負けたら終わり
第85章 負けたら終わり
一次リーグ三試合を終え、日本は勝ち点9でA組首位通過を決めた。オランダに1-0、メキシコに3-1、ガーナに5-0。数字だけを見れば申し分のない内容だったが、決勝トーナメントへ入る前日のミーティングで、原町監督はその結果を一度すべて脇へ置いた。
スクリーンには準々決勝の組み合わせが映し出されている。
日本の相手はアルゼンチン。
森岡美里が静かに画面を見つめ、早川莉奈も腕を組んだまま動かなかった。大船柚月は椅子へ深く座りながら、対戦相手の名前を何度か頭の中で繰り返した。
ここからは世界のベスト8。
強くない相手など、もう残っていない。
原町監督は選手たちを見回してから、ホワイトボードに大きく一本の線を引いた。
「一次リーグでは勝ち点があった。三試合を使って順位を決められた。でも、ここから勝ち点はない」
部屋が静まり返る。
「90分で決まらなければ延長。そこでも決まらなければPK。一回負けたら、その瞬間に終わる」
三連勝したという事実は自信にはなる。しかし、準々決勝の開始時点では日本もアルゼンチンも0-0。勝ち点9も、得失点差も、何一つ持っていくことはできない。
原町監督はそこで映像を流した。
アルゼンチン代表。
南米らしい独特の間。
狭い場所でも簡単にはボールを失わない。
身体を当てられても軸がぶれない。
一人目をかわし、二人目が来ても足元からボールが離れない。派手なスピードだけではなく、相手の重心を見て半歩ずらし、そこから急に加速する。
中でも警戒すべき選手として紹介されたのが、攻撃的MFのルシアナ・フェレイラだった。低い重心と強い体幹を持ち、二人に囲まれてもボールを失いにくい。左ウイングのマルティナ・ロハスは一対一の突破力に優れ、センターフォワードのカミラ・スアレスはDFを背負いながら前を向ける。
中盤の底には主将のバレンティナ・アギーレ。試合の速度を変えるパスを持ち、アルゼンチンの攻撃の出発点になっている。
守備ではセンターバックのソフィア・ベニテスとエミリア・コルドバが身体の強さを生かし、簡単には中央を割らせない。
指揮官はディエゴ・アルバレス監督。
個人技だけに依存するチームではなく、奪ったあとにフェレイラやロハスへ素早く預け、その選手が一人を引きつけたところから周囲が一気に動き出す形を得意としていた。
映像が止まった。
原町監督は何も説明せず、柚月を見た。
「大船」
「はい」
「お前ならどう戦う?」
突然の問いではなかった。
代表合宿でも、予選でも、原町監督は何度も柚月に同じような問いを投げてきた。答えそのものを覚えさせるのではなく、なぜそう考えたのかを言葉にさせるためだった。
柚月は少しだけ前へ身体を起こした。
スクリーンを見る。
フェレイラ。
ロハス。
スアレス。
何度も相手をかわす映像。
そして、その直後に周囲の味方が動く。
柚月はしばらく黙っていた。
早川が横からちらりと見る。
やがて柚月が口を開いた。
「一対一で勝とうとしない方がいいと思います」
原町監督は何も言わない。
続きを待つ。
「向こうは、一人目をかわすことを前提に攻撃してる。最初のDFを抜いた瞬間に、周りが動き始めてます」
岩出コーチが小さくうなずいた。
柚月は続ける。
「だから、一人目が絶対奪おうとすると危ない。抜かれた瞬間に向こうの攻撃の形に入る」
森岡が聞く。
「じゃあ、取りに行かない?」
「行く。でも、奪うためじゃなくて、行かせる方向を決める」
柚月は立ち上がり、ホワイトボードへ近づいた。
アルゼンチンの左ウイングに丸をつける。
「たとえばロハスがここで持ったら、一人目は縦を全部止めようとしない。中央を消して外へ行かせる。その先に二人目」
少し後ろへ別の丸。
「二人目で止める」
宮野沙季がすぐ理解した。
「一人目は壁じゃなくて、誘導役」
「そう。アルゼンチンの選手は身体が強いから、一人目で全部止めようとするとかわされる。でも、行く方向を一つにできれば二人目が待てる」
