。
「葵さん、あとは頼んだ」
そして、葵のお尻を軽くポンとたたいた。
葵は大きく笑う。
「任せとけ〜。全部止めてくる!」
菜月も笑った。
「その言い方、頼もしいけど軽いです」
「大丈夫。中身は重いから」
「意味分かりません」
短いやり取りを交わし、二人は両手を合わせた。
葵がゴールへ走る。
菜月はベンチへ戻る途中、スタンドから送られる大きな拍手を受けた。
柚月が迎える。
「菜月、よう守ったな」
「柚月さんも、走りすぎです」
「お互いさまだべ」
二人は並んでベンチへ座った。
柚月の右ふくらはぎには、すぐに氷嚢が巻かれる。
菜月も肩へアイシングを受けながら、ピッチを見つめた。
3 新しい流れ
宮原と葵が入ると、日本の動きに新しい速さが生まれた。
葵の声が、ゴール前から響く。
「ライン上げるよ! 下がりすぎない!」
疲労の見えるDF陣へ、明確な指示が届く。
宮原はボールのないところでも走り続ける。
アメリカの中盤へ寄せる。
パスコースを切る。
奪えなくても、次の選手が寄せやすい方向へ追い込む。
日本のボール周りが速くなった。
一人が持つ時間が短い。
黒川から美里。
美里から宮原。
宮原から藤森。
ワンタッチ、ツータッチ。
アメリカは一人少ない。
それでも前へ出なければならないため、守備の距離が少しずつ広がっていく。
実況
「日本、交代選手が入ってからボールの動きが速くなりました!」
解説
「宮原がよく走っていますね。アメリカの寄せる方向を変えています。日本は守るだけではなく、ボールを動かして相手を消耗させています」
後半三十三分。
アメリカが右サイドからクロスを入れる。
葵が前へ出る。
「キーパー!」
両手でしっかりとキャッチする。
着地すると、すぐに宮原へ投げた。
宮原から藤森。
藤森が左サイドを運ぶ。
アメリカのDFが戻る。
藤森は無理に突破せず、黒川へ戻す。
黒川は美里へ。
再び右へ。
アメリカを横へ走らせる。
時間を使うためだけではない。
ボールを失わず、自分たちの呼吸を取り戻すためのポゼッションだった。
ベンチで柚月が身を乗り出す。
「いいぞ。焦らなくていいっちゃ」
徹が隣へ来る。
「脚は?」
「張ってる」
「さっきより正直だな」
「交代したあとに強がっても意味ねぇべ」
徹は少し笑った。
「いい判断だった」
「監督の?」
「交代を受け入れた柚月の」
柚月はピッチを見ながら答える。
「まだ悔しいけどな」
「悔しいままでいい。勝てば、その悔しさもチームの一部になる」
4 アメリカ、最後の圧力
後半三十八分。
アメリカはDFを一人削り、攻撃の選手を投入した。
十人になっても、守るつもりはない。
長いボール。
強烈なミドルシュート。
前線での身体を張ったキープ。
ボールを奪えば、迷わず日本のゴールへ送る。
実況
「アメリカ、さらに攻撃的な交代です! 一人少ない状況ですが、同点を狙いに来ます!」
アメリカのロングボール。
エヴァ・ロジャースが走る。
宮坂が身体を寄せる。
エヴァが胸で落とす。
マディソンが拾う。
右足でミドルシュート。
葵が横へ飛ぶ。
両手で弾く。
実況
「葵、止めた! 交代出場直後から集中しています!」
こぼれ球へアメリカが詰める。
西野が先に滑り込み、タッチラインへ逃がす。
スローイン。
ロングスローが日本のペナルティーエリアへ入る。
宮坂が頭で跳ね返す。
黒川がセカンドボールを拾う。
宮原へ。
宮原は身体を入れてボールを守る。
アメリカの選手が寄せる。
それでも倒れず、美里へつなぐ。
日本は必死に、ボールがペナルティーエリアへ入る前に止め続けた。
クロスを上げられる前に寄せる。
縦パスの入口を閉じる。
ミドルシュートには身体を投げ出す。
