↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日の春風は今も  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
103/127

止まらないメキシコ

 第77章 止まらないメキシコ


 一次リーグ初戦でオランダを1-0で退けた日本は、短い休養を挟んで第2戦のメキシコ戦を迎えた。相手はオランダとはまったく違うタイプのチームで、前線からの激しいプレスと、ボールを失った直後の素早い奪い返しを武器にしている。ひとり目を外しても二人目、三人目が連続して寄せてくるため、少しでも判断が遅れればあっという間に囲まれてしまう。日本にとっては、技術だけではなく、試合全体の速度をどう管理するかが重要になる相手だった。


 試合前のウォーミングアップへ向かおうとしていた高橋結衣を、原町監督が呼び止めた。結衣が振り返ると、監督はいつも以上に真剣な表情で彼女を見た。


「高橋、今日はお前の走力が試合の成否を決める鍵になる」


 突然そう言われ、結衣は少し驚いた顔をした。


「私の走力ですか?」


「そうだ。メキシコは最初から最後まで走ってくる。ただし、こちらまで同じように走り続けたら相手の土俵に乗ることになる。前半は我慢していい。ここぞという場面が来るまで力を残せ。そしてその瞬間が来たら、躊躇せずゴールまで行け」


 結衣はゆっくりとうなずいた。


「分かりました。迷ったら、ゴールを見る」


「それでいい」


 その短いやり取りを終えると、結衣は仲間たちのもとへ戻っていった。原町監督はその背中を見ながら、この試合の勝負どころが後半になる可能性を強く意識していた。


 メキシコ代表を率いるのは、攻守の切り替えと運動量を重視するアレハンドロ・モンテロ監督だった。主将は中盤のソフィア・エレーラ。前線ではカミラ・ロドリゲスが積極的にプレスをかけ、左サイドにはスピードのあるルシア・モラレス、右にはバレリア・オルティスが入る。守備的MFのイサベル・ナバーロが中央を締め、最終ラインではマリア・サントスとエレナ・カスティージョが身体を張る。左サイドバックのカルメン・ベガも上下動を惜しまない選手で、ゴールを守るのはアンドレア・メンドーサだった。


 モンテロ監督は試合前のロッカールームで、選手たちにはっきりと伝えていた。


「日本に考える時間を与えるな。ボールを持った瞬間に寄せろ。ひとりで奪えなくても、次がいる。さらにその次もいる。私たちは止まらない」


 メキシコの選手たちは力強くうなずいた。


 そしてキックオフ。


 予想どおり、試合開始直後からメキシコは猛烈な勢いで日本へ圧力をかけてきた。藤森彩香が最終ラインでボールを持てば、カミラ・ロドリゲスが一気に距離を詰める。藤森が國武真央へ逃がせば、今度はバレリア・オルティスが走ってくる。國武から柚月へボールが入れば、ソフィア・エレーラが身体を寄せ、そのすぐ後ろにはイサベル・ナバーロまで待っていた。


 一度プレスを外しても、次が来る。


 早川莉奈がボールを後方へ戻しながら、思わず苦笑した。


「本当に止まりませんね」


 柚月は周囲を確認しながら答えた。


「だから、止めなくていいっちゃ」


「え?」


「向こうに走ってもらえばいい」


 早川は一瞬意味を考え、それから日本のボール回しを見て理解した。


 日本は、メキシコの勢いに合わせて自分たちまで走り回ることをしなかった。藤森から柚月、柚月から宮野沙季、そこから宮原彩乃、森岡美里、國武真央と、短いパスをつなぎながらボールだけを速く動かしていく。持ちすぎない。無理に前へ急がない。相手が来る前に離し、また逆へ振る。


 右へ。


 左へ。


 中央へ戻して、また右へ。


 メキシコは、そのたびに全体で走らなければならない。


 日本の選手たちは必要以上にスプリントせず、ボールだけを移動させる。一方のメキシコは、自分たちの強みである前線からの連続したプレスを忠実に続けるほど、移動距離が積み重なっていった。


