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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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下がった最終ライン

第87章 下がった最終ライン


前半23分、正木静香のゴールで日本が1-0と先制したあと、アルゼンチンはすぐに守り方を変えた。


ディエゴ・アルバレス監督が最初に手を入れたのは、最終ラインの位置だった。正木にあれだけ広い背後のスペースを与えれば、同じことをもう一度やられる。そう判断したアルゼンチンは、センターバックのソフィア・ベニテスとエミリア・コルドバを数メートル下げ、正木が一気に抜け出せる場所そのものを消した。


それまでハーフウェーライン付近まで押し上げていた守備陣が、一段低い位置で構える。


正木が走り出す。


だが、今度はその先にDFがいる。


早川莉奈がその変化を見て、柚月へ声をかけた。


「背後、なくなりましたね」


柚月もすぐに分かっていた。


「んだな」


正木の速度そのものを止めることは難しい。だから、走る場所を与えない。


合理的な修正だった。


しかし、柚月はアルゼンチンの最終ラインだけを見てはいなかった。


ラインが下がった。


その分、中盤との距離が少し広がった。


「後ろが下がったってことは、その前が空くっちゃ」


早川がもう一度ピッチを見渡した。


確かに、最終ラインと中盤の間にさっきまでなかった空間が生まれている。


ただし、アルゼンチンもそこを無防備にするつもりはなかった。


ルシアナ・フェレイラがさらに低い位置へ降りてくる。日本の中盤を前へ引き出し、その背後を使う。日本が出なければ、自分でボールを運ぶ。


柚月へボールが入れば、バレンティナ・アギーレがすぐ寄せる。


前を向かせない。


正木には裏を与えない。


日本の先制点で使われた二つの武器を、アルゼンチンは同時に消そうとしていた。


そのころ。


柚月の心の中には、懐かしい声が聞こえていた。


天国から試合を見ているユリだった。


「柚月、どうするべ?」


柚月はプレーを続けながら、ほんの少しだけ笑った。


「正木の速さ消されたべ。柚月なら、今度はどうする?」


ユリ自身が少し考えているようだった。


「うちだったら……サイドから崩すかなぁ。柚月もそうするべ?」


柚月は心の中で答える。


「近い」


「近い?」


「サイドだけじゃねぇ」


アルゼンチンが縦を消すなら。


縦だけを狙わない。


柚月は森岡美里を見る。


次に早川。


宮野沙季。


國武真央。


宮原彩乃。


一人ずつ目が合う。


柚月は両手を少し広げた。


意味は一つ。


広く使う。


前後。


左右。


全部。


日本が持っているもう一つの武器。


大きな選手同士でぶつかり合うのではなく、短い距離で細かく立ち位置を変え、ワンタッチやツータッチでボールを逃がしていく。


いわば、小回り。


アルゼンチンが身体の強さとボール保持で勝負するなら、日本は狭い場所での方向転換と連続したパスで相手を動かす。


前半31分、日本はその形を試し始めた。


藤森彩香から宮野。


宮野から柚月。


アギーレが来る前に早川。


早川がワンタッチで森岡。


森岡は國武へ。


左へ。


アルゼンチンが動く。


國武は無理に縦へ行かず、また中央へ戻す。


柚月。


右。


宮原。


また戻す。


日本は前へ蹴らない。


正木も裏へ走り続けるのではなく、一度中盤近くまで下がる。


センターバックがついてこない。


なら、その前で受ける。


ボールを動かしながら、アルゼンチンを一度前へ。


また後ろへ。


右へ。


左へ。


アルゼンチンは日本の小さなパス交換へ対応するため、何度も守備位置を変えなければならなくなった。


アルバレス監督も気づく。


「今度は走らせに来たか」


