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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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六センチの壁、その足元

 第24章 六センチの壁、その足元

 1 前半二十分――数字に惑わされない


 前半二十分。


 スコアは、日本0―0イングランド。


 シュート数は、日本が一本。

 イングランドが五本。


 ボール支配率も、イングランドが大きく上回っていた。


 数字だけを見れば、日本は押し込まれている。


 だが、原町監督はベンチの前で腕を組んだまま、表情を変えなかった。


 イングランドにボールを持たせている。


 中央ではなく、外側で。


 前を向かせるのではなく、横を向かせながら。


 日本は奪いに飛び込まず、パスコースを絞り、相手の大きな身体を何度も左右へ動かしていた。


 平均身長で、およそ六センチの差。


 空中戦になれば、明らかに分が悪い。


 だから、日本はボールを浮かせない。


 地面を使う。


 細かくつなぐ。


 相手の身体を、何度も反転させる。


 実況


「前半二十分を過ぎました。イングランドのボール保持が続いていますが、日本は大きく崩されてはいません」


 解説


「はい。シュート数は一対五ですが、イングランドに自由な形では打たせていない。日本は数字を許しながら、危険な場所を消しています」


 ベンチの柚月は、ピッチを食い入るように見つめていた。


「真緒、いい位置だべ」


 隣の葵が尋ねる。


「どこが?」


「相手のボランチとセンターバックの間。受けるんじゃなくて、そこに立つだけで相手が気にしてる」


 黒川真緒はボールに何度も触れているわけではない。


 だが、自分が立つ位置によって、イングランドの中盤を内側へ寄せていた。


 その分、外側にわずかな空間が生まれる。


 日本は、まだそこを強く使わない。


 待っている。


 イングランドの足が、ほんの少し重くなるまで。


 2 前半23分――細かく、もう一度細かく


 桐生菜月から宮坂玲奈へ。


 宮坂から右サイドバック。


 そこへイングランドの左ウイング、オリヴィア・ベネットが寄せる。


 日本は前へ蹴らない。


 黒川へ入れる。


 黒川は背中で受け、ワンタッチで美里へ返した。


 美里は受けた瞬間、右を見る。


 イングランドの中盤が動く。


 だが、出さない。


 左へ向き直り、もう一度黒川へ。


 黒川から宮坂。


 宮坂から桐生。


 日本は、自陣の狭い範囲でボールを動かし続ける。


 スタンドから、少しざわめきが起こる。


 攻めないのか。


 前へ出ないのか。


 だが、日本の選手たちは焦らない。


 実況


「日本、かなり慎重にボールを動かしています」


 解説


「慎重というより、相手を動かしていますね。イングランドの前線が寄せるたびに、一度戻す。これを何度も繰り返している」


 オリヴィアが前へ出る。


 その背後が空く。


 美里はそれを確認する。


 だが、まだ使わない。


 相手が一度戻る。


 もう一度、日本がつなぐ。


 再び、イングランドが出る。


 そのたびに、長い脚が動く。

 大きな身体が向きを変える。


 日本は、一度の速攻ではなく、何度もの小さな方向転換で相手の足を削っていた。


 3 前半27分――最初の亀裂


 黒川が中央で受ける。


 イングランドのボランチ、ソフィー・ハリントンが背後から寄せる。


 黒川は前を向かない。


 右足で止め、左足で美里へ落とす。


 美里はワンタッチで左の藤森彩香へ。


 藤森が中央へ少し運ぶ。


 イングランドの右サイドバックが寄る。


 藤森はその瞬間、再び美里へ戻した。


 短い三角形。


 黒川。

 美里。

 藤森。


 三人のパスが、狭い範囲で続く。


 イングランドの選手たちは、そのたびに身体を反転させる。


 黒川が前へ出る。


 美里が斜めへ。


 藤森が外へ開く。


 パスは藤森へ。


 そこから黒川へ。


 イングランド守備陣の足元を、ボールが細く抜けた。


 黒川が前を向く。


 実況


「日本、中央を抜いた! 黒川が前を向きます!」


 黒川の目の前には、わずかなスペース。


 だが、センターバックがすぐに出てくる。


 黒川は無理に仕掛けず、右へ流した。


 渡瀬が受ける。


 シュートを狙う。


 しかし、イングランドのDFが長い脚を伸ばし、ブロックした。


 ボールはゴールラインを割る。


 日本のコーナーキック。


 ゴールにはならなかった。


 それでも、イングランドの守備に初めて明確な亀裂が入った。


 ベンチの柚月が、身体を少し前へ乗り出す。