 高橋結衣も、右サイドで何度か裏へ走れそうな場面を見つけていた。しかし彼女は焦らなかった。原町監督から言われた言葉が残っていたからだ。


 ここぞという場面まで、力を残せ。


 前半10分、早川が中央で前を向きかけた瞬間、結衣は一歩だけ前へ出た。しかしすぐに速度を落とし、再びボール回しへ参加した。その姿を見たメキシコの左サイドバック、カルメン・ベガは少し不思議そうな表情を浮かべた。もっと走ってくると思っていた若い日本のFWが、意外なほど慎重だったからだ。


 しかし日本にも危険な場面は訪れる。前半13分、宮原から中央へ入れたパスをイサベル・ナバーロに読まれ、メキシコが一気にカウンターへ転じた。ソフィア・エレーラから左のルシア・モラレスへ展開され、ルシアが低いクロスを入れる。中央へ飛び込んだカミラ・ロドリゲスが合わせたが、伊達葵が正面でしっかりとキャッチした。


 柚月はすぐに仲間へ声をかけた。


「中央で雑に失うな。向こうの一番得意な形に入るぞ」


 メキシコの武器は、走ることだけではない。奪った直後の速さもある。だからこそ、日本はボールを失う場所まで考えなければならなかった。


 それでも試合の主導権は、少しずつ日本の思惑へ寄り始めていた。


 前半18分、藤森から柚月、宮野、早川、森岡、國武、再び藤森とつなぎ、そこから右の宮原へ展開する。結衣が一度受けてワンタッチで戻すと、また中央へ。メキシコの選手たちはそのたびに数メートルずつ動き続ける。


 日本は決して派手な攻撃をしていない。


 それでも、メキシコの脚には確実に負荷が積み重なっていた。


 前半25分を過ぎたころ、モンテロ監督は初めて違和感を覚えた。日本がなかなかゴールへ急がない。ワールドカップ王者なのだから、もっと前から攻めてくるものだと思っていた。しかし日本は、相手のプレスを外したあともすぐに縦へ行かず、何度も戻し、横へ振り、また逆へ動かしている。


 モンテロ監督は時計を確認し、次に中盤の選手たちへ目を向けた。


 ソフィア・エレーラの呼吸が少し速い。


 イサベル・ナバーロも、開始直後より戻りがわずかに遅れている。


 そこで、監督の表情が変わった。


「違う……」


 隣にいたアシスタントコーチが振り向く。


「どうしました?」


 モンテロ監督はピッチから目を離さずに答えた。


「我々は走っているんじゃない。走らされている」


 その瞬間、日本の狙いがはっきり見えた。


「スタミナを削りに来ている。このまま全部追うな!」


 モンテロ監督はすぐにタッチライン際へ出ると、大きなジェスチャーで選手たちへ指示を送った。


「ラインを保て。無理に全部追わなくていい。中央を閉めろ!」


 メキシコはプレス開始位置を少し下げ、ボールへつられすぎないゾーン守備へ切り替えた。


 前半29分。


 藤森がボールを持つ。


 それまでならカミラがすぐに走ってきた場面だったが、今度は一定の距離で止まる。柚月へボールが入っても、ソフィアは深追いしない。中央のスペースを消しながら、前へ出すぎない。


 早川がすぐに気づいた。


「変えましたね」


 宮野も周囲を見る。


「追ってこなくなった」


 柚月は一度だけメキシコのベンチへ視線を向け、モンテロ監督の身振りを確認した。


「向こう、気づいたな」


 森岡が聞く。


「じゃあどうする?」


 柚月は少しだけ笑った。


「走るのやめるなら、嫌でも走らせるっちゃ」


 そう言うと、柚月はボールのないところで仲間たちの目を見た。


 早川。


 森岡。


 宮野。


 美琴。


 一人ずつ、短いアイコンタクトを送る。


 右。


 左。


 前。


 中。


 全員が同じ意味を理解した。


 今度は、ただボールを動かすだけではない。


 自分たちの立ち位置を変える。


 メキシコが追わなくても守れる場所ではなく、追わなければ守れない場所へ入っていく。


 前半32分、早川が右へ流れ、柚月がその内側へ入る。美琴は逆に左へ動き、森岡が中央へ顔を出す。宮野は一列下がってボールを受ける位置を作る。メキシコはゾーンを保とうとするが、日本の選手たちが守備ブロックの境界へ次々と立つため、どちらが見るのか迷いが生まれる。


