十五分の向こう側
第30章 四十五分の向こう側
1 ハーフタイム――大丈夫という言葉
前半を一対一で終えた日本は、静かな緊張を抱えたままロッカールームへ戻った。
アメリカに先制を許した。
それでも黒川真緒の強烈なミドルシュートで追いついた。
ボール支配率ではアメリカが上回っている。
フィジカルでも、体格でも、相手の方が強い。
それでも、スコアは一対一。
世界一を懸けた決勝は、残り四十五分で決まる。
選手たちがベンチへ腰を下ろすと、メディカルスタッフがすぐに動き始めた。
汗で濡れたユニフォーム。
赤くなった膝。
接触で腫れ始めた肩。
疲労の強い選手へ氷嚢が渡され、筋肉の状態が一人ずつ確認されていく。
柚月は右太ももへアイシングを受けながら、ふくらはぎを伸ばしていた。
前半の途中から、右脚の踏み込みに少しだけ重さを感じている。
痛みではない。
走れる。
スプリントもできる。
ただ、いつものように地面を蹴った感触が、そのまま身体へ返ってこない。
それでも柚月は、顔には出さなかった。
そこへ徹が近づいてきた。
特別コーチとしてベンチに帯同している徹は、前半を通して柚月の走りを見続けていた。
妻だからではない。
同じ現役選手だからこそ分かる、わずかな変化があった。
「柚月」
「ん?」
「脚、何か変じゃないか」
柚月は一瞬だけ視線をそらした。
「大丈夫だべ」
徹はすぐに返さない。
柚月の右脚を見る。
「太ももじゃなくて、ふくらはぎ」
「少し重いだけだっちゃ」
「張ってるんじゃないか」
「試合中なら、誰だって張るべ」
「だから確認するんだよ」
柚月は苦笑した。
「徹、心配しすぎだっちゃ」
「大丈夫って言う人ほど、だいたい大丈夫じゃない」
「それ、うちにしか使ってねぇべ」
「今はそうだな」
徹は近くにいたトレーナーへ声をかけた。
「右のふくらはぎ、一度見てもらえますか」
柚月は少し不満そうに頬を膨らませる。
「そこまでせんでもいいべ」
トレーナーは柚月の前へしゃがんだ。
「念のためです。力を抜いてください」
ふくらはぎをゆっくり押す。
外側。
内側。
アキレス腱の上。
柚月の表情が、ある場所に触れられた瞬間だけわずかに曇った。
トレーナーは手を止める。
「ここですね」
「ちょっと張ってるだけだっちゃ」
「軽い張りがあります。今のところ肉離れを疑うような痛みではありません。ただし、スプリントを繰り返せば強くなる可能性があります」
徹が柚月を見る。
柚月は言い返さなかった。
原町監督も、そのやり取りを聞いていた。
選手たちへの指示を終えると、柚月の前へ立つ。
「後半は出す」
柚月が顔を上げる。
「本当?」
「ただし条件がある」
原町は厳しい表情のまま続ける。
「試合に入って、明らかに動きが鈍いと判断したら、すぐに交代させる」
「まだ走れるっちゃ」
「お前の判断ではなく、こちらの判断だ」
「でも決勝だべ」
「決勝だからだ」
原町は一歩近づく。
「無理をして一歩遅れれば、チーム全体が崩れる。お前が倒れるまで使うつもりはない」
柚月は唇を結んだ。
悔しさがないわけではない。
最後までピッチに立ちたい。
世界一の瞬間を、芝の上で迎えたい。
だが、原町の言葉は正しい。
「分かったっちゃ」
「違和感が増したら、すぐ合図しろ」
「うん」
徹も言う。
「隠すなよ」
柚月は徹を見て、小さく笑った。
「今日は監督が二人いるみたいだべ」
「二人に見られてる方が安心だろ」
「全然安心できねぇっちゃ」
短いやり取りに、近くの選手たちから小さな笑いが起きた。
その笑いが消えたところで、原町はロッカールームの中央へ立つ。
「四十五分後に、世界一になる準備はできているか」
選手たちの顔が上がる。
「はい!」
声が重なる。
原町はホワイトボードへ三つの言葉を書く。
中央を締める。
