残り時間
第88章 残り時間
後半38分、森岡美里のヘディングシュートがネットを揺らし、日本はアルゼンチンに2-0とリードした。
準決勝まで、あと少し。
だが、その「あと少し」が最も長い時間だった。
ディエゴ・アルバレス監督はすぐに守備の人数を削り、ルシアナ・フェレイラ、マルティナ・ロハス、カミラ・スアレスを高い位置へ集めた。中盤のバレンティナ・アギーレもほとんど守備の位置まで戻らず、攻撃の組み立てに加わる。
二点。
残された時間で二点。
アルゼンチンには、それしかない。
日本は森岡のゴールを喜ぶ時間もそこそこに、自陣へ戻って守備の位置を整えた。柚月は大きな声で仲間へ呼びかける。
「まだ終わってねぇぞ! 次の一本だけ集中!」
藤森彩香も最終ラインから声を返す。
「中央締めよう! 外から来ても最後は中!」
桐生菜月はゴール前で深く息を吐いた。
ここまで何度もアルゼンチンの決定機を止めてきた。一次リーグ最終戦のガーナ戦に続く先発。しかも今度は、負ければ終わる準々決勝だった。
残された時間。
守り切れば準決勝。
一点でも返されれば、アルゼンチンの勢いは一気に増す。
それでも桐生は時計を見なかった。
目の前のボールだけを見る。
後半40分、フェレイラが中央で二人を引きつけ、左のロハスへ展開する。ロハスが縦へ運び、國武真央をかわしてクロスを入れる。中央ではスアレスが藤森と競り合った。
ヘディング。
ボールはゴール右へ。
桐生が横へ飛ぶ。
両手。
弾いた。
こぼれ球へアギーレが走り込む。
宮野沙季が身体を投げ出してブロックした。
アルゼンチンはそれでも攻撃を続ける。
後半42分、今度は右から。
低いクロス。
西野千尋が足を伸ばしてクリア。
そのこぼれ球をフェレイラが拾い、ペナルティーエリア外から右足を振り抜く。
桐生が正面でキャッチ。
ボールを抱えたまま芝へ倒れ、数秒だけ時間を使う。
ベンチの伊達葵が立ち上がって拍手する。
「菜月、そのまま!」
日本は無理に前へ出なかった。
正木静香は前線に残り、カウンターの可能性だけは消さない。それによってアルゼンチンも最終ラインを完全には上げきれない。
ただし、残り時間が少なくなるにつれて、その慎重さも消えていった。
90分。
第四審判がボードを掲げる。
アディショナルタイム4分。
スタジアム全体が大きくざわめいた。
日本にとっては四分。
アルゼンチンにとっても四分。
ただし意味はまったく違う。
日本は守り切れば準決勝。
アルゼンチンは二点取らなければ終わる。
アルバレス監督が両腕を前へ振った。
「全員上がれ!」
GKマリアナ・ロペスを除き、ほとんどの選手が日本陣内へ入る。
アディショナルタイム1分。
フェレイラが中央から右へ。
アギーレ。
そこからクロス。
藤森がクリア。
アルゼンチンが拾う。
もう一度。
日本は押し込まれる。
アディショナルタイム2分。
ロハスが左からペナルティーエリアへ進入する。宮原彩乃が身体を寄せるが、ロハスは強引にボールを残し、中央へ折り返した。
スアレス。
右足。
桐生。
反応。
弾く。
ボールがポスト横へ転がる。
藤森が大きく蹴り出す。
桐生は立ち上がりながら叫んだ。
「あとちょっと! 集中!」
柚月も中盤まで下がり、守備へ加わっていた。
「時間見るな! 次だけ!」
だが。
アディショナルタイム3分。
ついにアルゼンチンが日本のゴールをこじ開けた。
右サイドからアギーレがボールを持ち、フェレイラへ短く預ける。フェレイラは宮野と早川を引きつけると、ワンタッチで左へ展開した。
ロハス。
國武が寄る。
ロハスは縦へ行かず、一度中央へ戻す。
そこへ走り込んだスアレス。
藤森が身体を寄せる。
スアレスは倒れない。
右足でシュート。
桐生が飛ぶ。
触った。
しかし、ボールは指先をわずかにかすめ、そのままゴール左隅へ入った。
日本2-1アルゼンチン。
アルゼンチン、一点差。
残り時間は約一分。
アルゼンチンの選手たちは喜ぶことなく、すぐにゴールからボールを拾ってセンターサークルへ走った。
