あと一つの重さ
第28章 あと一つの重さ
イングランドを三対ゼロで破り、なでしこジャパンは決勝進出を決めた。
試合終了直後のロッカールームには、歓喜の声が響いた。黒川真緒の二得点。桐生菜月のPKストップ。そして、最後まで耐え抜いた守備陣。
誰もが抱き合い、涙を流し、決勝へ進めた喜びをかみしめた。
それでも、原町監督は選手たちが少し落ち着くのを待ってから、静かに言った。
「まだ終わっていない」
その一言で、ロッカールームの空気が変わった。
選手たちはすぐに原町へ顔を向ける。
「俺たちが目指してきたのは、決勝へ進むことじゃない。二〇一一年以来の世界一だ」
歓喜のあとに残ったのは、あと一つという重さだった。
決勝まで進んだからこそ、ここで負ければ頂点には届かない。
準優勝でも十分に立派だと言う人はいるかもしれない。しかし、選手たちはそのためにここまで来たわけではなかった。
もう一度、世界一になる。
その目標だけを見つめて、何年も積み上げてきた。
決勝の相手
決勝の相手は、アメリカ代表に決まった。
体格に優れ、体幹が強く、接触を受けても簡単にはバランスを崩さない。前線の選手だけではなく、中盤や最終ラインにも強靱なフィジカルを持つ選手がそろっていた。
その中には、二〇一一年のワールドカップ決勝で日本と戦ったアメリカ代表選手の娘もいた。
母親は、あの決勝を知っている。
延長戦。
同点ゴール。
PK戦。
そして、日本が初めて世界一になった瞬間。
娘は幼い頃から、その試合の話を何度も聞いて育った。
今度は自分が、日本の前に立つ。
二〇一一年に敗れた母の思いも背負いながら、アメリカ代表のユニフォームを着て決勝のピッチへ向かう。
岩出コーチが映像を止めた。
画面には、アメリカの選手が相手DFを背負いながらボールを収める場面が映っている。
「真正面から身体をぶつければ、まず勝てない」
その言葉に、誰も異論を挟まなかった。
「相手は接触した状態でもボールを失わない。足を出して奪おうとすれば、身体を入れられて逆に前へ運ばれる」
原町監督がホワイトボードへ三つの言葉を書く。
持たせる。走らせる。奪ったら速く。
「ボールポゼッションにはこだわらない」
原町が選手たちを見渡す。
「持たれることを怖がるな。相手に持たせて、こちらが奪う場所を決める」
美里が確認する。
「中央を締めて、外側へ誘導する?」
「そうだ。最終ラインは絞る。中を使わせない。サイドへ出させて、そこで前を向かせずに遅らせる」
岩出が続ける。
「奪ったら、細かく持ちすぎない。アメリカは前へ出たあとの戻りも速い。三本、四本とつなぐ前に、空いたところへ一気に運ぶ」
柚月は映像を見ながらつぶやいた。
「スプリント勝負に持ち込むんだべな」
原町がうなずく。
「そのために、お前を準決勝で休ませた」
柚月の右太ももの状態は、決勝へ向けて慎重に確認されていた。
ブラジル戦での疲労は完全には抜けていない。それでも、張りは大きく改善していた。
メディカルスタッフからは、出場可能という判断が出された。
ただし、試合中に痛みや違和感が強くなった場合は、すぐに交代する。
それが条件だった。
柚月は何度もうなずいた。
「無理はしねぇ。でも、行けるところまで全部出すっちゃ」
原町はその言葉を聞き、短く答えた。
「全部出すのと、全部壊すのは違う。そこだけは間違えるな」
「わかってるべ」
「本当にわかっている顔には見えない」
ロッカールームに小さな笑いが起きた。
柚月も少し笑いながら、右太ももへ手を当てる。
決勝の切り札。
そう言われた意味を、今度こそピッチで示す番だった。
特別コーチとして
決勝当日。
大船徹は、なでしこジャパンのベンチ脇にいた。
現役のJリーガーとしてベガルタ仙台の前線を担う徹は、この決勝に限り、特別コーチとしてチームへ帯同していた。
ワールドカップ決勝という極限の舞台で、FWがどこを見て走るのか。相手DFが疲れたとき、どの瞬間に身体の向きが遅れるのか。
徹は、主に前線の選手へ助言する役割を任されていた。
試合前のウォーミングアップを終え、柚月がベンチ脇へ戻ってくる。
徹はその歩き方を見る。
「右脚は?」
