結衣、走れ
第78章 結衣、走れ
62分、日本が前半から温存してきた高橋結衣のスピードが、ようやく解放された。
長崎美琴が中央で二人を引きつけながらボールを失わず、ほんのわずかにできた右サイドの空間へ鋭くパスを送る。そこへ高橋が一気に飛び出した。前半はほとんど全力で走っていなかった分、その加速はメキシコ守備陣にとって想像以上だった。左サイドバックのカルメン・ベガが必死に追うが、長い時間走らされてきた脚はもう開始直後のようには動かない。
高橋はペナルティーエリア右手前までボールを運ぶと、一瞬だけ中央を確認した。原町監督の言葉が頭をよぎる。
ここぞという場面になったら、躊躇せずゴールまで行け。
迷いはなかった。
高橋はボールを左へ持ち替え、そのまま左足を思い切り振り抜いた。
強烈なミドルシュート。
ボールは鋭く伸びながらゴール左上へ向かう。メキシコGKアンドレア・メンドーサが素早く反応し、両手を伸ばして横へ飛んだ。
完全には止めきれない。
「弾いた!」
ボールがペナルティーエリア中央へこぼれる。
そこへ走り込んできたのは森岡美里だった。
高橋がシュートへ入った瞬間から、森岡はこぼれ球を予測して足を止めていなかった。メキシコDFが戻ろうとするが、半歩遅い。森岡は跳ねてきたボールの軌道へ身体を合わせ、右足を一気に振り抜いた。
低く、速いシュート。
アンドレアは高橋の一撃を止めた直後で、まだ体勢を戻しきれていない。
ボールはGKの伸ばした手のさらに外側を抜け、ゴール右端へ突き刺さった。
日本側スタンドが爆発するような歓声に包まれた。
日本1-0メキシコ。
62分。
森岡美里。
そして、その一点を作り出したのは、高橋結衣が前半から残し続けていた数秒のスピードだった。
森岡は両拳を握りながら高橋へ走った。
「結衣!」
高橋も笑顔で飛びつく。
「美里さん!」
「ナイスシュート!」
「止められましたけど!」
「だから私が決めた!」
そこへ柚月たちも集まってくる。
「結衣、よう走ったっちゃ!」
原町監督もベンチで大きく拳を握った。ただし、その表情はすぐに戻る。
まだ1-0。
メキシコは、このまま終わるチームではない。
案の定、失点後のメキシコは一気に攻撃の圧力を高めてきた。
モンテロ監督は前線へ向かって大きな身振りで指示を飛ばす。
「前へ行け! ここからだ!」
それまでスタミナを意識してプレスの回数を抑えていたメキシコが、残り時間を考えて再び走り始めた。ソフィア・エレーラが中央から前へ出て、ルシア・モラレスとバレリア・オルティスも高い位置を取る。カミラ・ロドリゲスは藤森彩香と西野千尋の間へ何度も走り込み、日本の最終ラインを押し下げようとする。
65分、ルシアが左サイドを突破してクロスを上げる。藤森が頭で弾き返したが、セカンドボールをソフィアに拾われた。右足から放たれたミドルシュートは低い弾道でゴールへ向かったものの、伊達葵が正面でしっかりと抱えた。
68分にはバレリアが右から切れ込み、ペナルティーエリア内へ低いクロスを送り込む。カミラが飛び込むが、宮原彩乃が身体を入れ、わずかにコースを変える。ボールはゴール前を横切って逆サイドへ抜けた。
メキシコの攻撃は止まらない。
日本は押し込まれる時間が続く。
柚月が中盤から声を飛ばした。
「下がりすぎんな! 奪ったら一回前見るぞ!」
ただ耐えるだけでは、いずれ押し切られる。
だからこそ、日本はボールを奪った瞬間に前線の位置を確認する。しかしメキシコも残り時間を考え、すぐに奪い返そうと強烈な圧力をかけてくる。
試合は一気に荒々しい展開になっていった。
そして72分。
メキシコが左から攻める。
ルシア・モラレスが國武真央と対峙し、一度外へ流れるように見せて内側へ切り込む。そこへソフィアが近づき、ワンツーでペナルティーエリア左へ進入した。
ソフィアから中央へ低い折り返し。
藤森が足を出す。
ボールが少し浮く。
その先にいた美琴が反応する。
だが、身体をひねった瞬間だった。
ボールが美琴の腕に当たった。
大きな笛。
主審が迷わずペナルティースポットを指す。
PK。
日本側の選手たちが一斉に主審を見る。
美琴は両手を広げた。
「わざとじゃないです!」
主審は説明するように腕の位置を示したが、判定は変わらない。
美琴の表情が一気に曇った。
「ごめんなさい……」
柚月がすぐに近づく。
「まだ決まってねぇ」
美琴が顔を上げる。
「でも……」
「葵がいる」
その言葉に、美琴はゴールを見る。
伊達葵はすでにゴールラインの前へ立っていた。
メキシコのキッカーは主将のソフィア・エレーラ。
メキシコにとって最大の同点機。
日本にとって最大の危機。
スタジアム全体が静まっていく。
ソフィアがボールをセットする。
