先に動いたアメリカ
第94章 先に動いたアメリカ
前半を0-0で終えた日本は、ハーフタイムのロッカールームで大きく戦い方を変えた。
前半、日本はアメリカの強烈なフィジカルと素早い寄せをかわすため、ワンタッチ、ツータッチでボールを早く離していた。
それは確かに効いた。
しかし、アメリカも途中から対応した。
ボールを持っている選手へ行くのではなく、次に受ける選手を先回りして消す。
日本が速く離すことそのものを、待たれるようになっていた。
原町監督はホワイトボードの前に立ち、選手たちへ問いかけた。
「速く離すことを待たれてる。なら次は?」
柚月は長崎美琴を見た。
早川莉奈を見る。
そして正木静香。
「今度は、あえて持ちます」
美琴が顔を上げた。
柚月は続ける。
「前半で、うちらはすぐ離すって覚えさせた。だから今度は持つ。美琴が身体入れて相手を引きつける。莉奈が一人かわす。そこに向こうが寄ってきたら、初めて離す」
原町監督がうなずく。
「正解だ」
森岡美里が言った。
「相手が次の受け手を消そうとするなら、最初の選手がそのまま持って進めばいい」
「そうだ」
原町監督はホワイトボードへ大きく書いた。
速く離す。
その下。
持つ。
「どっちかが正解じゃない。相手が何を待ってるかで変えろ」
柚月もうなずいた。
決勝。
一つの正解を見つけたら終わりではない。
相手がそれを覚えた瞬間、自分たちから捨てる。
それが必要だった。
1 今度は持つ
後半開始。
アメリカは前半と同じように日本のパスコースを先回りして消そうとしてきた。
後半3分。
美琴が中央で受ける。
エミリー・カーターが寄せる。
前半ならすぐ柚月へ落としていた場面。
しかし。
美琴は離さない。
身体を入れる。
エミリーがさらに寄る。
もう一人、ソフィア・ミラー。
二人。
美琴はそれでもボールを残す。
実況席。
「長崎美琴、今度は持ちます!」
徹がすぐ反応する。
「前半と変えましたね。アメリカがパスの受け手を先に消してくるので、今度は持てる選手が自分で相手を引きつけています」
美琴。
二人を引きつける。
その瞬間。
左。
國武真央。
完全に空く。
美琴から國武。
國武が前へ。
アメリカの守備が慌てて戻る。
クロス。
正木。
頭。
わずかに届かない。
だが。
日本がまた一つ、アメリカの守備を動かした。
後半7分。
今度は早川。
受ける。
一人目。
細かなタッチ。
かわす。
二人目。
来る。
早川はそこで初めて柚月へ預ける。
柚月。
ワンタッチ。
森岡。
右。
宮原彩乃。
宮原がライン際を上がる。
アメリカの守備陣が一気に下がる。
実況。
「日本、後半は持つ時間と離す時間を使い分けています!」
徹。
「いいですね。アメリカに次を読ませなくなっています」
しかし。
アメリカも強い。
日本が少し優位になりかけても。
最後は止める。
サラ・ジョンソン。
メーガン・トンプソン。
二人のセンターバックは崩れない。
後半12分。
正木が左で切り返す。
一人。
二人。
中央へ折り返す。
柚月。
右足。
シュート。
サラがブロック。
後半15分。
森岡。
早川。
美琴。
細かくつなぐ。
森岡がペナルティーエリアへ入る。
シュート。
レイチェル・アンダーソン。
横っ飛び。
キャッチ。
日本も攻める。
アメリカも攻める。
依然として一進一退。
スコアは動かない。
2 先に動かしたのはアメリカ
後半20分を過ぎる。
両チームとも疲労が見え始める。
だが。
アメリカのフィジカルは落ちない。
エミリー・カーター。
ソフィア・ミラー。
マディソン・クラーク。
オリビア・ブラウン。
ハンナ・ウィルソン。
まだ走る。
まだ身体を当てる。
日本も食らいつく。
後半24分。
アメリカ。
右。
マディソン。
國武がつく。
マディソン。
中央へ。
ソフィア。
シュート。
藤森彩香。
ブロック。
こぼれ球。
ハンナ。
西野千尋。
身体を入れる。
クリア。
実況。
「日本、最後は割らせません!」
徹。
「本当にこの最終ラインは強いですね。ただ、決勝は一瞬です。一度だけ対応が遅れたら、そこで決まります」
その言葉の重さが。
数分後。
現実になる。
後半30分。
日本が右サイドから攻め込んだ。
宮原。
早川。
柚月。
美琴。
正木。
何人も前へ。
柚月が中央から右へ振る。
宮原がクロス。
森岡。
ヘディング。
アメリカDFがブロック。
こぼれ球を早川が拾う。
もう一度。
シュート。
サラ・ジョンソン。
身体を投げ出す。
ブロック。
ボールがアメリカ側へ転がった。
その瞬間。
エミリー・カーター。
拾う。
前を見る。
日本は。
前へ出ている。
原町監督が叫んだ。
「戻れ!」
だが。
アメリカの切り替えは速かった。
エミリー。
ソフィア。
