残っている脚
第91章 残っている脚
後半20分。
宮野沙季の右足がこぼれ球を押し込み、日本はついにフランスへ追いついた。
1-1。
前半43分にエマ・ルクレールのゴールで先制され、このオリンピックで初めて追う展開となった日本。しかし、後半18分に投入された大船柚月、正木静香、宮野沙季の三人が、わずか二分で試合を振り出しへ戻した。
スタジアムの空気が変わった。
前半から試合を支配していたフランスに対し、今度は日本が押し返し始める。
だが、ローラン・デュボワ監督も黙ってはいなかった。
フランスベンチが一気に動く。
「三枚だ」
控え選手三人がビブスを脱いだ。
17番、オセアン・ルルー。
16番、ノエミ・ブラン。
18番、イネス・フォーレ。
いずれも攻撃の流れを変えられる選手だった。
オセアンはスピードと背後への飛び出し。
ノエミは狭い場所を抜けるドリブルとラストパス。
そしてイネスは185センチ近い長身を生かした空中戦。
デュボワ監督は、前半から走り続けていた選手を三人下げた。
マリオン・デュボワ。
ソフィー・ラクロワ。
そしてエマ・ルクレール。
フランスもまた、残していた攻撃力を一気にピッチへ投入した。
柚月がその交代を見ながら言う。
「来たな」
宮野が答える。
「三枚まとめてですね」
正木もオセアンを見た。
「あの17番、速そうです」
「速いぞ。映像でもかなり裏取ってた」
フランスはもう一度、自分たちの強度を取り戻そうとしていた。
後半23分。
さっそくオセアンが右サイドの背後へ飛び出す。
鋭い縦パス。
國武真央が追う。
オセアンが先に触る。
一気にペナルティーエリアへ向かう。
しかし、藤森彩香が中央からカバーへ入った。
コースを切る。
オセアンは無理にシュートへ行けず、一度後ろへ戻した。
そこへノエミ。
右足。
クロス。
中央。
イネス・フォーレ。
高い。
西野千尋と競る。
ヘディング。
伊達葵。
正面。
キャッチ。
葵はボールを胸へ抱えたまま、すぐには始めなかった。
フランスもまだ強い。
新しく入った三人は脚が残っている。
ここで日本が勢いだけで前へ出れば、逆に一発を食らう。
柚月は手を横へ振った。
「急がんでいい!」
森岡美里がうなずく。
日本はもう一度ボールを動かした。
藤森。
宮野。
柚月。
早川莉奈。
森岡。
右。
左。
戻す。
フランスは新しく入った三人こそ動けているが、中盤や最終ラインには前半から出続けている選手が多く残っている。
シャルロット・ルノー。
アメリー・フォルニエ。
カミーユ・ベルナール。
ジュリエット・モロー。
マノン・ルフェーヴル。
エロディ・マルタン。
彼女たちはすでに70分以上、走っていた。
そこへ。
正木が走る。
柚月が動かす。
宮野が拾う。
早川が仕掛ける。
フランスは守備へ戻らなければならない。
オセアンたちを入れて攻撃力は戻った。
だが、日本がボールを持てば、その新しい攻撃陣まで守備へ戻らされる。
後半27分。
柚月が中央で受ける。
正木が左へ。
早川が右へ。
柚月は正木へ出すように身体を向けた。
フランスの最終ラインが左を警戒する。
だがボールは右。
早川。
ジュリエット・モローではなく、逆サイドのベルナールが対応に出る。
早川は一度止まる。
宮原彩乃が外を追い越す。
ベルナールがそちらを見る。
その瞬間、早川が中へ入る。
シャルロット・ルノーがカバー。
早川は無理をしない。
宮野へ戻す。
また中央。
フランスの選手たちは走らされる。
デュボワ監督が声を上げた。
「ラインを保て!」
しかし簡単ではなかった。
日本には小回りが利く選手が多い。
一人ひとりが長い距離をドリブルする必要はない。
三メートル。
五メートル。
細かな位置変更。
ワンタッチ。
ツータッチ。
それだけでフランスの守備陣は身体の向きを何度も変えさせられる。
