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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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次の夢

 第99章 次の夢


 ロサンゼルスオリンピックが終わっても、大船柚月の日常そのものが終わったわけではなかった。


 ワールドカップ優勝。


 オリンピック金メダル。


 世界大会で二つの頂点を経験した。


 だからといって、翌日から何か特別な人間になったわけではない。


 クラブへ戻れば、また練習がある。


 パスを受ける。


 走る。


 身体を当てられる。


 奪われる。


 奪い返す。


 試合に出れば、勝つ日もあれば負ける日もある。


 若手選手からポジションを狙われる。


 監督から厳しい要求を受ける。


 それは金メダルを取る前と何も変わらなかった。


 柚月は、それがむしろ心地よかった。


「金メダル取ったからって、次の試合で一点もらえるわけじゃねぇからな」


 クラブの練習場でそう言うと、後輩たちが笑った。


 早川莉奈も笑う。


「むしろ柚月さん相手だと、みんな倒したがってますよ」


「なんでだよ」


「ワールドカップ王者でオリンピック金メダリストだからです」


「肩書き長ぇな」


「これからもっと増えるんじゃないですか?」


「もういらねぇよ」


 そう言いながらも、柚月は笑っていた。


 まだ28歳。


 やめる理由などない。


 むしろ。


 ここから先も、どこまで自分が伸びるのか。


 それを知りたかった。


 1 教えるのではなく、渡していく


 ただ。


 オリンピック後。


 柚月の周囲には、一つ新しい変化が生まれた。


 若い選手から、話を聞きたいと言われることが増えた。


 どうすれば代表へ行けるのか。


 世界で戦うには何が必要なのか。


 プレッシャーとどう向き合えばいいのか。


 怪我をしたとき、何を考えていたのか。


 世界一になった瞬間、何が見えたのか。


 柚月は最初、その手の質問に少し困った。


 自分は指導者ではない。


 正解を知っているわけでもない。


 だから。


 最初に必ず言うようになった。


「うちのやり方が正解だと思わんでいいからな」


 若い選手たちが聞く。


「じゃあ、何を聞けばいいんですか?」


 柚月は少し考える。


「失敗した話」


 そう答えた。


「成功した話より、そっちの方が多分役に立つ」


 そして。


 自分の経験を話した。


 代表に入れなかったころ。


 世界との差を痛感した試合。


 パリでメダルを取れなかったこと。


 ワールドカップで世界一になったこと。


 その直後に右ふくらはぎを痛めたこと。


 焦ってリハビリを進めたくなったこと。


 走らないことが怖かったこと。


 休むことを後退だと思いかけたこと。


 でも。


 それが違ったと気づいたこと。


「世界で戦うってさ」


 ある日。


 柚月は若手選手たちの前で話した。


「世界の選手より強くなることだけじゃないんだよ」


 何人かが顔を上げる。


「世界に行ったら、絶対、自分より速い選手もいる。強い選手もいる。技術が上の選手もいる」


 少し間を置く。


「そこで、自分にないものばっか見てたら、何もできなくなる」


 早川が静かに聞いていた。


 柚月は続けた。


「大事なのは、自分がどんな選手になりたいかをちゃんと思い描くことだと思う」


 世界一になりたい。


 代表になりたい。


 得点王になりたい。


 それだけでもいい。


 でも。


 できれば。


 もう一歩。


「自分はどういうプレーで仲間を助けたいのか。どういうときに頼られる選手になりたいのか。負けたときにどう振る舞いたいのか。そこまで思い描けた方がいい」


 そして。


 それは大舞台だけで突然できるものではない。


 日々。


 練習。


 食事。


 睡眠。


 身体のケア。


 仲間への声かけ。


 監督との会話。


 試合に出られなかった日の態度。


 怪我をした日の過ごし方。


「ワールドカップもオリンピックもさ」


 柚月は言った。


「結局、そこで急に強くなるわけじゃない」


 日頃やっていることが出る。


