二点差という罠
第26章 二点差という罠
1 決勝戦の切り札
ハーフタイム。
ロッカールームの空気は、二点をリードしているチームのものとは思えないほど張り詰めていた。
スコアは、日本2―0イングランド。
黒川真緒の先制点。
そして、前半終了間際に途中出場した大船柚月の追加点。
理想的な前半だった。
だが、選手たちの身体には、確実に疲労が蓄積している。
ブラジルとの九得点の死闘から、十分な時間は空いていない。
美里は太ももの打撲を抱えている。
宮坂はエミリー・カーターとの空中戦を繰り返した。
黒川と藤森は、イングランドの大きな選手たちを何度も左右へ走らせるため、自分たちも走り続けている。
そして、柚月の右太ももには、ブラジル戦から続く強い張りが残っていた。
メディカルスタッフが、柚月の脚を触診する。
「ここは?」
「張ってるだけだべ。痛くはねぇっちゃ」
「膝を伸ばしてください」
柚月が脚を伸ばす。
その途中で、表情がほんのわずかに曇った。
スタッフは見逃さなかった。
「やはり反応があります」
「でも、まだ走れるっちゃ。後半も行けるべ」
すぐ近くで聞いていた原町監督が、柚月を見た。
「駄目だ」
「監督、まだ全然――」
「駄目だ」
声は大きくなかった。
だが、反論を許さない強さがあった。
柚月は唇を結ぶ。
「うち、前半ほとんど出てねぇべ。まだ走れる。決勝に行くには、まず今日勝たねぇと――」
原町は柚月の言葉を遮った。
「お前は決勝戦の切り札だ」
ロッカールームが静かになる。
「お前が決勝戦で倒れたら、どうする」
柚月は何も言えなかった。
「今日、勝つためだけに全部使い切るのは簡単だ。だが、俺たちが目指しているのは準決勝突破じゃない」
原町は、部屋の中央に立つ選手たちを見渡す。
「二〇一一年以来の優勝だ」
誰も目をそらさない。
「柚月。お前を信頼していないから下げるんじゃない。決勝で必要だから下げる」
「でも……」
「試合に出続けることだけが、チームへの責任じゃない」
徹に言われた言葉が、柚月の胸に戻ってくる。
勝った試合のあとほど、怖いものがある。
興奮している間は動ける。
痛みも軽く感じる。
だが、本当に壊れたときには、もう遅い。
柚月は悔しそうに目を伏せた。
「……わかったっちゃ」
原町は一度だけうなずく。
「後半はベンチから見ろ。何が起きているか、全部頭へ入れておけ」
「決勝で返せってことだべ?」
「そうだ」
「だったら、絶対勝って決勝まで連れてってけろ」
美里が笑った。
「連れていくんじゃない。一緒に行くんだよ」
黒川も力強くうなずく。
「柚月さんの分まで走ります」
柚月は黒川を見る。
「真緒。もう一点取ってこい」
「はい」
「今度は、うちが出なくても決めろよ」
「前半も私が先に決めてます」
一瞬、ロッカールームに笑いが起きる。
重くなりかけた空気が、少しだけ緩んだ。
だが、原町はすぐにホワイトボードへ向き直った。
「二点差を守ろうと思った瞬間、二点差は消える」
選手たちの表情が戻る。
「イングランドは後半、さらに前へ出てくる。長身FWをもう一人入れて、中央に二本の柱を立てる可能性が高い」
岩出コーチがマグネットを動かす。
「クロスの本数が増える。最初の競り合いだけじゃなく、二本目、三本目まで来る。菜月、出るか残るかは早く決めろ」
桐生菜月が答える。
「はい」
「迷ったまま出るのが一番危ない」
「出るなら、絶対に触ります」
原町は最後に全員へ告げる。
「後半最初の十分。ここを耐えるんじゃない。ここで、もう一点取りに行く」
2 長身FW、二本の柱
両チームがピッチへ戻る。
イングランドは予想どおり、選手を一人交代させていた。
投入されたのは、身長百八十センチを超えるFW、ハンナ・ウィルソン。
すでに前線にはエミリー・カーターがいる。
エミリーとハンナ。
二人の長身FWが、横に並ぶ。
実況
「イングランド、後半開始からハンナ・ウィルソンを投入しました。前線にエミリー・カーターと二人の長身選手が並びます」
解説
「狙いは明確ですね。サイドからクロスを上げ続ける。日本の最終ラインに、空中戦を何度も強いる形です」
ベンチへ戻った柚月は、右太ももへアイシングを施している。