「向こう、戻る一歩目が遅くなってるっちゃ」


 葵もピッチを見る。


「本当だ。前へ出る一歩は速いけど、逆に戻るときに一瞬止まってる」


「身体が大きい分、向き変えるのに時間かかるんだべ」


 原町監督も同じ変化を見ていた。


 手をたたき、ピッチへ声を送る。


「今のだ! もう一回! 急ぐな、同じことを続けろ!」


 4 前半30分――イングランド、圧力を強める


 イングランドも、日本の狙いに気づき始めていた。


 細かなパスを自由に続けさせれば、守備の足が止まる。


 そこで前線からの圧力を強める。


 エミリー・カーターが宮坂へ寄せる。


 オリヴィアが日本の右サイドバックへ。


 グレース・ウォーカーも左側へ走る。


 日本の最終ラインに対し、三人が一気に出てきた。


 実況


「イングランド、前からの圧力を強めてきました!」


 解説


「日本の短いパスを封じたいのでしょう。ただ、前へ人数を出せば、当然その背後は空きます」


 桐生がボールを持つ。


 前には三人。


 宮坂へ出せば、エミリーが来る。


 右へ出せば、オリヴィア。


 左へ出せば、グレース。


 桐生は一度、ボールを足元へ置いた。


 慌てない。


 美里が下がってくる。


「菜月、こっち!」


 桐生から美里。


 美里が受ける。


 背後からソフィーが来る。


 ワンタッチで黒川へ。


 黒川もすぐに藤森へ。


 藤森が前を向く。


 イングランドの最終ラインは、高い。


 その背後には、広大な空間が生まれていた。


 藤森が走り出す。


 だが、パスはわずかに長い。


 イングランドGKが前へ出て回収した。


 チャンスにはならなかった。


 しかし、日本のベンチは手応えを感じていた。


 柚月が小さくつぶやく。


「空いてる。次は行けるべ」


 5 前半33分――スローイン


 日本の左サイド。


 藤森が縦へ仕掛ける。


 イングランドの右サイドバックと身体をぶつけ合う。


 藤森は無理に抜こうとせず、相手の足へボールを当てた。


 タッチラインを割る。


 日本のスローイン。


 位置は、ハーフウェーラインより少し前。


 美里がボールを拾う。


 イングランドの選手たちは、当然のように近い選手へマークをつけた。


 日本はここまで、ほとんどショートスローを使っている。


 黒川へ投げる。

 黒川が返す。

 そこから細かくつなぐ。


 イングランドも、同じ形を予測していた。


 黒川の近くにソフィー。


 藤森の近くには右サイドバック。


 渡瀬にもセンターバックがつく。


 美里はボールを頭上に掲げながら、ピッチ全体を見た。


 右側。


 反対側のサイド。


 そこには、大きな空間があった。


 イングランドの守備陣は、ショートスローを警戒して左側へ集まっている。


 中央にも人が多い。


 反対側だけが、ぽっかりと空いていた。


 美里は一度、黒川を見る。


 黒川も、美里を見る。


 視線が合う。


 次に美里は、藤森へ目を送る。


 藤森も気づいた。


 二人は言葉を交わさない。


 黒川が一歩、ボールへ近づくふりをする。


 イングランドのソフィーもついてくる。


 藤森も短く受けるように動く。


 右サイドバックが前へ出る。


 その瞬間。


 黒川と藤森が、同時に反対側へ走り出した。


 6 前半35分――意表を突くロングスロー


 美里が助走を取る。


 イングランドの選手たちは、まだショートスローを予測していた。


 実況


「日本のスローイン。ここはまた短くつなぐでしょうか」


 美里が両手でボールを持ち、大きく身体を反らす。


 そして、力強く前へ投げた。


 ショートではない。


 ボールは高く、長く、ピッチの反対側へ飛ぶ。


 実況


「いや、ロングスローだ! 反対側が空いている!」


 イングランドの選手たちが一斉に振り返る。


 だが、遅い。


 黒川と藤森が、すでに走っている。


 ボールは一度芝に落ち、前へ転がる。


 黒川が先に追いついた。


 胸では受けない。


 足元へ収める。


 後ろからイングランドのボランチが迫る。


 黒川は右足でボールを前へ押し出し、一気に加速した。


 解説


「完全に意表を突きましたね! イングランドは日本が短くつなぐと思っていました!」


 黒川が中央へ運ぶ。


 藤森は左側を並走する。


 イングランドのセンターバックが、一人前へ出る。


 黒川は相手を正面に見る。


 大きい。


 脚も長い。


 正面から抜こうとすれば、ボールを奪われる。


 黒川は右へ行くように身体を傾ける。


 DFの重心がわずかに動く。


 その瞬間、左足の外側でボールを内へ運んだ。


 相手の足が伸びる。


 黒川はもう一度、細かく触る。


 長い脚の外側を回るのではなく、足元の狭い隙間を抜けた。


