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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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一人目は奪わない

 第86章 一人目は奪わない


 ロサンゼルスオリンピック女子サッカー準々決勝、日本対アルゼンチン。


 一次リーグを三戦全勝で首位通過した日本にとって、ここから先は勝ち点も得失点差も意味を持たない。一度負ければ、その瞬間に金メダルへの道は閉ざされる。


 対するアルゼンチンも同じだった。


 世界トップ8まで残ったチーム同士による、一発勝負。


 試合開始の笛が鳴ると、アルゼンチンは予想どおり猛烈な勢いで日本へ襲いかかってきた。


 中心にいるのはルシアナ・フェレイラとマルティナ・ロハスだった。フェレイラは低い重心と強い体幹を生かし、身体を寄せられても簡単にはバランスを崩さない。ロハスも左サイドで細かなタッチを繰り返し、日本のDFが足を出した瞬間にわずかにボールをずらして突破してくる。


 しかし、日本は最初から一人目で奪うことを目的にしていなかった。


 前日のミーティングで柚月が出した答え。


 一人で止める必要はない。


 最初の選手が中央を消し、アルゼンチンの選手を外側へ誘導する。その先に二人目を置き、そこで止める。二人目までかわされた場合には三人目がカバーする。


 前半4分、ロハスが左サイドでボールを受けた。宮原彩乃が間合いを詰めるものの、無理に足を出さずに中央へのコースだけを消していく。


 ロハスは縦へ進むしかなくなった。


 そこへ宮野沙季が寄せる。


 二人目。


 ロハスは身体を入れて宮野をかわそうとしたものの、後方から藤森彩香もカバーへ入り、最終的にはクロスをブロックしてコーナーキックへ逃れた。


 柚月がすぐに声をかける。


「それでいい! 一人目で全部やろうとすんな!」


 日本はアルゼンチンの突破力を真正面から受け止めるのではなく、突破する方向そのものを限定し始めていた。


 それでもアルゼンチンは強かった。


 前半7分、フェレイラが中央でボールを受けると、早川莉奈が身体を寄せる。しかしフェレイラは右足の裏でボールを引き、身体を入れ替えるようにして早川を外した。


 宮野が二人目として寄る。


 フェレイラはその瞬間を待っていたかのように右へパスを出す。


 アマではなく、アルゼンチン主将のバレンティナ・アギーレが走り込んでいた。


 そのまま右サイドへ展開。


 クロス。


 中央へカミラ・スアレスが飛び込む。


 藤森が身体を寄せるが、スアレスは強引に頭で合わせた。


 ゴール左方向へ飛ぶ。


 桐生菜月が横っ飛び。


 両手で弾いた。


 日本のゴールを守っていたのは伊達葵ではなく、一次リーグ最終戦のガーナ戦に続いて先発した桐生だった。


 原町監督は、ガーナ戦で90分を無失点に抑えた経験を一度きりにしなかった。


 決勝トーナメントでも桐生を使う。


 本当に18人で金メダルを取るのなら、第2GKにも世界トップ8の一発勝負を経験させる必要があると考えていた。


 ベンチの伊達葵は、桐生のセーブに大きく拍手する。


「ナイス、菜月!」


 桐生はすぐに起き上がり、藤森たちへ声をかけた。


「大丈夫! もう一回中央締めよう!」


 緊張していないわけではない。


 しかし、ガーナ戦の開始直後とは明らかに違った。


 桐生はもう、オリンピックの速度を知っている。


 前半10分を過ぎると、ディエゴ・アルバレス監督は日本の狙いに気づいた。


 日本は一人目で奪いに来ない。


 中央を閉じ、外へ誘導したあとで人数をかけて奪おうとしている。


 ならば、その二人目を前へ引き出せばいい。


 アルバレス監督はフェレイラへ指示を送った。


 フェレイラの位置が下がる。


 それまで日本の中盤と最終ラインの間でボールを受けようとしていたフェレイラが、自陣側まで下がってボールへ触れるようになった。


 柚月はすぐにその変化を見つけた。


「フェレイラ、下がったぞ」


 宮野が振り返る。


「私たちを前に出したいんですかね」


「たぶんな。二人目まで引っ張って、その後ろ使う気だべ」


 日本がアルゼンチンを誘導する。


 その誘導そのものを利用して、日本の中盤を前へ動かそうとするアルゼンチン。