奪ったら迷わない。
先に足を止めない。
「アメリカは後半、前半以上に来る。前線から圧力をかけて、日本に考える時間を与えないつもりだ」
岩出コーチが続ける。
「最初の十分は、無理に前へ出なくていい。ただし下がり切るな。奪ったときの出口を必ず一人残す」
原町は最後に言った。
「守りに入るな。守備から勝ちに行け」
2 後半開始――容赦のないプレス
両チームがピッチへ戻る。
スタジアムは、前半以上の熱気に包まれていた。
一対一。
次の一点が、世界一の行方を大きく左右する。
ベンチ脇に置かれたユリの遺影へ、柚月は一度だけ目を向ける。
「行ってくるっちゃ」
写真の中のユリは、いつもと変わらない笑顔だった。
「無理すんなって言っても、どうせ走るんだべ」
柚月は小さく笑う。
「今日はちゃんと相談するっちゃ」
「それならよし」
主審の笛。
後半が始まった。
アメリカは開始直後から、激しく前へ出た。
センターバックへ渡った瞬間、FWが走る。
サイドバックへ出せば、ウイングが寄せる。
中盤へ入れれば、背後から身体をぶつける。
日本がボールを持つ時間を、ほとんど与えない。
実況
「アメリカ、後半開始から猛烈なプレスです! 日本陣内で一気に奪い切ろうとしています!」
解説
「日本にカウンターへ移る時間を与えたくないのでしょう。奪われたとしても、その場ですぐに奪い返す狙いです」
菜月から宮坂へ。
宮坂が受けた瞬間、エヴァ・ロジャースが迫る。
宮坂は美里へ入れる。
美里にもマディソン・ハーパーが寄せる。
美里はワンタッチで黒川へ。
黒川が身体を入れられる。
ボールがこぼれる。
アメリカが拾う。
右サイドへ展開。
低いクロス。
西野が右足でクリア。
こぼれ球へアメリカの中盤が走り込む。
ミドルシュート。
宮坂が身体を投げ出す。
ボールは胸へ当たり、タッチラインへ逃れた。
実況
「日本、身体を張ります! 後半開始からアメリカの攻撃が続きます!」
柚月も自陣深くまで戻っていた。
相手のパスコースへ入り、中央を閉じる。
だが、走り出す一歩目がほんの少しだけ重い。
徹はベンチ脇から、その変化を見逃さなかった。
太ももではない。
右ふくらはぎをかばうように、左脚へ体重を預ける瞬間がある。
まだ交代させるほどではない。
だが、注意が必要だった。
徹は原町へ声をかける。
「右脚、少し踏み込みが浅いです」
原町は柚月を見た。
「もう少し見る」
3 鉄壁の守り
後半五分。
アメリカの右サイド。
大きな身体を持つウイングが、縦へ強引に運ぶ。
日本の左サイドバックが身体を寄せる。
アメリカ選手はバランスを崩さない。
そのままクロスを入れる。
中央でエヴァが跳ぶ。
宮坂が競る。
エヴァの頭が先に触る。
ゴール右下へ。
菜月が横へ飛び、両手で弾く。
実況
「菜月、止めた! アメリカ、後半最初の決定機です!」
こぼれ球へマディソンが入る。
黒川が先に身体を入れる。
マディソンが足を伸ばす。
黒川は倒れながらも、ボールを美里へつなぐ。
美里が大きく前へ蹴り出す。
藤森が追う。
だが、アメリカのDFが先に戻って回収した。
日本はなかなか前へ出られない。
それでも、最終ラインは崩れない。
中央を閉じる。
サイドへ追い出す。
クロスを上げられても、一人目が競り、二人目がこぼれ球を拾う。
後半十分。
アメリカのコーナーキック。
ゴールへ向かう強いボール。
菜月が出る。
両手で弾く。
ペナルティーエリア外へ。
アメリカが拾い、もう一度シュート。
西野が頭でクリア。
さらにこぼれ球。
黒川が身体を投げ出す。
シュートは黒川の背中へ当たり、ゴールラインを割った。
再びコーナーキック。
解説
「日本、完全に防戦ですが、最後の一線は破られていません。誰か一人が止めるのではなく、次から次へカバーが入っています」
