押し込ませろ
第81章 押し込ませろ
キックオフ直後から、ガーナは迷いなく前へ出てきた。
A組を突破するためには、日本に二点差以上をつけて勝たなければならない。その条件が、彼女たちの攻撃をさらに鋭くしていた。左のエフィア・オウスは一対一になるたびに縦へ仕掛け、右のアコスア・アサンテも宮原彩乃の前で細かくボールを動かしながら突破口を探す。中央ではアフィア・メンサーが藤森彩香と西野千尋の間に身体をねじ込み、クロスが入るたびに強烈なヘディングを狙っていた。
日本は序盤から自陣へ押し込まれた。
ボール支配率だけを見れば、完全にガーナの試合に見える。
前半5分、アマ・ボアテングが中央から左へ展開し、エフィアが國武真央との一対一を制してペナルティーエリア付近まで進入した。そこから低いクロスが入ると、アフィアがニアへ飛び込む。しかし藤森が身体を入れ、わずかにコースを変えた。
桐生菜月が前へ出てボールを抱える。
オリンピック初先発。
最初の大きなプレーだった。
ベンチの伊達葵は立ち上がることなく、静かに拍手した。
「いいよ、菜月」
声は届かなくてもいい。
桐生はすぐに立ち上がり、最終ラインへ大きく指示を出した。
「もう一回整えよう! 中央狭く!」
藤森が振り返って親指を立てる。
原町監督はその様子を見ながら腕を組んでいた。
押し込まれている。
しかし、まだ崩されてはいない。
それでいい。
前半8分、今度は右からアコスアが仕掛ける。宮原を引きつけて内側へパスを入れ、アマ・ボアテングが走り込んだ。早川莉奈が寄せるが、そのまま右足でミドルシュートを放つ。
強烈な一撃。
桐生が横へ飛ぶ。
両手で弾く。
こぼれ球へアフィアが反応するが、西野が先に身体を入れてゴールラインの外へ逃がした。
CK。
ガーナ側から大きな歓声。
だが、日本の選手たちに慌てた様子はない。
森岡美里が早川へ言う。
「これでいい。中央まで自由には入られてない」
早川も呼吸を整えながらうなずいた。
「はい」
この試合、日本は前から無理にボールを奪いに行っていなかった。
ガーナの一対一の強さに真正面から付き合わず、最終ラインの手前まで来たところで二人、三人と人数をそろえる。サイドで一人抜かれても、そこで慌てない。最後のパスが入るところ、シュートへつながるところだけは消す。
見た目には攻められている。
しかしガーナからすれば、あと一歩が入らない。
前半12分、エフィアがまた左から突破する。
クロス。
藤森がクリア。
前半15分、アコスアが右から中央へ。
アフィアが落とす。
アマがシュート。
宮野沙季が身体を投げ出してブロック。
前半18分、今度はロングボール。
アフィアが西野を背負って収めるが、振り向く前に藤森が寄せてボールを奪う。
ガーナは何度も最終ラインの直前まで来る。
突破できそうに見える。
だが、そのたびに跳ね返される。
ガーナのベンチで、クワメ・アドゥ監督が次第に立ったり座ったりを繰り返すようになっていた。
ボールはこちらが持っている。
攻撃もできている。
日本陣内で長い時間プレーしている。
なのに。
ゴールが遠い。
アマ・ボアテングも苛立ち始める。
前半21分、シュートをブロックされたあと、両手を広げて味方へ叫んだ。
「もっと速く!」
その声に押されるように、ガーナの最終ラインがさらに高くなる。
センターバックのアビゲイル・オフォリとプリシラ・アンポンサーもハーフウェーライン付近まで押し上げ、両サイドバックも日本陣内へ入る時間が増えていった。
ベンチにいる柚月は、その変化をじっと見ていた。
正木静香も隣で試合を見る。
「柚月さん」
「ん?」
「後ろ、すごい空いてません?」
柚月は小さく笑った。
「んだな」
ガーナは二点必要。
0-0の時間が長くなればなるほど、焦りは増える。
前へ人数をかける。
その結果、自分たちの背後に広大なスペースが生まれている。
柚月はピッチの森岡を見る。
目が合う。
何も言わない。
森岡も一瞬だけガーナの最終ラインの後ろへ視線を送った。
理解している。
早川も。
宮野も。
美琴も。
今すぐ無理に狙う必要はない。
でも、来たら行く。
前半25分を過ぎても、ガーナの支配は続いていた。
ボール支配率では大きく上回る。
シュート数も圧倒している。
それでもスコアは0-0。
アドゥ監督はタッチライン際へ出て、両腕を前へ振った。
「もっと人数をかけろ!」
ガーナの選手たちはさらに前へ出る。
日本のペナルティーエリア周辺には、一時七人近いガーナの選手が入る場面まで出てきた。
前半29分。
エフィアから中央へ低いボール。
アフィアが触る。
桐生が前へ。
一対一。
アフィアが右へ持ち出そうとする。
桐生は飛び込まない。
距離を詰める。
コースを消す。
アフィアがシュート。
桐生。
右足。
弾く。
藤森が大きくクリアした。
ベンチの伊達葵が今度は立ち上がった。
「ナイス!」
原町監督も小さく拳を握る。
桐生に経験を積ませる。
その狙いは、ここまで十分に意味を持っていた。
