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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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首位通過

 第84章 首位通過


 日本が2-0とリードしたあとも、ガーナは攻撃をやめなかった。


 むしろ、やめることができなかった。


 一次リーグを突破するためには、日本に二点差以上で勝たなければならなかった。しかし宮野沙季の先制点を許し、さらに後半、桐生菜月の好セーブから始まったカウンターを大船柚月に仕留められたことで、状況は絶望的なものへ変わっていた。


 ここから必要なのは四点。


 しかも、日本にこれ以上得点を許さずに四点を奪わなければならない。


 時計は止まらない。


 クワメ・アドゥ監督はそれでも選手たちへ前進を求めた。オリンピックの舞台である以上、試合終了の笛が鳴るまでは戦わなければならない。それは選手たちも理解していた。


 ただ、頭で理解することと、心がその状況を受け入れることは別だった。


 ガーナのプレーには少しずつ焦りが表れ始めた。


 それまでなら一度ボールを戻して攻撃を組み直していた場面でも、強引に縦へ入れる。味方の準備が整っていないのにロングボールを蹴り込む。難しい角度からシュートを狙い、こぼれ球を奪えないと苛立ったように腕を振る。


 アマ・ボアテングは何度も仲間へ声をかけた。


「落ち着いて! まだ終わってない!」


 しかし、そのアマ自身にも焦りはあった。


 残された時間。


 必要な四点。


 そして目の前には、ここまでほとんど崩れていない日本の最終ラインがある。


 ベンチの原町監督は、ガーナの変化を見逃していなかった。


「集中が切れ始めたな」


 岩出コーチもうなずく。


「ボールを失ったあとの反応も遅くなっています」


 日本は逆だった。


 点差が広がっても、プレーの速度を必要以上に上げない。柚月が中央でボールを持てば、一度後ろへ戻す。正木静香が走れる場所があっても、無理に毎回そこを使わない。


 相手が自分から崩れるまで待つ。


 それが、この試合で日本が貫いてきた姿勢だった。


 柚月は近くの相沢紗英へ声をかけた。


「向こう、かなり焦っとる。ボール持ったら一回周り見ろよ」


「はい」


「今いちばん怖いのは、こっちまで試合荒くすることだからな」


 相沢は強くうなずいた。


 ガーナの球際は、それまで以上に激しくなっていた。


 後半の残り時間が少なくなるにつれて、その激しさは危険なものへ変わっていく。


 ガーナの選手が早川莉奈へ遅れて身体を入れる。笛。イエローカード。


 数分後には宮坂玲奈が背後から足を払われるような形で倒され、再び警告。


 主審は両チームの選手を呼び、はっきりと落ち着くよう求めた。


 森岡美里もガーナのアマ・ボアテングへ声をかける。


「危ないプレーだけはやめよう」


 アマは悔しそうな顔をしながらもうなずいた。


「分かってる」


 それでも、チーム全体の焦りを完全に止めることはできなかった。


 後半30分を過ぎたころ、日本が中央でボールを奪う。


 日比谷玲奈から柚月。


 柚月が身体を開いて前を向く。


 正木が背後へ走る。


 ガーナのDFが遅れる。


 柚月から縦パス。


 正木が抜け出そうとした瞬間、後ろから足が入った。


 正木の身体が前へ投げ出される。


 大きな笛。


 主審がすぐに走ってくる。


 ガーナDFのプリシラ・アンポンサー。


 決定的な得点機会を阻止する形。


 主審は胸ポケットへ手を入れた。


 赤。


 レッドカード。


 プリシラは両手で顔を覆った。


 ガーナは十人。


 正木はすぐ立ち上がり、足首を確認する。


 柚月が近づいた。


「大丈夫?」


「はい。踏まれた感じはないです」


「無理すんなよ」


「大丈夫です」


 幸い、大きなけがにはつながっていなかった。


 だが、ガーナにとって状況はさらに悪くなる。


 四点が必要。


 一人少ない。


 それでも前へ行かなければならない。


 アドゥ監督は頭を抱えそうになりながらも、守備の形を変更するよう指示した。


