あとがき
あとがき
この物語を書き終えて、最後に残ったのは「勝った」という感覚よりも、「ここまで歩いてきたんだな」という感覚でした。
大船柚月の物語は、ワールドカップ優勝やオリンピック金メダルだけを描いた物語ではありません。
もちろん、世界一になることは大きな目標です。
ロサンゼルスオリンピック決勝でアメリカと120分を戦い、PK戦が11人目までもつれ、最後に伊達葵が止めて日本が金メダルをつかむ場面は、この作品の中でも最も大きなクライマックスの一つになりました。
でも、柚月の本当の物語は、そのずっと前から始まっています。
幼いころ、ユリと一緒にボールを追いかけたこと。
二人で日本代表を夢見たこと。
そして2011年3月11日。
東日本大震災によって、その未来が突然引き裂かれたこと。
柚月は、それまで当たり前だと思っていた日常も、友達も、夢も、明日も、決して当たり前ではないことを知りました。
大切な人を失ったあと、人は以前と同じ自分には戻れません。
だから、この物語でも「元に戻る」ということはあまり描きませんでした。
柚月はユリを忘れて立ち直ったのではありません。
忘れられないまま生きていきました。
寂しいまま。
会いたいまま。
もし生きていたら、と考えてしまうまま。
それでも笑う。
それでもボールを蹴る。
それでも誰かを好きになる。
それでも新しい夢を見る。
私は、再生というものは、失ったものを消すことではなく、失ったものを心の中へ連れて、それでも次の一歩を踏み出すことなのだと思っています。
柚月にとって、ユリはずっとその存在でした。
重要な試合になると、心の中から声が聞こえてくる。
「どうするべ?」
「怖い?」
「行ってこい」
それは答えを教えてくれる声ではありません。
むしろ、柚月自身に考えさせる声でした。
その関係が、この物語ではとても大切でした。
ユリが全部教えてしまったら、柚月は成長できません。
原町監督も同じです。
徹も同じです。
周囲の人たちは柚月を支えます。
でも、最後の答えは柚月自身が見つけなければならない。
だからこそ、この物語を通して何度も出てきた言葉があります。
「自分たちで答えを見つける」
これは、サッカーだけの話ではありません。
人生そのものにも当てはまる言葉だと思っています。
正解なんて分からない。
予定通りにいかない。
相手が変わる。
自分の身体も変わる。
環境も変わる。
昨日まで通用した方法が、今日は通用しないこともある。
そんなときに、昔の成功へしがみつくのではなく、もう一度周りを見て、今の自分にできる答えを探す。
柚月たちは、それを何度も繰り返しました。
オランダ戦。
メキシコ戦。
ガーナ戦。
アルゼンチン戦。
フランス戦。
そしてアメリカ戦。
相手が変われば、答えも変わる。
決勝のアメリカ戦では、それが最もはっきり表れました。
身体を寄せてくるなら、早く離す。
早く離すことを読まれたら、今度はあえて持つ。
一つの正解に固執しない。
この考え方は、そのまま柚月の人生にも重なっています。
ワールドカップで世界一になったあと、柚月は右ふくらはぎを負傷しました。
それまでの柚月なら、「早く戻らなければ」と焦ったかもしれません。
実際、焦りました。
オリンピックがある。
代表争いがある。
若い選手が伸びている。
休んでいる場合ではない。
そんな不安があったと思います。
でも、そこで柚月は新しいことを学びました。
休むことも前へ進むこと。
走らない勇気も、復帰へ向かう力になること。
「一日早く進むために、一か月を失うつもりか」
徹のこの言葉は、柚月の競技人生を大きく変えました。
頑張ることは大切です。
でも、頑張り方を間違えれば、夢から遠ざかることもあります。
立ち止まる。
人に頼る。
予定を変える。
一度戻る。
それもまた前進なのだということを、柚月は怪我から教わりました。
そして、ロサンゼルスオリンピック。
決勝。
アメリカ。
後半30分に先制される。
残り時間はわずか。
スタジアム全体に「アメリカ優勝」という空気が漂う。
それでも、柚月は仲間へ言いました。
「下向くな。まだ終わってない」
その言葉は、ただの精神論ではありません。
その前までに、柚月自身が何度も「終わったと思ったところから戻る」という経験をしてきたから言えた言葉です。
そして後半44分。
アメリカのコーナーキック。
そこから日本がボールを奪い、カウンター。
PK。
正木静香。
同点。
延長。
120分。
それでも決まらない。
PK戦。
五人全員成功。
六人目。
七人目。
八人目。
九人目。
十人目。
そして十一人目。
GK伊達葵。
自ら決める。
そして止める。
PK11-10。
金メダル。
あそこまで行ったら、勝ち負けだけで表現するには足りない試合だったと思います。
だからこそ、試合後にアメリカの選手やスタッフ、サポーターが日本を称え、日本側もアメリカを称える場面を大切にしました。
本当に強い相手がいるからこそ、自分たちの勝利も輝く。
負けた相手を下げなければ自分たちの強さを語れない勝利では、本当の強さとは言えません。
柚月が表彰台でアメリカを見る場面には、その思いを込めました。
そして、金メダルを取ったあと。
柚月はユリの墓へ向かいます。
世界一になったことを大勢の前で話すより。
メディアに金メダルを見せるより。
