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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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最後の相手

 第92章 最後の相手


 準決勝、日本3-1フランス。


 前半にエマ・ルクレールのゴールで先制されながら、後半20分に宮野沙季、41分に日比谷玲奈、45分に早川莉奈。日本はこの大会で初めて先制を許した試合をひっくり返し、ついにロサンゼルスオリンピックの決勝へ進んだ。


 残された試合は、あと一つ。


 その相手が決まった。


 アメリカ。


 原町監督がミーティングルームのホワイトボードへ、その国名をゆっくり書いた。


 日本対アメリカ。


 誰も驚かなかった。


 むしろ、どこかで全員が予想していた。


 開催国。


 世界屈指の選手層。


 圧倒的な身体能力。


 そして、日本に対する強烈な雪辱心。


 ワールドカップ決勝。


 日本はアメリカを3-1で破り、世界一になった。


 大船柚月が右ふくらはぎを痛めたのも、あの試合だった。


 だから決勝カードが決まった瞬間、柚月の頭には得点や歓喜より先に、あの右脚へ走った痛みが蘇った。


 世界一。


 歓声。


 表彰。


 その裏で始まった長いリハビリ。


 走れない日。


 予定より先へ進もうとして止められた日。


 怖くて踏み込めなかった日。


 徹に「一日早く進むために、一か月を失うつもりか」と言われた日。


 そして、ようやく代表へ戻った日。


 柚月はホワイトボードの「アメリカ」という文字を見ながら、右ふくらはぎへそっと手を当てた。


 今は痛くない。


 その事実だけで、あのころとは違った。


 原町監督が口を開く。


「ワールドカップで勝った」


 誰も動かない。


「でも、その試合は今日から忘れろ」


 早川莉奈が顔を上げた。


 原町監督は続ける。


「3-1で勝ったことも、向こうの守り方も、こっちが使った攻撃も、参考にはする。ただし、そのまま使えると思うな」


 岩出コーチが映像を流した。


 現在のアメリカ。


 ワールドカップで戦ったときよりも、明らかにフィジカルが上がっている。


 中盤で日本の選手が身体を寄せる。


 アメリカの選手は倒れない。


 背中で相手を押さえながらキープし、そのまま次のプレーへ移る。


 別の場面。


 サイド。


 一人かわす。


 身体を当てられても軸がぶれない。


 さらにもう一人。


 突破。


 そしてクロス。


 原町監督が映像を止めた。


「前より強い」


 宮野沙季がうなずく。


「体幹ですね」


「そうだ」


 アメリカには大柄な選手が多い。


 しかし、単に身長が高いだけではない。


 身体の中心がぶれない。


 ボールを持った状態で接触されても踏ん張れる。


 キープ力。


 スタミナ。


 攻撃力。


 突破力。


 どれもワールドカップのころより高い。


 森岡美里が言った。


「一人で当たりに行ったら、持っていかれそうですね」


「その可能性が高い」


 柚月も映像を見つめていた。


 アメリカの選手が中央で背負う。


 身体をぶつけられても、ほとんど姿勢が変わらない。


 そのまま反転。


 前進。


 柚月が小さく言う。


「一人で止めようとしない方がいいですね」


 アルゼンチン戦でも使った考え方。


 最初の一人が全部を止めようとしない。


 方向を限定する。


 二人目。


 三人目。


 ただし、アメリカはアルゼンチンとも違う。


 一度身体を入れられても、それを押し返して前へ出てくる。


 単純な数的優位だけでは止めきれない。


 原町監督が尋ねた。


「じゃあ、どうする?」


 柚月は少し黙った。


 映像を見続ける。


 大きい。


 強い。


 速い。


 だが、何度か同じ場面を見ているうちに、一つの特徴が目についた。


「切り返し」


