十一人目
第96章 十一人目
120分を戦い終えても、日本とアメリカの間には何一つ決着がつかなかった。
日本1-1アメリカ。
90分。
延長前半。
延長後半。
互いに何度も相手ゴールへ迫り、何度も身体をぶつけ、何度も最後の一歩で止めた。
もう戦術だけで動ける時間ではなかった。
脚は重い。
呼吸も荒い。
筋肉には疲労が蓄積し、何人もの選手が足を伸ばしながらセンターサークル付近へ集まっている。
それでも。
最後の勝負が残っていた。
PK戦。
ゴールまで11メートル。
そこに、この長い決勝のすべてが託される。
1 もう、気力しかない
日本代表の円陣。
原町監督は選手たちを見回した。
誰も余裕のある顔などしていない。
柚月も。
森岡美里も。
正木静香も。
宮野沙季も。
早川莉奈も。
伊達葵も。
120分を戦い抜いた顔だった。
原町監督が静かに言った。
「ここまで来たら、技術だけじゃない」
誰も目を逸らさない。
「外すことはある。止められることもある。でも、それで誰か一人が負けたことにはならない」
森岡がうなずく。
「全員でここまで来ました」
「そうだ」
柚月も拳を出した。
「最後まで全員で行こう」
伊達葵がその拳へ重ねる。
「一本でも止める」
正木。
早川。
宮野。
そして全員。
「日本!」
一方。
アメリカも円陣を組んでいた。
主将エミリー・カーター。
ソフィア・ミラー。
ハンナ・ウィルソン。
マディソン・クラーク。
オリビア・ブラウン。
GKレイチェル・アンダーソン。
誰一人、下を向いていない。
ここまで来た以上。
どちらも譲る理由などなかった。
実況席。
アナウンサーが低い声で話す。
「120分では決着がつきませんでした。日本1-1アメリカ。オリンピック金メダルの行方は、PK戦です」
徹はしばらく言葉を探してから答えた。
「もう……ここまで来たら、どっちが強いとか弱いとかいう話じゃないですね。両チームとも全部出しました。あとは、自分と仲間を信じるだけだと思います」
スタンドも異様な空気だった。
アメリカサポーター。
日本サポーター。
2011年ワールドカップ優勝メンバー。
仙台ジュニア時代の仲間たち。
誰も座らない。
誰も簡単には声を出せない。
そして。
最初のキッカーが歩き出した。
2 五人では終わらない
日本、先攻。
一人目。
森岡美里。
主将。
ボールを置く。
レイチェル・アンダーソンがゴールライン中央で構える。
笛。
森岡。
右足。
ゴール左。
成功。
日本1-0アメリカ。
アメリカ一人目。
エミリー・カーター。
伊達葵。
構える。
エミリー。
右。
葵も読む。
だが届かない。
成功。
1-1。
二人目。
日本。
正木静香。
90分の土壇場で同点PKを決めた選手。
もう一度。
正木はGKを最後まで見る。
右足。
中央やや右。
レイチェルは左。
成功。
2-1。
アメリカ二人目。
ソフィア・ミラー。
右上。
成功。
2-2。
三人目。
日本。
早川莉奈。
助走。
迷わない。
左下。
成功。
3-2。
アメリカ。
マディソン・クラーク。
強烈な右足。
ゴール右。
成功。
3-3。
四人目。
日本。
宮野沙季。
ガーナ戦。
フランス戦。
大会を通して重要な得点を決めてきた。
今度はPK。
右。
成功。
4-3。
アメリカ四人目。
オリビア・ブラウン。
伊達が最後まで待つ。
オリビア。
左。
葵。
逆。
成功。
4-4。
そして五人目。
日本。
大船柚月。
スタジアムの音が、一瞬遠くなったように感じた。
ボールを置く。
11メートル先。
レイチェル・アンダーソン。
柚月は右ふくらはぎへ触れなかった。
もう。
確認する必要はない。
ここまで一緒に来た脚。
助走。
右足。
ゴール右上。
レイチェル。
飛ぶ。
届かない。
成功。
5-4。
柚月は小さく拳を握った。
胸の奥。
ユリ。
「ナイス」
「まだ終わってねぇべ」
アメリカ五人目。
ハンナ・ウィルソン。
決めれば継続。
外せば日本金メダル。
伊達葵がゴールラインへ立つ。
ハンナ。
助走。
右足。
左上。
葵も飛ぶ。
届かない。
ネット。
5-5。
五人。
全員成功。
実況席。
「五人を終えて、5-5! 誰一人外しません!」
徹は思わず息を吐いた。
「いやあ……すごいですね」
スタンドでも。
誰かが口にした。
「もう両方に金メダルでいいじゃないか……」
似た声が、アメリカ側からも聞こえる。
五人ずつ。
120分。
それでも。
まだ決まらない。
実況アナウンサーも、少しだけ感情を漏らした。