隣に座った葵がピッチを見る。
「前半より、空が混むね」
「空が混むって表現、初めて聞いたべ」
「でも、そう見えるでしょ」
「見える。菜月、大変だっちゃ」
桐生はゴール前で、宮坂と西野へ声を送っていた。
「エミリーは宮坂! ハンナは西野! 入れ替わったら声!」
主審が笛を吹く。
後半開始。
イングランドのキックオフ。
次の瞬間には、白いユニフォームが一斉に日本陣内へ押し寄せた。
3 開始直後からの猛攻
イングランドは後方で時間を使わない。
センターバックから左サイドへ。
オリヴィア・ベネットが受ける。
日本の守備者が寄せる前に、左足でクロスを入れた。
ゴール前。
エミリーとハンナが同時に走る。
宮坂と西野が身体を寄せる。
桐生はゴールラインから一歩前。
エミリーがニアへ入り、ハンナがファーへ回る。
クロスはハンナの頭上へ。
実況
「いきなり来た! ハンナ・ウィルソン!」
ハンナが跳ぶ。
西野も競る。
ヘディング。
ボールはゴール左へ。
桐生が横へ動き、両手で弾いた。
こぼれ球。
エミリーが反応する。
宮坂が身体を入れる。
エミリーは倒れながら右足を伸ばす。
桐生が足元へ飛び込む。
ボールは桐生の胸へ当たり、再び外へこぼれる。
実況
「桐生が止めた! しかし、まだイングランド!」
ソフィー・ハリントンが拾う。
ペナルティーエリア外からシュート。
黒川が身体を投げ出す。
ボールは黒川の肩へ当たり、右サイドへ流れた。
グレース・ウォーカーが回収する。
日本は、まだボールを奪い切れない。
グレースが再びクロス。
今度は低い。
宮坂が右足で触る。
しかしクリアし切れず、ペナルティーエリア中央へ転がった。
ハンナが身体を入れる。
西野が後ろから寄せる。
ボールが足元でぶつかり合う。
解説
「日本、苦しいですね。最初のボールを防いでも、セカンド、サードを全部イングランドに拾われています」
ハンナが強引に反転する。
西野が身体を寄せる。
足は出さない。
だが、ハンナの大きな身体がゴール方向へ入り込む。
西野は押し返そうとする。
その瞬間、ハンナの足と西野の膝が絡んだ。
ハンナが倒れる。
主審の笛。
ピィィィッ!
主審の腕が、ペナルティースポットを指した。
4 イングランドにPK
実況
「PK! イングランド、後半開始直後にペナルティーキックを獲得しました!」
日本の選手たちが主審へ確認に向かう。
西野は両手を広げる。
「押してない! 身体を入れただけです!」
だが、判定は変わらない。
接触はあった。
ハンナが先にボールとゴールの間へ身体を入れ、西野の足がその動きを妨げたと判断された。
解説
「厳しい判定にも見えますが、ハンナが先に身体を入れています。西野の膝が相手の脚へ当たったと見られたのでしょう」
スコアは二対ゼロ。
しかし、このPKが決まれば、一点差。
後半は始まったばかり。
イングランドに勢いがつけば、二点差は一気に消える。
キッカーは、ソフィー・ハリントン。
前半からイングランドの攻撃を組み立ててきた中盤の中心。
右足の精度が高く、PKでは最後までGKの動きを見る。
桐生はゴールラインへ立つ。
一度、両腕を広げる。
深呼吸。
ベンチで葵が、身を乗り出す。
柚月もアイシングの袋を握ったまま、立ち上がっていた。
「菜月……」
ソフィーがボールを置く。
桐生は相手の目を見ない。
助走の角度。
軸足の置き方。
これまでの映像。
ソフィーは右足のキッカー。
強く蹴るときは、身体が早めに前へ倒れる。
GKを見て蹴るときは、最後まで上体が起きる。
桐生の頭に、分析した映像がよみがえる。
主審の笛。
ソフィーが助走を始める。
一歩。
二歩。
三歩。
上体は起きたまま。
桐生は動かない。
ソフィーが最後に、桐生の重心を見る。
右足を振る。
ゴール左を狙う。
桐生から見て右。
桐生は蹴られるよりほんの一瞬早く、右へ踏み込んだ。
横へ飛ぶ。
ボールは低く、ゴール右隅へ向かう。
桐生の右手が伸びる。
指先ではない。
掌の中心で捉える。
強く弾く。
実況
「止めたぁぁぁ! 桐生菜月! PKストップ!」
ボールはゴール前へ跳ね返る。
エミリーが詰める。
桐生は倒れた状態から、すぐに身体を起こす。
