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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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114/127

残り時間

 第88章 残り時間


 後半38分、森岡美里のヘディングシュートがネットを揺らし、日本はアルゼンチンに2-0とリードした。


 準決勝まで、あと少し。


 だが、その「あと少し」が最も長い時間だった。


 ディエゴ・アルバレス監督はすぐに守備の人数を削り、ルシアナ・フェレイラ、マルティナ・ロハス、カミラ・スアレスを高い位置へ集めた。中盤のバレンティナ・アギーレもほとんど守備の位置まで戻らず、攻撃の組み立てに加わる。


 二点。


 残された時間で二点。


 アルゼンチンには、それしかない。


 日本は森岡のゴールを喜ぶ時間もそこそこに、自陣へ戻って守備の位置を整えた。柚月は大きな声で仲間へ呼びかける。


「まだ終わってねぇぞ! 次の一本だけ集中!」


 藤森彩香も最終ラインから声を返す。


「中央締めよう! 外から来ても最後は中!」


 桐生菜月はゴール前で深く息を吐いた。


 ここまで何度もアルゼンチンの決定機を止めてきた。一次リーグ最終戦のガーナ戦に続く先発。しかも今度は、負ければ終わる準々決勝だった。


 残された時間。


 守り切れば準決勝。


 一点でも返されれば、アルゼンチンの勢いは一気に増す。


 それでも桐生は時計を見なかった。


 目の前のボールだけを見る。


 後半40分、フェレイラが中央で二人を引きつけ、左のロハスへ展開する。ロハスが縦へ運び、國武真央をかわしてクロスを入れる。中央ではスアレスが藤森と競り合った。


 ヘディング。


 ボールはゴール右へ。


 桐生が横へ飛ぶ。


 両手。


 弾いた。


 こぼれ球へアギーレが走り込む。


 宮野沙季が身体を投げ出してブロックした。


 アルゼンチンはそれでも攻撃を続ける。


 後半42分、今度は右から。


 低いクロス。


 西野千尋が足を伸ばしてクリア。


 そのこぼれ球をフェレイラが拾い、ペナルティーエリア外から右足を振り抜く。


 桐生が正面でキャッチ。


 ボールを抱えたまま芝へ倒れ、数秒だけ時間を使う。


 ベンチの伊達葵が立ち上がって拍手する。


「菜月、そのまま!」


 日本は無理に前へ出なかった。


 正木静香は前線に残り、カウンターの可能性だけは消さない。それによってアルゼンチンも最終ラインを完全には上げきれない。


 ただし、残り時間が少なくなるにつれて、その慎重さも消えていった。


 90分。


 第四審判がボードを掲げる。


 アディショナルタイム4分。


 スタジアム全体が大きくざわめいた。


 日本にとっては四分。


 アルゼンチンにとっても四分。


 ただし意味はまったく違う。


 日本は守り切れば準決勝。


 アルゼンチンは二点取らなければ終わる。


 アルバレス監督が両腕を前へ振った。


「全員上がれ!」


 GKマリアナ・ロペスを除き、ほとんどの選手が日本陣内へ入る。


 アディショナルタイム1分。


 フェレイラが中央から右へ。


 アギーレ。


 そこからクロス。


 藤森がクリア。


 アルゼンチンが拾う。


 もう一度。


 日本は押し込まれる。


 アディショナルタイム2分。


 ロハスが左からペナルティーエリアへ進入する。宮原彩乃が身体を寄せるが、ロハスは強引にボールを残し、中央へ折り返した。


 スアレス。


 右足。


 桐生。


 反応。


 弾く。


 ボールがポスト横へ転がる。


 藤森が大きく蹴り出す。


 桐生は立ち上がりながら叫んだ。


「あとちょっと! 集中!」


 柚月も中盤まで下がり、守備へ加わっていた。


「時間見るな! 次だけ!」


 だが。


 アディショナルタイム3分。


 ついにアルゼンチンが日本のゴールをこじ開けた。


 右サイドからアギーレがボールを持ち、フェレイラへ短く預ける。フェレイラは宮野と早川を引きつけると、ワンタッチで左へ展開した。


 ロハス。


 國武が寄る。


 ロハスは縦へ行かず、一度中央へ戻す。


 そこへ走り込んだスアレス。


 藤森が身体を寄せる。


 スアレスは倒れない。


 右足でシュート。


 桐生が飛ぶ。


 触った。


 しかし、ボールは指先をわずかにかすめ、そのままゴール左隅へ入った。


 日本2-1アルゼンチン。


 アルゼンチン、一点差。


 残り時間は約一分。


 アルゼンチンの選手たちは喜ぶことなく、すぐにゴールからボールを拾ってセンターサークルへ走った。


 まだある。


 あと一点。