「問題ねぇべ」
「張りは?」
「少しだけ」
「少しでも変わったら言えよ」
柚月は苦笑した。
「夫として言ってるのか、コーチとして言ってるのか、どっちだべ」
「両方」
「めんどくせぇな」
「倒れるまで隠すよりはいい」
柚月は何も言い返せず、代わりに徹の肩を軽くたたいた。
ベンチ脇には、ユリの遺影も置かれていた。
なでしこジャパンのユニフォームを着て、笑っているユリ。
柚月はその前へしゃがみ込む。
「ユリ。ここまで来たよ」
周囲の歓声が、少し遠くなる。
「ユリの願いでもあった、なでしこジャパンの二回目の優勝。あと少しのところまで来てる」
写真の中のユリは、いつものように笑っていた。
「力を貸して」
風がベンチの前を通り抜ける。
柚月の髪がわずかに揺れた。
「ここまで来たのは、みんなの力だべ。うちは背中押すくらいしかできねぇっちゃ」
柚月は目を閉じる。
「それで十分だべ」
「だったら、怖がらねぇで蹴ってこい」
柚月は遺影へ軽く触れ、立ち上がった。
徹が何も言わずにうなずく。
柚月も小さくうなずき返し、ピッチへ向かった。
決勝戦、キックオフ
両チームが入場する。
日本の青。
アメリカの白。
スタジアム全体を包む歓声の中で、選手たちはセンターサークルを挟んで向かい合った。
実況
「さあ、女子ワールドカップ決勝です。なでしこジャパンは、二〇一一年以来となる二度目の世界一を目指します」
解説
「相手はアメリカ。体格、スピード、決定力、どれを取っても大会屈指の強豪です。日本がどこでボールを奪い、どう速攻へつなげるかが鍵になります」
主審の笛が鳴る。
決勝戦が始まった。
アメリカは立ち上がりから、日本陣内へ圧力をかけてきた。
中盤でボールを受けた選手が、身体を当てられても失わない。そのまま前へ運び、サイドへ展開する。
日本は飛び込まない。
中央を締める。
外へ追い出す。
クロスを簡単に上げさせない。
ボールを奪えなくても、相手の攻撃を遅らせる。
実況
「アメリカがボールを保持しています。日本は、かなりコンパクトに守っています」
解説
「持たせていますね。日本はポゼッションを取り返そうとしていません。中央を閉じ、アメリカを外側へ動かしています」
前半五分。
アメリカが右サイドから仕掛ける。
大きな身体を使って日本の守備者を押し込み、低いクロスを入れる。
中央でFWが右足を合わせる。
菜月が正面で受け止めた。
前半九分。
今度は左サイドからクロス。
日本のCBが頭で跳ね返す。
こぼれ球をアメリカが拾い、ミドルシュート。
ボールはゴール上へ外れた。
アメリカの攻撃が続く。
だが、日本の最終ラインは崩れない。
美里が中盤で声を出す。
「中央、空けない! 外へ出していい!」
柚月も自陣へ戻りながら、相手のパスコースを消す。
「無理に取りに行ぐな! 次のボール狙うべ!」
アメリカはボールを持っている。
しかし、自由には持てていない。
日本の守備の外側を何度も往復し、そのたびに大きな身体を動かしていた。
前半十二分。
日本が自陣でボールを奪う。
黒川から美里。
美里が前を向く。
柚月はすでに走り出している。
右サイドへ長いパス。
柚月が追う。
アメリカのDFも戻る。
柚月はボールへ追いつくと、中央の渡瀬へ低いクロスを送った。
渡瀬が右足を伸ばす。
DFが先に触り、コーナーキック。
実況
「日本、初めて速いカウンターを見せました!」
解説
「これですね。ボールを奪ってから迷いがありませんでした。柚月のスプリントが効いています」
徹はベンチ脇で、柚月の走りを見つめていた。
右太ももに異常は見られない。
だが、まだ試合は始まったばかり。
徹は前線の選手へ声を送る。
「相手のCB、前へ出たあとの戻りが一歩遅い! 背中を向けた瞬間に走れ!」
柚月が一度、徹の方を見る。
聞こえている。
次の機会を狙っていた。
0―0の時間
前半二十分。
スコアは、日本0―0アメリカ。
ボール支配率では、アメリカが大きく上回っていた。
シュート数もアメリカが多い。
それでも、日本は焦らない。
もともとポゼッションを争う作戦ではない。
相手に持たせる。
外へ走らせる。
最終ラインを締める。