一方のガーナには、さらに苛立ちが増していく。
アフィアが両手で頭を抱える。
エフィアは芝を軽く蹴る。
アマは主審へ何かを確認しながら、また前へ出る。
ボールは持てる。
最終ラインまでは行ける。
それなのに、最後の扉だけが開かない。
ベンチの柚月はその様子を見ながら、ぽつりと言った。
「そろそろ後ろ、空いてきたな」
原町監督が聞いていた。
「見えてるか」
「はい」
「ピッチの中も?」
柚月は森岡を見る。
「たぶん」
そして、その瞬間は前半35分に訪れた。
ガーナが右から攻める。
アコスア・アサンテが宮原を引きつけ、中央のアマ・ボアテングへパス。アマはすぐアフィア・メンサーへ縦に入れようとした。
そこは、ガーナが何度も狙っていた最終ライン手前の危険な場所だった。
しかし。
宮野沙季。
読んでいた。
パスが出る瞬間、一歩前へ。
右足を伸ばす。
カット。
その瞬間だった。
日本の選手たちが一斉に前を向く。
ガーナの最終ライン。
遠い。
その後ろ。
広大なスペース。
宮野はすぐ森岡へ預ける。
森岡から早川。
早川が中央を運ぶ。
美琴が右へ開く。
高橋結衣がさらに外を走る。
ガーナの選手たちが慌てて戻り始める。
しかし、前へ出すぎていた。
早川から美琴。
美琴は一度キープする。
一人が寄る。
そこで戻す。
森岡。
森岡から宮野。
宮野はさらに前へ。
ワンタッチ。
早川。
早川から高橋。
高橋は右サイドで受けると、中央を確認してすぐに折り返した。
ボールはペナルティーエリア手前。
宮野沙季。
守備的MF。
本来なら、誰より後ろを支える選手。
しかし。
最初のパスカットから。
止まらず。
走っていた。
ガーナのDFは高橋と早川へ引っ張られている。
宮野の前。
ほんの一瞬。
シュートコースが開いた。
これが。
この試合、日本の最初のシュートだった。
前半35分。
宮野は迷わず右足を振り抜いた。
ボールは地面すれすれの低い軌道から途中で伸び、ガーナGKリンダ・アジェマンの左へ飛ぶ。
リンダが反応する。
飛ぶ。
しかし。
わずかに届かない。
ボールはゴール左隅。
ポストの内側を叩くようにしてネットへ入った。
日本1-0ガーナ。
スタジアムの空気が一瞬止まった。
圧倒的に攻めていたのはガーナ。
ボールを持っていたのもガーナ。
シュートを放ち続けていたのもガーナ。
しかし。
最初にゴールを奪ったのは日本だった。
しかも、日本のこの試合最初のシュート。
宮野はゴールを確認した瞬間、珍しく大きな声を上げた。
「よしっ!」
森岡が走ってくる。
早川も。
美琴も。
高橋も。
「沙季!」
「ナイス!」
宮野は笑いながら仲間に囲まれた。
「いや、あそこ空きすぎでしょ!」
森岡も笑う。
「ずっと待ってたからね!」
ベンチでは正木が立ち上がり、両手を叩いている。
柚月は笑いながら原町監督へ言った。
「自分たちから開けましたね」
原町監督はうなずいた。
「だから待った」
ガーナにとって、この失点はあまりにも重い。
突破には日本へ二点差以上で勝つ必要があった。
0-0なら二点。
だが。
0-1。
ここからは。
三点必要になる。
クワメ・アドゥ監督の表情が変わった。
ガーナの選手たちも、センターサークルへ戻りながら互いに声をかけ合う。
まだ時間はある。
しかし、さらに前へ出なければならない。
日本が待っていた状況が、もっと大きくなる。
ベンチの正木が柚月へ言った。
「これ、私が出るころにはもっと広くなってそうですね」
柚月はピッチを見ながら答えた。
「たぶんな」
そして少し笑う。
「だから今は座っとけ」
正木も笑った。
「はい」
前半35分。
日本1-0ガーナ。
押し込ませた。
耐えた。
最後を通さなかった。
そして。
相手が前へ人数をかけきった一瞬だけ。
日本は牙をむいた。
次回予告
第82章「三点が必要になったガーナ」
前半35分。
日本、この試合最初のシュート。
宮野沙季の右足。
ゴール左隅。
1-0。
二点差以上の勝利が必要だったガーナは、この失点によって状況がさらに厳しくなる。
ここから一次リーグを突破するためには、日本から三点を奪わなければならない。
クワメ・アドゥ監督は、さらに攻撃へ人数を投入する。
両サイドバックまで高い位置へ。
最終ラインはほとんどハーフウェーライン付近。
ガーナの猛攻はさらに激しくなるが、日本は押し込まれても中央を割らせない。
そして、前半を1-0で終えることができれば、時間はさらに日本の味方になる。
一方、ベンチでは大船柚月と正木静香がガーナの背後を見続ける。
原町監督はまだ二人を動かさない。
「今じゃない」
後半。
ガーナの脚と集中力。
そして何より焦りが限界へ近づいたとき。
日本は、まだ温存している二つの武器を解放する。
次回、第82章「三点が必要になったガーナ」。
点を取らなければならない側ほど、前へ出る。
前へ出るほど、後ろは空く。
そして試合には、攻めれば攻めるほど遠ざかっていくゴールもある。