最後にどうしても伝えたかった相手。
ユリ。
「四年越しの夢、叶えたぞ」
「ユリ、応援ありがとうな」
その言葉を書けたとき、この物語の一つ目の大きな円が閉じたように感じました。
でも、そこで終わらせませんでした。
なぜなら人生は、夢を叶えた瞬間に終わるものではないからです。
柚月は現役を続けます。
若手へ自分の経験を話します。
世界で戦うこと。
目指す姿を持つこと。
その目標に対して、日頃何をするのか。
世界の頂点へ立って見えた景色。
自分が成功したことだけではなく、失敗したことも伝える。
やがて母になる。
2029年11月3日。
娘が生まれる。
名前は百合子。
この名前については、とても慎重に扱いたいと思いました。
娘の百合子は、亡くなったユリの生まれ変わりでも、代わりでもありません。
大切な友達の名前を受け継いではいるけれど、一人のまったく新しい人間です。
だから柚月は娘へ、
「自分の人生を生きればいい」
と伝えます。
その姿勢は最後まで変わりません。
2031年。
柚月は母となったあと再びワールドカップへ。
二連覇。
2032年。
ブリスベンオリンピック。
二連覇。
自分が若手たちへ伝えてきた言葉が、少しずつ形になっていきます。
そして代表引退。
2036年。
現役引退。
ベガルタ仙台レディース一筋。
仙台という街を愛し、仙台で育ち、仙台へ戻り続けたサッカー人生。
震災で傷ついた街から世界へ出て、何度世界一になっても、最後に帰る場所は仙台でした。
その意味でも、柚月という選手にとって仙台は単なる所属地ではありません。
人生そのものです。
そして、現役を退いたあと。
柚月は監督。
徹はコーチ。
二人で日本女子代表を支える側になります。
でも、ここでも柚月は「自分と同じ選手」を育てようとはしません。
自分の答えを押しつけない。
選手自身が考える。
失敗する。
修正する。
また考える。
「自分たちで答えを見つける」
原町監督から受け取ったもの。
選手時代に自分で学んだもの。
それを、次の世代へ渡していきます。
そして最後。
物語は、柚月ではなく百合子の背中へ移ります。
小学四年生。
仙台ジュニアFC。
ポジションはGK。
監督は伊達葵。
この設定にも、一つの円があります。
ロサンゼルスオリンピック決勝。
最後にPKを止め、日本へ金メダルをもたらした伊達葵。
その葵が、今度は柚月の娘へGKの技術と考え方を教える。
「GKは最後に止める人じゃない。最初に危険を見つける人」
世代は、こうやってつながっていきます。
そしてさらに七年。
17歳。
大船百合子。
日本代表初選出。
日本代表のユニフォームを着る。
そのとき柚月は言います。
「今度はお前のだ」
この言葉も、この作品の中ではかなり大切です。
親のユニフォームではない。
親の夢ではない。
親の人生でもない。
今度は百合子自身のもの。
そして百合子は、自分自身のサッカーで世界へ出る。
ワールドカップ。
オリンピック。
二冠。
最後。
百合子が柚月へ尋ねます。
「ママに追いついた?」
柚月は答えます。
「追いついたんじゃない」
そして。
「お前は、お前の場所まで行ったんだべ」
この物語を100章書いてきたすべては、ある意味、この一言へたどり着くためだったのかもしれません。
誰かに憧れる。
背中を追う。
それは素晴らしいことです。
でも。
いつかは、その人と同じ場所へ行くことではなく、自分だけの場所へ行かなければならない。
柚月自身もそうでした。
2011年の日本代表を見た。
先輩たちを追った。
ユリと夢を見た。
やがて世界一になった。
今度は、若い選手たちが柚月を追う。
そして百合子も追う。
でも。
最後には。
柚月の背中を越えていく。
だから最終話のタイトルを、
「背中の向こう側」
としました。
背中を追い続けた先にあるのは、その人の背中ではありません。
その向こう。
自分にしか見えない景色です。
そして、この作品にはもう一つ、大きな願いを込めました。
悲しいことがあったからといって、その後の人生まで悲しいものでなければならない理由はない。
大切な人を失っても。
怪我をしても。
夢が一度途切れても。
負けても。
自信を失っても。
人生には、その先があります。
もちろん、無理に前を向かなくてもいい日もある。
泣く日もある。
休む日もある。
何もできない日もある。
それでも線路のように。
道は、その先へ続いている。
柚月は、その道を走りました。
時には全力で。
時には歩いて。
時には立ち止まって。
でも。
最後まで。
自分なりの速度で。
そして最後には、娘がその先を走っていく姿を見る。
それが、この物語の結末です。
ユリが生きられなかった未来を柚月が生きる。
柚月が走り切った場所から、百合子がさらに先へ行く。
夢は、同じ形のまま受け継がれる必要はありません。
少しずつ変わっていい。
違う形になっていい。
むしろ、その方がいいのだと思います。
だから。
この物語は「終わり」ではありますが。
柚月たちの世界にとっては。
きっと。
次のキックオフです。
最後まで、この長い物語を一緒に走ってくださって。
本当にありがとうございました。
そして。
大船柚月へ。
名取百合子へ。
大船徹へ。
大船百合子へ。
この物語に登場した、すべての選手たちへ。
お疲れさま。
そして。
次の景色へ。
行ってらっしゃい。




