三点が必要になったガーナ
第82章 三点が必要になったガーナ
前半を1-0で終えた日本のロッカールームには、リードしているチームとは思えないほど静かな空気が流れていた。ガーナは圧倒的なボール支配と身体能力で日本陣内へ押し込み続けたが、最後のところだけは割らせず、35分にはこの試合最初のシュートを宮野沙季がゴール左隅へ突き刺した。
その一点によって、ガーナの条件はさらに厳しくなった。
日本を上回ってA組2位へ入るためには、ここから三点が必要になる。
原町監督はホワイトボードの前で選手たちを見回した。
「後半、向こうはもっと来る。これは間違いない。ただ、こっちも前半と同じ十一人で最後まで戦う必要はない」
その言葉に、何人かの選手が顔を上げた。
短期決戦のオリンピックでは、勝つだけでは足りない。決勝トーナメントへ向けて主力の疲労を抑えながら、これまで出場機会の少なかった選手にも本大会の強度を経験させる必要がある。もし決勝トーナメントで負傷や出場停止が出れば、今日までほとんど試合へ出ていなかった選手が突然重要な局面を任されることもあり得る。
原町監督は三人の名前を呼んだ。
「相沢紗英、日比谷玲奈、宮坂玲奈。後半から行くぞ」
三人の表情が一斉に変わった。
相沢は中盤からサイドまで幅広くこなせる万能型。日比谷は狭い場所でのパス交換とラストパスを得意とする攻撃的MF。そして宮坂は中央でもサイドでもプレーでき、ゴール前への入り方に特徴を持つFWだった。
ここまでの大会では、いずれも出場時間が限られていた。
それでも18人に選ばれてロサンゼルスへ来た以上、いつか必ず役割は来る。
それが今日だった。
原町監督は三人へ細かな戦術上の役割を伝えたあと、最後に短く付け加えた。
「経験を積ませるために出す。でも、経験だけして帰ってこいという意味じゃない。試合を勝たせてこい」
「はい!」
三人の声が重なる。
ベンチスタートの柚月はロッカールームの端でその様子を見ていた。自分も正木静香もまだ出番ではない。原町監督が二人を後半開始から使わないことには意味があった。
ガーナの焦りは、これからさらに強くなる。
ならば、その焦りが限界へ近づくまで待つ。
そして、相手の最終ラインが完全に前へ出たとき、温存している二人を投入する。
柚月は立ち上がる三人へ近づいた。
相沢が少し緊張した顔でシューズの紐を確認している。
「紗英」
「はい」
「そんな固くなんなって」
「分かってますけど、オリンピックでこんな長く出るの初めてなので」
柚月は笑った。
「だからいいんだべ」
次に日比谷を見る。
「玲奈も、自分のプレーやれよ」
「はい」
「相手が前へ前へ来るから、間は絶対空く。ボール持ったら最初にそこ見ろ」
最後に宮坂。
「宮坂」
「はい」
柚月はニッと笑った。
「思いっきり暴れてこい」
宮坂も思わず笑った。
「暴れていいんですか?」
「いい。三人ともだ。今まで出番少なかった分まで、全部出してこい」
相沢が吹き出した。
「なんか柚月さんが監督みたいになってますよ」
「うるせぇ。早く行け」
三人が笑いながらピッチへ向かう。
緊張していた空気が少しだけ軽くなった。
ベンチに戻った正木が柚月へ言った。
「柚月さん、本当にコーチ向いてそうですね」
「やめろ。まだ選手だっちゃ」
「でも、今の完全に送り出す側でしたよ」
柚月は苦笑しながらピッチを見た。
「まだ出る気満々だからな」
その隣では伊達葵も桐生菜月を見守っている。
後半。
日本は三人を入れ替えて再スタートした。
そして予想どおり、ガーナは開始直後からさらに攻撃的になった。
クワメ・アドゥ監督は両サイドバックをほとんどウイングのような位置まで押し上げ、アマ・ボアテングも中盤の底に残らず前へ出る。最終ラインに残るのはアビゲイル・オフォリとプリシラ・アンポンサーの二人だけという時間も増えていた。
三点。
ガーナには三点が必要。
一秒でも早く一点目を返したい。
その焦りが、すべてのプレーへ表れていた。
後半3分、左のエフィア・オウスが一気に突破して低いクロスを入れる。桐生菜月が前へ飛び出してキャッチすると、すぐに宮原へ転がした。
そこから相沢。
オリンピックのピッチへ入って最初のボール。
ガーナの選手が勢いよく寄せる。
相沢は慌てず、ワンタッチで日比谷へ。
日比谷も中央で身体の向きを変えながら宮坂へつなぐ。
宮坂は背後から身体を当てられたが、簡単には倒れずにボールを戻した。
ベンチの柚月が拍手する。
「いいぞ!」
出場時間の少なかった三人。
だが、試合へ入れている。
後半7分には日比谷が中央でボールを受け、ガーナの中盤二人の間をワンタッチで抜けるパスを出した。宮坂が抜け出しかけたものの、オフォリがぎりぎりでカバーしてクリアする。
原町監督は腕を組んだまま、そのプレーを見ていた。
点にはならない。
それでもいい。
この強度。
この速度。
この緊張。
練習では完全には再現できないものを、三人は今、身体で覚えている。
