白い波、空からくる
第25章 白い波、空から来る
1 前半終了間際――六センチの壁
前半四十二分。
スコアは、日本1―0イングランド。
黒川真緒が、森岡美里の意表を突くロングスローから抜け出し、左足のシュートをゴール左隅へ突き刺した。
だが、その一点でイングランドが沈むはずはなかった。
むしろ、先制を許したことで、攻撃はさらに単純になり、さらに強くなった。
長いボールを入れる。
身体をぶつける。
高い位置で競る。
こぼれ球を拾う。
そして、もう一度ゴール前へ送り込む。
細かく崩すことに固執せず、自分たちのもっとも強い武器を、迷いなく使い始めた。
日本より平均身長が、およそ六センチ高いイングランド。
白いユニフォームの選手たちが、日本のペナルティーエリアへ次々と入り込む。
実況
「前半も残りわずか。イングランドは完全に高さを使う形へ切り替えています!」
解説
「日本としては、すべての空中戦に正面から勝とうとしないことですね。最初の競り合いで自由に打たせない。そして、落ちたボールを必ず拾うことです」
宮坂玲奈が、長身FWエミリー・カーターの前へ身体を入れる。
高さでは劣る。
それでも、自由には跳ばせない。
腕を使わず、肩と腰の位置を合わせ、助走のコースへ入る。
エミリーは宮坂を背負いながら、何度もゴール前へ向かう。
桐生菜月は、ゴールライン上からその動きを見ていた。
クロスを上げる選手。
ニアへ入る選手。
ファーで待つ選手。
そして、二列目からこぼれ球を狙う選手。
声を張る。
「宮坂、半歩左!」
「西野、ファー見て!」
「真緒、こぼれ球!」
控えGKとして準決勝の先発を任された桐生。
この日のために準備してきた。
葵の代わりではない。
自分のやり方で、日本のゴールを守る。
⸻
2 前半43分――エミリーが舞う
イングランドの左サイド。
オリヴィア・ベネットがボールを持つ。
日本の右サイドバックが縦を切る。
オリヴィアは一度後ろへ戻す。
左サイドバックが追い越す。
短いパス交換。
日本の守備が外側へ寄る。
その瞬間、オリヴィアが右足でクロスを入れた。
高い。
深い。
ゴールのすぐ前ではない。
桐生が簡単には飛び出せない、ペナルティースポットとファーサイドの間。
実況
「オリヴィアのクロス! ファーにエミリー・カーター!」
エミリーが走る。
宮坂もついていく。
だが、最後の二歩で差が生まれた。
エミリーの大きな身体が沈む。
そして、跳ぶ。
宮坂も跳ぶ。
しかし、エミリーの頭は、そのさらに上にあった。
白いユニフォームが、空中へ浮かび上がる。
額でボールを捉えた。
強いヘディング。
ボールは地面へ叩きつけられない。
ゴール右上へ、鋭く向かう。
実況
「エミリー、ヘディング! これは決定的だ!」
桐生は一歩、左へ動いていた。
クロスの軌道から、中央へ落とされる可能性を考えていた。
だが、シュートは右上。
逆を突かれた。
それでも、桐生は諦めない。
左足で芝を蹴る。
身体を右へ伸ばす。
右手ではない。
身体の向きの関係で、もっとも遠くへ届くのは左手だった。
左腕をいっぱいに伸ばす。
指先。
あと数センチ。
ボールが、ゴール右上へ入ろうとする。
桐生の左手中指が、ほんのわずかに触れた。
軌道が変わる。
ボールはゴールポストの上端を、紙一枚ほどの差で越えた。
ゴールではない。
コーナーキック。
実況
「触ったぁ! 桐生菜月、左手の指先! エミリーのヘディングをわずかにかき出しました!」
解説
「これはスーパーセーブです。完全に逆を取られています。それでも、最後まで腕を伸ばしました」
桐生は芝へ落ち、すぐに立ち上がる。
左手を一度握る。
指先に強い衝撃が残っている。
痛みはある。
だが、動く。
「次!」
宮坂が駆け寄る。
「菜月、助かった!」
「まだ終わってない! コーナー来るよ!」
ベンチでは葵が立ち上がり、両手をたたいていた。
「ナイス、菜月! 次も自分で決めて!」
柚月も声を張る。
「今の世界一だっちゃ!」
桐生は聞こえていた。
だが、振り返らない。
目の前のコーナーキックだけを見る。
⸻
3 ゴールへ向かうボール
イングランドの右コーナーキック。
キッカーはソフィー・ハリントン。
日本のゴール前へ、白いユニフォームが並ぶ。
エミリー・カーター。
長身CBのシャーロット・ヒューズ。
さらに逆サイドのDFまで上がっている。
日本はゾーンとマンマークを組み合わせる。
宮坂がエミリー。
西野がシャーロット。
黒川はゴール前のこぼれ球。
美里はペナルティーエリア外を警戒する。
