追う者の速さ
第29章 追う者の速さ
アメリカに先制を許したあとも、日本は慌てなかった。
主審がセンターサークルへ戻るよう促す。
スコアは、日本0―1アメリカ。
前半三十分。
決勝戦で先に失点した。
それでも、美里は仲間たちを見渡しながら声を張った。
「まだ一点! やることは変えないよ!」
黒川も大きくうなずく。
「中央へ無理に入れない。外から動かします!」
柚月は一度だけ右太ももへ手を当てた。
張りはある。
だが、走れないほどではない。
ベンチ脇では、徹がアメリカの最終ラインを見つめていた。
先制したことで、アメリカのDFは少し前へ出ている。
その背後にある空間を消すよりも、前から日本へ圧力をかけ、二点目を奪おうとしていた。
徹が声を上げる。
「相手のライン、上がってる! 中央だけ見んな! 外から裏を取れ!」
柚月が一度だけ振り返り、親指を立てた。
主審の笛。
日本のキックオフで、試合が再開された。
⸻
中央を捨てる判断
美里から黒川へ。
黒川は一度、中央へ進もうとする。
だが、アメリカの中盤がすぐに寄せてきた。
一人だけではない。
正面から一人。
斜め後方から、もう一人。
中央突破を試みれば、強い身体で挟まれる。
黒川は無理をしない。
後方へ戻す。
宮坂が受け、右サイドを見る。
アメリカの守備は中央へ人数を集めている。
宮坂は迷わず、右へ大きく蹴り出した。
実況
「日本、中央へこだわらず、右サイドへ大きく展開します!」
解説
「いい判断ですね。アメリカは中央の強度が非常に高い。そこで無理をせず、まず相手の守備を横へ動かします」
右サイドで藤森が追う。
アメリカの左サイドバックも戻る。
藤森は先に触ろうとするが、相手DFが身体を入れる。
ボールは一度中央へ戻された。
アメリカが拾うかと思われた。
しかし、美里が寄せる。
強く奪いに行かず、相手のパスコースを右へ限定する。
アメリカは後方へ戻す。
そこから反対側へ展開しようとした。
だが、パスが少しだけ弱くなった。
黒川が前へ出る。
右足で触る。
日本が再びボールを奪った。
「柚月!」
美里の声。
柚月はすでに左前方へ開いていた。
中央に残っていれば、アメリカの強いDFに身体を当てられる。
だから、一度外へ離れた。
黒川から美里。
美里が顔を上げる。
そして、左前方へ長い斜めのボールを送った。
実況
「左へ大きく展開! 柚月がいます!」
柚月が走る。
アメリカの右サイドバックも追う。
ボールがタッチライン際へ落ちる。
柚月が先に身体を入れた。
右足で触り、前へ運ぼうとする。
相手DFが横から足を伸ばす。
ボールはアメリカ選手の足に当たり、そのままタッチラインを割った。
主審が日本ボールを示す。
日本のスローイン。
位置は、アメリカ陣内の左サイド。
ゴールまではまだ距離がある。
だが、ここからなら長いボールをペナルティーエリアの手前まで送れる。
美里がボールを拾った。
⸻
ロングスロー
アメリカは、日本が短くつなぐと見ていた。
近くの黒川へ一人。
柚月へも一人。
中央の渡瀬には、センターバックがつく。
美里は頭上へボールを掲げながら、ペナルティーエリア周辺を見る。
直接ゴール前へ届かせるには、少し遠い。
だから、狙いはエリア内ではなかった。
ペナルティーエリアの一メートルほど手前。
そこに、ボールを落とす。
競り合いではなく、地面へ転がす。
アメリカの選手たちは、日本の平均身長と自分たちの高さを比べ、ゴール前の空中戦を警戒していた。
だが、美里が狙ったのは、その手前だった。
「真緒、二本目!」
美里が小さく声をかける。
黒川がうなずく。
柚月はスローインを受けるふりをして、美里へ近づいた。
アメリカの右サイドバックもついてくる。
その瞬間、美里が助走を取った。
実況
「美里、ロングスローです!」
身体を大きく反らす。
両腕を振り、前へ投げる。
ボールは高く上がりすぎない。
強く、鋭く前へ飛んだ。
一度、芝に落ちる。
ペナルティーエリアの一メートルほど手前。
ボールは前へ転がった。
美里自身がすぐに走る。
アメリカの中盤も寄せる。
美里はボールへ追いつくと、相手を背負った。
身体の大きな相手が後ろから圧力をかける。
美里は前を向こうとしない。
左足を踏ん張り、右足の裏でボールを止める。
解説
「美里、ここで無理に前を向きませんね。ボールを失わず、二列目が来るのを待っています」
柚月が左へ開く。
渡瀬が中央でDFを引きつける。
黒川が後方から走り込んでいた。
美里は相手の身体を背中で受ける。
一秒。
ほんの一秒だけ、時間を作る。
そして、右足でボールを後ろへ落とした。
「真緒!」
黒川が受ける。
ペナルティーアークの外。
正面。
アメリカの中盤が寄せる。
黒川はボールを止めない。
右足で一度、前へ置く。
相手が足を伸ばす。
その足が届く直前。
黒川は右足を振り抜いた。
⸻
前半38分――黒川の一撃
強烈なミドルシュート。
ボールは低くない。
かといって、高く浮きすぎてもいない。
アメリカDFの肩口を越え、その直後に鋭く落ちる。
GKの視界には、最後まで美里とDFの身体が重なっていた。
実況