奪った瞬間に、前へ出る。
アメリカは何度も日本陣内へ入るが、最後の中央が開かない。
日本もカウンターから何度か前へ出る。
しかし、アメリカの戻りも速い。
決定的な形までは作れなかった。
実況
「前半二十五分を過ぎても、スコアは動きません。アメリカが押していますが、日本は耐えているというより、狙い通りに守っているようにも見えます」
解説
「その通りです。ただし、この守り方は集中力を非常に使います。ほんの一瞬、中央の距離が開けば、アメリカはそこを見逃しません」
その言葉が、現実になる。
前半30分――ほんの一瞬
アメリカが自陣からボールを運ぶ。
センターバックから中盤へ。
日本は中央を閉じる。
アメリカは右サイドへ出す。
日本の守備も右へスライドする。
いったん後方へ戻す。
そこから、今度は左へ大きく展開する。
日本の選手たちは、反対側へ動く。
その途中だった。
美里と黒川の間に、ほんの一瞬だけ距離が生まれた。
わずか一メートルにも満たない隙。
アメリカの中盤は、それを見逃さなかった。
左サイドへ出すと見せて、中央へ速い縦パスを通す。
アメリカの攻撃的MF、マディソン・ハーパーが受けた。
前を向く。
宮坂が一歩出る。
その背後へ、FWのエヴァ・ロジャースが斜めに走った。
マディソンから、ワンタッチのスルーパス。
実況
「中央を通した! エヴァ・ロジャースが抜ける!」
菜月がゴール前から出る。
エヴァはペナルティーエリアへ入る。
宮坂が戻る。
西野も中央へ絞る。
しかし、わずかに間に合わない。
エヴァは菜月の動きを見る。
強く蹴らない。
右足のインサイドで、ゴール左隅へ流し込む。
菜月が右へ飛ぶ。
指先を伸ばす。
届かない。
ボールはゴール左隅へ転がり込み、ネットを揺らした。
前半30分。
日本0―1アメリカ。
実況
「アメリカが先制! 日本の中央に生まれた、ほんのわずかな隙を突きました!」
解説
「一瞬でしたね。日本はここまで中央を締め続けていましたが、美里と黒川の間が少しだけ開きました。そこへ縦パスを通され、最後はエヴァ・ロジャースが冷静に決めました」
アメリカの選手たちが抱き合う。
スタンドから大歓声が上がる。
日本の選手たちは、静かにセンターサークルへ戻る。
菜月はゴールの中からボールを拾い、強く抱えた。
「ごめん!」
宮坂が振り返る。
「菜月のせいじゃない。中央を空けた私たちの責任」
美里も黒川へ声をかける。
「切り替えよう。まだ一点」
黒川がうなずく。
「はい」
柚月はセンターサークルへ戻りながら、ユリの遺影が置かれたベンチ脇を見る。
(先に取られたべ)
胸の中で、ユリの声がした気がした。
「一点取られたくらいで、終わった顔すんなっちゃ。決勝は、ここからだべ」
柚月は小さく息を吐く。
「わかってる」
徹がベンチ脇から声を張る。
「柚月! 相手の最終ライン、得点のあと少し上がってる! 背後を見ろ!」
柚月が徹へ親指を立てる。
先制された。
それでも、日本の作戦が崩れたわけではない。
相手に持たせ、走らせ、奪ったら速く攻める。
やることは変わらない。
ただ一つ、変わったものがある。
今度は日本が、追う側になった。
世界一まで、あと一つ。
しかし、その頂点へ向かう道は、アメリカの先制点によってさらに険しくなった。
⸻
次回予告
第29章「追う者の速さ」
前半三十分。
アメリカに先制を許したなでしこジャパン。
中央に生まれた、わずかな隙。
その一瞬を、アメリカは見逃さなかった。
だが、日本は作戦を変えない。
ボールを奪いに飛び込まない。
相手を外へ走らせる。
そして、奪った瞬間に前へ出る。
先制したアメリカは、さらに守備ラインを高くする。
その背後に生まれる空間。
徹がベンチ脇から叫ぶ。
「次の一本で、裏を取れる!」
柚月は右太ももの状態を確かめながら、相手DFの視線を読む。
そして前半三十八分。
美里が中盤でボールを奪う。
柚月が走る。
渡瀬が中央へ入る。
アメリカの守備陣が、初めて後ろ向きに走らされる。
次回、
第29章「追う者の速さ」
追いつくために必要なのは、
焦りではない。
相手が振り返るより早く、
次の場所へ立つことだ。