 しかし、日本はその直後のFKから試合をさらに大きく動かした。


 柚月がボールの前へ立つ。


 直接狙える距離ではある。


 ガーナGKリンダ・アジェマンは壁を作る。


 柚月は一度ゴールを見る。


 そして助走。


 蹴る。


 と思わせて。


 短く横へ。


 日比谷玲奈。


 日比谷がワンタッチで中央へ入れる。


 相沢紗英が走り込む。


 シュート。


 リンダが弾く。


 こぼれ球。


 宮坂玲奈。


 右足。


 ゴール。


 3-0。


 宮坂は一瞬、何が起きたのか分からないような顔をしたあと、両手を広げて走り出した。


 オリンピック初ゴール。


 日比谷と相沢が追いかける。


 柚月も笑いながら近づいた。


「暴れてこいって言ったけど、本当に決めるとはな!」


 宮坂が笑う。


「ちゃんと暴れました!」


 相沢も日比谷も笑っている。


 出場機会の少なかった三人が、ゴールに関わった。


 それは原町監督にとって、点差以上に大きな意味を持つ得点だった。


 しかし、ガーナの集中はさらに切れていく。


 再開直後。


 柚月が中央でボールを受ける。


 アマ・ボアテングが寄せる。


 柚月はワンタッチで逃がす。


 そのボールを宮野が拾う。


 そこへガーナのナナ・ヤー・クワメが遅れて突っ込んだ。


 宮野が倒れる。


 主審の笛。


 かなり危険なタックルだった。


 ナナはすでに警告を一枚受けていた。


 主審が再びカードを出す。


 黄色。


 そして続いて赤。


 二枚目のイエローカード。


 退場。


 ガーナは九人。


 GKを除けば、フィールドプレーヤーは八人となった。


 スタジアムのガーナサポーターから悲鳴にも似た声が上がる。


 アドゥ監督は頭を抱えた。


 二点を追うどころではない。


 試合そのものを壊さず終えなければならない状況になっていた。


 原町監督はすぐ日本の選手たちへ指示を出した。


「相手が少なくなったからって無理に仕掛けるな。ボールを動かせ!」


 数的優位。


 九人の相手。


 普通なら大量得点を狙いたくなる。


 しかし、相手が苛立っている今、無理な一対一へ入れば危険な接触を受ける可能性も高い。


 柚月も同じことを考えていた。


「足元で持ちすぎんな! ワンタッチ、ツータッチでいい!」


 日本はさらに冷静になった。


 ガーナは九人で広いピッチを守らなければならない。


 日本が右へ動かせば走る。


 左へ振ればまた走る。


 中央へ戻す。


 もう一度右。


 人数が少ないぶん、一人あたりの守備範囲は広くなる。


 前半から走り続けてきたガーナの脚には、あまりにも厳しい状況だった。


 後半37分。


 藤森彩香から宮野。


 宮野から柚月。


 柚月は右へ。


 相沢。


 そこから中央の日比谷。


 ガーナの守備が寄る。


 日比谷は逆へ。


 正木。


 正木が左サイドで受ける。


 一人しか来ない。


 縦へ突破。


 ペナルティーエリアへ。


 中央を見る。


 柚月が走る。


 ガーナは柚月へ寄る。


 その後ろ。


 相沢紗英。


 正木が折り返す。


 相沢はダイレクト。


 右足。


 ゴール左隅。


 4-0。


 相沢は両手を握りしめた。


 今度は自分。


 後半から投入された三人のうち、宮坂に続いて相沢まで得点した。


 日比谷も駆け寄る。


「紗英!」


「やった!」


 柚月は笑いながら二人の頭を軽く叩いた。


「いいじゃん。めちゃくちゃいいじゃん」


 そして、その数分後。


 日本はさらに攻める。


 ただし急がない。


 何度もパスを回し、ガーナを動かす。


 もうガーナの守備は完全に横へ振られていた。


 右。


 左。


 中央。


 また右。


 後半42分。


 日比谷玲奈が中央で受ける。


 今度は誰も強く寄せられない。


 日比谷は前を見る。


 宮坂が中央へ走る。


 正木が左へ。


 柚月は右。


 三方向。


 ガーナの守備が分かれる。


 日比谷は一瞬待った。


 そして、最も空いた場所へ縦パス。


 正木。


 正木は一度だけボールを止め、中央へ折り返した。


 そこへ走り込んだのは日比谷自身だった。


 自分で出して。


