待っていた二人
第83章 待っていた二人
後半に入っても、日本は1-0のリードを保っていた。
ガーナは三点を奪わなければ一次リーグ突破へ届かない。そのため攻撃の人数を減らすことはできず、時間が進むにつれて最終ラインはますます高くなっていた。前半から何度も日本陣内へ押し込み、後半に入ってからも身体能力とスピードを前面に出して攻め続けている。しかし、ゴール前の最後のところだけは日本が閉ざし続けていた。
さらに日本は後半開始から相沢紗英、日比谷玲奈、宮坂玲奈を送り込み、それまで出場機会の少なかった選手たちにもオリンピックの実戦経験を積ませていた。三人は大きく崩れることなく試合へ入り、ガーナの強烈なプレッシャーを受けながらもボールをつないでいる。
そしてガーナにとって、もっと嫌な時間が近づいていた。
ベンチ前。
原町監督が振り返る。
「大船、正木」
柚月と正木静香が同時に立ち上がった。
「準備しろ」
「はい」
二人はすぐにビブスを脱ぎ、短いダッシュを繰り返しながら身体を仕上げていく。
正木はピッチを見ながら苦笑した。
「だいぶ後ろ、広くなってますね」
柚月もうなずく。
「しかも戻る脚が前半と全然違う」
「待ったかいありましたね」
「んだな」
柚月は正木を見て笑った。
「待った分、走れ」
「はい」
やがてボールが外へ出る。
交代表示。
スタジアムに日本の交代が告げられた。
大船柚月。
正木静香。
二人がタッチラインを越える。
その瞬間だった。
ガーナの選手たちの表情が、わずかに変わった。
アマ・ボアテングが中央から二人を見る。
アビゲイル・オフォリも、プリシラ・アンポンサーも、顔には出さなくても同じことを感じていた。
嫌な二人が入ってきた。
大船柚月。
ワールドカップでもアジア予選でも、日本の攻撃を組み立て続けてきた司令塔。自分でシュートを打つだけではなく、相手の守り方を見て試合そのものを変えてしまう。
そして正木静香。
広いスペースを与えれば、一瞬で最終ラインの背後へ出てくる快速FW。
しかも日本の二人は、ここまでベンチにいた。
脚は残っている。
対するガーナは、前半からほとんど休まず日本を攻め続けていた。
突破のためには三点が必要。
だから攻撃を緩められない。
しかし前へ出れば、正木の背後へのランニングが怖い。
正木を警戒して最終ラインを下げれば、中盤との間に柚月が使えるスペースが生まれる。
ガーナは、難しい選択を迫られた。
クワメ・アドゥ監督もすぐに二人の投入を確認すると、最終ラインへ指示を飛ばした。
「背後を消せ! 正木を走らせるな!」
だが、ガーナには三点が必要だった。
最終ラインを下げきることもできない。
その矛盾こそ、日本が待っていたものだった。
ピッチへ入った柚月は最初の数分、ほとんど前へ急がなかった。
宮野沙季。
相沢。
日比谷。
一度後ろ。
藤森。
逆サイド。
また中央。
日本はボールを動かす。
ガーナが追う。
もう一度逆へ。
ガーナがまた追う。
正木も無闇に裏へ飛び出さず、一度中央へ寄ってから外へ開き、再び内側へ入る。そのたびにガーナのDFが位置を変えなければならない。
柚月の狙いは明確だった。
今すぐ二点目を奪うために無理をする必要はない。
ガーナは自分たちから前へ出なければならない。
だったら。
徹底的に走らせる。
残っている脚をさらに削る。
柚月が宮野と目を合わせる。
右。
左。
また右。
アイコンタクトだけで意思は通じた。
ガーナの選手たちはボールを追う。
攻撃へ出る。
奪われれば戻る。
また攻撃へ出る。
その繰り返しが、確実に身体へ蓄積していく。
それでもガーナは諦めなかった。
二人が投入されてから十三分ほどが経過したころ、日本は右サイドからガーナの突破を許した。
エフィア・オウスがスピードに乗って縦へ運び、宮原彩乃が最後まで食らいつく。中央へ送られたボールは藤森彩香がクリアしたものの、わずかに相手へ当たり、ゴールラインの外へ出た。
コーナーキック。
ガーナ。
右コーナー。
ガーナの選手たちは一斉に日本のペナルティーエリアへ入っていく。
二点差以上。
いや、今は三点が必要。
セットプレーは絶対に逃したくない。
長身のアビゲイル・オフォリ。
プリシラ・アンポンサー。
そしてアフィア・メンサー。
日本の守備陣との間で激しい位置取りが始まる。
桐生菜月はゴール前から大きな声を出した。
「中央集中! ファーも見るよ!」
伊達葵はベンチから、その姿をじっと見ていた。
初先発。
前半から何本ものシュートを受けた。
一対一も止めた。
そして今度は、ガーナ最大の武器の一つである高さを生かしたセットプレー。
ボールがセットされる。
右コーナーから左足。
ゴールへ向かって巻いてくる高いボール。
鋭い回転。
桐生は一歩前へ出る。
アフィアが跳ぶ。
その後ろからオフォリ。
二人が同時にヘディングへ入ろうとする。
桐生も飛ぶ。
身体がぶつかり合う寸前。
桐生は両手を伸ばし、ボールへ先に触れた。
パンチングではない。
しっかりと両手でつかむ。
そのまま身体を丸めながら着地。