「こんなことを言ってはいけないのかもしれませんが……もう、両チームに金メダルをあげてほしい。そんな気持ちになってしまいます」
徹が静かに答える。
「分かります。でも、サッカーは決めなきゃいけないんですよね」
「はい」
「だから、最後まで見届けるしかないです」
3 サドンデス
六人目。
日本。
藤森彩香。
成功。
アメリカも成功。
6-6。
七人目。
日本。
宮原彩乃。
成功。
アメリカ。
成功。
7-7。
八人目。
國武真央。
成功。
アメリカ。
成功。
8-8。
九人目。
西野千尋。
大きく深呼吸。
右足。
左下。
成功。
アメリカも。
成功。
9-9。
選手たちの表情から。
もはや笑みは消えていた。
怖いからではない。
あまりにも長い。
一人が決める。
また一人が決める。
終わらない。
永遠に続くのではないか。
そんな感覚さえ生まれていた。
実況。
「九人目まで終えて9-9。まだ決まりません!」
徹。
「もう、蹴る方も待ってる方も相当きついですよ」
十人目。
日本。
長崎美琴。
ゆっくりボールを置く。
レイチェルを見る。
助走。
右。
レイチェルも右。
触れそうになる。
しかし。
ボールは指先を抜けた。
成功。
10-9。
アメリカ十人目。
サラ・ジョンソン。
伊達。
構える。
サラ。
左足。
ゴール中央。
葵が右へ動く。
成功。
10-10。
とうとう。
十人。
それでも。
決着がつかなかった。
センターサークル。
日本の選手たちが一斉にゴールを見る。
次。
十一人目。
もう。
フィールドプレーヤーではない。
GK。
伊達葵。
実況アナウンサーが驚きを隠さない。
「ついに……キーパーまで順番が回ってきました!」
徹も小さく笑うしかなかった。
「こんな決勝、本当にあるんですね」
伊達がゆっくり前へ歩き始める。
柚月がすれ違いざまに言った。
「葵」
伊達が振り返る。
「ん?」
「思いっきり」
伊達が笑う。
「言われなくても」
4 十一人目、日本
伊達葵。
GK。
しかし、練習では当然PKを蹴ることもある。
ただ。
オリンピック決勝。
PK戦。
十一人目。
これは。
練習とは何もかも違う。
ゴールにはレイチェル・アンダーソン。
GK対GK。
伊達はボールを置く。
少し後ろへ下がる。
レイチェルが両腕を広げる。
主審。
確認。
笛。
伊達。
助走。
右足。
強烈。
ゴール左上。
レイチェルが飛ぶ。
しかし。
届かない。
ネット。
日本11-10アメリカ。
伊達は拳を握った。
日本側スタンド。
大歓声。
だが。
まだ。
終わっていない。
アメリカが決めれば。
さらに続く。
そして。
アメリカ十一人目。
GK。
レイチェル・アンダーソン。
先ほどまでゴールを守っていた選手が。
今度はキッカーになる。
伊達葵がゴールへ戻る。
実況。
「日本11-10。次はアメリカのGK、レイチェル・アンダーソン。決めれば十二人目へ。伊達が止めれば、その瞬間、日本の金メダルです」
徹はもう。
ほとんど言葉を出せなかった。
「……すごい状況です」
5 自分なら、どこへ蹴る
レイチェルがボールを置く。
伊達はゴールライン中央へ立った。
相手もGK。
だからこそ。
考える。
自分なら。
この状況で。
どこへ蹴る。
強く蹴るか。
コースを狙うか。
GKは普段からシュートを受けている。
PK練習でも相手GKの動きを見る。
だから。
レイチェルも。
伊達の心理を読む。
伊達も。
レイチェルの心理を読む。
主審が準備を確認する。
ほんの数秒。
だが。
伊達には長く感じられた。
レイチェルの立ち方。
軸足。
助走の角度。
視線。
右を見る。
一度中央。
また右。
伊達は動かない。
心の中。
右か。
左か。
中央か。
そして。
ふと。
思った。
自分なら。
ここで。
絶対に外したくない。
なら。
極端な隅ではなく。
少し安全なコースへ蹴りたくなる。
でも。
相手GKも、それを読む。
だから。
最後に。
さらに逆を考える。
駆け引き。
一瞬の中に、いくつもの選択肢が生まれる。
伊達は深呼吸した。
「来い」
主審。
笛。
6 最後の一本
レイチェル。
助走。
一歩。
二歩。
右足。
伊達は最後まで待つ。
レイチェルの軸足。
身体。
蹴る直前。
わずかに開く。
伊達。
反応。
右。
レイチェルのシュート。
ゴール左から見て。
伊達の右下。
強い。
低い。
伊達。
飛ぶ。
右腕。
伸ばす。
指先。
ではない。
手のひら。
ボールへ。
触れた。
弾く。
外。
一瞬。
スタジアム。
無音。
そして。
主審。
笛。