 追いつけば延長。


 日本にとっては、最後の一分がさらに長くなった。


 桐生は一瞬だけ悔しそうな表情を浮かべた。


「触ったのに……」


 藤森がすぐに近づく。


「菜月、次!」


 桐生が顔を上げる。


「うん!」


 失点した。


 でも。


 まだリードしている。


 この一点を引きずれば、次を失う。


 主審が再開の笛を吹く。


 日本はすぐにボールを前へ動かしたが、アルゼンチンが強烈に奪いに来る。


 正木が一度キープ。


 相手に囲まれる前に戻す。


 柚月。


 柚月は無理に前へ出さず、宮野へ。


 宮野から森岡。


 時間を使う。


 アルゼンチンは奪いに来る。


 森岡がボールを失う。


 最後の攻撃。


 アルゼンチン。


 ロングボール。


 藤森が跳ね返す。


 フェレイラが拾う。


 右へ。


 クロス。


 西野が頭でクリア。


 まだ終わらない。


 アギーレ。


 もう一度中央。


 スアレスが競る。


 桐生が前へ出る。


 両手。


 キャッチ。


 その瞬間、桐生はボールを胸へ強く抱え込んだ。


 時計。


 94分。


 主審が見る。


 桐生は立ち上がらない。


 そして。


 長い笛。


 試合終了。


 日本2-1アルゼンチン。


 日本、準決勝進出。


 桐生はその場で膝をついた。


 すぐに藤森が駆け寄る。


 森岡。


 宮野。


 早川。


 正木。


 柚月。


 次々に集まってくる。


 柚月が桐生の頭を両手で軽く抱えた。


「菜月、よう止めた!」


 桐生はまだ息を切らしていた。


「最後、入れられました……」


 原町監督がそこへ来る。


 桐生が顔を上げる。


 原町監督は短く言った。


「一点取られたことより、その前に何本止めたと思ってる」


 桐生は黙る。


「今日、うちが準決勝へ行けた理由の一つは、お前だ」


 桐生の目に少し涙が浮かんだ。


 伊達葵も後ろから近づく。


「ナイスゲーム」


 桐生が振り返る。


「葵さん……」


「最後までゴール守ったじゃん」


 桐生はようやく笑った。


「はい」


 やがて日本の選手たちはピッチ中央へ集まった。


 森岡が全員を見る。


 一次リーグ。


 三連勝。


 準々決勝。


 アルゼンチン。


 2-1。


 あと二つ。


 準決勝。


 そして決勝。


 金メダルまで。


 あと二勝。


 森岡が中央で拳を出した。


「あと二つ」


 柚月も拳を重ねる。


「絶対てっぺん取るぞ」


 早川。


 宮野。


 美琴。


 正木。


 藤森。


 宮原。


 國武。


 西野。


 桐生。


 伊達。


 全員が円陣へ入る。


 選手だけではない。


 ベンチの仲間たちも。


 18人。


 一つの輪。


 森岡が叫ぶ。


「あと二つ、絶対てっぺん取ろう!」


 全員の声が重なった。


「おお!」


 一発勝負。


 一つ勝った。


 でも。


 まだ何も手にしていない。


 準決勝へ進んだだけ。


 金メダルはまだ遠い。


 柚月は円陣を解いたあと、少しだけ空を見上げた。


 ユリ。


 胸の中で、いつもの声が聞こえる。


「あと二つだべ」


 柚月は小さく笑った。


「分かってるっちゃ」


 その表情に、もう準々決勝の安堵だけはなかった。


 次。


 準決勝。


 ここから先は。


 負ければメダルの色まで変わる。


 そして日本は、ついにベスト4へ進んだ。


 次回予告

 第89章「あと二つ」


 準々決勝。


 日本2-1アルゼンチン。


 桐生菜月の好セーブ。


 正木静香の先制点。


 森岡美里の追加点。


 そして最後の最後まで続いたアルゼンチンの猛攻。


 日本は一発勝負を乗り越え、準決勝へ進出する。


 金メダルまで、あと二勝。


 しかし準決勝の相手もまた、世界トップクラスの強豪。


 原町監督は選手たちへ言う。


「ここからは、勝てばメダルが確定する試合だ」


 ただし、日本が欲しいのは決勝進出だけではない。


 目標は金。


 大船柚月は右ふくらはぎの状態を確認する。


 疲労。


 張り。


 回復。


 準決勝から決勝までを戦うため、再びコンディション管理が重要になる。


 そして発表される準決勝の対戦相手。


 柚月はその名前を見て、静かに息を吐く。


「また、とんでもない相手来たな」


 次回、第89章「あと二つ」。


 ベスト4まで来たからこそ、夢は現実に近づく。


 近づいたからこそ、失う怖さも大きくなる。


 それでも。


 金メダルまで、あと二つ。

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