実況
「まさに鉄壁の守りです!」
二本目のコーナー。
今度はファーサイド。
エヴァが頭で中央へ折り返す。
ゴール前で混戦。
菜月が飛び込む。
宮坂も足を伸ばす。
ボールが菜月の胸へ当たる。
それを両腕で抱える。
アメリカの選手が詰める。
菜月は身体を丸め、ボールを守った。
「取った!」
その声がゴール前に響く。
日本の選手たちが、ようやくラインを押し上げる。
4 柚月の脚
後半十五分。
柚月が左サイドでボールを受ける。
アメリカのDFが背後から寄せる。
柚月は一度、縦へ加速しようとする。
右脚で強く芝を蹴る。
その瞬間、ふくらはぎに小さな張りが走った。
痛みではない。
だが、身体が反応を避ける。
いつもなら二歩で出る加速が、三歩かかる。
相手DFが追いつく。
柚月は無理に突破せず、黒川へ戻した。
徹はすぐに気づいた。
「今のだ」
原町も見ていた。
柚月の一歩目が、明らかに遅れた。
原町が第四審判の方を見る。
控え選手へ準備を指示しようとしたとき、柚月が一度ベンチへ顔を向けた。
右手で小さく丸を作る。
まだ行ける。
原町は表情を変えない。
徹は柚月へ大声で伝える。
「次、同じなら交代だ!」
柚月は返事をせず、視線をピッチへ戻した。
美里が近づく。
「脚、どう?」
「少し張っただけだべ」
「無理しないで」
「分かってるっちゃ」
「本当に?」
「みんな同じこと言うなぁ」
美里は少し笑う。
「みんな、柚月を決勝の最後まで必要としてるからだよ」
柚月はうなずいた。
5 試合を動かす一瞬
後半二十分を過ぎても、スコアは一対一。
アメリカのプレスは激しい。
それでも、少しずつ変化が生まれていた。
前半から走り続けたアメリカの選手たち。
後半も高い強度で前へ出続けたことで、守備から攻撃へ切り替わる際の距離がわずかに広がり始めている。
前線は日本の最終ラインへ圧力をかける。
だが、中盤が追いつかない。
その間に、少しずつ空間が生まれる。
徹がベンチ脇から叫ぶ。
「相手の二列目、遅れてる! 奪ったら一気に出ろ!」
原町も同じ変化を見ていた。
「藤森、前へ残れ! 全部戻るな!」
藤森がポジションを少し上げる。
アメリカは気づいていない。
日本が守備に追われていると思い、さらに前へ人数をかけてくる。
後半二十五分。
アメリカは日本陣内のかなり深い位置でボールを回していた。
右サイド。
中央。
また右。
日本の守備を動かし、突破口を探す。
マディソンがボールを持つ。
中央へ入れようとする。
黒川がコースを切る。
仕方なく後方へ戻す。
アメリカのDFが受ける。
その瞬間、藤森が一歩前へ出た。
まだ奪わない。
次のパスを待つ。
DFから中盤へ。
少し弱い。
ほんのわずかな迷いがあった。
藤森は走り出す。
6 後半28分――奪った瞬間
藤森の右足が、アメリカのパスへ届いた。
ボールが前へこぼれる。
実況
「藤森がカットした! 日本、アメリカ陣内の深い位置で奪いました!」
藤森はそのまま前へ出る。
アメリカのDFが戻る。
一人。
二人。
だが、攻撃のため前へ出ていた分、最終ラインには大きな空間がある。
藤森が中央へ運ぶ。
右には渡瀬。
左から黒川。
柚月も遅れて上がる。
藤森は渡瀬を見る。
パスを出すふり。
アメリカのCBが渡瀬へ意識を向ける。
その瞬間、藤森は自分で前へ持ち出した。
ペナルティーエリアへ侵入する。
実況
「藤森、そのまま行く! ペナルティーエリアへ入った!」
GKが前へ出る。
藤森と一対一になりかける。
その背後から、アメリカのDFが必死に戻る。
このまま行かせれば、決定的なシュートになる。
DFは足を伸ばした。
藤森がボールへ先に触る。
次の瞬間。
藤森の右脚へ、後ろから足がかかった。
身体が前へ投げ出される。
主審の笛。
ピィィィッ!