前半36分。


柚月が中央で受ける。


正木が一瞬だけ背後へ。


アルゼンチンDFが下がる。


柚月は出さない。


森岡へ。


森岡から右。


宮原が上がる。


アルゼンチンが右へ寄る。


また戻す。


柚月。


左。


國武。


今度は左へ。


日本は攻撃している。


しかし、どこから本当に来るのかが分からない。


アルゼンチンの選手たちは次第に、日本がボールを前へ入れる瞬間ばかりを意識するようになった。


柚月が中央で前を向く。


正木が動く。


だから縦。


そう思わせる。


出さない。


また横。


その繰り返しだった。


前半終了まで、スコアは1-0のまま動かなかった。


ハーフタイム。


原町監督はホワイトボードの前で言った。


「向こうは正木の背後を消した。それは予定どおりだ」


正木が苦笑する。


「私、めちゃくちゃ警戒されてますね」


柚月が笑う。


「仕事してる証拠だべ」


原町監督は続ける。


「今は正木が走るだけでラインが下がる。その前を使えている。後半も急ぐな」


早川が聞いた。


「前後だけじゃなく左右も?」


柚月が答える。


「全部使う。向こうに次どっちから来るか考えさせ続ける」


原町監督もうなずいた。


「正解を固定するな」


後半。


アルゼンチンも再び強く出てきた。


一発勝負。


一点を追っている。


フェレイラが中盤からボールを運び、ロハスがサイドを突破する。


桐生菜月も好セーブを続けた。


後半9分にはフェレイラの強烈なミドルシュートを両手で弾き、後半17分にはロハスのクロスからスアレスが放ったヘディングシュートをゴールライン際でキャッチした。


日本が優勢なわけではない。


むしろ、アルゼンチンに攻め込まれる時間はまだ長い。


それでも1-0。


桐生が最後を守る。


藤森と西野が中央を締める。


宮野がセカンドボールを拾う。


そして奪ったら、日本はアルゼンチンを前後左右へ動かす。


後半25分を過ぎたころから、アルゼンチンの守備に小さな変化が見え始めた。


日本がボールを持ったとき、最初に正木を見る。


次に柚月を見る。


縦が来る。


そう思って中央を締める。


柚月はそれを待っていた。


後半31分。


柚月が中央でボールを持つ。


正木が走る。


二人のDFが下がる。


アルゼンチンの中盤も、柚月から縦パスが出ると考えて中央へ寄る。


柚月は左へ。


國武。


國武から森岡。


また中央。


早川。


一度右へ。


宮原。


アルゼンチンが横へ動く。


宮原は前へ出さず、もう一度後ろへ。


日本は急がない。


柚月が小さく言った。


「もうちょい」


後半35分。


同じことをもう一度。


今度は早川から柚月。


正木が背後へ。


またアルゼンチンが中央を意識する。


柚月は左へ展開。


國武がライン際を進む。


しかしクロスは上げない。


戻す。


アルゼンチンは、日本がいつ縦へ入れてくるのかと考え続ける。


後半38分。


その瞬間が来た。


日本は自陣からボールをつなぐ。


藤森から宮野。


宮野から早川。


早川が中央の柚月へ。


アルゼンチンの中盤が寄る。


正木が前へ走る。


ベニテスとコルドバが下がる。


誰もが。


ここから縦。


正木へ。


そう思った。


柚月は身体を前へ向ける。


右足を振るような動き。


アルゼンチンの守備陣が中央へ意識を集中させた。


だが。


ボールは左。


國武真央。


完全に逆。


國武がワンタッチで前へ運ぶ。


アルゼンチンが今度は左へ動く。


國武はさらに中央へ短く戻す。


日比谷ではなく森岡美里が触る。


そして。


一気に右。


大きなサイドチェンジ。


宮原彩乃。


右サイド。


ほとんど誰もいない。


宮原はボールを受けると、そのままライン際を一気に駆け上がった。


アルゼンチンの左サイドバックが必死に戻る。