ワンタッチ。
右。
マディソン。
一気に前。
日本のDFが戻る。
國武。
藤森。
西野。
宮原。
しかし。
数的不利。
マディソンが中央へ切れ込む。
藤森が出る。
そこで。
パス。
ハンナ・ウィルソン。
西野の背後。
完全に抜けた。
伊達葵。
一対一。
実況。
「ハンナ・ウィルソン、抜けた! 伊達葵との一対一!」
葵が前へ出る。
ハンナは顔を上げる。
葵が距離を詰める。
一歩。
二歩。
シュート。
ではない。
ハンナの右足がボールの下へ入った。
ふわり。
ループ。
葵が振り返る。
ボールはその頭上を越える。
ゴールへ。
藤森が戻る。
届かない。
ポスト。
内側。
ネット。
日本0-1アメリカ。
後半30分。
ハンナ・ウィルソン。
アメリカ。
先制。
スタジアムが爆発したような歓声に包まれた。
実況。
「アメリカ先制! 後半30分! 日本が攻め込んだところから一気のカウンター! 最後はハンナ・ウィルソンのループシュート!」
徹も息を飲んだ。
「これは……見事ですね。日本もかなり前に人数をかけていました。その一瞬を完璧に突かれました」
日本の選手たちの顔に、初めて明確な動揺が走った。
後半30分。
残り15分。
決勝。
アメリカ。
1-0。
さすがに。
まずい時間帯だった。
早川がうつむく。
宮原が悔しそうに唇を噛む。
藤森がゴールを見る。
そして。
その空気を。
柚月が一声で切った。
「下向くな!」
全員が柚月を見る。
柚月はセンターサークルへ戻りながら叫ぶ。
「まだ終わってねぇぞ!」
森岡もすぐ反応する。
「そう! まだ15分ある!」
柚月。
「一点だ! 一点取れば戻る!」
正木も拳を握る。
「行きましょう!」
日本はもう一度、前を向いた。
3 減っていく時間
再開。
日本は攻める。
ただし。
焦りすぎない。
柚月が言う。
「雑に蹴んな!」
早川。
「はい!」
日本はパスをつなぐ。
美琴。
柚月。
森岡。
右。
宮原。
クロス。
アメリカがクリア。
後半34分。
正木。
左。
一人かわす。
中へ。
早川。
シュート。
レイチェル・アンダーソン。
セーブ。
後半36分。
柚月。
中央。
ミドル。
サラ・ジョンソン。
ブロック。
後半38分。
日本。
CK。
藤森。
ヘディング。
ゴール上。
時間が。
減る。
実況。
「残り時間が少なくなってきました。日本、まだ同点ゴールを奪えません」
徹の声にも緊張が混じる。
「ただ、まだ一回あります。最後まで形を崩さないことですね」
後半40分。
アメリカサポーターの声がさらに大きくなる。
もう少し。
金メダルまで。
あと少し。
スタンドの雰囲気も。
少しずつ。
「アメリカ優勝」
その空気へ傾き始めていた。
後半42分。
アメリカ。
ボールを奪う。
無理に前へ行かない。
左。
右。
時間を使う。
日本が奪いに来る。
タッチライン。
外。
再開。
時計が進む。
柚月は何度も時計を見る。
まだ。
終わってない。
ユリの声。
「柚月」
「分かってる」
「下向くなよ」
「下向いてねぇ」
「なら行け」
「行くっちゃ」
4 後半44分
後半44分。
アメリカが右サイドでボールを運ぶ。
日本が必死に戻る。
國武が最後に身体を入れる。
ボールがゴールラインを割る。
コーナーキック。
アメリカ。
実況。
「アメリカのコーナーキック! 時間は後半44分!」
スタジアムが揺れる。
アメリカにとって。
ここで決めれば。
完全に終わる。
いや。
決めなくても。
ボールを相手陣内に置いて時間を使えばいい。
しかし。
アメリカは攻めた。
エミリー。
サラ。
メーガン。
ハンナ。
ソフィア。
ケイトリン。
アシュリー。
ほとんどのフィールドプレーヤーが、日本のペナルティーエリア周辺へ上がる。
後ろ。
広大なスペース。
残っているのは。
GKレイチェル・アンダーソン。
そして数人。
柚月が見た。
「……来る」
正木も見る。
「後ろ、めちゃくちゃ空いてます」
森岡が言う。
「取ったら一気に行くよ」
右コーナー。
アメリカ。
クロス。
高い。
サラ・ジョンソン。
藤森。
競る。
ボールがこぼれる。
セカンドボール。
ソフィア・ミラーが拾おうとする。
そこへ。
宮野沙季。
足を出す。
奪った。
「行け!」
柚月の声。
日本。
カウンター。
宮野。
柚月。
ワンタッチ。
早川。
アメリカの選手たちが一斉に戻り始める。
しかし。
遠い。
実況。
「日本、カウンター! アメリカの選手がほとんど上がっています!」
徹。
「行け! これは行けます!」
実況席でも、もはや冷静さを保つのが難しかった。
早川。
前。
正木。
正木が左へ走る。
柚月。
中央。
森岡。
右。
日本が一気にアメリカ陣内へ入る。
カウンターでやられた。
なら。