早川が聞く。
「逆に、一人目を抜かせるくらいでもいい?」
柚月はうなずいた。
「抜かせるっていうより、抜く方向をこっちが選ばせる感じ」
原町監督の表情がわずかに変わった。
「守備はそれでいい。攻撃は?」
柚月は今度はアルゼンチンの中盤を見る。
「向こう、ボール取られたあとすぐ奪い返しに来ますよね」
「来る」
「だから、最初の一発で前へ出すより、一回食いつかせた方がいいと思います」
早川が目を細める。
柚月は説明を続けた。
「アルゼンチンはボールを失った瞬間に近い選手が一気に寄ってくる。その最初の二、三人を外せたら、その後ろは逆に広い」
森岡が言った。
「前へ急がず、一回引きつける」
「んだ。取った瞬間に縦一本じゃなくて、美琴みたいに一回持てる選手へ預ける。相手が寄ってきたら、そこから逆」
長崎美琴が自分を指さした。
「私ですか?」
柚月が笑う。
「今日みたいな相手、お前めっちゃ大事だぞ」
「プレッシャーかけますね」
「褒めてんだっちゃ」
部屋に小さな笑いが起きる。
だが、柚月の考えはまだ終わっていなかった。
「あと、走らせたいです」
原町監督が聞く。
「メキシコ戦と同じか?」
「同じじゃないです」
柚月は首を振った。
「メキシコは全部追ってきたから、ボール動かして相手だけ走らせた。でもアルゼンチンは自分たちがボール持つのもうまい。だから今回は、前後に走らせたい」
「前後?」
「はい」
アルゼンチンはボールを持っているとき、複数の選手が前へ出る。
ならば。
「向こうが攻撃したら、取ったあとに必ず背後を見せる。正木や結衣を一回走らせる。それで最終ラインが下がったら、今度は中盤で持つ。下げたと思ったら、また前へ走らせる」
正木静香が少し笑った。
「また走る係ですね」
「お前はそういう係だべ」
「了解です」
高橋結衣も笑っている。
柚月はもう一度ホワイトボードを見た。
「横だけじゃなくて前後。守備ラインを上げたり下げたりさせる。アルゼンチンの選手は体幹強いけど、ずっと前後に走らされたら同じようには動けない」
原町監督が尋ねた。
「つまり?」
柚月は少し考え、短くまとめた。
「一人で止めない。一発で攻めない。相手に一回選ばせて、その次を取る」
部屋が静かになる。
原町監督は数秒、柚月を見た。
それからホワイトボードへ三つの言葉を書いた。
誘導。
吸収。
加速。
「大船の考えを基本にする」
早川が少し驚いて柚月を見る。
原町監督は続けた。
「ただし、大船の答えをそのまま覚えるな」
いつもの言葉だった。
「なぜそうするかを考えろ」
早川、美琴、宮野がうなずく。
原町監督は映像を再開した。
アルゼンチンの突破。
フェレイラが中央で二人を引きつける。
しかし映像を止めると、その後ろには別の景色が見えた。
フェレイラへ二人が寄った瞬間、逆サイドに選手が余る。
だから、最初の一人だけを見てはいけない。
攻撃側の選手も同じだった。
アルゼンチンがボールを奪い返そうと一気に中央へ集まった瞬間、その外には広いスペースがある。
柚月はそれを見ながら、メキシコ戦やオランダ戦とはまた違う試合になると感じていた。
一次リーグでは、相手の戦い方を試合の中で見ながら答えを変えられた。
だが準々決勝では、一つの判断の遅れが大会終了につながる。
負けたら終わり。
その言葉が、これまでとは違う重さを持っていた。
ミーティング後、選手たちは練習場へ移動した。
柚月の右ふくらはぎの状態は良好だった。ガーナ戦で出場時間を抑えたため張りもほとんど残っておらず、メディカルスタッフからも通常どおりの負荷をかけて問題ないと判断されている。
伊達葵も十分に休めている。
正木も脚が残っている。
一次リーグ三戦目で桐生菜月、相沢紗英、日比谷玲奈、宮坂玲奈へ経験を積ませたことで、日本には使える選択肢も増えた。
11人だけではない。
18人。
