三戦目の意味
第80章 三戦目の意味
日本代表が一次リーグ最終戦のガーナ戦を迎える日、A組には独特の緊張が漂っていた。日本はオランダを1-0、メキシコを3-1で下して勝ち点6を獲得し、首位に立っている。しかし、その下ではオランダ、メキシコ、ガーナの三チームすべてに2位通過の可能性が残されており、日本にとっては消化試合に近い立場でも、ガーナにとっては大会の命運を懸けた一戦だった。
朝のミーティングで原町監督は、いつもより少し長くホワイトボードの前に立っていた。
「まず確認する。うちは二連勝で勝ち点6。ただし、今日の試合を消化試合だと思うな」
森岡美里をはじめ、選手たちが静かにうなずく。
「三試合目も勝ちに行く。ただし、六試合目を忘れるな」
その言葉の意味は、すぐに先発メンバーの発表によって具体的な形を持った。
GK。
桐生菜月。
伊達葵はベンチ。
DFには藤森彩香、宮原彩乃、國武真央、西野千尋らが入り、中盤は森岡美里、早川莉奈、宮野沙季、長崎美琴を中心に構成する。
FWでは高橋結衣、井上梓らが先発し、正木静香はベンチスタート。
そして。
大船柚月もベンチ。
名前が読み上げられた瞬間、早川が一度だけ柚月を見る。
柚月は驚かなかった。
すでにスタッフから、一次リーグ二試合での出場時間と右ふくらはぎへの負荷を考え、ガーナ戦では先発を外す可能性を伝えられていたからだ。
原町監督は全員を見渡した。
「伊達を外したのは休ませるためだけじゃない。桐生にオリンピックの試合を経験させるためでもある」
桐生菜月の表情が引き締まる。
「はい」
「決勝トーナメントで何が起きるか分からない。GKが一人だけ戦えるチームでは金メダルは取れない。今日、お前に経験を積ませる」
「分かりました」
原町監督は続いて柚月を見る。
「大船も今日はベンチスタート。二試合分の疲労を抜く。必要なら使うが、最初から頼るつもりはない」
柚月は素直にうなずいた。
「はい」
「正木も同じだ。終盤に広いスペースが出れば、お前の脚が必要になる」
正木が少し笑う。
「じゃあ、今日は最後まで脚を残しておきます」
「そのつもりでいろ」
チームの中に緊張はあったが、不安はなかった。
二試合を戦い、日本はすでに理解し始めていた。
金メダルを取るには、同じ十一人だけで勝ち続けるのでは足りない。
18人全員が試合を戦える状態にしておく必要がある。
そしてこの三戦目には、それを試す意味があった。
その後、日本対ガーナより先に行われるオランダ対メキシコの試合が始まった。
一次リーグ初戦を勝って勝ち点3を持つメキシコは、得失点差によって日本に次ぐ2位につけていた。一方、オランダとガーナはそれぞれ勝ち点1。日本以外の三チームに、まだ2位通過の可能性が残されている。
だからこそ、オランダ対メキシコは開始直後から異様な熱を帯びていた。
前半7分。
メキシコ先制。
12分。
オランダ同点。
18分にはオランダが逆転し、22分にはメキシコが2-2へ戻す。
両チームとも、引く気がない。
ホテルのミーティングルームで映像を見ていた高橋結衣が思わず言った。
「すごい試合ですね……」
ベンチスタートが決まっている柚月は腕を組みながら苦笑する。
「すごいっていうか、もう殴り合いだっちゃ」
森岡も笑った。
「守備の人、大変そう」
ただ、試合が荒れていったのは得点だけではなかった。
前半30分過ぎにメキシコへイエローカード。その数分後にはオランダにも警告が出され、さらに前半終了間際には三枚目のイエローカードが提示される。
後半に入っても勢いは止まらない。
メキシコが3-2。
オランダが3-3。
オランダが4-3。
メキシコが4-4。
そして後半70分を過ぎたころ、中央で激しいタックルが入り、メキシコの選手にレッドカードが提示された。
十人。
しかし数分後。
今度はオランダDFが抜け出したメキシコFWを後ろから倒し、こちらにもレッドカード。
十人対十人。
スコアは4-4。
残り十数分。
柚月が画面を見ながら息を吐いた。
「一次リーグでここまで荒れるか……」
早川も少し引いたような顔をする。
「これ、次の試合に響きますよね」