 原町監督が見る。


「続けろ」


「身体ぶつけると強い。でも、細かく方向変えさせると一瞬遅れます」


 映像を戻す。


 早川も前へ身を乗り出す。


 大柄なアメリカのDF。


 正面には強い。


 縦へ来る相手にも速い。


 しかし。


 右。


 左。


 もう一度右。


 細かく身体の向きを変えさせられたとき。


 ほんの少し。


 足が遅れる。


 長崎美琴も気づいた。


「重心を何回も動かされるのが嫌なんだ」


 柚月がうなずく。


「たぶん」


 原町監督が別の映像を流す。


 アメリカの中盤。


 日本より一回り身体が大きい選手もいる。


 一度寄せれば強い。


 だが相手がワンタッチで外す。


 追う。


 今度は反対。


 また身体の向きを変える。


 そこにはわずかな遅れが生じる。


「ここだな」


 原町監督が画面を止めた。


 ホワイトボードへ書く。


 小回り。


 そしてもう一つ。


 連続方向転換。


「一回で抜く必要はない」


 柚月が言う。


「右に動かして左。前に出させて戻す。また右。身体の向きを何回も変えさせる」


 早川が続ける。


「大きい選手の強さを、真正面から受けない」


「んだ」


 正木静香が少し笑った。


「じゃあ私は?」


 柚月が振り返る。


「走る」


 正木が苦笑する。


「結局それですか」


「でも一直線じゃねぇぞ」


 柚月は指で小さく蛇行するような動きを作った。


「中入って、外出て、また中。相手に何回も向き変えさせる」


 正木の表情が変わる。


「なるほど」


 宮原彩乃と國武真央も同じだった。


 サイドを一直線に走るだけではない。


 内側。


 外側。


 重なる。


 離れる。


 もう一度重なる。


 日本が持つ「小回り」を、個人だけではなくチーム全体で使う。


 原町監督が言った。


「ワールドカップで勝った方法を再現するな」


 森岡がうなずく。


「今のアメリカに勝つ方法を作る」


「そうだ」


 決勝。


 最後の一試合。


 だからこそ、過去の成功に頼らない。


 その日の夜。


 柚月は宿舎の窓からロサンゼルスの街を眺めていた。


 スマートフォンが震える。


 徹。


 短いメッセージだった。


『あと一つ。気負いすぎるなよ。いつものお前らしく行け。楽しんでこい』


 柚月は画面を見ながら笑った。


「金メダル取りに行くんだぞ」


 声に出してみる。


 すると、以前と同じ返事が聞こえてくるような気がした。


 だから楽しめ。


 柚月は返信した。


『分かってる。取ってくる』


 そして。


 もう一人。


 どうしても思い出す存在がいた。


 ユリ。


 オリンピック決勝。


 もし生きていたら。


 もしあの日がなかったら。


 もしかしたら。


 同じユニフォームを着て、同じピッチに立っていたかもしれない。


 柚月はベッドへ腰を下ろした。


「ユリも、ここ立ちたかったべな」


 胸の奥。


 返事はすぐに来た。


「そりゃ立ちたかったべ」


 柚月は目を閉じる。


「でもさ」


 ユリの声はいつものように明るかった。


「柚月が立ってんだから、それでいいっちゃ」


「よくないべ」


「なんで」


「一緒に立ちたかった」


 少しだけ沈黙。


 そして。


「だったら一緒に立ってることにすればいいべ」


 柚月は思わず笑った。


「雑だなぁ」


「うるさい。決勝前に泣くなって」


「泣いてねぇ」


「泣きそうだべ」


「泣いてねぇって」


 いつものやり取り。


 その声のおかげで、胸の奥にあった重さが少しだけ軽くなった。


 そして決勝当日。


 オリンピック閉幕まで、あと二日。


 その前には三位決定戦が行われ、銅メダルの行方が決まった。


 残る女子サッカーの試合は、一つ。


 決勝。


 スタジアム周辺は朝から異様な熱気に包まれていた。


 当然、ほとんどがアメリカの応援。


 開催国。


 赤。


 白。


 青。


 巨大な国旗。