 一つの答えに対して、すぐに次の答えが返ってくる。


 準々決勝は、開始10分ほどですでに高度な駆け引きへ入っていた。


 前半13分、フェレイラが低い位置で受ける。


 宮野は一歩だけ前へ出たが、深追いしない。


 フェレイラはそれでも中央へ運び、早川を引きつけてアギーレへ預ける。そこからロハスへ一気に展開され、日本の守備が横へ動かされた。


 ロハスが内側へ切り込む。


 シュート。


 桐生が正面で止める。


 前半16分には、スアレスが藤森と西野千尋の間へ飛び出した。フェレイラから鋭い縦パスが入り、桐生との一対一に近い状況になる。


 桐生は慌てて飛び込まなかった。


 一歩前。


 さらに一歩。


 シュートコースを狭める。


 スアレスが右へ持ち出してシュートを放つ。


 桐生は左足を伸ばした。


 ボールが足に当たり、ゴールの外へ転がっていく。


 また止めた。


 藤森が桐生の肩を叩いた。


「菜月、ナイス!」


 桐生は短く息を吐きながら答えた。


「まだ来るよ!」


 アルゼンチンの攻撃は止まらなかった。


 前半19分、今度はロハスが左から突破し、中央へ低いクロスを送る。アギーレがペナルティーエリア手前から右足を振り抜いたが、桐生が両手で弾き出した。


 シュート数ではアルゼンチン。


 ボール支配でもアルゼンチン。


 日本は明らかに押し込まれていた。


 それでも原町監督は動かなかった。


 ベンチで岩出コーチが言う。


「かなり持たれています」


「持たれているだけだ」


 原町監督はアルゼンチンの最終ラインを見る。


 攻撃するたびに、少しずつ前へ出ている。


 フェレイラ。


 ロハス。


 スアレス。


 アギーレ。


 攻撃へ人数をかけることで、日本を押し込んでいる。


 その代わり。


 後ろにはスペースがある。


 柚月も同じ場所を見ていた。


 早川へ近づき、小さく言う。


「向こう、だいぶ前に出てきた」


 早川が振り返る。


「狙います?」


 柚月は首を横に振った。


「無理には狙わん。でも、取った瞬間に最初だけ前見るぞ」


 カウンターを狙うことと、何でもかんでも縦へ蹴ることは違う。


 空いていれば行く。


 なければ落ち着かせる。


 そこは変えない。


 そして前半23分。


 アルゼンチンがまた日本陣内へ攻め込んだ。


 右サイドから中央へボールが入り、フェレイラが一度触ってアギーレへ落とす。


 アギーレはペナルティーエリア右斜め前。


 ゴールまで約23メートル。


 日本の守備が少し下がったのを見て、迷わず右足を振り抜いた。


 強烈なミドルシュート。


 ボールはゴール左上へ向かって伸びる。


 桐生が反応した。


 一歩。


 踏み切る。


 横っ飛び。


 両腕を伸ばす。


 ボールがグローブへ当たった。


 完全にはつかめない。


 しかし大きく外へ弾く。


 藤森がこぼれ球へ先に入った。


 その瞬間。


 柚月が叫んだ。


「前!」


 日本の空気が一変した。


 守備から攻撃。


 藤森から宮野。


 宮野がすぐに中央の早川へ預ける。


 早川は前を向いた。


 目の前に広大な空間がある。


 アルゼンチンはシュートまで持ち込むため、守備陣もかなり高い位置まで押し上げていた。


 その背後。


 もう正木静香が走っていた。


 早川から柚月へ。


 柚月はほとんどボールを止めなかった。


 正木がどこへ走るか分かっている。


 右足。


 一気に縦。


 アルゼンチンの最終ラインの背後へボールが転がる。


 正木が加速した。


 ソフィア・ベニテスが戻る。


 エミリア・コルドバも中央から追う。


 しかし正木の脚は速い。


 前半、日本が押し込まれている時間が長かったぶん、正木は無駄なスプリントを繰り返していなかった。


 ここ。


 本当に必要な瞬間。


 一気に速度を上げる。


 正木がボールへ追いつく。


 ベニテスが左から迫る。


 正木は右へ少しボールを運び、身体を入れて相手の進路を消した。


 そのままペナルティーエリアへ進入。


 もう一人。


 コルドバ。


 正木が一度ボールを左へ触る。


 コルドバの重心が動く。


 その横を抜けた。


 目の前にはアルゼンチンGKマリアナ・ロペス。


 一対一。


 スタジアムの歓声が一気に大きくなる。