柚月はベンチの方を見る。
原町監督と目が合った。
まだ。
日本には二人残っている。
日比谷玲奈。
宮坂玲奈。
二人ともガーナ戦で結果を残した。
日比谷は狭い場所でのパス交換と、相手の間へ潜り込む動き。
宮坂は中央とサイドの両方から仕掛けられ、ゴール前への入り方にも強みがある。
原町監督はまだ二人を動かさない。
後半30分。
フランス。
ノエミが中央突破。
宮野が対応する。
ノエミは身体をひねって左へ。
イネス。
ポストプレー。
オセアンが走る。
シュート。
葵が左手で弾いた。
危ない。
まだフランスにも力はある。
だが、その攻撃が終わった瞬間。
柚月が叫ぶ。
「今!」
葵から藤森。
藤森から宮野。
宮野がすぐ柚月へ。
柚月。
正木。
左。
正木が走る。
ジュリエット・モローが戻る。
前半から走り続けている。
追いつけない。
正木がペナルティーエリア左へ侵入。
折り返し。
森岡。
シュート。
マノン・ルフェーヴルが身体を投げ出してブロック。
コーナーキック。
フランス守備陣は息を整える暇もない。
そのとき。
原町監督がついに動いた。
「日比谷!」
日比谷玲奈が立ち上がる。
「はい!」
「行くぞ」
日比谷はビブスを脱いだ。
柚月が遠くからその姿を見る。
さらに一枚。
日本はまだ速くなる。
後半33分。
交代。
日比谷玲奈、投入。
ピッチへ入る直前、原町監督が短く言った。
「狭いところへ入れ。向こうは横向かされるのを嫌がってる」
日比谷はうなずいた。
「分かりました」
ピッチへ入る。
柚月がすぐ近づく。
「玲奈」
「はい」
「好きなとこ入れ。うちが合わせる」
日比谷は笑った。
「了解です」
ここから。
フランスの守備はさらに忙しくなった。
日比谷は決まった場所にいない。
左へ出る。
中央へ戻る。
正木と入れ替わる。
早川の近くへ寄る。
柚月の横へ顔を出す。
シャルロット・ルノーが捕まえようとする。
しかし、そのたびに別の選手が空く。
後半35分。
日比谷が中央で受ける。
ワンタッチで柚月。
すぐ前へ走る。
柚月から正木。
正木から日比谷。
狭い三角形。
フランスが三人寄る。
日比谷はヒール気味に宮野へ落とす。
宮野が逆へ展開。
早川。
フランス守備陣が一気に右へ走る。
早川が仕掛ける。
クロス。
クレール・デュランがキャッチ。
デュランは仲間へ大きな声を出した。
「集中して!」
だが。
少しずつ。
フランスは攻めるより、日本を守るために走る時間の方が長くなっていった。
オセアン。
ノエミ。
イネス。
三人の攻撃力は高い。
しかし、そこへボールを運ぶまでに日本が奪い返す。
奪えばまた動かす。
フランスが追う。
奪う。
また日本。
後半38分。
シャルロット・ルノーが柚月へ寄せる。
柚月がワンタッチで日比谷へ。
ルノーが方向転換。
日比谷が森岡へ。
ルノーがまた戻る。
森岡から早川。
フォルニエが走る。
早川から正木。
ジュリエットが戻る。
正木から宮野。
また中央。
フランスの選手たちは、完全に日本のパスへ振り回され始めていた。
スタンド。
仙台ジュニア時代の仲間たちも、その変化を感じていた。
真斗が前へ身を乗り出す。
「フランス、かなり苦しくなってるぞ」
雅がうなずく。
「柚月たち、ずっと動かしてる」
岩出隆はピッチ全体を見ながら言った。
「そろそろ来る」
後半40分。
日本。
右から宮原。
中央へ宮野。
宮野から柚月。
柚月へルノーが来る。
柚月は日比谷へ。
日比谷。
ワンタッチ。
正木。
左。
正木が縦へ行く。
ジュリエットが必死についていく。
正木は止まる。
戻す。
日比谷。
そこへエロディ・マルタンが出る。
日比谷はその瞬間、右足のアウト側でボールを中央へ流した。
柚月。
柚月は前を向く。
マノン・ルフェーヴルが出ようとする。
