↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日の春風は今も  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
125/127

背中の向こう側

第100章 背中の向こう側


2036年。


大船柚月は、長い現役生活に終止符を打った。


所属したクラブは、最後まで一つだけだった。


ベガルタ仙台レディース。


移籍の話がなかったわけではない。


海外から声をかけられたこともあった。


より大きなクラブ。


より高い報酬。


より整った環境。


選手として考えれば、魅力的な話はいくつもあった。


それでも。


柚月は仙台を離れなかった。


この街でサッカーを始めた。


この街でユリと出会った。


この街で夢を語った。


この街で、大切なものを失った。


2011年3月11日。


東日本大震災。


街は傷ついた。


人々は傷ついた。


柚月自身も、名取百合子というかけがえのない親友を失った。


サッカーなんてやっていていいのだろうか。


夢なんて追っていていいのだろうか。


そう思ったこともあった。


それでも。


もう一度、ボールを蹴った。


走った。


負けた。


泣いた。


また立った。


そして。


日本代表。


ワールドカップ。


オリンピック。


世界一。


金メダル。


何度も世界へ出て。


何度も日本へ帰ってきた。


最後に戻る場所は、いつも仙台だった。


柚月は、この街を心から愛していた。


そして仙台もまた。


長い年月をかけて。


大船柚月という一人のサッカー選手を育ててきた。


震災で深く傷ついた街に。


夢を。


希望を。


そして。


「また前へ進んでいいんだ」という小さな光を届けながら。


柚月は走り続けた。


38年。


それは。


勝利だけでできた人生ではなかった。


むしろ。


立ち止まった時間の方が。


柚月にとっては大切だったのかもしれない。


1 最後のロッカールーム


現役最後の試合を終えたあと。


ベガルタ仙台レディースのロッカールーム。


柚月は、自分のユニフォームを見つめていた。


汗。


芝。


泥。


何度も着た。


何度も洗った。


何度も、このユニフォームでピッチへ出た。


若い選手たちは、少し離れたところから柚月を見ている。


誰も声をかけられなかった。


先に口を開いたのは。


柚月だった。


「なんでそんな静かなん?」


一同。


少し笑う。


若手の一人が言った。


「だって……今日で最後じゃないですか」


「最後だからって葬式みたいにすんなって」


また笑いが起こる。


それで。


少し空気が戻った。


柚月はユニフォームを畳んだ。


「うちが辞めても、明日から練習あるんだべ?」


「あります」


「じゃあ走れ」


「そこですか」


「そこだべ」


若手たちが笑う。


でも。


柚月は少しだけ真面目な顔になった。


「うちの背中なんか追わなくていいからな」


全員が見る。


「柚月さんみたいになりたいって言ってくれる子、たくさんいます」


「ありがたいよ」


柚月はうなずいた。


「でも、うちと同じになったら、うちを超えられねぇべ」


ロッカールームが静かになる。


「自分がどういう選手になりたいか、自分で考えろ。世界に行きたいなら、世界に行った自分をちゃんと想像しろ。そのために今日何するか考えろ」


少し笑う。


「それでも分かんなかったら?」


若手。


「聞きます」


「誰に?」


「先輩に」


「それでも分かんなかったら?」


「監督に」


「それでも?」


少し考える。


そして。


一人の選手が答えた。


「自分たちで答えを見つけます」


柚月が笑った。


「それでいい」


2 ピッチの外から


現役を退いたあとも。


柚月はサッカーから離れなかった。


指導者資格。


研修。


育成年代。


クラブ。


代表。


今まで選手として見ていたピッチを。


今度は。


外側から見る。


これが。


思った以上に難しかった。


自分なら分かる。


自分ならそうする。


でも。


それを選手にそのまま押しつけたら。


指導ではない。


ある日の夜。


自宅。


柚月がノートへ何度も線を引いている。


徹が横から見る。


「何してんの?」


「練習メニュー」


「三時間くらい同じページ見てない?」


「うるさい」


徹が笑う。


「選手のときより悩んでるな」


「自分でプレーした方が楽だべ」


「それはあるだろうな」


柚月はペンを置く。


「徹」


「ん?」


「指導者ってさ」


「うん」


