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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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あと二つ

第89章 あと二つ


準々決勝でアルゼンチンを2-1で振り切った翌日、日本代表の選手たちは宿舎のミーティングルームに集まっていた。一次リーグから続いた試合の疲労は確実に身体へ残っていたが、表情には少し違う緊張があった。


次に勝てば、少なくともメダルは確定する。


しかし、日本が欲しいのは銅でも銀でもない。


金。


そのためには、あと二つ勝たなければならない。


スクリーンへ準決勝の対戦カードが映し出される。


日本対フランス。


柚月はその文字を見た瞬間、小さく息を吐いた。


「また、とんでもない相手来たな」


森岡美里も苦笑する。


「ベスト4だから、そりゃそうだよ」


フランスはワールドカップやオリンピックといった大舞台で何度も頂点を争ってきた世界屈指の強豪だった。攻撃力だけではなく、守備への切り替えが異常なほど速く、ボールを失った瞬間には複数の選手が一斉に奪い返しへ動く。球際にも強く、簡単なパスミスが少ないため、相手からすれば自分たちの時間を長く作りにくい。


原町監督が映像を止めた。


「このチームに、分かりやすい弱点はほとんどない」


早川莉奈がスクリーンを見つめる。


「切り替え、速いですね」


「速い。それだけじゃない。奪ったあとも迷わない。守備から攻撃への一歩目が全員そろってる」


岩出コーチが次の映像を流す。


フランスがボールを失う。


一人目が寄せる。


二人目がパスコースを消す。


三人目がこぼれ球を拾う。


奪い返すまで数秒。


そこから一気に前へ。


柚月が腕を組む。


「メキシコより整理されてるな」


原町監督がうなずいた。


「そうだ。メキシコは運動量で押してきた。フランスは、走る場所が決まってる」


つまり、ただボールを動かして走らせればいい相手ではない。


無駄に追ってこない。


必要なところだけ速い。


だから厄介だった。


しかし、その日のミーティングで最も大きな驚きは戦術そのものではなかった。


原町監督が先発予定の名前を読み上げていく。


GK。


「伊達葵」


葵が短く返事をする。


準々決勝まで二試合連続で先発した桐生菜月に代わり、ここで正守護神が戻る。


DF。


中盤。


前線。


そして、柚月は自分の名前が呼ばれないことに気づいた。


正木も。


宮野も。


三人ともベンチスタートだった。


原町監督は三人を見る。


「大船、正木、宮野。お前たちは後半から使う」


早川が少し驚いた。


柚月は数秒だけ考えたあと、すぐに意図を理解した。


「向こう、うちらが先発だと思ってます?」


原町監督が答える。


「その可能性が高い」


これまでの試合。


大船柚月。


正木静香。


宮野沙季。


いずれも日本の中心として使われてきた。


特に正木のスピード。


柚月のゲームメイク。


宮野のセカンドボール回収。


フランスが警戒しないはずがない。


原町監督は続ける。


「だから、試合開始直前までそう思わせる」


森岡が少し笑う。


「情報戦ですね」


「そうだ」


公開練習。


ウォーミングアップ。


取材対応。


日本側から先発をわざわざ漏らすことはない。


フランスは柚月、正木、宮野が先発する前提で準備する。


正木の裏へのランニングを警戒し、最終ラインを必要以上に上げない。


柚月へ誰が寄せるか。


宮野のセカンドボール回収をどう外すか。


その準備へ時間を使わせる。


しかし、実際にピッチへ出る三人は別。


フランスは試合開始直前に修正しなければならない。


そして本当の狙いは、そのさらに先だった。


原町監督が時計を指した。


「フランスは切り替えが速い。ただし、それを90分同じ強度で続けられるわけじゃない」


柚月が続ける。


「後半、脚落ちますね」


「そこだ」


前半。


日本は耐える。


ただし守るだけではない。


ボールを簡単に失わず、フランスに何度も切り替えをさせる。


奪わせない。


奪われても簡単にはカウンターを許さない。


フランスに、自分たちの強みを何度も使わせる。


そして。


60分。


70分。


切り替えの一歩がわずかに遅くなった瞬間。


大船柚月。


正木静香。


宮野沙季。


脚の残った三人を投入する。


柚月が少し笑った。


「えげつないこと考えますね」


原町監督もわずかに笑う。


「金メダル取りたいんだろ」


「もちろんです」


正木も拳を握った。


「後半からなら、全力で走れます」


宮野もうなずく。


「相手が疲れたところでセカンド全部拾います」


原町監督は三人を見回す。


「それを期待してる」


柚月はその日のメディカルチェックでも右ふくらはぎを入念に確認された。


大きな問題はない。


ただ、アルゼンチン戦の疲労は残っている。


張りは軽度。


痛みなし。


左右差も許容範囲。


トレーナーからは、ベンチスタートならむしろ身体への負担を抑えながら高い強度で使えると説明された。


柚月はうなずいた。


「後半だけなら、かなり行けると思う」


「だから前半で熱くなって勝手にアップしすぎないこと」


「信用ないなぁ」


「あるから言ってる」


柚月は笑った。


けがをする前なら、準決勝でベンチスタートと聞けば悔しさが先に出ていたかもしれない。


今は違う。