 歓声。


 日本代表のバスが到着しただけで、外から地鳴りのような音が聞こえる。


 しかし、日本側のスタンドにも特別な姿があった。


 2011年。


 ドイツ。


 女子ワールドカップ。


 あの大会で世界一になった日本代表のメンバーたち。


 澤穂希。


 宮間あや。


 海堀あゆみ。


 大野忍。


 安藤梢。


 岩清水梓。


 阪口夢穂。


 近賀ゆかり。


 熊谷紗希。


 そして、あの大会を戦った仲間たち。


 二度。


 アメリカにリードされた。


 二度。


 追いついた。


 延長でも諦めなかった。


 そしてPK戦。


 日本女子サッカー史上初のワールドカップ優勝。


 あの年。


 日本は東日本大震災に襲われていた。


 街がなくなった。


 家族を失った人がいた。


 仕事を失った人がいた。


 未来そのものが見えなくなった人もいた。


 そんな日本に。


 女子サッカー代表の優勝は、一つの明るい光をともした。


「まだ前を向いていい」


「もう一度立ち上がっていい」


 そう思わせてくれたチームだった。


 柚月にとって、それは単なる昔の代表ではなかった。


 ユリを失った年。


 自分の人生が大きく変わった年。


 その同じ2011年。


 テレビの中で最後まで諦めず、二度追いつき、世界一になった日本代表。


 あの姿を見ていたからこそ、もう一度ボールを蹴ろうと思えた日もあった。


 ウォーミングアップの途中。


 柚月がスタンドを見る。


 2011年のメンバーたちがいる。


 拍手。


 柚月は少し頭を下げた。


 すると胸の中から、ユリの声がした。


「懐かしいな」


「んだな」


「あの人ら、すげぇよな」


「すげぇよ」


「二回追いついたんだべ」


「んだ」


 柚月は芝の感触を確かめるように一歩踏み出した。


「じゃあ今日、先に取られても慌てんなよ」


 柚月は笑った。


「縁起でもねぇこと言うな」


「2011年みたいになるかもしんねぇべ」


「勝てば何でもいい」


「それでいい」


 一方。


 アメリカ側の空気も、尋常ではなかった。


 彼女たちにも忘れられない敗北がある。


 ワールドカップ・ブラジル大会。


 日本に敗れた決勝。


 世界一を奪われた悔しさ。


 今度は自国開催のオリンピック。


 満員のホーム。


 金メダルを懸けた決勝。


 これ以上ない雪辱の舞台。


 アメリカ代表の選手たちは、ウォーミングアップの段階から激しく身体を動かしていた。


 一つ一つのパス。


 シュート。


 球際。


 決勝前とは思えないほど強度が高い。


 岩出コーチが見ながら言った。


「かなり入ってますね」


 原町監督が答える。


「そりゃそうだ」


 アメリカにとっても。


 日本にとっても。


 この試合には、それぞれの歴史がある。


 でも。


 原町監督は最後のミーティングで、それを全部切った。


「2011年も忘れろ」


 選手たちが見る。


「ワールドカップ決勝も忘れろ」


 柚月も顔を上げる。


「アメリカの雪辱も、日本のパリの悔しさも、全部試合が始まるまでだ」


 ホワイトボード。


 0-0。


「笛が鳴ったら、これだけ」


 誰も声を出さない。


「歴史が点を取るわけじゃない」


 森岡がうなずく。


「今日の選手が取る」


「そうだ」


 そして。


 戦術の最終確認。


 アメリカの身体の強さとは真正面から勝負しない。


 細かい切り返し。


 短いパス交換。


 前後左右の連続した方向転換。


 正木、早川、宮原、國武らは一度の直線突破に固執しない。


 美琴は身体を使って相手を引きつける。


 宮野はセカンドボール。


 森岡は二列目からの飛び出し。


 柚月は相手の守備がどちらへ傾いたかを見続ける。


 原町監督が最後に言った。


「大船」


「はい」


「お前が全部解く必要はない」


 柚月は少し笑う。


「分かってます」


「分からなくなったら?」


「みんなで探します」


 原町監督もうなずいた。


