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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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116/127

待つ前半

 第90章 待つ前半


 ロサンゼルスオリンピック女子サッカー準決勝。


 日本対フランス。


 試合前から、スタジアムには独特の緊張感が漂っていた。ここまで来れば、どちらも世界トップ4。偶然だけで立てる場所ではない。


 日本は一次リーグを三戦全勝で突破し、準々決勝ではアルゼンチンを2-1で振り切った。


 対するフランスも、ワールドカップやオリンピックで何度も優勝争いを経験してきた強豪だった。


 攻守の切り替えが速い。


 球際に強い。


 簡単なミスが少ない。


 そして何より、相手に休む時間を与えない。


 原町監督は、その強みを真正面から受けるのではなく、利用することを選んでいた。


 大船柚月。


 正木静香。


 宮野沙季。


 三人はベンチスタート。


 フランスが最も警戒していた日本の三人を、あえて最初から使わない。


 そしてGKには、一次リーグ最終戦から準々決勝まで好守を続けた桐生菜月ではなく、正守護神の伊達葵が戻った。


 フランス側は試合直前まで、柚月と正木と宮野が先発すると想定していた。


 主将のシャルロット・ルノーは柚月への対応を。


 左サイドバックのジュリエット・モローは正木のスピードへの対応を。


 中盤のアメリー・フォルニエは宮野のセカンドボール回収への対応を。


 それぞれ準備していた。


 しかし、正式な先発メンバーが発表された瞬間、フランスベンチに小さなざわめきが起きた。


 ローラン・デュボワ監督は表情こそ変えなかったが、手元のボードをすぐに書き換えた。


「日本は後半勝負だ」


 その意図には気づいた。


 だが、気づいたからといって簡単に止められるわけではない。


 キックオフ。


 試合開始直後から、フランスは持ち味を全面に出してきた。


 右ウイングのソフィー・ラクロワ。


 左ウイングのマリオン・デュボワ。


 中央にはエースFWのエマ・ルクレール。


 その後ろではレア・ジラールが自由に動き、アメリー・フォルニエと主将シャルロット・ルノーが中盤を支える。


 日本がボールを持つ。


 早川莉奈。


 そこへフォルニエ。


 早川が逃がす。


 森岡美里。


 今度はルノー。


 森岡が後ろへ戻す。


 フランスは追う。


 ただし、むやみに追うわけではない。


 一人目がボールへ行けば、二人目は次のパスコースへ動く。


 さらにその後ろ。


 全員の動きが連動している。


 ベンチの柚月が少し身を乗り出した。


「速いな」


 正木がうなずく。


「思ってた以上ですね」


 宮野もフランスの中盤を見る。


「でも、相当脚使ってます」


 柚月は小さく答えた。


「だから待つ」


 まだ。


 日本が勝負を仕掛ける時間ではない。


 前半7分。


 フランスが左から攻め込む。


 マリオン・デュボワが國武真央と対峙。


 細かくボールを動かし、一度縦へ行くと見せて中央へ切り込む。


 國武がついていく。


 そこへレア・ジラールが近づき、ワンツー。


 マリオンがペナルティーエリアへ入る。


 藤森彩香がカバー。


 クロス。


 中央のエマ・ルクレール。


 ヘディング。


 伊達葵が正面でキャッチ。


 葵はすぐに立ち上がらない。


 一度落ち着かせる。


 フランスは前から奪いたがっている。


 だからこそ、無理に早く始める必要はない。


 前半12分。


 今度は右。


 ソフィー・ラクロワが宮原彩乃を縦へ振り切りかける。


 宮原は最後まで身体を寄せる。


 ラクロワが低いクロス。


 西野千尋がクリア。


 こぼれ球。


 フォルニエ。


 強烈なミドルシュート。


 葵が横っ飛び。


 両手で弾く。


 フランスはすぐにセカンドボールを拾う。


 また攻撃。


 簡単には終わらない。


 森岡が仲間へ声を飛ばす。


「中央、締めて!」


 日本は耐える。


 前半15分。


 美琴が中央でボールを受ける。


 ルノーが寄せる。


 美琴は身体を入れてキープ。


 さらにフォルニエが来る。


 二人。