 苦しくなったときに。


 普段どんな選手だったかが現れる。


「だから、目標が大きいほど、普段を雑にしちゃ駄目なんだと思う」


 その言葉は。


 少しずつ。


 若い世代へ残っていった。


 2 頂点から見えた景色


 ある講習会で。


 一人の高校生が質問した。


「世界一になった瞬間って、どんな感じなんですか?」


 柚月は少し笑った。


「意外と普通」


 会場が笑う。


「いや、本当に。なんか空から光降ってくるとかないから」


 また笑い。


 でも。


 柚月はすぐ続けた。


「ただね」


 少しだけ声が変わる。


「自分一人でそこまで来たんじゃないってことは、すごく分かる」


 指導者。


 チームメート。


 家族。


 徹。


 クラブスタッフ。


 医療スタッフ。


 そして。


 ユリ。


「頂点に立ったら、自分がすごいって思うより、ここまで誰に支えてもらったんだろうって方が見えるんだよ」


 それが。


 柚月が世界一になって初めて見た景色だった。


 そして。


 もう一つ。


 世界一になった翌日も。


 世界は普通に続いていく。


「だからさ」


 柚月は笑う。


「頂点って、終点じゃないんだよ」


 一つの場所に立っただけ。


 そこから。


 また次の道が始まる。


 3 新しい家族


 やがて。


 柚月と徹の人生にも、大きな変化が訪れた。


 妊娠。


 柚月は一定期間、競技から離れることを決めた。


 産休。


 身体が少しずつ変化していく。


 サッカー選手としては経験したことのない時間。


 走る量は減る。


 身体の感覚も変わる。


 それでも。


 焦りは以前ほどなかった。


 怪我からの復帰で学んだからだ。


 止まることと。


 終わることは。


 違う。


 2029年11月3日。


 女の子が生まれた。


 小さな手。


 小さな足。


 柚月はその子を抱きながら、しばらく何も言えなかった。


 隣には徹。


「かわいいな」


 柚月は涙を流しながら笑った。


「当たり前だべ」


 そして。


 名前。


 夫婦には。


 ずっと考えていた名前があった。


 でも。


 その名前だけは。


 二人だけで決めなかった。


 名取家。


 名取雄二。


 名取愛子。


 そしてユリの兄、大志。


 柚月と徹は、きちんと相談した。


 大切な親友。


 名取百合子。


 その名前を。


 娘へ受け継ぎたい。


 柚月がそう話したとき。


 愛子はしばらく言葉を出せなかった。


 そして。


 涙を拭きながら笑った。


「柚月ちゃんが、そうしたいと思ってくれるなら」


 雄二もうなずく。


 大志も。


「妹も喜ぶと思う」


 そうして。


 娘には。


 百合子。


 その名がつけられた。


 大船百合子。


 柚月が赤ん坊を抱きながら、その名前を初めて呼ぶ。


「百合子」


 胸の奥が。


 少しだけ。


 温かくなる。


 でも。


 同じ名前でも。


 この子は。


 ユリの代わりではない。


 新しく生まれた。


 一人の人間。


 そのことだけは。


 柚月も徹も。


 大切にした。


「自分の人生を生きればいいんだぞ」


 柚月が赤ん坊へ言う。


 徹が笑う。


「まだ分かんないだろ」


「今から言っとく」


「早いって」


 二人。


 笑った。


 胸の中。


 ユリの声。


「名前、ありがとな」


 柚月は少し笑う。


「本人が嫌がったらどうすんだよ」


「そんときは謝れ」


「お前も謝れよ」


「なんでうちが」


「名前の元だべ!」


 病室。


 徹が不思議そうに見る。


「またユリちゃん?」


「まあな」


 4 母になって、もう一度世界へ


 出産。


 育児。


 そして。


 競技復帰。


 簡単ではなかった。


 以前と同じ身体ではない。


 感覚。


 回復。


 睡眠。


 生活リズム。


 全部。


 もう一度作り直す必要があった。


 でも。


 柚月は急がなかった。


 一度。


 焦って身体を壊しかけた経験がある。


 だから。


 今回は。


 待てた。


 少しずつ。


 走る。


 蹴る。


 対人。


 試合。


 そして。


 代表。


 戻った。


 2031年。