「それでいい」


 ワールドカップ王者。


 日本。


 開催国。


 アメリカ。


 選手たちがトンネルへ並ぶ。


 満員のスタジアムから響く歓声。


 柚月は右ふくらはぎを一度だけ軽く叩いた。


 ここまで来た。


 痛めた脚。


 怖かった脚。


 休ませた脚。


 また走れるようになった脚。


 その脚で。


 最後のピッチへ。


 森岡が隣から声をかける。


「柚月」


「ん?」


「楽しもう」


 徹と同じことを言う。


 柚月は笑った。


「みんなそれ言うなぁ」


「だって決勝だよ」


「んだな」


 そして。


 一歩。


 スタジアムへ出る。


 大歓声。


 決勝。


 日本対アメリカ。


 金メダルを決める最後の試合が、まもなく始まる。


 このとき。


 まだ誰も知らなかった。


 この決勝が、2011年ドイツ大会のあの夜を思わせるような、互いの意地と意地、誇りと誇りをぶつけ合う壮絶な試合になることを。


 90分では終わらない。


 延長戦でも決着はつかない。


 アメリカが押し込む。


 日本が耐える。


 日本が前へ出る。


 アメリカが身体を張る。


 何度も流れが傾き。


 何度も、その流れを相手が引き戻す。


 そして迎えるPK戦。


 そこでも終わらない。


 一人目。


 二人目。


 五人目。


 それでも決まらない。


 サドンデス。


 六人目。


 七人目。


 八人目。


 九人目。


 十人目。


 そして。


 最後には、11人目。


 フィールドに立った選手全員へ順番が回るほどの死闘。


 その最後に。


 日本が勝つ。


 日本女子サッカー史上、初めてのオリンピック金メダル。


 そして試合終了後。


 敗れたアメリカの選手たちは、悔し涙を流しながらも日本選手へ手を差し出す。


 監督。


 コーチ。


 スタッフ。


 サポーター。


 自国開催で金メダルを逃した悔しさを抱えながら、それでも最後まで戦い抜いた日本を称える。


 日本側もまた、アメリカへ最大限の敬意を返す。


 勝った側。


 負けた側。


 その境界を越えて。


 互いが互いの健闘を称え合う。


 そんな決勝になることを。


 この瞬間には。


 まだ誰も知らなかった。


 柚月も。


 森岡も。


 原町監督も。


 徹も。


 スタンドの2011年優勝メンバーも。


 ただ一つだけ分かっていた。


 ここから始まる試合は。


 簡単には終わらない。


 そして。


 簡単に終わっていい試合でもない。


 次回予告

 第93章「金メダルを懸けた90分」


 ロサンゼルスオリンピック女子サッカー決勝。


 日本対アメリカ。


 ワールドカップ決勝の再戦。


 しかし、日本は過去の3-1を持ち込まない。


 アメリカも、以前とは違う。


 さらに強くなった体幹。


 圧倒的なキープ力。


 スタミナ。


 突破力。


 そして開催国の大声援。


 日本が狙うのは、大柄な選手が苦手とする細かな方向転換。


 右。


 左。


 前。


 後ろ。


 一度で抜かない。


 何度も身体の向きを変えさせる。


 2011年ワールドカップ優勝メンバーが見守るスタンド。


 徹。


 仙台の仲間たち。


 そして、柚月の胸の中にはユリ。


 主審が両チームを確認する。


 森岡美里とアメリカ主将が握手を交わす。


 柚月が右ふくらはぎへ最後に触れる。


 もう痛くない。


 次回、第93章「金メダルを懸けた90分」。


 まだ誰も知らない。


 90分でも。


 120分でも。


 この決勝は終わらない。


 最後に勝敗を決めるのは。


 11人目まで続くPK戦。


 その先に待つ。


 日本女子サッカー史上初のオリンピック金メダル。


 だが、その未来へたどり着くためには。


 まず。


 最初の一分を戦わなければならない。

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