その意味は、ここからさらに大きくなる。
練習では、アルゼンチンの一対一を想定した守備が繰り返された。
早川がドリブル役。
宮原彩乃が一人目。
宮原は無理に飛び込まない。
内側を切りながら外へ誘う。
早川が外へ運ぶ。
そこへ宮野。
二人目。
挟む。
奪う。
原町監督が笛を吹く。
「それでいい。最初の選手がヒーローになろうとするな」
次は逆。
美琴がボールを持つ。
藤森が寄る。
美琴は身体を使って外す。
しかしその先に森岡。
奪う。
今度は日本のカウンター。
森岡から柚月。
柚月はすぐ縦へ出さない。
美琴へ一度戻す。
アルゼンチン役の選手たちが奪い返そうと寄る。
その瞬間。
柚月が逆サイドへ。
正木が走る。
一気に前進。
「それ!」
原町監督の声が飛ぶ。
柚月自身も、戦術が形になっていく感触を確かめていた。
練習後、森岡が隣へ来た。
「いよいよだね」
柚月は芝に座りながらシューズの紐を緩める。
「んだな」
「怖い?」
柚月は少しだけ考えた。
「怖いよ」
森岡がうなずく。
「私も」
一次リーグなら、一試合負けても次がある可能性があった。
今はない。
PK一つ。
パス一つ。
判断一つ。
それで四年間が終わることもある。
柚月は芝の上へ手を置いた。
「でも、怖いからちゃんと見るんだべ」
森岡が笑う。
「それ、最近の柚月らしい」
「けがしてからな」
無理をしない。
怖さを認める。
状態を見る。
相手を見る。
それでも、行くときは行く。
サッカーも同じだった。
その夜。
柚月はホテルの部屋で徹から届いたメッセージを読んだ。
『いよいよ一発勝負だな』
柚月は返信する。
『負けたら終わり』
すぐ返ってくる。
『勝ったら次がある』
柚月は画面を見ながら笑った。
「簡単に言うなぁ」
だが。
その通りだった。
負けたら終わる。
なら。
勝てばいい。
難しいことを難しく考えすぎても仕方がない。
翌日。
準々決勝。
日本対アルゼンチン。
世界のベスト8。
選手入場口で、柚月はアルゼンチンの選手たちを見る。
ルシアナ・フェレイラ。
マルティナ・ロハス。
カミラ・スアレス。
バレンティナ・アギーレ。
一人ひとりが強い。
簡単にボールを奪えない。
一人で止める必要はない。
一発で攻める必要もない。
相手に選ばせる。
その次を取る。
森岡が隣から声をかけた。
「行こう」
柚月がうなずく。
「んだ」
スタジアムへ出る。
歓声。
準々決勝。
一度負ければ終わり。
でも。
柚月の目にあったのは恐怖だけではなかった。
世界トップ8。
こんな相手と。
オリンピックで。
金メダルを懸けて戦える。
「面白くなってきたな」
森岡が横を見る。
「その顔になったね」
主審が両チームを確認する。
そして笛が鳴る。
日本対アルゼンチン。
金メダルへの一発勝負が始まった。
次回予告
第86章「一人目は奪わない」
準々決勝。
日本対アルゼンチン。
試合開始直後から、ルシアナ・フェレイラとマルティナ・ロハスが南米屈指の突破力を見せる。
身体を寄せても倒れない。
ボールへ足を出しても、わずかにずらされる。
しかし日本は最初から、一人目で奪おうとしない。
中央を消す。
外へ誘う。
そして、その先に二人目。
柚月の答え。
「一人で止める必要はない」
アルゼンチンは思うように中央へ入れず、次第に攻撃する場所を限定されていく。
しかしディエゴ・アルバレス監督も日本の狙いを見抜き、フェレイラを中央から下げてボールを受けさせる修正を行う。
守備を誘導する日本。
その誘導そのものを利用しようとするアルゼンチン。
そして前半、アルゼンチンが日本の二人目の守備まで外し、伊達葵との一対一を作る。
一発勝負。
最初の最大の危機。
次回、第86章「一人目は奪わない」。
一人で勝つ必要はない。
一人目が相手を動かし、二人目が止め、三人目が次の攻撃を始める。
世界トップ8の戦いは、一つ先ではなく、そのさらに一つ先を読む勝負になる。