「答え教えすぎると駄目なんだな」


徹は少し考える。


「お前が選手のころ、一番伸びたのって、答え教えてもらったとき?」


柚月は首を振る。


「違うな」


「じゃあ」


「自分で気づいたとき」


「そういうことじゃない?」


柚月が徹を見る。


「お前、たまにいいこと言うな」


「たまにって何だよ」


夫婦。


笑う。


それから。


時間が流れた。


3 日本代表、新体制


ある年。


日本女子代表。


新体制発表記者会見。


多くの報道陣が集まっていた。


壇上。


新監督。


名前が呼ばれる。


「日本女子代表監督、大船柚月」


柚月が立ち上がる。


一礼。


そして。


その隣。


「コーチ、大船徹」


徹も一礼する。


会場がざわつく。


夫婦。


かつて。


一人はなでしこジャパン。


一人はJリーグ。


それぞれ別のピッチで戦い。


互いを支えた。


今度は。


同じベンチ。


同じ代表。


同じ目標。


記者から質問が飛ぶ。


「大船監督は、どのような日本代表を作りたいですか?」


柚月は少し考えた。


「自分たちで考えられるチームです」


「具体的には?」


「監督の指示がなければ動けないチームにはしたくないです」


柚月は続ける。


「試合って、予定どおりにならないんです。相手が変えてきたら、自分たちも変えなきゃいけない。想定外のことが起きたら、その場で答えを見つけなきゃいけない」


ワールドカップ。


オリンピック。


オランダ。


メキシコ。


ガーナ。


アルゼンチン。


フランス。


アメリカ。


いくつもの試合で。


柚月自身が経験してきたことだった。


「だから」


柚月は言った。


「答えを全部渡すんじゃなくて、答えを見つけられる選手を育てたいです」


4 最初の代表ミーティング


新体制。


初招集。


若い選手たちがミーティングルームへ集まる。


緊張。


日本代表。


その前に立つ。


大船柚月。


横には徹。


柚月はホワイトボードへ向かった。


そして。


一つだけ書く。


自分たちで答えを見つける。


振り返る。


「これが、うちらの代表です」


若い選手たちが見つめる。


「うちが世界一になったときも、最初から全部分かってたわけじゃない」


少し笑う。


「むしろ分かんないことばっかだった」


選手たちにも笑いが起こる。


「でも、試合の中で見つけた。仲間と話して見つけた。ベンチと話して見つけた。失敗して、その失敗から見つけた」


そして。


「失敗するなとは言わない」


少し間。


「同じ失敗を何回も何も考えず繰り返すなとは言う」


徹が少し笑う。


柚月も続ける。


「強いチームって、ミスしないチームじゃないから」


ロサンゼルス。


決勝。


ハンド。


PK。


追いついた。


120分。


PK11人目。


最後は葵。


「誰かがミスしたら、みんなで取り返せるチーム。それが一番強い」


選手たちがうなずく。


監督。


大船柚月。


新しいサッカー人生が。


始まった。


5 そのころ、百合子は


一方。


大船家。


2029年11月3日に生まれた娘。


大船百合子。


あれから。


十年。


小学四年生。


そして。


やはり。


サッカーボールを追いかけていた。


ただし。


母とは違う。


ポジション。


ゴールキーパー。


仙台ジュニアFC。


かつて柚月がボールを追いかけた場所。


そこで。


小学四年生ながら。


百合子はレギュラーをつかんでいた。


ゴール前。


相手FW。


一対一。


百合子は前へ出る。


シュート。


右。


百合子。


反応。


両手。


弾く。


「ナイス、百合子!」


チームメートから声。


監督。


腕を組んで見ている。


伊達葵。


ロサンゼルスオリンピック決勝。


PK11人目。


最後の一本を止めた。


あの守護神。


今。


仙台ジュニアFCの監督。


伊達が叫ぶ。


「百合子!」


「はい!」


「今のセーブはいい!」


「はい!」


「でも、その前!」


百合子が首をかしげる。


「ポジション、半歩前に取れた!」


「あっ」


「止めたから終わりじゃない!」


「はい!」


少し離れたところ。


柚月。


徹。


練習を見ていた。


柚月が笑う。


「葵、相変わらず厳しいな」


徹。


「お前よりマシじゃない?」


「どういう意味だよ」


百合子がこちらを見る。


「ママー!」


「なんだー!」


「今日三本止めた!」


柚月。


「一本入れられてたべ!」


百合子。


「そこ言わなくていいじゃん!」