右足で地面を蹴り、再びボールへ飛び込む。
エミリーの足が迫る。
桐生は両腕でボールを抱え、身体を丸めた。
エミリーの足が寸前で止まる。
桐生は、ボールを離さない。
実況
「こぼれ球も桐生が確保! 日本、絶体絶命のピンチをしのぎました!」
解説
「素晴らしい読みです。ソフィーは最後までGKを見ましたが、桐生はぎりぎりまで動かなかった。そして、コースを完全に読んでいます」
ベンチの葵が拳を突き上げる。
「菜月、ナイス!」
柚月も叫ぶ。
「最高だっちゃ!」
桐生は地面に伏せたまま、数秒間ボールを抱えていた。
歓声とため息が入り混じる。
イングランドの選手たちは、決め切れなかった悔しさを表情ににじませる。
桐生は顔を上げる。
イングランドはPKのこぼれ球へ詰めるため、前へ人数をかけていた。
後方には、広いスペース。
桐生の目が変わる。
「前、行って!」
5 PKストップからのカウンター
桐生は立ち上がると、すぐに右腕を振った。
低く、速いスロー。
右サイドの藤森へ。
藤森はハーフウェーライン手前で受ける。
イングランドの左サイドバックが戻る。
だが、まだ距離がある。
実況
「桐生、すぐに始めた! 日本のカウンターです!」
藤森が一気に前へ運ぶ。
中央では黒川が走る。
渡瀬が最終ラインの間へ入る。
美里も後ろから上がる。
藤森は縦へ進む。
イングランドDFが前へ出る。
藤森は右足で中央の黒川へ。
黒川はワンタッチで渡瀬へつなぐ。
渡瀬が背中で受ける。
センターバックが身体を当てる。
渡瀬は倒れない。
左足でボールを守りながら、右へ流す。
美里が受けた。
解説
「日本、速いですが、パスは雑になっていません。細かくつないで、相手の戻る方向を変えています」
美里が前を向く。
黒川が左側からペナルティーエリアへ向かう。
藤森は右の外側を走り続ける。
美里から黒川へ斜めのパス。
黒川が受ける。
イングランドのセンターバック、シャーロット・ヒューズが前へ出る。
黒川は左足でボールを運ぶ。
シャーロットの身体が迫る。
大きい。
正面からぶつかれば、黒川が弾かれる。
黒川は細かく二度触り、シャーロットの右側を抜こうとする。
シャーロットが足を伸ばす。
黒川が先にボールへ触る。
ペナルティーエリア内へ進入。
その直後、シャーロットの足が黒川の足首へかかった。
黒川が倒れる。
主審の笛。
ピィィィッ!
主審は再び、ペナルティースポットを指した。
今度は、日本のPK。
実況
「今度は日本にPK! 桐生のPKストップから、一気に反対側のペナルティーエリアまで来ました!」
シャーロットは両手を上げ、主審へ抗議する。
だが、黒川は完全に抜け出していた。
そのまま進めば、GKと一対一。
主審は胸ポケットへ手を伸ばす。
赤いカード。
実況
「レッドカード! イングランド、シャーロット・ヒューズが一発退場です!」
スタジアムが大きくどよめく。
解説
「決定的な得点機会の阻止と判断されました。黒川が先にボールへ触り、ゴールへ向かっていました。DFは後ろから足を掛けています」
イングランドの選手たちは判定を受け入れられず、主審を囲む。
だが、映像を確認しても接触は明確だった。
シャーロットは悔しそうに首を振りながら、ピッチを去る。
イングランドは、残り時間を十人で戦わなければならない。
日本はPK。
絶体絶命のピンチをしのいだ数十秒後、一気に追加点の機会を得た。
6 黒川、再びペナルティースポットへ
倒された黒川が立ち上がる。
足首を一度回す。
美里が近寄る。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「蹴れる?」
黒川は即答する。
「蹴ります」
美里はうなずき、ボールを黒川へ渡した。
前半の先制点を決めた黒川。
ブラジル戦では、後半アディショナルタイムに決勝ゴールを奪った。
そして今度は、自ら得たPKのキッカーを任される。
ベンチの柚月が腕を組みながら見つめる。
「真緒、落ち着けよ」
葵が隣で言う。
「真緒は、たぶん落ち着きすぎるくらい落ち着いてる」
「それも怖ぇな」
イングランドGK、ルーシー・クラークがゴールラインに立つ。