 それでも美琴はボールを失わない。


 早川へ預ける。


 早川が前を向く。


 その瞬間。


 フランスの最終ライン。


 マノン・ルフェーヴル。


 エロディ・マルタン。


 二人がすぐ位置を整える。


 右にはカミーユ・ベルナール。


 左にはジュリエット・モロー。


 隙が少ない。


 日本は無理に前へ出さない。


 一度戻す。


 ベンチの原町監督は腕を組んだまま、ほとんど動かなかった。


 岩出コーチが言う。


「相当押されています」


 原町監督は短く答える。


「まだいい」


「まだ、ですか」


「まだだ」


 日本の狙いは、前半で無理に勝負を決めることではない。


 フランスに、フランスの強みを使わせる。


 プレス。


 スプリント。


 戻り。


 切り替え。


 それを前半から繰り返させる。


 そして、どこかで必ず一歩が遅れる。


 その時間を待つ。


 前半22分。


 レア・ジラールが中央で前を向く。


 森岡が寄せる。


 ジラールはワンタッチで右へ。


 ラクロワ。


 宮原が対応。


 戻す。


 カミーユ・ベルナール。


 そこから中央へ。


 フォルニエ。


 さらに左。


 マリオン。


 日本の守備が左右へ動かされる。


 マリオンがクロス。


 ルクレールが競る。


 藤森。


 跳ね返す。


 フランスはまた拾う。


 ボールを失ってもすぐ奪い返す。


 攻め続ける。


 前半27分。


 日本が右でボールを奪う。


 相沢紗英から森岡。


 森岡が早川へ。


 早川が前へ運ぼうとした瞬間、シャルロット・ルノーが身体を入れる。


 ボールを奪う。


 そのまま攻撃。


 わずか数秒。


 日本はまた自陣へ戻される。


 早川が悔しそうに歯を食いしばった。


 森岡がすぐに声をかける。


「気にしない! 次!」


 ベンチ。


 正木が聞く。


「まだですか?」


 柚月はフランスの戻りを見る。


 速い。


 まだ三人が同時に戻る。


 まだラインも乱れない。


「まだ」


 宮野も時計を見る。


 前半30分。


 まだ待つ。


 前半35分。


 フランスの運動量は落ちない。


 ソフィー・ラクロワが右から突破。


 クロス。


 伊達葵が飛び出してキャッチ。


 すぐにカウンター。


 葵から早川。


 早川から森岡。


 しかし、フランスはもう戻っている。


 モロー。


 マルタン。


 ルフェーヴル。


 ベルナール。


 四人。


 ほぼ同時。


 柚月がつぶやく。


「まだ速いな」


 それでも。


 少しずつ。


 ほんの少しずつ。


 呼吸が変わっていた。


 シャルロット・ルノーが一度腰へ手を当てる。


 カミーユ・ベルナールが戻ったあと、少し深く息を吐く。


 ジュリエット・モローも水分補給のタイミングを気にするようになる。


 正木が聞く。


「そろそろ?」


 柚月は首を振る。


「前半は使わんと思う」


「やっぱ後半ですか」


「たぶんな」


 だが。


 その前に。


 フランスが試合を動かした。


 前半43分。


 日本が中央で一度ボールを失う。


 フランス。


 すぐ前。


 フォルニエが拾う。


 ジラールへ。


 レア・ジラールが中央で身体を開く。


 日本の中盤が寄る。


 ジラールは右を見る。


 ソフィー・ラクロワ。


 宮原がついている。


 だが。


 ジラールは出さない。


 その一瞬。


 中央。


 エマ・ルクレールが藤森と西野の間へ走った。


 鋭い縦パス。


 完全に入った。


 ルクレール。


 抜ける。


 伊達葵との一対一。


 葵は前へ出る。


 距離を詰める。


 ルクレールは焦らない。


 一度右へボールを置く。


 葵が反応。


 右足。


 ゴール左隅。


 葵も飛ぶ。


 指先。


 触れた。


 だが。


 ボールはそのままポストの内側へ入った。


 日本0-1フランス。


 フランス、先制。


 エマ・ルクレール。


 前半43分。


 このオリンピックで、日本が初めて先に失点した。


 フランスの選手たちがルクレールを囲む。


 スタンドが大きく沸く。


 日本側。


 一瞬だけ静かになる。


 しかし。


 森岡はすぐにボールを拾った。


「まだ前半!」


 早川も叫ぶ。


「大丈夫!」