伊達が吹き出す。


徹も笑う。


そして。


練習後。


百合子が走ってくる。


「ママ」


「ん?」


「ママみたいになりたい」


柚月は少し考える。


そして。


首を振る。


「ならなくていい」


百合子が驚く。


「なんで?」


「百合子は百合子になればいい」


「でもママ、ワールドカップもオリンピックも勝ったじゃん」


「うん」


「私も勝ちたい」


柚月は笑った。


「それはいい」


しゃがむ。


娘と目線を合わせる。


「じゃあ、百合子が勝てばいい」


「ママみたいじゃなくて?」


「違う」


胸を指す。


「自分のサッカーで」


百合子は少し考えて。


笑った。


「分かった」


6 その名前の向こう


ある日。


百合子を連れて。


名取家を訪れた。


名取雄二。


名取愛子。


名取大志。


みんな。


大きくなった百合子を見て。


笑っていた。


愛子が言う。


「本当にサッカーやってるのね」


百合子。


「キーパーです!」


大志。


「柚月とは違うんだ」


「ママより止めます」


柚月。


「おい!」


一同。


笑う。


でも。


柚月は。


百合子を見るたび。


思う。


この子は。


ユリの生まれ変わりではない。


代わりでもない。


百合子は。


百合子。


ただ。


その名前には。


一人の大切な友達が生きている。


そのことだけでいい。


墓前。


百合子が手を合わせる。


「百合子さん」


柚月が少し驚く。


娘は言う。


「私も百合子です」


少し考えて。


「いつか日本代表になります」


柚月は何も言わなかった。


胸の奥。


ユリ。


「でっかいこと言うなぁ」


柚月。


心の中。


「お前に似たんじゃね?」


「お前の娘だべ」


「それもそうだな」


7 さらに七年


時間は。


また流れる。


小学四年生だった少女は。


高校生になった。


身長も伸びた。


声も変わった。


ゴール前で。


もう。


子どものころのように無邪気に飛び出すだけではない。


DFラインを動かす。


相手FWを見る。


ボールの出どころを見る。


試合全体を見る。


監督となった伊達葵から。


何度も教わった。


「GKは最後に止める人じゃない」


百合子が聞く。


「じゃあ何ですか?」


「最初に危険を見つける人」


その言葉を。


百合子は忘れなかった。


そして。


ある日。


一本の電話。


日本女子代表。


初選出。


大船百合子。


17歳。


GK。


その知らせを聞いた瞬間。


百合子は。


しばらく何も言えなかった。


柚月は。


もっと言えなかった。


徹が先に笑う。


「おめでとう」


百合子の目から涙。


「……ほんと?」


柚月がようやく答える。


「ほんとだべ」


「ママ」


「ん?」


「日本代表だよ」


「んだな」


「ママが着てたやつ」


柚月。


笑う。


「今度はお前のだ」


8 日本代表のユニフォーム


代表合宿。


百合子が。


初めて。


日本代表のユニフォームを着る。


鏡。


胸。


日の丸。


百合子は。


しばらくそこへ手を置いた。


柚月は。


監督として。


少し離れた場所から見ている。


母として駆け寄りたい。


でも。


今は。


監督。


だから。


言うことは。


一つ。


「大船百合子」


「はい!」


「代表入っただけで満足すんなよ」


百合子が笑う。


「分かってます」


「レギュラー?」


「取ります」


「誰から?」


百合子。


少し考えて。


「全員から」


柚月が笑う。


「それでいい」


徹も隣で。


小さくうなずいた。


9 世界へ


そして。


ワールドカップ。


百合子。


初選出。


最初は控え。


だが。


チャンスは来る。


グループリーグ。


先発。


セーブ。


次。


また先発。


勝利。


そして。


いつの間にか。


日本のゴールを守る一人になっていた。


準々決勝。


準決勝。


決勝。


世界最高峰のFWたち。


強烈なシュート。


クロス。


一対一。


百合子。


止める。


叫ぶ。


DFを動かす。


母と同じ方法ではない。


母と同じポジションでもない。


でも。


一つだけ。


同じものがある。


仲間を信じる。


自分で答えを見つける。


日本。


ワールドカップ優勝。


そして。


次のオリンピック。


百合子。


日本代表GK。


日本。


また。


勝ち上がる。


決勝。


試合終了。


金メダル。