一方のガーナは時間が経つほど苛立ちを強めていた。
後半10分、アマ・ボアテングが中央から強烈なミドルシュートを放つ。桐生菜月は正面で弾かずに抱え込んだ。
すぐに立つ。
ガーナは前へ来ている。
しかし桐生は無理に速攻へ出さない。
一度落ち着かせる。
伊達葵がベンチから小さくうなずいた。
前半から何度もシュートを受けた桐生は、少しずつ試合そのものへ慣れてきていた。
単に止めるだけではない。
いつ速く出すか。
いつ時間を使うか。
最終ラインをどこまで上げるか。
GKとして試合を動かし始めている。
後半14分。
ガーナが再び右から攻め込む。
アコスア・アサンテが縦へ突破し、中央へクロス。アフィア・メンサーがヘディングで合わせるが、西野千尋が身体を寄せたことで十分な力を伝えられず、桐生が落ち着いてキャッチした。
アフィアは悔しそうに両手を叩いた。
入らない。
また入らない。
ボールは持っている。
シュートも打っている。
日本陣内で試合をしている。
なのに。
ゴールだけが遠い。
クワメ・アドゥ監督はタッチライン際まで出て、さらに前へ行けと指示を飛ばす。
ガーナの守備ラインがまた上がる。
ベンチの正木が、その位置を見て小さく笑った。
「もうセンターライン越えてますね」
柚月もうなずく。
「だいぶ来たな」
「そろそろですか?」
「まだ」
柚月は時計を見る。
後半15分。
まだ30分ある。
ガーナの身体能力は高い。
この段階なら、後ろへ走らされてもまだ戻れる。
本当に効くのは、もう少し先。
正木が聞く。
「どのくらい待つんです?」
柚月は相手の動きを見る。
「時間じゃねぇ」
「じゃあ何です?」
「戻り方」
前へ出たあと。
どれだけ速く戻れるか。
その速度。
その姿勢。
そこで判断する。
柚月は自分が出るタイミングまで、相手を観察していた。
後半19分。
ガーナが左から攻める。
エフィアが一人かわす。
中央へ。
アマ。
右へ。
アコスア。
シュート。
藤森彩香がブロック。
こぼれ球。
日比谷玲奈。
拾う。
そこから相沢へ。
相沢はすぐ前を向いた。
広い。
宮坂が走る。
日比谷も。
ガーナの最終ラインが慌てて戻る。
相沢から宮坂。
宮坂が右へ運び、中央へ切り込もうとする。
オフォリが追いつく。
身体をぶつける。
宮坂は倒れない。
それでもシュートまでは行けず、後ろへ戻した。
日本は攻撃をやり直す。
ベンチの柚月が大きな声を出す。
「それでいい! 無理しなくていい!」
三人は確実に試合へ入っていた。
そして何より。
ガーナを休ませていない。
守備へ戻らせる。
また攻撃させる。
また戻らせる。
日本は前半から続けてきた狙いを、選手が変わっても失っていなかった。
後半23分。
ガーナのアマ・ボアテングが、味方へ大きな身振りで前へ出るよう要求する。
二点差以上どころか。
今は1-0で負けている。
三点必要。
時計だけが進む。
その焦りが、ガーナをさらに前へ押し出していく。
最終ラインの二人もハーフウェーラインを越え始める。
ベンチの柚月は、そこで初めて前へ身体を乗り出した。
正木も気づく。
「今?」
柚月はまだ答えない。
ガーナが攻撃。
日本が奪う。
相沢が前へ。
日比谷。
宮坂。
ガーナが戻る。
だが。
今度。
一人の戻りが明らかに遅れた。
オフォリが必死に走る。
しかし前半のような勢いがない。
柚月の目が変わった。
「来たな」
正木が立ち上がる。
「来ました?」
「んだ」
その言葉が聞こえたかのように、原町監督もベンチを振り返った。
視線の先。
大船柚月。
正木静香。
二人。
原町監督はまだ声をかけない。
しかし柚月には分かった。
そろそろ。
そのときが近い。
ガーナは三点を取るために前へ出続ける。
日本は1-0でリード。
そして、日本にはまだ使っていない二つの大きな武器が残っていた。
経験と試合を読む力を持つ大船柚月。
そして、一瞬で最終ラインの背後を奪える正木静香。
柚月はベンチから立ち上がり、軽く身体を動かし始めた。
隣で正木も準備へ入る。
試合は、次の段階へ入ろうとしていた。
次回予告
第83章「待っていた二人」
後半から日本は相沢紗英、日比谷玲奈、宮坂玲奈の三人を投入し、出場機会の少なかった選手たちへオリンピックの実戦経験を積ませる。
三人はガーナの強烈なプレッシャーにも怯まず、ボールをつなぎ、身体を張り、試合へ入っていく。
一方、三点が必要なガーナはさらに前がかりになる。
時間は減る。
焦りは増える。
そして、守備へ戻る脚に初めて明確な遅れが現れる。
ベンチでその瞬間を待ち続けていた大船柚月が立ち上がる。
その隣には正木静香。
原町監督が二人を呼ぶ。
「準備しろ」
柚月は正木へ言う。
「ようやく出番だぞ」
「待ちましたね」
「待った分、走れ」
日本が温存していた二つの武器が、ついにピッチへ投入される。
次回、第83章「待っていた二人」。
早く出ればいいわけではない。
相手が最も嫌がる時間まで待つ。
そして、その瞬間が来たら、一気に仕留める。