まだある。
あと一点。
追いつけば延長。
日本にとっては、最後の一分がさらに長くなった。
桐生は一瞬だけ悔しそうな表情を浮かべた。
「触ったのに……」
藤森がすぐに近づく。
「菜月、次!」
桐生が顔を上げる。
「うん!」
失点した。
でも。
まだリードしている。
この一点を引きずれば、次を失う。
主審が再開の笛を吹く。
日本はすぐにボールを前へ動かしたが、アルゼンチンが強烈に奪いに来る。
正木が一度キープ。
相手に囲まれる前に戻す。
柚月。
柚月は無理に前へ出さず、宮野へ。
宮野から森岡。
時間を使う。
アルゼンチンは奪いに来る。
森岡がボールを失う。
最後の攻撃。
アルゼンチン。
ロングボール。
藤森が跳ね返す。
フェレイラが拾う。
右へ。
クロス。
西野が頭でクリア。
まだ終わらない。
アギーレ。
もう一度中央。
スアレスが競る。
桐生が前へ出る。
両手。
キャッチ。
その瞬間、桐生はボールを胸へ強く抱え込んだ。
時計。
94分。
主審が見る。
桐生は立ち上がらない。
そして。
長い笛。
試合終了。
日本2-1アルゼンチン。
日本、準決勝進出。
桐生はその場で膝をついた。
すぐに藤森が駆け寄る。
森岡。
宮野。
早川。
正木。
柚月。
次々に集まってくる。
柚月が桐生の頭を両手で軽く抱えた。
「菜月、よう止めた!」
桐生はまだ息を切らしていた。
「最後、入れられました……」
原町監督がそこへ来る。
桐生が顔を上げる。
原町監督は短く言った。
「一点取られたことより、その前に何本止めたと思ってる」
桐生は黙る。
「今日、うちが準決勝へ行けた理由の一つは、お前だ」
桐生の目に少し涙が浮かんだ。
伊達葵も後ろから近づく。
「ナイスゲーム」
桐生が振り返る。
「葵さん……」
「最後までゴール守ったじゃん」
桐生はようやく笑った。
「はい」
やがて日本の選手たちはピッチ中央へ集まった。
森岡が全員を見る。
一次リーグ。
三連勝。
準々決勝。
アルゼンチン。
2-1。
あと二つ。
準決勝。
そして決勝。
金メダルまで。
あと二勝。
森岡が中央で拳を出した。
「あと二つ」
柚月も拳を重ねる。
「絶対てっぺん取るぞ」
早川。
宮野。
美琴。
正木。
藤森。
宮原。
國武。
西野。
桐生。
伊達。
全員が円陣へ入る。
選手だけではない。
ベンチの仲間たちも。
18人。
一つの輪。
森岡が叫ぶ。
「あと二つ、絶対てっぺん取ろう!」
全員の声が重なった。
「おお!」
一発勝負。
一つ勝った。
でも。
まだ何も手にしていない。
準決勝へ進んだだけ。
金メダルはまだ遠い。
柚月は円陣を解いたあと、少しだけ空を見上げた。
ユリ。
胸の中で、いつもの声が聞こえる。
「あと二つだべ」
柚月は小さく笑った。
「分かってるっちゃ」
その表情に、もう準々決勝の安堵だけはなかった。
次。
準決勝。
ここから先は。
負ければメダルの色まで変わる。
そして日本は、ついにベスト4へ進んだ。
次回予告
第89章「あと二つ」
準々決勝。
日本2-1アルゼンチン。
桐生菜月の好セーブ。
正木静香の先制点。
森岡美里の追加点。
そして最後の最後まで続いたアルゼンチンの猛攻。
日本は一発勝負を乗り越え、準決勝へ進出する。
金メダルまで、あと二勝。
しかし準決勝の相手もまた、世界トップクラスの強豪。
原町監督は選手たちへ言う。
「ここからは、勝てばメダルが確定する試合だ」
ただし、日本が欲しいのは決勝進出だけではない。
目標は金。
大船柚月は右ふくらはぎの状態を確認する。
疲労。
張り。
回復。
準決勝から決勝までを戦うため、再びコンディション管理が重要になる。
そして発表される準決勝の対戦相手。
柚月はその名前を見て、静かに息を吐く。
「また、とんでもない相手来たな」
次回、第89章「あと二つ」。
ベスト4まで来たからこそ、夢は現実に近づく。
近づいたからこそ、失う怖さも大きくなる。
それでも。
金メダルまで、あと二つ。