ワールドカップ。


オリンピック。


二冠。


大船百合子。


世界の頂点。


10 背中の向こう側


試合終了。


日本代表の選手たちがピッチへ飛び出す。


百合子。


ゴール前。


両手を上げる。


泣いている。


笑っている。


そして。


ベンチ。


監督。


大船柚月。


コーチ。


大船徹。


二人。


立っている。


柚月は。


娘のところへ向かった。


歩くつもりだった。


でも。


途中から。


走っていた。


百合子も。


母を見つける。


「ママ!」


走る。


そして。


抱きしめる。


強く。


強く。


柚月。


「おめでとう」


百合子。


泣きながら。


「取ったよ」


「見てた」


「ワールドカップも」


「見てた」


「オリンピックも」


「見てたって」


百合子。


笑いながら泣く。


「ママに追いついた?」


柚月。


少しだけ。


黙った。


そして。


首を振った。


百合子が驚く。


「まだ?」


柚月は笑った。


「追いついたんじゃない」


娘の肩を抱く。


「お前は、お前の場所まで行ったんだべ」


百合子の目から。


また涙。


徹も歩いてくる。


家族。


三人。


抱き合う。


スタンド。


大歓声。


日本。


金メダル。


その光景を。


柚月は。


どこか遠くから見ているような感覚になった。


昔。


自分が追いかけていた背中。


2011年。


世界一になった日本代表。


高梨美緒。


先輩たち。


ユリ。


いろいろな背中。


それを追いかけた。


やがて。


自分が。


誰かに追われる背中になった。


そして今。


その背中の向こう側へ。


娘が。


走っていった。


胸の奥。


懐かしい声。


「柚月」


「ん?」


「やったな」


柚月。


笑う。


「うちじゃねぇよ」


「知ってる」


「百合子がやったんだ」


「んだな」


少し間。


「名前、つけてもらってよかった」


柚月の目に。


涙。


でも。


笑っている。


「ありがとな、ユリ」


「こっちこそ」


「ずっと応援してくれて」


「ずっと見てたからな」


柚月は空を見る。


昔。


ユリと。


二人で。


夢を見た。


なでしこジャパン。


世界一。


オリンピック。


あのころは。


その先なんて。


想像できなかった。


でも。


線は。


ずっと。


先へ続いていた。


ユリ。


柚月。


そして。


百合子。


夢は。


誰か一人のものではない。


受け継ぐたび。


少しずつ形を変える。


そして。


次の人が。


自分の夢として。


また走り始める。


百合子が金メダルを手に取る。


「ママ」


「ん?」


「重いね」


柚月は。


あの日を思い出した。


ロサンゼルス。


120分。


PK11人目。


伊達葵。


初めて手にした金。


「んだな」


百合子。


「でも、いい重さ」


柚月。


「うん」


少し笑う。


「その重さ、忘れんなよ」


「忘れない」


そして。


柚月は。


もう一度。


娘を抱きしめた。


スタジアムには。


日本代表の選手たちの笑い声。


歓声。


拍手。


遠く。


空。


青。


柚月は。


目を閉じた。


仙台。


震災。


ユリ。


サッカー。


徹。


仲間。


怪我。


ワールドカップ。


オリンピック。


母になった日。


監督になった日。


そして。


娘が世界一になった日。


全部。


一つの道だった。


その道は。


ここで。


終わらない。


柚月の背中を追った少女が。


今度は。


誰かの背中になる。


そして。


その誰かが。


また。


その向こう側へ走っていく。


柚月は。


笑った。


「行け、百合子」


百合子が振り返る。


「どこに?」


柚月。


笑顔。


「もっと先」


百合子も。


笑う。


「うん!」


そして。


娘は。


日本代表の仲間たちのもとへ。


走っていった。


大船柚月は。


その背中を。


いつまでも。


見つめていた。


追いかけた背中。


追いかけられた背中。


そして。


その背中の向こう側へ。


新しい世代が。


走っていく。


それが。


柚月が最後に見つけた。


世界一よりも。


金メダルよりも。


ずっと先にある景色だった。


第100章「背中の向こう側」


――完――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。