世界一まで、少しずつ時間が減っていく。
5 アディショナルタイムは三分
後半四十五分。
第4審判がボードを掲げた。
「+3」
実況
「アディショナルタイムは三分! なでしこジャパン、世界一まであと三分です!」
スタジアムの音が、一段大きくなる。
三分。
短いはずの時間。
だが、日本の選手たちには、果てしなく長く感じられた。
柚月はベンチから立ち上がる。
氷嚢を巻いたまま、ピッチへ声を飛ばす。
「あと三分! 一本ずつだべ!」
菜月も叫ぶ。
「葵さん、頼みます!」
葵は右手を上げる。
「任せとけ〜!」
アメリカのキックオフ。
後方から一気にロングボール。
宮坂が競る。
ボールが後方へ流れる。
葵が前へ出て、胸の前でキャッチする。
時計は九十分二十秒。
葵はすぐには蹴らない。
仲間が上がるのを待つ。
主審が再開を促す。
葵は右サイドへ投げる。
宮原が受ける。
アメリカが寄せる。
宮原は黒川へ。
黒川から美里。
美里がタッチライン際へ運ぶ。
相手に当て、日本のスローインを得る。
解説
「日本、非常に冷静です。時間を使うだけでなく、確実に自分たちのボールにしています」
九十一分。
アメリカが再び奪う。
左サイドから突破。
藤森が戻る。
身体を寄せる。
相手は内側へ入る。
藤森は足を出さない。
宮原がカバーへ入る。
二人で挟む。
ボールがこぼれる。
黒川が拾う。
日本が奪った。
だが、すぐに前へ蹴らない。
一度、美里へ戻す。
アメリカの選手たちが前へ出る。
日本はボールを動かしながら、その圧力をかわす。
時計は九十二分。
残り一分。
6 最後の攻撃
アメリカが中央でボールを持つ。
マディソンから右サイドへ。
クロスを狙う。
宮原が前へ出る。
パスコースを切る。
アメリカは中央へ戻す。
そのパスが少し弱くなった。
藤森が狙っていた。
一歩前へ出る。
右足でボールを奪う。
実況
「藤森が奪った! 日本、最後のカウンターになるか!」
藤森は左サイドへ持ち出した。
もう脚は重い。
それでも走る。
一歩。
二歩。
アメリカのDFが追う。
藤森はタッチライン際を駆け上がる。
ベンチの柚月が叫ぶ。
「藤森、行げ!」
藤森はペナルティーエリア手前まで運ぶ。
中央には黒川。
右から宮原も上がっている。
アメリカの守備が藤森へ寄る。
藤森は中へ切り込むと見せた。
相手が内側を閉じる。
その瞬間、後方から走ってきた宮原へボールを落とす。
宮原が受ける。
すぐに前へ。
アメリカの選手が寄せる。
宮原はワンタッチで黒川へ出した。
ゴール真正面。
ペナルティーアークの少し外。
黒川が受ける。
一人目が寄せる。
黒川は右足でボールを前へ置く。
二人目も来る。
それでも、迷わない。
右足を振り抜いた。
強烈なミドルシュート。
ボールはアメリカDFの足元を抜ける。
GKサラ・ミッチェルが左へ飛ぶ。
だが、シュートは逆。
ゴール右隅へ、低く鋭く伸びる。
サラの指先は届かない。
ボールがポストの内側へ当たる。
ネットが揺れた。
日本3―1アメリカ。
実況
「決まったぁぁぁぁ!! 黒川真緒! 試合を決める三点目! なでしこジャパン、世界一へ決定的なゴールです!」
黒川はその場で両膝をついた。
両手を広げる。
藤森が飛びつく。
宮原が後ろから抱きしめる。
美里も、渡瀬も、次々と集まる。
ベンチでは、柚月と菜月が抱き合っていた。
「入った!」
「真緒、また決めました!」
徹も拳を握る。
原町監督は、ほんの一瞬だけ空を見上げた。
そして、主審がセンターサークルを指す。
残された時間は、ほとんどない。
アメリカがキックオフ。
後方へ戻す。
前へ蹴ろうとした瞬間――
主審が腕時計を見る。
笛を口へ運ぶ。
ピィッ、ピィッ、ピィィィィッ――!