柚月は右へ。
早川。
早川が一度シュートを見せる。
フランス守備が寄る。
早川は打たない。
中央へ。
日比谷。
いつの間にか。
もうそこへ入っている。
ペナルティーエリア中央。
クレール・デュランが構える。
日比谷は右足を振り抜いた。
強烈ではない。
だが。
狙った。
ゴール左下。
デュランが飛ぶ。
指先。
届かない。
ネットが揺れた。
日本2-1フランス。
後半41分。
日比谷玲奈。
逆転。
投入から八分。
日本がついに試合をひっくり返した。
日比谷は一瞬立ち尽くした。
自分が。
オリンピック準決勝。
勝ち越しゴール。
次の瞬間。
「うわああっ!」
両拳を握って走り出す。
柚月が追いつく。
「玲奈!」
日比谷が振り返る。
「入りました!」
「見りゃ分かるっちゃ!」
正木。
森岡。
早川。
宮野。
全員が集まった。
ベンチも総立ち。
原町監督は拳を強く握った。
だが。
その直後。
また交代ボード。
原町監督は、もう一人の切り札を呼んでいた。
「宮坂!」
宮坂玲奈。
「はい!」
「行け」
後半41分。
得点直後。
日比谷を投入して終わりではない。
さらに宮坂。
フランスに立て直す時間を与えない。
宮坂がピッチへ入る。
柚月が笑う。
「また暴れてこい」
宮坂も笑った。
「前にもそれ言われましたね」
「今日も同じ」
「じゃあ、今日も暴れます」
フランスは苦しかった。
逆転された。
残り時間は少ない。
当然、前へ出なければならない。
だが前へ出れば。
正木。
早川。
日比谷。
宮坂。
柚月。
脚の残っている日本の選手たちが待っている。
後半43分。
フランスがノエミからイネスへロングボール。
西野が競る。
藤森がこぼれ球を回収。
すぐ宮野。
宮野から柚月。
フランスが戻る。
だが。
遅い。
柚月は右へ。
宮坂。
投入されたばかり。
一気に縦へ。
クロエ・ガルニエではなく、疲労したジュリエット側の逆を突き、宮坂は右サイドを駆ける。
正木が中央へ。
日比谷も。
早川も。
フランスは必死に戻る。
宮坂はペナルティーエリア右へ。
中央へ低いクロス。
正木がニアへ。
マノンが正木へ寄る。
日比谷が中央。
エロディが対応。
さらに後ろ。
柚月。
しかし宮坂はそこへも出さない。
少し後方。
早川莉奈。
完全にフリー。
宮坂から早川。
早川は一度ボールを置く。
そして右足。
ゴール左上。
クレール・デュランが飛ぶ。
届かない。
日本3-1フランス。
後半45分。
三点目。
早川莉奈。
日本。
決勝へ大きく近づく追加点。
早川は両手を広げて走った。
宮坂が追う。
「莉奈!」
早川は笑いながら振り返る。
「最高のボール!」
宮坂が叫ぶ。
「暴れました!」
柚月が追いついて笑う。
「まだ終わってねぇぞ!」
その言葉とほぼ同時。
第四審判がボードを掲げた。
アディショナルタイム3分。
日本3-1フランス。
三分。
たった三分。
なのに。
長い。
ものすごく長く感じる。
フランスには二点が必要。
ローラン・デュボワ監督は最後の指示を飛ばす。
「全部前へ!」
クレール・デュラン以外、ほとんどの選手が高い位置へ出る。
後半アディショナルタイム1分。
ノエミ。
右へオセアン。
クロス。
イネス。
ヘディング。
伊達葵。
横っ飛び。
弾いた。
こぼれ球。
シャルロット・ルノー。
シュート。
藤森彩香。
ブロック。
クリア。
まだ終わらない。
フランスが拾う。
再び左。
クロエ・ガルニエも高い位置へ入る。
クロス。
西野。
頭で返す。
時計。
91分45秒。
まだ一分以上ある。
柚月が大きく叫ぶ。
「集中! あと一本ずつ!」
アディショナルタイム2分。
フランスがまた来る。
オセアン。
ノエミ。
イネス。
三人が細かくつなぐ。
ノエミがペナルティーエリアへ。
右足。
シュート。
葵。