「間違いなくな」
そして試合終了間際。
オランダが右サイドから最後の攻撃へ出る。一度はメキシコが跳ね返したものの、こぼれ球を拾って再び中央へ折り返し、走り込んだMFが右足を振り抜いた。
ゴール。
5-4。
そのまま試合終了。
オランダが壮絶な打ち合いを制した。
イエローカード三枚。
レッドカード二枚。
九得点。
オランダは勝ち点を4へ伸ばし、メキシコは勝ち点3のまま一次リーグ敗退が決まった。
ミーティングルームのホワイトボードに、岩出コーチがすぐ順位を書き直す。
日本、6。
オランダ、4。
メキシコ、3。
ガーナ、1。
そしてガーナが日本を上回って2位へ入るための条件も明確になった。
日本に二点差以上で勝つこと。
一点差では足りない。
二点差。
つまり、ガーナは最初からどこかで大きなリスクを背負わなければならない。
原町監督は選手たちへ向き直った。
「条件は決まった。ガーナは二点差以上必要だ」
桐生菜月が真剣な表情で聞く。
自分にとってはオリンピック初出場。
しかも相手は、大量得点を狙って最初から攻め込んでくる可能性が高い。
原町監督はそんな桐生へ目を向けた。
「桐生」
「はい」
「今日は忙しくなるかもしれない」
「はい」
「でも、それでいい。シュートを打たれることまで怖がるな。どこから打たせるかをDFと共有しろ」
桐生は強くうなずいた。
「分かりました」
原町監督はホワイトボードへガーナの基本布陣を書き始める。
ガーナ代表監督はクワメ・アドゥ。持ち前の身体能力とスピードを最大限に生かし、相手の守備が整う前に前へ運ぶ攻撃を好む指揮官だった。
主将は中央MFのアマ・ボアテング。
前線中央には身体の強いアフィア・メンサー。
左ウイングには爆発的な加速力を持つエフィア・オウス。
右には一対一を得意とするアコスア・アサンテ。
中盤の底ではナナ・ヤー・クワメが強烈な球際で相手を止め、最終ラインには高さのあるアビゲイル・オフォリとプリシラ・アンポンサー。GKはリンダ・アジェマン。
映像が流れる。
エフィア・オウスがサイドでDFを抜く。
アフィア・メンサーが二人を背負いながらボールを収める。
アマ・ボアテングが中盤から一気に前へ出る。
ガーナは複雑な崩しを何度も繰り返すタイプではない。
それでも怖い。
一人で守備を破壊できる選手がいる。
原町監督が映像を止めた。
「今日の守備で一番大事なのは、押し込まれたことを失敗だと思わないことだ」
早川が顔を上げる。
「押し込まれても、ですか?」
「ああ。サイドを一人抜かれても、それだけで慌てるな。中央へ入れさせなければいい。クロスを上げられても、ニア、中央、ファーを消せていれば大きな問題じゃない。最終ラインを突破されなかったら、それでいい」
藤森がうなずく。
「全部を前で止めようとしない?」
「そうだ。あいつらの身体能力相手に、全部一対一で止めようとしたらこちらが先に消耗する。危険な場所へ入ってきたときだけ人数をかけろ」
西野千尋が尋ねる。
「ラインは低めでもいいですか?」
「状況次第では構わない。ただし、下がることと崩れることは違う。中央の距離だけは絶対に広げるな」
ベンチスタートの柚月は映像を見ながら、原町監督の意図を頭の中で整理していた。
ガーナには二点必要。
時間が経てば経つほど焦る。
ならば、相手が攻撃へ人数をかけること自体は日本にとって悪い状況ではない。
ただし、その最初の猛攻を受け止められなければ意味はない。
柚月が口を開いた。
「向こう、早い時間に一点取れたら一気に来ますよね」
「来るだろうな」
「逆に0-0が長く続けば、後ろの人数を削ってでも前へ出てくる」
原町監督がうなずく。
「そこからは?」
柚月はベンチに座る正木を見た。
「静香の出番になるかもしれませんね」
正木が少し笑う。
「やっぱりそこですか」
「後ろが二枚とかになったら、走るしかねぇだろ」
「分かりました」
そして高橋結衣にも視線を向ける。
「結衣もな。今日は先発なんだから、最初から走りすぎんなよ」
「メキシコ戦で学びました」
「本当か?」
「たぶん」
周囲に少し笑いが起こった。