試合終了。
日本3―1アメリカ。
実況
「終わったぁぁぁ!! なでしこジャパン、世界一! 二〇一一年以来、二度目のワールドカップ優勝です!」
解説
「見事でした。先制されても慌てず、黒川の同点ゴール。渡瀬のPKで勝ち越し、最後は黒川がもう一度決めました。チーム全員でつかんだ世界一です」
ピッチの選手たちが崩れ落ちる。
泣く者。
叫ぶ者。
芝へ顔を伏せる者。
葵はゴール前で両腕を高く上げた。
菜月はベンチから飛び出し、葵のもとへ走る。
二人は強く抱き合った。
「葵さん、ありがとうございました!」
「菜月がここまで守ったんでしょ! 二人で完封したようなもんだよ!」
「一失点してます」
「細かいことはいいの!」
柚月も、氷嚢を外してゆっくりとピッチへ向かう。
走れない。
それでも、一歩ずつ進む。
徹が隣へ来る。
「脚、大丈夫か」
「今はどうでもいいっちゃ」
「どうでもよくはない」
「でも、勝ったべ」
徹は笑った。
「ああ。勝った」
ベンチ脇に置かれたユリの遺影を、柚月が両手で抱き上げる。
そして、ピッチへ連れていく。
「ユリ」
涙が頬を伝う。
「やったよ」
風が吹く。
写真の中のユリが、いつもより少しだけ誇らしそうに笑って見えた。
「んだな。みんな、よぐやったっちゃ」
「二回目の世界一だよ」
「うちの願い、かなえてくれたんだべ」
柚月は首を振る。
「ユリも一緒にかなえたんだっちゃ」
選手たちが柚月と遺影の周りへ集まる。
美里。
黒川。
藤森。
渡瀬。
宮原。
葵。
菜月。
全員が、ユリの写真へ手を添える。
原町監督も、徹も、その輪のそばに立つ。
なでしこジャパンは、世界一になった。
先制されても崩れなかった。
身体の大きな相手に、真正面からぶつからなかった。
持たせた。
走らせた。
奪ったら、迷わず前へ出た。
そして最後まで、次の一本を信じ続けた。
日本3―1アメリカ。
二〇一一年以来となる、二度目のワールドカップ優勝。
世界一までの最後の三分は、永遠のように長かった。
だが、その永遠を終わらせたのは、黒川真緒の右足だった。
ゴール右隅へ突き刺さった一撃。
そして、その直後に鳴った試合終了の笛。
長い旅は、ついに頂点へ届いた。
次回予告
第32章「ユリと掲げるトロフィー」
二〇一一年以来、二度目の世界一に輝いたなでしこジャパン。
歓喜に包まれるピッチ。
表彰台へ続く道。
選手たちは一人ずつ、金色のメダルを胸へ掛けられていく。
そして、キャプテンの森岡美里がトロフィーを受け取る直前、柚月がある願いを口にする。
「ユリも一緒に、上げていいべか」
遺影とともに表彰台へ立つ選手たち。
美里、柚月、葵、菜月、黒川、渡瀬、藤森。
徹も少し離れた場所から、その瞬間を見守る。
トロフィーが夜空へ掲げられたとき、スタジアムに青い紙吹雪が舞い上がる。
だが、歓喜の裏で、柚月の右ふくらはぎは限界を超えていた。
表彰式を終えたあと、足をつくことができず、その場へ座り込む柚月。
徹が駆け寄り、メディカルスタッフが状態を確認する。
世界一の夜。
喜びと痛み。
そして、ユリへ届ける最後の言葉。
次回、
第32章「ユリと掲げるトロフィー」
夢は、一人では持ち上がらない。
支えてくれたすべての手とともに、
世界一のトロフィーは空へ昇る。