正面。
キャッチ。
葵はボールを抱えたまま、ゆっくり立つ。
日本側サポーターから拍手。
スタンドの真斗たちも立ち上がっている。
実況席。
徹もピッチを見つめながら、感情を抑えて試合を伝えていた。
「残り、わずかです。日本、決勝進出まであと少し」
選手の夫ではなく。
今は実況席から試合を伝える一人として。
それでも。
心の中では同じ言葉だった。
耐えろ。
柚月。
あと少し。
93分。
葵がボールを前へ送る。
宮坂が受ける。
フランスが奪いに来る。
宮坂は無理に突破しない。
コーナー付近へ運ぶ。
時間を使う。
相手二人が来る。
宮坂は柚月へ戻す。
柚月も無理をしない。
宮野。
宮野から森岡。
フランスが追う。
日本はボールを離す。
そして。
主審が時計を見る。
笛。
長い。
試合終了。
日本3-1フランス。
その瞬間。
柚月は両拳を握った。
森岡が天を仰ぐ。
早川がその場で跳び上がる。
宮野。
正木。
日比谷。
宮坂。
全員が一斉に駆け寄った。
伊達葵もゴールを飛び出してくる。
ベンチの選手たちもピッチへ。
桐生菜月。
美琴。
相沢。
井上。
高橋。
渡瀬。
全員。
日本代表18人の輪ができた。
決勝進出。
金メダルまで。
あと一つ。
森岡が涙を浮かべながら叫んだ。
「あと一つ!」
柚月が続く。
「ここまで来たら取るぞ!」
全員の拳が中央へ集まる。
「金、取るぞ!」
大歓声。
その輪の少し外で、原町監督は選手たちを見ていた。
先発。
途中出場。
GK。
DF。
MF。
FW。
誰か一人だけでここまで来たのではない。
ガーナ戦で経験を積んだ日比谷が、準決勝で決勝点を決めた。
同じくガーナ戦で起用された宮坂が、三点目をアシストした。
桐生が準々決勝を守った。
伊達が準決勝を守った。
正木。
宮野。
柚月。
後半まで温存した三人も狙いどおりに働いた。
まさに。
18人。
全員で取った決勝への切符だった。
スタンド。
真斗が大きく拍手する。
雅の目には涙が浮かんでいた。
岩出隆も静かにうなずく。
「あと一つだな」
そして。
柚月はスタンドを見上げた。
昔の仲間たち。
さらにその向こう。
ここにはいない。
でも。
ずっと一緒にいる親友。
ユリ。
心の中で声がした。
「決勝だべ」
柚月は小さく笑う。
「んだな」
「あと一個」
「分かってる」
「絶対取れよ」
柚月は空を見上げた。
「取るっちゃ」
ロサンゼルスオリンピック。
日本。
決勝進出。
残された試合は。
あと一つ。
次回予告
第92章「最後の相手」
日本3-1フランス。
前半に先制を許しながら、後半20分に宮野沙季。
後半41分に途中出場の日比谷玲奈。
後半45分に早川莉奈。
日本は三点を奪い返し、ついにオリンピック決勝へ進出する。
そして。
もう一方の準決勝も終わる。
日本の最後の相手が決まる。
アメリカ。
ワールドカップ決勝。
あの日、日本が3-1で破って世界一になった相手。
しかし、今度はオリンピック。
しかも開催国。
満員のスタジアム。
圧倒的なホーム。
アメリカにとっては、ワールドカップの雪辱を果たす最大の舞台。
日本にとっては、パリで手にできなかったオリンピックの金メダルをつかむ最後の90分。
原町監督はホワイトボードへ書く。
日本対アメリカ。
柚月はその文字をじっと見つめる。
ワールドカップ決勝で負傷した右ふくらはぎ。
そこから始まった長い復帰。
焦り。
怖さ。
休む勇気。
代表争い。
そしてロサンゼルス。
すべてが、最後の一試合へつながっていく。
徹から届く短いメッセージ。
「あと一つ。楽しんでこい」
そしてユリの声。
「今度こそ、てっぺんだべ」
次回、第92章「最後の相手」。
世界一になっただけでは終わらない。
世界一になった相手を、もう一度倒さなければ取れない金メダルがある。