 自分で入る。


 左足。


 シュート。


 GKリンダが飛ぶ。


 届かない。


 ゴール右隅。


 5-0。


 日比谷玲奈。


 オリンピック初ゴール。


 相沢。


 宮坂。


 日比谷。


 後半から経験を積ませるために送り出した三人全員が、この試合でゴールへ直接関わった。


 柚月は日比谷へ走っていき、大きく笑った。


「三人とも暴れすぎだっちゃ!」


 日比谷も息を切らしながら笑う。


「柚月さんが暴れてこいって言ったんですよ!」


「責任うちかよ!」


 厳しい試合の終盤に、ようやく日本側に笑顔が広がった。


 一方、ガーナの選手たちは苦しそうだった。


 5-0。


 九人。


 一次リーグ敗退は決定的。


 それでも、誰もピッチから逃げることはできない。


 アマ・ボアテングは仲間を集めた。


「最後までやろう」


 その言葉だけだった。


 日本も、それ以上相手を辱めるようなプレーはしなかった。


 無理に六点目、七点目を狙わず、ボールを動かしながら時計を進める。


 ガーナが奪えば、守る。


 日本が奪い返せば、またつなぐ。


 そして。


 長い笛。


 試合終了。


 日本5-0ガーナ。


 日本代表。


 一次リーグ三戦全勝。


 勝ち点9。


 A組首位通過。


 オランダが勝ち点4で2位。


 メキシコとガーナは一次リーグで大会を去ることになった。


 桐生菜月は、オリンピック初先発で無失点。


 前半から何度もシュートを受けながら、最後までゴールを守り切った。


 試合終了後、伊達葵が真っ先に桐生のところへ向かった。


「ナイスゲーム」


 桐生はようやく緊張から解放されたように笑った。


「めちゃくちゃ疲れました」


 伊達も笑う。


「GKってそういう仕事」


「葵さん、毎回これやってるんですか」


「だから疲れるんだよ」


 二人は笑い合った。


 原町監督はロッカールームへ戻った選手たちを前にして、勝利を大げさに祝うことはしなかった。


「三試合、三勝。首位通過」


 小さな拍手が起きる。


「ただし、ここまでの勝ち点9は次の試合に一切持っていけない」


 部屋が静かになる。


 決勝トーナメント。


 ここからは一発勝負。


 一度負ければ終わり。


 延長。


 PK。


 すべてがあり得る。


「今日、桐生が90分を経験した。相沢、日比谷、宮坂も試合を動かした。これは大きい。決勝トーナメントは、先発十一人だけでは勝てない」


 柚月も静かにうなずいた。


 自分は今日、ベンチから試合を見て途中から入った。


 正木も。


 伊達は出場しなかった。


 それでも日本は勝った。


 18人。


 少しずつ、本当の意味で一つのチームになり始めている。


 そして、原町監督が次の資料をスクリーンへ映した。


 一次リーグは終わった。


 次。


 準々決勝。


 ここから。


 金メダルへの道が、本当の一発勝負へ変わる。


 次回予告

 第85章「負けたら終わり」


 一次リーグ三試合。


 オランダに1-0。


 メキシコに3-1。


 ガーナに5-0。


 日本は三戦全勝、勝ち点9でA組首位通過を決めた。


 しかし原町監督は言う。


「ここから勝ち点はない」


 準々決勝。


 90分で決まらなければ延長戦。


 それでも決まらなければPK戦。


 一度負ければ、その瞬間にロサンゼルスオリンピックは終わる。


 一次リーグで出場時間を抑えた大船柚月と伊達葵、正木静香は十分な状態で決勝トーナメントへ向かう。


 一方、桐生菜月、相沢紗英、日比谷玲奈、宮坂玲奈もガーナ戦で大きな経験を積んだ。


 日本は18人で戦える。


 その手応えを持って、次の相手を待つ。


 そして発表される準々決勝の組み合わせ。


 そこには、パリ大会の記憶を呼び起こす強豪の名前があった。


 柚月は対戦表を見つめる。


「ここからだな」


 森岡美里が隣でうなずく。


「うん。もう負けられない」


 次回、第85章「負けたら終わり」。


 三連勝しても、次に負ければ終わる。


 だからこそ、これまで積み上げてきたものすべてを、一試合ずつ置いていく。

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