カウンターでやり返す。
正木。
柚月。
早川。
森岡。
細かくつなぐ。
アメリカDFが戻る。
正木から柚月。
柚月。
早川。
早川がペナルティーエリアへ。
右。
森岡。
森岡から中央。
正木。
正木が触る。
シュートコース。
サラ・ジョンソンが滑り込む。
正木は打たない。
柚月へ落とす。
柚月。
左足。
シュート。
アメリカDFが身体を入れる。
ボールのコースが変わる。
レイチェル・アンダーソン。
反応。
弾く。
こぼれ球。
美琴。
シュート。
またDF。
ボールが浮く。
レイチェル。
両手。
キャッチ。
実況。
「ああっ! レイチェル・アンダーソンがキャッチ!」
スタジアムのアメリカサポーターが一斉に立ち上がる。
もう。
終わった。
そんな空気が流れた。
日本側も。
一瞬。
静かになった。
しかし。
主審の笛。
鋭い。
選手たちが止まる。
実況。
「……笛です!」
徹。
「何だ?」
主審がペナルティーエリアを指す。
PK。
日本。
ペナルティーキック。
実況席。
「PK! PKです! 日本、PK獲得!」
アメリカの選手たちが一斉に主審へ集まる。
何があった。
リプレー。
柚月のシュート。
サラ・ジョンソンがコースへ入る。
その後。
浮いたボール。
メーガン・トンプソン。
身体を寄せる。
腕。
ボールが当たっていた。
ハンド。
主審。
確信。
PK。
実況。
「メーガン・トンプソンのハンド! 日本、後半44分、土壇場で同点のチャンスです!」
徹の声が震える。
「これは……大きい。ものすごく大きいです」
5 正木静香
誰が蹴る。
森岡。
柚月。
早川。
正木。
一瞬だけ視線が交わる。
柚月が正木を見る。
「行ける?」
正木はうなずいた。
「行きます」
迷いはなかった。
正木静香。
メキシコ戦。
アルゼンチン戦。
何度も一対一を冷静に決めてきた。
今度は。
オリンピック決勝。
後半44分。
日本0-1アメリカ。
外せば。
ほぼ終わる。
正木がボールを置く。
レイチェル・アンダーソン。
ゴールライン。
左右へ身体を動かす。
スタジアム。
圧倒的なブーイング。
実況。
「正木静香。日本の命運を懸けたPKです」
徹。
「正木選手なら大丈夫です。今まで何度も、一対一で相手GKを最後まで見て決めています」
柚月。
森岡。
早川。
宮野。
全員がペナルティーエリア外で見守る。
スタンド。
2011年メンバー。
真斗。
雅。
岩出。
全員。
息を止める。
正木。
深呼吸。
助走。
右足。
レイチェルが動く。
正木は最後まで見る。
ゴール。
右。
低い。
レイチェル。
逆。
ネット。
日本1-1アメリカ。
後半44分。
正木静香。
同点。
実況席。
「決まったああああああ!」
実況アナウンサーが叫ぶ。
そして。
隣。
徹も。
完全に解説者の顔を忘れた。
「よっしゃああああ!」
二人。
実況席で雄たけび。
スタジアムの日本側スタンドも爆発する。
正木は両拳を握って走る。
「よしっ!」
柚月。
一番に飛びつく。
「静香ああ!」
森岡。
宮野。
早川。
美琴。
全員。
正木を囲む。
正木は笑いながら叫ぶ。
「まだ終わってない!」
柚月が答える。
「んだ! ここからだ!」
1-1。
土壇場。
日本。
追いついた。
アメリカの選手たちは呆然としていた。
あと少しだった。
金メダルまで。
本当に。
あと少し。
でも。
日本は。
戻ってきた。
2011年。
二度追いついた日本。
そして今。
また。
土壇場で。
追いついた。
スタンドの2011年メンバーたちも立ち上がって拍手していた。
試合は。
まだ終わらない。
そして。
この時点でも。
まだ誰も知らなかった。
この1-1が。
90分の終着点ではないことを。
120分でも。
終わらないことを。
そして。
11人目まで続くPK戦へつながっていくことを。
次回予告
第95章「終わらない決勝」
後半44分。
アメリカのコーナーキック。
セカンドボールを宮野沙季が奪う。
日本。
一気のカウンター。
細かいパス交換。
大船柚月のシュート。
そしてアメリカDF、メーガン・トンプソンのハンド。
PK。
正木静香。
決める。
日本1-1アメリカ。
土壇場。
日本は再び試合を振り出しへ戻した。
しかし。
アメリカも終わらない。
日本も止まらない。
アディショナルタイム。
互いに勝ち越しを狙う。
90分。
それでも。
決まらない。
延長前半。
延長後半。
疲労。
けいれん。
交代。
足が止まりかけても。
意地だけで走る。
2011年。
二度追いつき。
最後まで決着しなかったあの決勝を思わせるように。
今回も。
終わらない。
次回、第95章「終わらない決勝」。
金メダルを懸けた試合は。
90分では。
まだ終わらない。