離さない。
ガーナの選手たちから落胆の声が漏れる。
しかし桐生はそこで終わらなかった。
立ち上がる。
前を見る。
ガーナの選手たちはほとんど全員が日本のゴール前へ入っている。
背後。
広い。
桐生の目が変わった。
「行って!」
すぐにボールを前へ送る。
日本のカウンター。
日比谷が受ける。
一度相沢へ。
相沢から宮野。
ガーナが猛烈に戻り始める。
だが、遅い。
宮野は前を向くと、中央へ入ってきた柚月へボールを預けた。
柚月はワンタッチで前を向いた。
目の前に広がるスペース。
左。
正木静香。
走っている。
柚月は迷わない。
左サイドへ鋭いパス。
正木が受ける。
ガーナのDFが一人、必死に戻る。
しかし正木の脚は残っている。
さらに加速。
ペナルティーエリア左手前まで運ぶ。
中央を見る。
宮野沙季がものすごい勢いで走ってくる。
ガーナのDFが反応した。
宮野へ。
宮野へ入る。
そう見えた。
宮野自身も中央へ飛び込む。
だが。
今回は。
囮。
その右側。
もう一人。
柚月。
自分で正木へパスを出したあと、そのまま走ることをやめていなかった。
正木は宮野へ出すように身体を向ける。
DFが中央へ寄る。
その瞬間。
正木はボールを少し後ろへ流すように折り返した。
柚月。
完全にフリー。
ペナルティーエリアへ進入する。
ガーナGKリンダ・アジェマンが前へ出る。
柚月は左足へボールを置いた。
一瞬。
オーストラリア戦で決めた左足のミドル。
韓国戦でも左足を警戒された。
ガーナも当然研究している。
だが、今回は迷う必要がない。
柚月は左足を振り抜いた。
強烈なシュート。
リンダが右へ飛ぶ。
ボールはゴール右隅へ向かう。
そして。
右ポスト。
金属音。
ボールが当たる。
一瞬、日本側から「あっ」という声が漏れる。
だが。
跳ね返ったボールの角度が変わった。
リンダは最初のシュートコースへ反応している。
戻れない。
ポストに当たったボールは、そのままゴールの内側へ跳ね込んだ。
ネットが揺れる。
日本2-0ガーナ。
柚月はゴールを確認した瞬間、両拳を握った。
「よしっ!」
正木が真っ先に走ってくる。
「柚月さん!」
宮野も。
「私、完全に囮でしたよね!」
柚月は笑った。
「めちゃくちゃ効いてたっちゃ!」
「分かってました!」
正木も笑いながら言う。
「私も最後まで宮野さんに出すと思ってました!」
「それじゃ相手も引っかかるべ!」
三人が抱き合う。
ベンチでは桐生の好セーブから始まった得点に、伊達葵も大きく拍手していた。
原町監督はゴールを喜びながらも、すぐに時計を見る。
2-0。
この瞬間。
ガーナが日本を上回って一次リーグを突破するためには、残された時間で四点が必要になった。
あまりにも厳しい。
ガーナの選手たちも、その現実を理解していた。
アマ・ボアテングが腰に手を当てる。
オフォリは大きく息を吐く。
アドゥ監督はそれでも前へ出るよう指示を送る。
まだ終わっていない。
オリンピック。
最後まで戦う。
しかし、日本の二点目がガーナへ与えた精神的な打撃は大きかった。
しかも、その得点はガーナ自身のコーナーキックから始まっている。
得点するために前へ出た。
セットプレーへ人数をかけた。
桐生に止められた。
そして。
数十秒後。
反対側のゴールネットが揺れた。
柚月はセンターサークルへ戻りながら正木へ言った。
「今ので終わったと思うなよ」
「もちろんです」
「向こう、もう開き直ってくるかもしれねぇ」
「じゃあ、まだ走ります」
柚月が笑う。
「走れ走れ」
そして宮野へも目を向ける。
「次は囮じゃなくて自分で決めてもいいぞ」
宮野が笑った。
「さっき決めてますから!」
「あ、そうだった」
「忘れないでください!」
緊迫した試合の中でも、ほんの少しだけ笑いが生まれる。
だが、すぐに全員の表情が戻る。
まだ試合は続く。
日本2-0ガーナ。
そして日本は、一次リーグ三連勝へ大きく近づいた。
次回予告
第84章「首位通過」
宮野沙季の先制点。
そして桐生菜月の好セーブから始まった高速カウンターを、大船柚月が左足で仕留めた追加点。
日本2-0ガーナ。
一次リーグ突破のために三点が必要だったガーナは、さらに一点を失ったことで、残された時間に四点を奪わなければならなくなる。
それでもガーナは最後まで攻撃をやめない。
オリンピックの舞台に立った以上、可能性が限りなく小さくなっても戦い続ける。
日本もそれに応える。
桐生菜月は最後までゴールを守り抜けるのか。
出場機会の少なかった相沢紗英、日比谷玲奈、宮坂玲奈は、この試合から何を持ち帰るのか。
そして柚月と正木は、残された広大なスペースをどう使うのか。
一次リーグ三試合。
オランダ。
メキシコ。
ガーナ。
まったく違う三つの相手との戦いを終えたとき、日本は初めて決勝トーナメントの組み合わせを知る。
次回、第84章「首位通過」。
三連勝は金メダルを保証しない。
それでも、18人で戦えることを証明した三試合は、その先の一発勝負を戦うための大きな財産になる。