両腕を動かし、黒川へ圧力をかける。
スタンドから大きなブーイング。
黒川はボールをペナルティースポットへ置く。
一度、芝を確認する。
後ろへ四歩。
深呼吸。
GKをじっと見る。
主審の笛。
黒川が助走へ入る。
一歩。
二歩。
ルーシーは動かない。
黒川も最後までコースを隠す。
右足を振り抜く。
ボールは低く、ゴール左隅へ。
ルーシーも左へ飛ぶ。
読まれている。
だが、シュートは速い。
ポストの内側ぎりぎり。
ルーシーの指先の先を抜ける。
ネットが揺れた。
日本3―0イングランド。
実況
「決めたぁ! 黒川真緒、この試合二点目! 日本、後半開始早々に三点目を奪いました!」
解説
「PKを止められた直後に、相手がレッドカード。そして日本がPKを決める。試合の流れが、わずか一分ほどで大きく変わりました」
黒川は大きく拳を握る。
「よしっ!」
美里が最初に抱きつく。
藤森も飛び込む。
渡瀬が黒川の背中をたたく。
「冷静すぎる!」
黒川は笑いながら答える。
「左に決めるって、最初から決めてました」
ベンチの柚月が立ち上がる。
「真緒! 言った通り、もう一点取ったな!」
黒川はベンチへ顔を向け、両手を上げる。
桐生も自陣のゴール前で拳を握った。
そのゴールは、自分のPKストップから始まった。
一点を失うはずだった場面が、反対に一点を奪う結果へ変わった。
スコアは三対ゼロ。
さらにイングランドは一人少ない。
だが、原町監督は喜びを表した直後、すぐに大声を上げた。
「浮くな! 相手は十人でも高さがある! 試合を終わらせろ!」
美里も仲間たちを戻す。
「まだ時間はたっぷりあるよ! 焦らず、ボールを持とう!」
7 二点差の罠を越えて
後半開始前。
原町監督は言った。
二点差を守ろうと思った瞬間、二点差は消える。
日本は実際、後半開始直後にPKを与えた。
あのシュートが決まっていれば、二対一。
イングランドの勢いはさらに増し、試合はまったく違うものになっていただろう。
だが、桐生菜月が止めた。
冷静に読み、身体を張り、こぼれ球まで抱えた。
そして、守りに入らず、すぐに攻撃を始めた。
その勇気が、黒川の突破を生んだ。
イングランドの退場を生んだ。
そして、日本の三点目を生んだ。
ベンチで柚月は、ユリの遺影へ目を向ける。
「菜月、すげぇべ。あれ止めて、すぐ攻撃始めたっちゃ」
風が、写真の前を通り抜ける。
「守るって、ずっとゴール前にいることじゃねぇべ。前へつなぐまでが守備だっちゃ」
柚月は微笑む。
「んだな」
ピッチでは、日本が再び短いパスをつなぎ始めている。
十人となったイングランドは、守備を整え直そうとする。
だが、長身CBのシャーロットを失った影響は大きい。
前線の二本の柱を残すのか。
一人を下げ、守備を補うのか。
イングランドのベンチは難しい決断を迫られていた。
一方の日本は三点をリード。
決勝まで、あと四十分余り。
だが、まだ終わっていない。
三点差も、一人多い状況も、油断を生めば新たな罠になる。
原町監督の視線は、すでに次の局面を見ていた。
次回予告
第27章「十一対十の錯覚」
後半開始直後。
イングランドのPKを桐生菜月が阻止。
そのまま始まったカウンターから黒川真緒が倒され、イングランドは一人退場。
黒川がPKを決め、日本は三対ゼロとリードを広げる。
人数でも、得点でも、日本が優位。
だが、原町監督は叫ぶ。
「一人多いと思うな!」
十人となったイングランドは、戦い方を変える。
中盤を捨てる。
ボールを奪えば、前線の長身FWへ直接送り込む。
細かなパスも、支配率も必要ない。
一本のロングボール。
一度の空中戦。
一度のこぼれ球。
それだけでゴールを狙う、割り切った攻撃。
一方、日本は人数の優位を生かし、ボールを保持して試合を落ち着かせようとする。
しかし、数的優位が選手たちにわずかな油断を生む。
そして後半十五分。
日本の横パスをイングランドが奪う。
前線には、エミリーとハンナ。
桐生菜月の前に、再び白い波が押し寄せる。
次回、
第27章「十一対十の錯覚」
人数が多いから、守れるのではない。
一人多いと安心した瞬間、
その一人はピッチから消える。