先発かどうかではない。


金メダルを取るために、自分がどの時間に最も効くのか。


それだけだった。


試合前日。


柚月のスマートフォンへ徹からメッセージが届いた。


『気負いすぎるなよ。いつものお前らしく行け。俺は実況あるから、そこから応援してる』


柚月は少し笑った。


徹はこの準決勝で中継の実況席に入る予定になっていた。


現役Jリーガーとしての視点も求められ、特別解説に近い形で試合を伝えることになっている。


柚月は返信する。


『ベンチスタートだけどな』


すぐに返ってくる。


『じゃあ後半から暴れてこい』


柚月は思わず吹き出した。


「みんな同じこと言うなぁ」


そして。


もう一つ。


試合当日。


スタジアムの観客席には、柚月にとって懐かしい顔があった。


仙台ジュニア時代。


まだなでしこジャパンも。


ワールドカップも。


オリンピックも遠い夢だったころ。


一緒に汗を流した仲間たち。


真斗。


雅。


そして、かつて練習へ何度も顔を出してくれた岩出隆。


柚月たちと同じグラウンドで走り、負けて泣き、勝って笑った仲間たちだった。


真斗がスタンドからピッチを見下ろす。


「本当にここまで来たんだな」


雅もうなずいた。


「昔、荒浜でボール追っかけてたのにね」


岩出が少し笑う。


「でも、あのころから負けず嫌いだったぞ」


真斗が答える。


「それは今も変わってない」


三人は日本代表のウォーミングアップを見守る。


柚月はベンチ組として少し離れた場所で身体を動かしている。


やがて、スタンドの方を見た。


見覚えのある顔。


一瞬。


柚月の目が大きくなる。


「……来てる」


正木が聞く。


「知り合いですか?」


柚月は笑った。


「昔の仲間」


手を上げる。


スタンドの真斗たちも大きく手を振り返した。


その瞬間。


柚月の中で、ほんの少しだけ時間が戻った。


仙台ジュニア。


土のグラウンド。


ユリ。


徹。


仲間たち。


あのころ夢だった舞台。


今。


自分はオリンピック準決勝にいる。


胸の奥。


ユリの声がした。


「あと二つだべ」


柚月は小さく答える。


「分かってるっちゃ」


試合開始が近づく。


フランス代表のスタッフ陣は、日本のウォーミングアップを注意深く見ていた。


そして先発メンバーが正式に発表される。


フランス側のベンチで、わずかなざわめきが起こった。


大船柚月。


いない。


正木静香。


いない。


宮野沙季。


いない。


三人ともベンチ。


フランス監督のローラン・デュボワは一瞬だけ腕を組み直した。


想定と違う。


しかし、もうキックオフまで時間はほとんどない。


日本はそこまで含めて狙っていた。


原町監督はベンチへ座る三人へ言った。


「焦るなよ」


柚月が答える。


「分かってます」


正木も。


「後半まで脚残します」


宮野も静かにうなずく。


ピッチへ出る先発選手たち。


森岡美里。


早川莉奈。


長崎美琴。


相沢紗英。


藤森彩香。


宮原彩乃。


國武真央。


西野千尋。


そしてGK伊達葵。


葵はゴール前で一度深呼吸した。


準決勝。


ここを勝てば決勝。


少なくとも銀メダル。


だが。


日本が見ている色は、一つだけ。


金。


主審の笛が鳴る。


日本対フランス。


開始直後。


フランスの切り替えは、映像で見た以上だった。


日本が一度ボールを奪う。


早川。


そこへ一人。


二人。


三人。


あっという間に囲まれる。


早川は無理をせず後ろへ戻す。


森岡が受ける。


またフランスが寄る。


ボールを失えば、今度は日本がすぐに切り替える。


互いに速い。


ほとんど休む時間がない。


ベンチの柚月はその速度を見ながらつぶやいた。


「これ、相当脚使うな」


宮野がうなずく。


「後半、絶対差が出ます」


正木もフランスの最終ラインを見る。


「今はまだ速いですね」


「だから待つ」


柚月が答える。


前半。


日本は耐える。


フランスの速さ。


球際。


ミスの少なさ。


すべてを受ける。


そして。


後半。


相手の一歩が遅くなる瞬間。


日本は、その時間を待っていた。


次回予告


第90章「待つ前半」


準決勝。


日本対フランス。


大船柚月。


正木静香。


宮野沙季。


三人はベンチ。


フランスが最も警戒していた選手たちをあえて先発から外し、日本は後半勝負へ出る。


先発GKは伊達葵。


フランスの猛烈な切り替えと強烈な球際に、日本は何度もボールを奪われる。


それでも森岡美里、早川莉奈、長崎美琴、相沢紗英が簡単には崩れない。


フランスは速い。


強い。


そしてミスが少ない。


前半、日本は苦しい時間を耐えながら、ある数字を見続ける。


フランスのプレス開始位置。


戻る速度。


スプリント回数。


そして呼吸。


ベンチの柚月が言う。


「まだだな」


正木が聞く。


「いつ行きます?」


柚月はフランスの選手たちを見る。


「向こうが一歩遅れたとき」


そして前半終了間際。


フランスが日本最大の決定機を作る。


伊達葵。


一対一。


日本の正守護神が、準決勝最初の大仕事へ向かう。


次回、第90章「待つ前半」。


強い相手に勝つために、最初から全部を出す必要はない。


勝負を決める時間まで、武器を隠して待つことも戦い方になる。

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