 実況


「黒川、かわした! ペナルティーエリアへ入る!」


 二人目のDFが戻る。


 藤森が左へ広がる。


 黒川が藤森を見る。


 DFも左へ意識を向ける。


 だが、黒川は出さない。


 その視線だけで、相手を半歩動かした。


 ボールを左足へ置く。


 ペナルティーエリアのわずかに外。


 黒川が左足を振り抜いた。


 強く。


 低く。


 ボールはイングランドDFの足元を抜ける。


 GKが反応する。


 左へ飛ぶ。


 だが、シュートはそのさらに外。


 ゴール左隅へ向かう。


 指先は届かない。


 ネットが揺れた。


 前半35分。

 日本1―0イングランド。


 実況


「決まったぁぁぁ! 日本、先制! 黒川真緒! 意表を突くロングスローから、一気に仕留めました!」


 解説


「素晴らしい判断でした。イングランドは日本がショートスローを使うと完全に読んでいた。その逆を突いた美里のロングスロー。そして黒川が運び、最後は左足です!」


 黒川はゴールを確認した瞬間、両腕を広げた。


「入った!」


 藤森が真っ先に飛びつく。


「真緒! また決めた!」


 黒川は笑いながら叫ぶ。


「美里さんのスローが完璧でした!」


 美里も後方から走ってくる。


「走り出した二人が完璧だった!」


 渡瀬が黒川の頭を叩く。


「シュート、冷静すぎ!」


 黒川は息を切らしながら笑った。


「左が空いてました!」


 ベンチでは柚月が立ち上がっていた。


「よっしゃあ! 真緒、最高だっちゃ!」


 葵も両手をたたく。


「今のは読めない!」


 原町監督は大きく拳を握った。


 だが、すぐに手を下へ向ける。


 浮くな。


 まだ前半。


 美里も同じ合図を送る。


「戻るよ! ここからイングランド、来るから!」


 黒川はうなずく。


「はい!」


 7 先制点の意味


 イングランドの選手たちは、センターサークルへ戻りながら互いに声を掛け合っていた。


 高さでは勝っている。


 フィジカルでも勝っている。


 シュート数でも上回っている。


 それでも、先に得点したのは日本だった。


 しかも、イングランドが警戒していた細かなパスではない。


 その警戒そのものを利用したロングスロー。


 日本は一つの形だけを繰り返していたのではない。


 同じ形を見せ続け、相手に覚えさせ、

 その記憶がもっとも強くなった瞬間に、逆を突いた。


 解説


「日本は前半三十五分まで、ショートスローを何度も使いました。それが伏線になっていますね」


 実況


「細かなパスを見せ続けたからこそ、長いボールが効いたということですね」


「そうです。しかも、単純に前へ投げたのではなく、反対側の空いたスペースを見ていました。美里の判断、黒川と藤森の同時の動き出し。すべてがつながった得点です」


 ベンチの柚月は、ユリの遺影へ一度目を向けた。


「見でだべ、ユリ。真緒、またやったっちゃ」


 写真の中のユリが、嬉しそうに笑っているように見えた。


 風が、ベンチの前を通り抜ける。


「ちゃんと相手見でたな。頭使って走れば、六センチなんて関係ねぇべ」


 柚月は小さく笑う。


「んだな」


 ピッチでは、イングランドのキックオフが行われる。


 スコアは一対ゼロ。


 だが、日本が越えなければならない六センチの壁は、まだ消えていない。


 むしろ、先制されたイングランドは、ここからさらに高さと強さを前面に押し出してくる。


 美里が味方へ声を飛ばす。


「次の五分、集中! クロス増えるよ!」


 桐生もゴール前で叫ぶ。


「中、確認! 簡単に上げさせない!」


 日本は先制した。


 しかし、試合の本当の厳しさは、ここから始まろうとしていた。


 次回予告

 第25章「白い波、空から来る」


 黒川真緒の左足で、日本が先制。


 だが、追う立場となったイングランドは、最大の武器を解き放つ。


 長いボール。


 深いクロス。


 コーナーキック。


 日本より平均身長が六センチ高い選手たちが、次々とゴール前へ押し寄せる。


 控えGKとして準決勝の先発を任された桐生菜月は、空中戦の渦へ飛び込んでいく。


「出るなら、絶対に触る!」


 一方、日本は無理に空中で競わず、落下点の予測とセカンドボールの回収で対抗する。


 しかし前半終了間際、イングランドの長身FWエミリー・カーターが、日本の守備陣より高く舞い上がる。


 ボールは、ゴール右上へ。


 桐生の手は届くのか。


 日本は一点のリードを守って、前半を終えられるのか。


 次回、

 第25章「白い波、空から来る」


 高さを止めるのは、高さだけではない。


 先に落ちる場所を知る者が、

 空中戦を制する。

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