桐生はゴールラインの中央に立ち、両腕を軽く広げた。
ソフィーが助走へ入る。
右足で蹴る。
ボールは外へ逃げない。
ゴールへ向かって巻いてくる。
インスイング。
ニアへ飛び込む選手。
中央で身体をぶつけ合う選手。
ファーから押し込もうとする選手。
一瞬、誰かの頭に触れれば、軌道が大きく変わる。
実況
「ゴールへ向かうボール! 桐生、出るか!」
桐生は一歩前へ出た。
止まらない。
二歩目。
人の間へ入る。
エミリーの肩。
宮坂の背中。
シャーロットの腕。
複数の選手が、同じ落下点を目指している。
桐生は両膝を曲げた。
「キーパー!」
大声。
その声で、味方がわずかに身体を開く。
桐生が跳ぶ。
両手を高く伸ばす。
ボールはゴールへ巻き込みながら落ちてくる。
桐生の両手が、しっかりとボールを挟んだ。
キャッチ。
誰かの身体と接触する。
桐生は空中で体勢を崩す。
だが、ボールを離さない。
胸へ引きつけながら、芝へ落ちる。
実況
「桐生、キャッチした! この難しいボールを離しません!」
解説
「素晴らしい判断です。出るか残るか、もっとも迷う軌道でした。出ると決めて、最後まで捕り切りました」
桐生は地面に倒れたまま、ボールを抱える。
イングランドの選手たちが戻り始める。
通常なら、ここで数秒待つ。
味方が上がるのを待ち、呼吸を整える。
しかし、桐生の目はすでに前を見ていた。
イングランドのセンターバック二人は、コーナーキックのため日本のゴール前まで来ている。
最終ラインへ戻っている選手は少ない。
逆サイドには、広大なスペース。
「行ける!」
桐生は立ち上がった。
そして、右腕を大きく振る。
低く、速いスロー。
美里へ。
⸻
4 前半44分――ゴールキーパーから始まる逆襲
美里が自陣の右側でボールを受ける。
背後からイングランドの選手が迫る。
ワンタッチで黒川へ。
黒川も止めない。
左の藤森へ流す。
イングランドの選手たちは、コーナーキックから戻り始めたばかりだった。
身体の向きは日本のゴール側。
そこから一斉に反転する。
日本が前へ出る。
実況
「桐生のキャッチから、日本のカウンター! イングランドはまだ守備の人数が足りません!」
解説
「これはチャンスです。日本は早い。ただし、焦って長いボールだけにはしたくない」
藤森が左サイドを運ぶ。
前にはイングランドの右サイドバック。
中央には渡瀬。
さらに黒川が追い越す。
藤森は縦へ仕掛ける。
相手が身体を寄せる。
藤森は無理に抜かない。
中央の黒川へ戻す。
黒川から美里。
美里が前を向く。
イングランドの中盤が戻る。
それでも、まだ最終ラインとの間には大きな距離がある。
日本は一本で決めようとしない。
細かくつなぐ。
美里から渡瀬。
渡瀬が背中で受け、右へ落とす。
右サイドから上がったDFが受ける。
そこから、もう一度中央へ。
ボールが地面の上を走る。
イングランドの選手たちは、大きな身体を何度も反転させながら戻る。
だが、足が追いつかない。
実況
「日本、パスをつないで前進します! 一気に蹴らない!」
ベンチで柚月が立ち上がっていた。
自分も走りたい。
あの空いた場所へ入りたい。
その思いが身体を前へ動かす。
だが、原町監督が振り返る。
「柚月、準備しろ!」
「今?」
「今だ!」
直前の攻防で、日本の前線の一人が足を気にしていた。
スタッフから交代の合図が出る。
主審は、日本のボールが一度外へ出たところで試合を止めた。
前半四十四分。
通常なら、ハーフタイムまで待つこともできる。
だが原町は待たない。
流れを切らず、前へ出る力を追加する。
柚月がビブスを脱ぐ。
葵が背中を叩く。
「無理はしないで。でも、行くなら決めてきて」
柚月は笑う。
「ずいぶん難しい注文だべ」
「柚月ならできる」
ユリの遺影へ、一度だけ目を向ける。
「ちょっとだけ行ってくるっちゃ」
そして、ピッチへ入った。
⸻
5 残された一分
イングランドのスローインから試合が再開される。
アディショナルタイムを含めても、前半は残りわずか。
イングランドは同点を狙い、もう一度前へ出る。
だが、交代で入った柚月が中盤のパスコースへ入る。
黒川と並ぶ。
美里が後ろから支える。
イングランドの中盤が縦へ入れようとする。
黒川が前を切る。
パスが横へ流れる。
柚月が狙っていた。
一歩前へ出る。
右足のつま先でボールを奪う。
実況
「柚月が奪った! 交代直後です!」
柚月は前を向く。
イングランドの選手が一人、正面から来る。
右へ出すふり。
相手の重心が動く。
左足で内側へ運ぶ。
かわす。
黒川が左を走る。
藤森がさらに外。