終わった。
PK 日本11-10アメリカ。
日本。
金メダル。
伊達は地面へ倒れたまま。
ほんの一秒。
二秒。
何が起きたのか理解できなかった。
次の瞬間。
藤森が走ってくる。
「葵!」
森岡。
柚月。
正木。
早川。
宮野。
美琴。
全員。
伊達へ飛び込む。
「止めた!」
「葵!」
「金だ!」
「やった!」
伊達はようやく叫んだ。
「うわあああああ!」
日本の選手たちが重なり合う。
ベンチからも全員。
原町監督。
岩出コーチ。
スタッフ。
泣いている。
笑っている。
何人かはその場に倒れ込んでいる。
柚月は仰向けになった。
空。
ロサンゼルスの夜空。
涙が流れる。
「取った……」
その横。
森岡は芝へ座り込んだまま泣いている。
正木は両手で顔を覆う。
伊達もまだ仲間に囲まれている。
一方。
アメリカ。
レイチェル・アンダーソン。
その場に座り込む。
エミリー・カーターが歩み寄る。
肩へ手を置く。
ソフィア・ミラー。
ハンナ・ウィルソン。
何人もの選手が仰向けになった。
泣く者。
座り込む者。
目を閉じる者。
負けた。
でも。
もう。
何も残っていないほど。
戦った。
120分。
PK11人。
全部。
出した。
7 言葉が出ない実況席
実況席。
アナウンサーは。
数秒。
何も言えなかった。
本当に。
言葉が出なかった。
徹も。
両手で顔を覆っている。
そして。
ようやく。
実況アナウンサーが声を絞り出した。
「……終わりました」
それだけだった。
少し間を置く。
「日本……勝ちました」
声が震える。
「PK戦、11-10。日本女子代表、オリンピック……初の金メダルです」
徹はまだ声を出せない。
実況が続ける。
「120分でも決まらず。PK戦も十一人目。最後は伊達葵が止めました」
沈黙。
そして徹。
ようやく。
「……すごい」
それしか言えなかった。
「もう、本当に……すごい試合でした」
実況アナウンサーが聞く。
「大船さん。今、何を言葉にしたらいいでしょう」
徹は少し笑い。
少し泣いた。
「分かんないです」
正直だった。
「日本もすごかった。でも、アメリカも……すごかったです」
「はい」
「どっちも、もう立てないくらいまで戦った。こんな試合……どっちかが負けなきゃいけないのが、かわいそうなくらいです」
スタンド。
アメリカサポーターが立ち上がる。
拍手。
最初は。
小さかった。
だが。
次第に広がる。
日本へ。
そして。
アメリカへ。
両方へ。
日本側サポーターも拍手を返す。
2011年優勝メンバーたちも。
涙を流しながら拍手する。
アメリカの選手たちが立ち上がる。
エミリー・カーターが森岡美里へ近づく。
握手。
そして。
抱き合う。
レイチェル・アンダーソン。
伊達葵。
GK同士。
レイチェルは悔し涙を流しながらも。
伊達へ手を差し出した。
伊達が握る。
そして二人。
抱き合った。
言葉は。
多く必要なかった。
アメリカのローランではなく、アメリカ代表監督も日本ベンチへ向かい、原町監督と握手を交わした。
コーチ。
スタッフ。
互いに称える。
負けた側が。
勝った側を讃える。
勝った側も。
負けた側へ最大限の敬意を返す。
柚月はその光景を見ながら。
胸の奥で。
ユリへ言った。
「取ったよ」
返事。
すぐ。
「知ってるっちゃ」
柚月は泣きながら笑った。
「やっぱそれ言うんだな」
「見てたもん」
「長かったべ」
「長すぎだべ」
「PK十一人目まで行くとは思わなかった」
「うちも」
柚月は空を見る。
オリンピック。
金メダル。
ようやく。
本当に。
届いた。
次回予告
第97章「金色の表彰台」
120分。
1-1。
PK戦。
十一人目。
最後は伊達葵。
スーパーセーブ。
日本女子代表。
オリンピック史上初の金メダル。
選手たちはまだ。
信じきれない。
泣いて。
笑って。
芝へ倒れ。
抱き合う。
そして。
表彰式。
銀メダルのアメリカ。
銅メダルを手にしたチーム。
そして。
最後。
日本。
一人ずつ。
金メダルを首へかけられる。
大船柚月は。
その重さを手のひらで確かめる。
パリで届かなかった色。
ユリと夢見た場所。
右ふくらはぎのけがから戻り。
ようやく手にした金。
しかし。
表彰台へ立った柚月は。
アメリカの選手たちを見る。
そして思う。
この金メダルは。
相手が最後まで戦ってくれたからこそ。
これほど重い。
次回、第97章「金色の表彰台」。
勝ったから終わりではない。
戦い抜いた相手へ敬意を返して。
初めて。
金メダルは、本当の意味で輝き始める。