しかし、それまで何度も左右へ振られている。


半歩。


遅い。


宮原はペナルティーエリア右側へ近づく。


エンドライン。


ぎりぎり。


ボールが出る寸前。


右足。


クロス。


高すぎない。


速い。


ゴール前へ鋭く入る。


正木がニアへ走る。


アルゼンチンのセンターバックが正木へ引っ張られる。


その後ろ。


森岡美里。


走り込んでいた。


誰にも捕まっていない。


森岡が跳ぶ。


額。


しっかりとボールを捉えた。


ヘディング。


ボールがゴール左方向へ飛ぶ。


GKマリアナ・ロペスが反応する。


しかし。


届かない。


ネット。


日本2-0アルゼンチン。


後半38分。


森岡美里。


日本、追加点。


森岡は着地すると、そのまま両拳を握った。


「よし!」


宮原が真っ先に走ってくる。


「美里さん!」


正木も。


早川も。


宮野も。


そして柚月。


全員が森岡を囲む。


森岡は笑いながら柚月を見た。


「縦じゃなかったね」


柚月も笑う。


「ずっと縦だと思わせたかったんだべ」


宮原が息を切らしながら言う。


「逆サイド、めちゃくちゃ空いてました!」


柚月がうなずく。


「向こうが自分から空けてくれた」


ベンチ。


原町監督は大きく拳を握った。


岩出コーチが言う。


「完全に中央へ意識を寄せましたね」


「正木のスピードを消そうとした結果だ」


正木の背後を消した。


そのため最終ラインが下がった。


日本はその前を使った。


中央を警戒させた。


前へ来ると思わせた。


そして最後に。


左。


右。


サイド。


一つの武器を消されたから。


別の武器を使う。


それだけだった。


アルゼンチンの選手たちは、センターサークルへ戻りながら苦しい表情を浮かべていた。


残り時間。


わずか。


二点差。


それでも。


まだ終わってはいない。


一発勝負。


ここで諦めた瞬間、本当に終わる。


アルバレス監督はすぐ選手たちへ声を飛ばした。


「前へ行け! まだある!」


日本側。


森岡が仲間を集める。


「まだ終わってないよ!」


柚月もすぐ続けた。


「2-0が一番危ねぇくらいに思っとけ!」


残り時間。


アルゼンチンはさらに人数を前へ出す。


日本も守るだけにはならない。


試合終了の笛まで。


まだ数分ある。


天国。


ユリは少し笑っていた。


「やっぱサイドだったべ」


柚月は心の中で返した。


「サイドだけじゃねぇって言ったろ」


「細かいこと言うなって」


柚月は思わず口元を緩めた。


そしてすぐ。


アルゼンチンのキックオフを見る。


まだ。


終わっていない。


次回予告


第88章「残り時間」


後半38分。


大船柚月が縦を見せ続け、アルゼンチンの意識を中央へ集中させる。


そこから左。


さらに一気に右。


宮原彩乃がエンドラインぎりぎりからクロスを送り、森岡美里がヘディングで決める。


日本2-0アルゼンチン。


準決勝まで、あとわずか。


しかしアルゼンチンは諦めない。


ディエゴ・アルバレス監督は守備の人数をさらに削り、ルシアナ・フェレイラ、マルティナ・ロハス、カミラ・スアレスを前へ集める。


残された時間で二点。


日本の最終ラインへ、最後の猛攻が襲いかかる。


そして一次リーグ最終戦から連続先発となった桐生菜月にも、試合最大の仕事が残されていた。


後半アディショナルタイム。


アルゼンチンが決定的なシュート。


桐生はゴールラインへ飛ぶ。


一度負ければ終わる準々決勝。


最後の最後まで、何が起こるか分からない。


次回、第88章「残り時間」。


二点リードしていても、時計が止まるまでは何も手にしていない。


準決勝への切符は、最後の笛が鳴った瞬間に初めて自分たちのものになる。

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