 コスタリカ。


 ジャマイカ。


 メキシコ。


 アメリカ合衆国。


 四か国共同開催の女子ワールドカップ。


 柚月は。


 再び。


 日本代表として世界大会へ立った。


 もう若手ではない。


 経験者。


 チームを支える側。


 しかし。


 競争をやめたわけではなかった。


 早川莉奈。


 長崎美琴。


 日比谷玲奈。


 宮坂玲奈。


 かつて話を聞いていた選手たちは。


 今や。


 自分で世界を戦える選手へ成長していた。


 柚月が答えを教える必要はない。


 試合中。


 若手の方から言う。


「柚月さん、相手の右、戻り遅くなってます」


 柚月は笑う。


「じゃあどうする?」


 早川が答える。


「そこを使います」


「行ってこい」


 もう。


 自分たちで。


 見つけられる。


 日本は勝ち進む。


 苦しい試合。


 追う試合。


 守る時間。


 押し込む時間。


 全部を経験し。


 決勝。


 そして。


 優勝。


 女子ワールドカップ。


 2連覇。


 柚月は表彰台で若い選手たちを見ていた。


 自分が伝えてきた言葉。


 それが。


 言葉だけではなく。


 プレーとして。


 試合として。


 形になっていた。


 柚月は思った。


 これか。


 教えるって。


 自分と同じ選手を作ることではない。


 自分を超える選手が。


 自分とは違う答えを出せるようになること。


 それでいい。


 5 ブリスベン


 2032年。


 ブリスベンオリンピック。


 柚月にとって。


 最後のオリンピック。


 そして。


 最後の日本代表大会。


 ロサンゼルスから四年。


 母になり。


 もう一度ワールドカップを取り。


 そして。


 もう一度。


 五輪のピッチへ戻ってきた。


 代表の中心は。


 少しずつ。


 次の世代へ移っている。


 それでも。


 柚月は。


 ピッチに立つ以上。


 遠慮しない。


 走る。


 奪う。


 散らす。


 声を出す。


 競う。


「最後だから出してもらう」


 そんなつもりは。


 一度もなかった。


 自分が必要だから選ばれる。


 それ以外。


 いらない。


 原町監督も。


 扱いを変えなかった。


「大船」


「はい」


「今日、スタメン外すぞ」


 柚月。


「了解です」


「不満は?」


「あります」


 原町監督が笑う。


「あるのか」


「そりゃありますよ。でも、出たらやります」


「それでいい」


 最後まで。


 選手。


 最後まで。


 競争。


 それが。


 柚月らしかった。


 日本は。


 また。


 勝ち進む。


 そして。


 決勝。


 勝利。


 金メダル。


 オリンピック。


 2連覇。


 ロサンゼルス。


 ブリスベン。


 二大会連続。


 女子ワールドカップも。


 二大会連続。


 柚月が長い間、若い選手たちへ伝えてきたものは。


 結果としても。


 確かに実った。


 6 代表最後の日


 表彰式。


 二つ目のオリンピック金メダル。


 柚月はそれを見ながら。


 少し笑った。


 ロサンゼルスのとき。


 初めて手にした金。


 あのときは。


 ただ。


 嬉しかった。


 今は。


 少し違う。


 若い選手たち。


 自分より先に表彰台へ駆け上がる。


 はしゃぐ。


 泣く。


 笑う。


 その姿を見ることが。


 嬉しかった。


 そして。


 柚月は決めていた。


 ここで。


 日本代表を離れる。


 記者会見。


「大船選手。代表については今後も続けますか?」


 柚月は少し笑った。


「いえ」


 会場が静かになる。


「今日で代表は終わりにします」


 驚き。


 記者たちが一斉にペンを動かす。


 柚月は続けた。


「まだ現役は続けます。でも、日本代表としては今日が最後です」


「理由は?」


 少し考える。


「やり切ったからです」


 それだけ。


 でも。


 十分だった。


「次の世代がもう育ってます。うちがいないと困るチームじゃない」


 早川。


 美琴。


 日比谷。


 宮坂。


 そして。


 さらに下の世代。


「それって、すごくいいことだと思うんです」