 ロペスが前へ出る。


 正木は慌てない。


 メキシコ戦でも経験した状況。


 GKを見る。


 足を見る。


 重心を見る。


 ロペスがわずかに右へ体重をかけた。


 正木はその瞬間、右足のインサイドでボールを逆方向へ流した。


 強くはない。


 しかし、正確。


 ゴール左隅。


 ロペスが足を伸ばす。


 届かない。


 ボールがポストの内側を通り、ネットへ入った。


 日本1-0アルゼンチン。


 前半23分。


 正木静香。


 日本、先制。


 アルゼンチンが何度も日本のゴールへ迫った23分間。


 桐生菜月が止め続けた。


 藤森たちが最後を割らせなかった。


 そして一度だけ、アルゼンチンの守備陣が前へ出すぎた。


 日本はその一瞬を逃さなかった。


 正木はゴールを確認すると、大きく拳を握って走り出した。


「よしっ!」


 柚月が真っ先に追いつき、正木の肩へ腕を回した。


「冷静だったな!」


 正木は息を切らしながら笑う。


「前の試合で一対一やったから、ちょっと余裕ありました!」


「オリンピックでGKとの一対一に慣れるなって!」


 早川も駆け寄りながら笑った。


「でも今のは完璧でした!」


 宮野も続く。


「その前に菜月のセーブですよ!」


 全員が振り返る。


 遠く、日本ゴールの前。


 桐生も拳を握っている。


 攻撃を止めたGKから始まった一点。


 原町監督もベンチで大きく拍手した。


 岩出コーチが言う。


「桐生のセーブから十数秒です」


 原町監督はうなずいた。


「守った時間全部が、あの十数秒を作った」


 一度のカウンターだけで生まれたゴールではない。


 一人目で無理に奪わない。


 最後を通さない。


 桐生が止める。


 アルゼンチンを前へ引き出す。


 そして。


 背後が開いた瞬間だけ、一気に出る。


 23分間で作った一点だった。


 だが、ディエゴ・アルバレス監督はすぐに動いた。


 失点の原因は明確だった。


 正木へあまりにも大きな背後のスペースを与えた。


 ならば。


 最終ラインを少し下げる。


 ベニテスとコルドバへ指示。


 正木の背後へのランニングを消す。


 同時にフェレイラにはさらに自由を与え、日本の中盤を動かし続ける。


 柚月もその変化を見ていた。


 センターサークルへ戻りながら早川へ声をかける。


「次、後ろ下げてくるぞ」


「正木さんのスペース消します?」


「たぶんな」


「じゃあ次は?」


 柚月はアルゼンチンの最終ラインと中盤の間を見る。


 守備ラインが下がれば。


 別の場所が空く。


 柚月は少し笑った。


「また探すっちゃ」


 準々決勝。


 日本1-0アルゼンチン。


 しかし。


 試合はまだ23分しか経っていなかった。


 ここからアルゼンチンが何を変えるのか。


 そして。


 その修正に、日本がどう答えるのか。


 一発勝負は、まだ始まったばかりだった。


 次回予告

 第87章「下がった最終ライン」


 前半23分。


 桐生菜月の好セーブから始まった高速カウンターを、正木静香が冷静に仕留めて日本が先制。


 しかし、ディエゴ・アルバレス監督はすぐに日本の狙いを修正する。


 正木のスピードを警戒し、アルゼンチンの最終ラインを数メートル下げる。


 これによって、日本が先制点で使った広大な背後のスペースは消える。


 さらに大船柚月へボールが入った瞬間には強烈なプレッシャーをかけ、前を向かせない。


 早川莉奈が柚月へ尋ねる。


「背後、なくなりましたね」


 柚月はアルゼンチンの最終ラインを見る。


 そして、その前を見る。


「後ろが下がったってことは、その前が空くっちゃ」


 最終ラインが下がれば、中盤との距離が広がる。


 一つを塞げば、別の場所が空く。


 しかしアルゼンチンも、その空間を簡単には使わせない。


 ルシアナ・フェレイラがさらに低い位置まで下がり、日本の中盤を前へ引き出そうとする。


 日本。


 アルゼンチン。


 互いの修正がさらに速くなる。


 次回、第87章「下がった最終ライン」。


 先制点と同じ攻撃をもう一度狙う必要はない。


 相手がその答えを消した瞬間、そこには必ず次の問いが生まれる。

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