藤森が芝へ倒れる。
主審は迷わずペナルティースポットを指した。
実況
「PK! 日本にペナルティーキックです!」
アメリカの選手たちが主審へ向かう。
倒したDFも両手を上げる。
だが、藤森が先にボールへ触れている。
ゴールへ向かう決定的な場面。
主審は胸ポケットへ手を入れる。
赤いカードを掲げた。
実況
「レッドカード! アメリカ、一人退場です!」
スタジアムが大きくどよめく。
解説
「決定的な得点機会の阻止と判断されました。藤森は完全に抜け出し、GKと一対一になるところでした」
アメリカのDFは顔を覆いながら、ピッチを去る。
アメリカは十人。
日本はPK。
世界一へ近づく、最大の機会。
藤森がゆっくり立ち上がる。
美里が駆け寄る。
「大丈夫?」
「足を掛けられただけです。蹴れます」
だが、ボールを拾ったのは渡瀬だった。
原町監督がベンチからキッカーを指名している。
「渡瀬!」
渡瀬は短くうなずいた。
7 渡瀬とGKの駆け引き
渡瀬がペナルティースポットへボールを置く。
アメリカGK、サラ・ミッチェルがゴールラインへ立つ。
背が高い。
腕も長い。
PKの場面では、最後まで動かず、キッカーの軸足を見るタイプだった。
渡瀬は一度、ゴールを見る。
右隅。
左隅。
中央。
どこを狙うか、表情には出さない。
柚月はペナルティーエリアの外で待つ。
右ふくらはぎの張りも、今は気にならない。
ベンチ脇では徹が腕を組み、渡瀬を見つめている。
「急ぐな」
聞こえる距離ではない。
それでも、徹はつぶやいた。
ユリの遺影の前を、風が通る。
「こういうときは、ゴールを見るんじゃなくて、自分の蹴る場所だけ見ればいいべ」
柚月は胸の中で答える。
(渡瀬なら大丈夫だっちゃ)
主審がペナルティーエリアの外へ選手を下げる。
GKへゴールラインを確認させる。
渡瀬はボールから四歩下がる。
深呼吸。
サラが両腕を広げる。
左右へ小さく動く。
渡瀬の視線を揺らそうとする。
主審の笛。
渡瀬が助走へ入る。
一歩目はゆっくり。
二歩目で少し速度を上げる。
三歩目。
サラは動かない。
渡瀬も、まだコースを見せない。
右足を振り抜く直前、身体をわずかに左へ傾けた。
サラの重心が、ほんの少し右へ動く。
渡瀬は右足のインサイドで、ゴール左隅へ蹴った。
強すぎない。
だが、正確。
サラが反応する。
左へ飛び直す。
長い腕を伸ばす。
それでも届かない。
ボールはポストの内側をたたき、ネットへ吸い込まれた。
後半28分。
日本2―1アメリカ。
実況
「決まったぁぁぁ! 渡瀬、冷静に決めました! なでしこジャパン、決勝でついに勝ち越し!」
解説
「見事な駆け引きでした。GKの重心を最後まで見て、逆へ流し込みました。日本、世界一へ大きく近づく二点目です!」
渡瀬は拳を強く握る。
「よしっ!」
藤森が最初に抱きつく。
美里も走る。
黒川が後ろから飛び込む。
柚月も駆け寄ろうとする。
だが、最初の一歩で右ふくらはぎに張りが走った。
柚月は速度を落とす。
その変化を、原町と徹が同時に見た。
それでも柚月は笑顔で仲間たちの輪へ入る。
「渡瀬、最高だっちゃ!」
渡瀬は息を切らしながら答える。
「まだ終わってません!」
美里がすぐに全員へ声をかける。
「そう! ここからが一番長いよ!」
日本は二対一。
さらにアメリカは一人少ない。
数字では、日本が優位に立った。
だが、決勝戦は残り十七分以上ある。
アメリカは一人少なくても、世界一を諦めるチームではない。
原町監督は喜びを表した直後、控え選手へ声をかけた。
「準備しろ」
そして、柚月を見る。
勝ち越した。
だからこそ、次の判断が必要になる。
柚月を残すのか。
それとも、世界一の瞬間を前にベンチへ下げるのか。
徹は柚月の走り方を見ながら、小さく息を吐いた。
「もう隠せないな」
柚月はまだ、その言葉に気づいていなかった。
次回予告
第31章「世界一まで、あと十七分」
後半二十八分。
渡瀬のPKで、日本が二対一と勝ち越す。
さらにアメリカは一人退場。
世界一まで、残り十七分とアディショナルタイム。
だが、得点直後の走りで、柚月の右ふくらはぎに明らかな変化が現れる。
徹は原町監督へ告げる。
「これ以上のスプリントは危険です」
柚月は続行を求める。
「あと少しだべ。最後までピッチにいさせて」
それでも原町監督は、交代カードを手に取る。
一方、十人となったアメリカは守備を捨て、前線へ人数をかける。
ロングボール。
強烈なミドルシュート。
セットプレー。
菜月のゴールへ、最後の猛攻が押し寄せる。
次回、
第31章「世界一まで、あと十七分」
残り時間は短い。
けれど、頂点を前にした十七分は、
これまでのどの九十分よりも長い。