渡瀬が中央で最終ラインを引きつける。
柚月は黒川へ出す。
黒川がワンタッチで藤森へ。
藤森は縦へ進む。
イングランドの右サイドバックが戻る。
藤森は左足で中央へ入れる。
低いボール。
渡瀬がニアへ走る。
CBがついていく。
渡瀬は触らない。
ボールが中央を抜ける。
そこへ、柚月が入っていた。
一度、黒川へ預けたあとも、走ることをやめていなかった。
ペナルティーアークの右側。
ボールが柚月の前へ転がる。
イングランドのDFが戻る。
シュートコースは狭い。
柚月は右足で一度、ボールを身体の内側へ置く。
DFが右足を伸ばす。
柚月はその足の外側を通すように、左足へ持ち替えた。
一歩。
左足を振り抜く。
強い。
低い。
ボールはDFの足元を抜け、ゴール右隅へ向かう。
GKが横へ飛ぶ。
右手を伸ばす。
届かない。
ボールはゴール右隅の内側へ当たり、ネットを揺らした。
前半アディショナルタイム。
日本2―0イングランド。
実況
「決まったぁぁぁ! 柚月! 交代直後の追加点! 日本、前半終了間際に二点目を奪いました!」
解説
「これは大きい! 桐生のキャッチから始まった流れです。日本は一度切られても、もう一度奪い直し、細かなパスをつないだ。最後は柚月が走り切りました!」
柚月は両腕を広げる。
「入ったぁ!」
黒川が飛びつく。
「柚月さん、入ってすぐじゃないですか!」
藤森も後ろから抱きつく。
「休ませる予定、どこ行ったんですか!」
柚月は息を切らしながら笑う。
「うちもそう思うっちゃ!」
美里が遅れてやってくる。
「でも、決めたから許す!」
「何を許されたんだべ?」
「全部!」
日本の選手たちが集まる。
だが、美里はすぐに表情を引き締めた。
「あと少し。絶対に失点しないよ!」
柚月も戻りながら、ベンチへ目を向ける。
ユリの遺影。
写真の中のユリが、笑っているように見える。
「休むって言ってたのに、結局出たんだべ」
柚月は小さくつぶやく。
「緊急事態だっちゃ。うちのせいじゃねぇべ」
「でも、楽しそうだな」
「そりゃ、ゴール決めたからな」
風が、ベンチサイドを通り抜ける。
⸻
6 前半終了
イングランドのキックオフ。
残された時間はほとんどない。
ボールを前へ送る。
エミリーへ長いパス。
宮坂が身体を寄せる。
エミリーが頭で落とす。
ソフィーが拾う。
シュートを狙う。
黒川がコースへ入る。
ボールは横へ。
その瞬間、主審が時計を見る。
笛。
ピィィィッ――。
前半終了。
日本2―0イングランド。
シュート数では、イングランドが上回った。
高さでも、フィジカルでも、空中戦でも、イングランドに分があった。
それでも、日本が二点をリードしてロッカールームへ戻る。
最初の一点は、美里のロングスローから黒川。
二点目は、桐生のキャッチから始まったカウンターを、柚月が仕留めた。
ベンチから立ち上がった葵が、桐生を迎える。
「前半、完璧」
桐生は首を振る。
「ポストの上に出したやつ、ぎりぎりでした」
「ぎりぎりでも、入ってない。それがキーパーの仕事」
「キャッチから二点目につながりました」
「それもキーパーの仕事」
桐生はようやく笑った。
柚月が戻ってくる。
原町監督が、その足元を見る。
「張りは?」
「大丈夫だべ」
「その言葉、一番信用できない」
「監督まで徹と同じこと言うんだな」
「後半の起用は、メディカルスタッフと相談する」
柚月は少し不満そうな顔をした。
しかし、反論はしなかった。
二点リード。
だが、この試合はまだ半分。
イングランドは後半、さらに高さと強さを押し出してくる。
そして日本は、決勝を見据えながら、この準決勝を終わらせなければならなかった。
⸻
次回予告
第26章「二点差という罠」
前半を二対ゼロで終えた日本。
黒川真緒の先制点。
そして、途中出場の柚月が決めた追加点。
数字だけを見れば、日本が大きく優位に立っている。
しかし、原町監督はロッカールームで告げる。
「二点差を守ろうと思った瞬間、二点差は消える」
イングランドは後半開始から、長身FWをさらに一人投入。
前線に二本の柱を並べ、サイドから次々とクロスを送り込む。
一方、柚月の右太ももには、ブラジル戦から続く張りが残っていた。
「まだ走れるっちゃ」
そう訴える柚月に、メディカルスタッフが示す判断。
そして、GK桐生菜月には、前半以上の空中戦が待ち受ける。
白い波は、一度では終わらない。
次回、
第26章「二点差という罠」
リードしている者ほど、
恐怖に追われる。
前へ出る勇気を失ったとき、
二点差はもっとも危険な数字になる。