柚月がベンチスタートだからといって、日本から判断力が消えるわけではない。
森岡がいる。
早川がいる。
宮野がいる。
美琴もいる。
彼女たちがピッチの中で答えを見つけなければならない。
そして、それこそがこの三戦目のもう一つの意味だった。
試合会場へ向かうバスの中で、柚月は窓の外を見ながら右ふくらはぎを軽く動かしていた。
二試合分の疲労。
多少の張り。
だが痛みはない。
今日はベンチ。
必要なら出る。
必要なければ出ない。
それでいい。
六試合目。
本当に金メダルを懸けるところまで行くのなら、その日に走れる身体を残さなければならない。
隣には同じくベンチスタートの正木が座っていた。
「柚月さん」
「ん?」
「今日、出番ありますかね」
柚月が少し笑う。
「ない方がいいんじゃねぇ?」
正木が目を丸くする。
「え?」
「先発で勝ち切ってくれたら、それが一番だべ」
「それもそうですね」
「でも出たら」
柚月が前を向く。
「決めろ」
正木も笑った。
「はい」
スタジアムへ到着すると、ガーナの選手たちはすでに強い熱気をまとっていた。
ウォーミングアップからスプリントを繰り返し、ジャンプ、対人、シュート練習まで勢いがある。
二点差以上。
勝つだけでは足りない。
その条件が、彼女たちの動きをさらに激しくしていた。
一方、日本のゴール前では桐生菜月が何本もクロスボールを処理していた。
伊達葵は少し離れたところから見ている。
ウォーミングアップの途中、桐生が伊達のところへ来た。
「葵さん」
「ん?」
「ちょっと緊張してます」
伊達は笑った。
「そりゃするよ」
「え、します?」
「私もしたよ、最初」
桐生が少し安心したような顔をする。
伊達は続けた。
「全部止めようと思わなくていい。DFがコース絞ってくれるから、その中で自分が止めるものを止めればいい」
「はい」
「あと、声出して。今日の最終ラインは菜月の声で動かすくらいでいいから」
桐生は大きくうなずいた。
「やってきます」
「行ってこい」
その姿を柚月も少し離れたところから見ていた。
控えの選手が経験を積む。
誰かが休む。
別の誰かが出る。
それでもチームの強さを落とさない。
短期決戦を勝ち抜くためには、それが必要だった。
やがて日本とガーナの選手たちが入場口へ集まる。
日本の先発GKは桐生菜月。
伊達葵はベンチ。
大船柚月もベンチ。
正木静香もベンチ。
その三人がいないスタートでも、日本は勝ちに行く。
ガーナの主将アマ・ボアテングはまっすぐ前を見ていた。
二点差以上。
それしかない。
森岡美里もキャプテンマークを巻き、前を見る。
原町監督はピッチへ向かう先発選手たちへ最後に声をかけた。
「押し込まれても慌てるな。最後を通さなければいい。相手が前に人数を出すのは、こっちにとって悪いことじゃない」
そして桐生へ。
「菜月、最終ラインを動かせ」
「はい!」
最後にベンチを見る。
柚月。
伊達。
正木。
まだ使っていない武器が三つ残っている。
主審の笛が鳴る。
一次リーグ最終戦。
日本対ガーナ。
ガーナは予想どおり、開始直後から猛烈な勢いで前へ出てきた。
次回予告
第81章「押し込ませろ」
A組突破のため、日本に二点差以上で勝つしかないガーナ。
開始直後から、圧倒的な身体能力とスピードを前面に出して日本へ襲いかかる。
左のエフィア・オウス。
右のアコスア・アサンテ。
中央のアフィア・メンサー。
日本は自陣へ押し込まれる。
しかし原町監督は動かない。
「最後を通すな。それでいい」
そして、この試合でオリンピック初先発となったGK桐生菜月に、早くも大きな仕事が訪れる。
クロス。
ミドルシュート。
一対一。
伊達葵はベンチから桐生を見守る。
一方、大船柚月と正木静香もベンチ。
日本は二人を使わずに、どこまでガーナの猛攻を受け止められるのか。
時間が進むほど、二点が必要なガーナはさらに前へ人数をかけ始める。
そしてベンチの柚月は、その変化を見ながら静かに言う。
「そろそろ後ろ、空いてきたな」
次回、第81章「押し込ませろ」。
押し込まれていることと、追い詰められていることは同じではない。
守りながら、相手が自分から開ける扉を待つ。