「黒川、ミドルシュート!」
GKが反応する。
左へ飛ぶ。
両手を伸ばす。
しかし、ボールはその手前でわずかに沈んだ。
指先の下を抜ける。
ゴール左上寄りへ突き刺さる。
ネットが大きく揺れた。
前半38分。
日本1―1アメリカ。
実況
「決まったぁぁぁ! 黒川真緒! 強烈なミドルシュート! なでしこジャパン、追いつきました!」
解説
「素晴らしいゴールです。美里がロングスローのこぼれを身体で守り、黒川へ落としました。アメリカの高さに対して、ボールを空中で競らず、ペナルティーエリアの外から打ち切りました」
黒川はシュートが決まった瞬間、両腕を広げた。
「入った!」
美里が真っ先に抱きつく。
「真緒、最高!」
藤森も走ってくる。
渡瀬が黒川の背中をたたく。
「また決めた!」
柚月も笑いながら駆け寄った。
「真緒、決勝でもやったな!」
黒川は息を切らしながら答える。
「美里さんが残してくれたからです!」
美里は首を振る。
「最後に決めたのは真緒!」
日本の選手たちが集まる。
だが、美里はすぐに表情を引き締めた。
「戻るよ! 同点になっただけ!」
黒川も大きくうなずく。
「はい!」
スコアは一対一。
試合は振り出しに戻った。
⸻
徹が見ていたもの
ベンチ脇で、徹は拳を強く握った。
日本が追いついたことだけではない。
得点までの流れが、狙い通りだった。
中央へ無理に入れなかった。
右へ大きく出した。
そこから反対側へ展開した。
柚月が外へ開き、アメリカの守備を横へ動かした。
最後は、美里が身体を張って時間を作り、黒川が遠い位置から仕留めた。
徹は前線の選手たちへ声をかける。
「相手、中央に寄りすぎてる! 外から動かせば、二列目が空く!」
柚月がベンチへ目を向ける。
徹と目が合う。
言葉は交わさない。
だが、互いに同じことを感じていた。
この試合は、勝てる。
ただし、正面からぶつからなければ。
アメリカの強さを受け止めるのではなく、動かし、外し、空いた場所を使えば。
ユリの遺影が置かれたベンチ脇を、風が通り抜ける。
柚月の胸の中に、声が届いた気がした。
「追いついたべ。焦らなくても、ちゃんと隙は来るっちゃ」
柚月は小さく笑った。
「んだな。次も見逃さねぇべ」
⸻
前半残り時間
アメリカのキックオフ。
同点に追いつかれたアメリカは、再び前へ出る。
右サイドから強く仕掛ける。
日本は中央を締める。
クロス。
宮坂が頭で跳ね返す。
こぼれ球をアメリカが拾う。
ミドルシュート。
菜月が正面で受け止める。
日本も奪えば、すぐに前へ出る。
柚月が左を走る。
藤森が右。
渡瀬が中央。
互いに一歩も引かない。
前半四十二分。
アメリカが左サイドからクロスを入れる。
エヴァ・ロジャースが頭で合わせる。
ボールはゴール右へ。
菜月が横へ飛び、両手で弾く。
実況
「菜月、ナイスセーブ! アメリカ、勝ち越しを狙います!」
前半四十四分。
今度は日本。
美里が中盤で奪う。
柚月へ縦。
柚月が相手DFを引きつけ、右の藤森へ流す。
藤森がペナルティーエリア右から低いクロス。
渡瀬が足を伸ばす。
だが、アメリカのCBが寸前でクリアした。
実況
「日本も惜しい! 渡瀬の手前で、アメリカが防ぎました!」
両チームに勝ち越しの機会があった。
しかし、次の一点は生まれない。
第4審判がボードを掲げる。
前半アディショナルタイムは二分。
アメリカが最後の攻撃へ出る。
日本は全員で戻る。
右からクロス。
宮坂が競る。
ボールが後方へ流れる。
菜月が前へ出て、両手でキャッチ。
時計は四十六分を過ぎている。
菜月は急がず、味方の位置を確認してから前へ蹴った。
ボールがセンターラインを越えたところで、主審が笛を吹く。
ピィィィッ――。
前半終了。
日本1―1アメリカ。
アメリカが前半三十分に先制。
日本は前半三十八分、黒川の強烈なミドルシュートで追いついた。
ボールを持っていたのはアメリカ。
だが、日本は相手の強さを正面から受け止めず、外へ動かし、わずかな隙を突いた。
柚月はロッカールームへ戻る前に、一度だけベンチ脇のユリの遺影を見た。
「前半、追いついたよ」
風が、静かに吹く。
「あと四十五分だべ」
柚月はうなずく。
「んだ。世界一まで、あと四十五分だっちゃ」
⸻
次回予告
第30章「四十五分の向こう側」
前半を一対一で終えた、なでしこジャパン。
アメリカに先制を許しながら、黒川真緒の強烈なミドルシュートで追いついた。
ボール支配率ではアメリカが上。
フィジカルでも、体格でも、日本は劣っている。
それでも、試合は同点。
原町監督はハーフタイムに告げる。
「四十五分後に、世界一になる準備はできているか」
アメリカは後半、前線からの圧力をさらに強める。
一方、日本は柚月のスプリントを生かし、相手最終ラインの背後を狙う。
しかし、右太ももに残る張り。
試合中に増していく疲労。
徹は柚月の走り方に、わずかな変化を感じ取る。
そして後半。
ユリが夢見た二度目の優勝を懸けた、最後の四十五分が始まる。
次回、
第30章「四十五分の向こう側」
世界一は、遠くにあるものではない。
次の一歩。
次の一本。
その先に、待っている