 葵も立ち上がる。


「次!」


 ベンチの柚月は、失点後のフランスの位置を見ていた。


 正木が横から聞く。


「初めて追う展開ですね」


 柚月はうなずく。


「んだな」


「焦ります?」


「いや」


 即答だった。


「むしろ、向こうもっと来るべ」


 宮野がフランスを見る。


 先制した。


 普通なら少し守備を落ち着かせてもいい。


 しかしフランスは違った。


 もう一点。


 前半のうちに。


 日本を完全に追い込む。


 その意識が明らかだった。


 最終ラインがまた上がる。


 カミーユ・ベルナールも。


 ジュリエット・モローも。


 高い位置。


 柚月が小さく笑う。


「やっぱ来た」


 原町監督も同じものを見ていた。


 前半終了。


 日本0-1フランス。


 日本は今大会初めて、リードされた状態でロッカールームへ戻った。


 しかし。


 そこに切羽詰まった空気はなかった。


 原町監督は全員が座るのを待ってから話し始めた。


「初めて追う展開だ」


 誰も目を逸らさない。


「だからって、やることを変えるな」


 ホワイトボードへフランスの配置を書く。


「向こうは一点取った。でも落ち着いてない。むしろ、早く二点目を取りたがってる」


 森岡がうなずく。


「前半最後、かなり前に来てました」


「そうだ」


 柚月も続ける。


「一点で終わらせる気、ほとんどないですね」


 原町監督はうなずいた。


「その気持ちを使う」


 後半。


 すぐに柚月たちを出す。


 そう思っていた選手もいた。


 しかし。


 原町監督は言った。


「最初の15分は、このまま行く」


 正木が少し驚く。


「まだ待つんですか?」


「待つ」


 柚月はすぐ理解した。


「もっと前に出させるんですね」


「そうだ」


 フランスが追加点を欲しがる。


 日本が追う立場。


 だからこそ、フランスは日本が前へ出てくると思う。


 だが。


 日本は無理に出ない。


 最終ラインを割らせない。


 中盤を締める。


 二点目を取りに来るフランスを、さらに前へ引き出す。


 そして。


 戻りが遅れた瞬間。


 日本は動く。


 後半開始。


 フランスは予想どおりだった。


 さらに前へ出てきた。


 後半3分。


 ソフィー・ラクロワが右から突破。


 宮原がクロスを防ぐ。


 後半6分。


 レア・ジラールが中央からミドル。


 伊達葵がセーブ。


 後半9分。


 マリオン・デュボワが左から切り込み、エマ・ルクレールへ。


 藤森が身体を張る。


 ブロック。


 フランスは攻める。


 二点目。


 早く。


 その意識が強い。


 しかし。


 なかなか入らない。


 後半11分。


 アメリー・フォルニエがこぼれ球を拾い、強烈なシュート。


 ゴール上。


 フォルニエが悔しそうに両手を広げる。


 後半13分。


 カミーユ・ベルナールが右からクロス。


 ルクレールが頭で合わせる。


 伊達葵。


 横っ飛び。


 セーブ。


 葵が起き上がって叫ぶ。


「次!」


 日本は耐える。


 そして。


 フランスの表情に少しずつ苛立ちが見え始めた。


 なぜ入らない。


 これだけ攻めている。


 もう一点取れば、かなり有利になる。


 その感情が、判断を少しずつ急がせる。


 後半15分。


 シャルロット・ルノーが普段なら一度戻す場面で、強引に縦パスを入れる。


 藤森がカット。


 日本。


 カウンター。


 早川。


 前。


 フランスが戻る。


 速い。


 でも。


 一人。


 遅れた。


 ジュリエット・モロー。


 前半ならもっと早く戻っていた。


 ベンチの正木が気づく。


「今、遅れました」


 柚月も見ている。


「んだ」


 後半17分。


 今度はベルナール。


 高い位置まで上がったあと、日本にボールを奪われる。


 戻る。


 しかし。


 半歩。


 遅い。


 宮野が立ち上がった。


「来ましたね」


 柚月も立つ。


 原町監督が振り返る。


「大船。正木。宮野」


 三人。


「準備しろ」


 フランス側ベンチがざわつく。


 来る。


 大船柚月。


 正木静香。


 宮野沙季。


 フランスが試合前から最も警戒していた三人。


 しかし今。