 柚月は笑った。


「うちが代表入ったころ、上の人たちに追いつきたいって思ってました。でも、今は追いつかれたし、抜かれ始めてる」


 記者席に笑い。


「悔しくないですか?」


「悔しいですよ」


 即答。


 また笑い。


「でも、それでいいんです」


 そして。


 少しだけ。


 声を落とす。


「代表って、誰か一人のものじゃないから」


 日本女子代表。


 長い歴史。


 先輩。


 自分たち。


 後輩。


 その先。


 続いていく。


「次の人に渡します」


 7 最後の四年間


 代表を離れても。


 柚月はクラブで現役を続けた。


 2033年。


 2034年。


 2035年。


 そして。


 2036年。


 年齢。


 身体。


 回復速度。


 少しずつ変わる。


 若いころと同じにはいかない。


 でも。


 経験が増える。


 試合の読み。


 位置取り。


 力の使い方。


 言葉。


 若手への伝え方。


 選手として。


 まだ。


 やれる。


 だから。


 続けた。


 娘の百合子も少しずつ大きくなった。


 スタンド。


「ママー!」


 柚月が手を振る。


 試合後。


 百合子が駆けてくる。


「ママ、今日かった?」


「勝ったぞ」


「ゴールした?」


「今日はしてねぇ」


「じゃあパパのほうがすごい?」


 柚月。


「何でそうなる!」


 徹。


 大笑い。


 家族。


 サッカー。


 日常。


 それが。


 柚月の新しい人生になっていた。


 そして。


 2036年シーズン。


 最終戦。


 試合終了。


 柚月はピッチ中央で。


 長い時間。


 芝を見ていた。


 ここまで。


 走った。


 本当に。


 長かった。


 仙台ジュニア。


 ユリ。


 代表。


 パリ。


 ワールドカップ。


 怪我。


 ロサンゼルス。


 母になった。


 ワールドカップ2連覇。


 オリンピック2連覇。


 代表引退。


 そして。


 今日。


 現役選手として。


 最後。


 スタンド。


 徹。


 百合子。


 仲間。


 かつての代表選手たち。


 若手。


 指導者。


 たくさんの人。


 柚月は。


 深く頭を下げた。


 そして。


 顔を上げる。


 涙。


 でも。


 笑顔。


「ありがとうございました!」


 選手。


 大船柚月。


 そのキャリアは。


 ここで終わった。


 でも。


 サッカーとの関係まで。


 終わったわけではない。


 むしろ。


 ここから。


 次の夢が。


 本当の形を持ち始める。


 最終話予告

 第100章「背中の向こう側」


 2036年。


 大船柚月。


 現役引退。


 長い選手生活が終わる。


 ワールドカップ。


 2連覇。


 オリンピック。


 2連覇。


 そして。


 娘、百合子。


 夫、徹。


 家族との新しい時間。


 だが。


 柚月は。


 サッカーから離れない。


 選手時代から続けてきた。


 若手への言葉。


 世界で戦うための考え方。


 怪我との向き合い方。


 負けた日の過ごし方。


 そして。


 仲間を信じること。


 それを。


 今度は。


 指導者として伝えていく。


 時間は流れ。


 日本女子代表。


 新体制。


 発表。


 監督。


 大船柚月。


 コーチ。


 大船徹。


 かつて夫婦として。


 ピッチの外と中から支え合った二人が。


 今度は。


 同じベンチから。


 日本代表を支える。


 柚月が初めて監督として代表選手たちの前に立つ。


 そして。


 ホワイトボードへ。


 一つだけ。


 言葉を書く。


「自分たちで答えを見つける」


 次回。


 最終章。


 第100章「背中の向こう側」。


 選手として。


 すべてをやり切った。


 だから。


 次は。


 背中を追われる人ではなく。


 次の背中を育てる人になる。


 大船柚月と。


 大船徹。


 二人の物語。


 最後の章へ。

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