伊達はゴールライン上で軽く身体を動かしながら、ソフィアだけを見ていた。
過去のPK。
助走の角度。
軸足。
視線。
蹴る直前の身体の開き。
ただ勘で飛ぶのではない。
最後の最後まで見る。
伊達は自分に言い聞かせた。
早く動くな。
ソフィアが数歩下がる。
主審が両者を確認する。
笛。
ソフィアが助走を始める。
右足。
蹴る瞬間。
伊達の目がわずかに動いた。
身体の開き。
軸足。
左。
ボールは鋭い弾道でゴール左上隅へ向かう。
伊達が横っ飛び。
左。
全身を伸ばす。
両腕。
ボールが手の中へ飛び込む。
伊達は空中でそのまま抱え込んだ。
着地。
離さない。
一瞬の静寂。
そして、日本側の歓声が一気に爆発した。
「止めた!」
藤森が叫ぶ。
美琴は両手で顔を覆いかけ、それからすぐ伊達へ走ろうとする。
しかし伊達は立ち上がった。
終わっていない。
メキシコの選手たちはPKのこぼれ球を狙って前へ人数をかけていた。そのため、後方には大きなスペースが残っている。
伊達はすぐに前を見た。
「行け!」
ボールを素早く投げる。
宮野沙季が受ける。
そこから早川莉奈。
メキシコは慌てて戻る。
だが、PKのために多くの選手が日本のペナルティーエリア付近へ入っていた。
戻り切れない。
早川が中央を運ぶ。
高橋が右へ走る。
森岡が左。
柚月は少し遅れて中央を上がる。
メキシコの守備陣は、誰へ対応するか迷う。
早川が高橋を見る。
DFが右へ引っ張られる。
そこから中央へ戻す。
宮野。
宮野は長く持たず、前へ出てきた柚月へ。
ゴールまで二十メートルほど。
柚月が受ける。
目の前には一人。
その後ろからもう一人が戻ってくる。
左足を警戒するメキシコDF。
オーストラリア戦で決めた左足のミドルも研究されている。
柚月は一度左へ身体を傾けた。
DFが反応する。
その瞬間、右へボールを置く。
コースが開く。
柚月は右足を振り抜いた。
強烈なシュート。
ボールは低い軌道から途中で浮き上がるように伸び、アンドレア・メンドーサの右手を越えてゴール左上へ突き刺さった。
ネットが大きく揺れる。
2-0。
75分。
大船柚月。
日本、追加点。
しかも。
数十秒前までは、同点にされる最大の危機だった。
伊達葵がPKを止めた。
そこから。
宮野。
早川。
高橋。
森岡。
そして柚月。
一気に逆方向。
1-1になるはずだったかもしれない時間が、2-0へ変わった。
柚月はゴールを確認すると、大きく拳を握った。
「よし!」
しかし最初に走っていったのは伊達のところだった。
他の選手たちも同じだった。
美琴は伊達に抱きつく。
「葵さん、ごめんなさい!」
伊達は笑いながら首を振った。
「謝るのあと!」
柚月も近づく。
「今の一点、葵のゴールみてぇなもんだっちゃ!」
伊達が笑う。
「私は蹴ってないけどね!」
緊張の中に、ほんの少しだけ笑いが戻った。
原町監督はベンチでその光景を見ながら、すぐに選手たちへ声を飛ばした。
「まだ十五分ある! 終わった顔するな!」
2-0。
試合は大きく日本へ傾いた。
それでもメキシコは諦めない。
モンテロ監督はさらに攻撃的な選手を投入し、前線の人数を増やした。
残り時間。
日本は、前半から仕掛けてきたスタミナ勝負の成果をここで生かすことになる。
メキシコは走りたい。
だが、前半から走らされ続けた脚はもう軽くない。
一方、日本は必要な場所だけ走る。
美琴がボールを守る。
宮野が拾う。
早川が前へ運ぶ。
高橋が最後までサイドを走る。
柚月は時計だけではなく、相手の動きを見る。
この試合。
まだ終わっていない。
でも。
日本は確実に、自分たちの90分へ持ち込みつつあった。
次回予告
第79章「二つのセーブ、一つの勝利」
75分。
日本2-0メキシコ。
高橋結衣の左足から生まれた森岡美里の先制点。
そして、長崎美琴のハンドで与えたPKを伊達葵がスーパーセーブ。その直後、日本は一気にカウンターへ転じ、大船柚月が右足のミドルシュートを突き刺した。
わずかな時間の中で、1-1になる可能性が2-0へ変わった。
しかしメキシコは最後まで諦めない。
アレハンドロ・モンテロ監督は攻撃的な選手を次々に投入し、最後の15分を総力戦へ持ち込む。
一方、日本には前半から積み上げてきたものがある。
メキシコを走らせ続けた時間。
高橋の残した脚。
美琴のキープ。
宮野の回収。
早川の前進。
そして伊達葵のセーブ。
試合終了まで、まだ時間はある。
日本は二点差を守るのではなく、ボールを握りながらメキシコの最後の力を削っていく。
次回、第79章「二つのセーブ、一つの勝利」。
一つのミスが試合を決めるとは限らない。その後ろに仲間がいる限り、失敗は終わりではなく、次のプレーの始まりになる。