 フランスの脚は、前半開始時とは違う。


 後半18分。


 三人がタッチラインへ。


 交代。


 ピッチへ入る。


 シャルロット・ルノーが柚月を見る。


 ジュリエット・モローが正木を見る。


 フォルニエが宮野を見る。


 嫌な時間に来た。


 三人とも、フレッシュ。


 柚月はピッチへ入った瞬間、森岡へ言った。


「急がなくていい!」


 森岡がうなずく。


「分かった!」


 まず。


 動かす。


 宮野。


 柚月。


 早川。


 森岡。


 相沢。


 また後ろ。


 フランスが追う。


 正木もまだ走らない。


 ジュリエット・モローは正木を見ながら、下がる。


 でも日本はそこへ出さない。


 フランスがまた動く。


 右。


 左。


 中央。


 戻す。


 柚月がシャルロット・ルノーの寄せを見る。


 前半より。


 わずかに遅い。


「ここからだべ」


 そして。


 後半20分。


 日本が動いた。


 宮野が中央でボールを奪う。


 すぐ森岡。


 森岡から柚月。


 ルノーが寄る。


 柚月はワンタッチ。


 早川。


 早川から右の宮原。


 宮原が前へ運ぶ。


 フランスが右へ寄る。


 宮原は中央へ戻す。


 宮野。


 宮野から柚月。


 柚月が左を見る。


 正木。


 パス。


 正木が一気に走る。


 ジュリエット・モローも追う。


 しかし。


 前半から走り続けている脚。


 正木との差が出る。


 正木が左サイドを突破。


 ペナルティーエリア左へ。


 低いクロス。


 早川がニアへ。


 エロディ・マルタンがつられる。


 その後ろ。


 柚月。


 正木のボールが来る。


 柚月。


 触らない。


 スルー。


 さらに後ろ。


 森岡美里。


 右足。


 シュート。


 GKクレール・デュランが反応。


 弾いた。


 こぼれ球。


 そこへ。


 宮野沙季。


 走り込んでいた。


 右足。


 押し込む。


 ネット。


 日本1-1フランス。


 後半20分。


 宮野沙季。


 同点。


 ピッチへ入ってわずか二分。


 日本が追いついた。


 宮野は両拳を握る。


「よし!」


 柚月が走ってくる。


「拾ったな!」


 宮野も笑う。


「それが仕事ですから!」


 正木も。


 森岡も。


 早川も。


 全員が集まる。


 フランス側。


 クレール・デュランがボールを拾う。


 シャルロット・ルノーは悔しそうに仲間へ声をかける。


「まだ同点!」


 ローラン・デュボワ監督もすぐに動く。


 ベンチを見る。


 控えには。


 オセアン・ルルー。


 ノエミ・ブラン。


 イネス・フォーレ。


 まだ使っていない武器がある。


 日本だけが交代カードを持っているわけではない。


 1-1。


 残り25分。


 日本にはフレッシュな柚月、正木、宮野。


 フランスにも、まだ切り札が残されている。


 準決勝は。


 ここから本当の勝負へ入った。


 次回予告

 第91章「残っている脚」


 後半20分。


 正木静香の突破。


 大船柚月のスルー。


 森岡美里のシュート。


 そして、こぼれ球を宮野沙季が押し込む。


 日本1-1フランス。


 途中投入された三人が、わずか二分で試合を振り出しへ戻す。


 だが、ローラン・デュボワ監督も黙ってはいない。


 フランスベンチには、オセアン・ルルー。


 ノエミ・ブラン。


 そして大型FWイネス・フォーレ。


 まだ三つの切り札が残っている。


 フランスは疲労した選手を入れ替え、もう一度攻撃の強度を上げようとする。


 日本も。


 フランスも。


 決勝まで、あと一勝。


 柚月が正木へ言う。


「今度は好きなだけ走れ」


 正木が笑う。


「やっとですね」


 一方、フランス主将シャルロット・ルノーも仲間へ叫ぶ。


「ここから25分、もう一回行く!」


 次回、第91章「残っている脚」。


 疲れている選手。


 脚を残していた選手。


 そしてベンチから新しく入ってくる選手。


 準決勝の最後を決めるのは、ここまでの70分だけではない。


 18人全員の残してきた力が、最後の25分へ集まっていく。

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