 早川が中央へ戻れば、メキシコの選手も動かなければならない。柚月が外へ流れれば、また別の選手が対応する。


 走らないようにしたはずなのに。


 結局、走る。


 モンテロ監督は再び声を上げた。


「中央を追いすぎるな。受け渡せ!」


 しかし日本もまた、その修正を見ながら位置を変える。


 前半35分を過ぎてもスコアは0-0だったが、試合の中では小さな変化が積み重なっていた。メキシコの選手たちはまだ十分に走れている。ただし、開始直後のような勢いはない。プレスの一歩目がわずかに遅れ、戻るときの呼吸も深くなり始めている。


 高橋結衣は、まだ全力のスプリントをほとんど使っていなかった。


 ベンチの原町監督と目が合う。


 監督は手を下へ向ける。


 まだだ。


 結衣は静かにうなずいた。


 前半41分、メキシコがカウンターから大きなチャンスを作った。ソフィアからルシアへ素早くつなぎ、左サイドを突破。中央へ入れたボールをカミラがワンタッチで合わせたが、伊達葵が横っ飛びで弾き、藤森が大きくクリアした。


 柚月はすぐに声を飛ばした。


「集中! 疲れてても向こうは速いぞ!」


 メキシコは確かに消耗していた。


 それでも、危険なチームであることに変わりはない。


 前半は0-0のまま終了した。


 ロッカールームへ戻るメキシコの選手たちには、肩で息をする姿も見えた。一方、日本の選手たちにも疲労はあるが、相手ほどではない。


 柚月は水を飲みながら森岡へ言った。


「効いてるな」


 森岡もうなずいた。


「後半だね」


 少し離れたところで、高橋結衣がその会話を聞いていた。


 まだ、自分の時間は来ていない。


 一方、メキシコのロッカールームでは、モンテロ監督が選手たちへ新たな指示を出していた。


「日本の罠に入るな。全部追う必要はない。ある程度ボールを持たせろ。そして、日本が前へ出てきた瞬間に奪ってカウンターへ行く」


 ソフィアが呼吸を整えながら尋ねる。


「持たせても大丈夫ですか?」


「危険な場所へ入ったときだけ行けばいい。前半のように全部追えば、後半の最後に脚がなくなる」


 今度はメキシコが、日本を前へ引き出そうとしていた。


 日本のロッカールームでも、原町監督は同じ変化を予想していた。


「後半、向こうは追う回数を減らす。こちらに持たせて、出てきたところを狙ってくる」


 柚月がうなずく。


「カウンターですね」


「そうだ。だから全員で前へ出るな」


 そして原町監督は高橋を見る。


「高橋」


「はい」


「そろそろ準備しろ」


 結衣の表情が変わる。


「はい」


 後半が始まると、メキシコは予想どおり無駄なプレスを減らした。日本にある程度ボールを持たせながら、中央を閉め、前へ入り込んだ瞬間だけ強く寄せる。


 柚月は数分も経たないうちに、その狙いを見抜いた。


「向こう、うちらに前へ出させたいな」


 宮野が答える。


「奪ったあとのカウンター狙いですね」


「んだ。なら、前へ出るふりだけして、後ろ残すぞ」


 日本もまた、相手の狙いに付き合わない。


 55分、メキシコが日本の縦パスをカットし、ソフィアからカミラへ一気に出そうとする。しかし宮野が中央に残っていた。進路を消し、横へ逃がしたところを藤森が回収する。


 柚月は拍手した。


「沙季、ナイス!」


 時間は60分へ近づく。


 スコアは0-0。


 そこで原町監督が高橋へ声をかけた。


「結衣」


「はい!」


「ここからだ」


 高橋は大きく息を吸う。


 監督はもう一度、試合前と同じ言葉を伝えた。


「迷うな。行けると思ったら、ゴールまで行け」


「はい」


 高橋がピッチへ意識を戻す。


 その直後、柚月と目が合った。


 柚月は今度こそ、右手を前へ出した。


 行け。


 結衣は小さくうなずいた。


 62分。


 早川が中央でボールを受ける。メキシコが寄せると、早川はすぐ美琴へ預けた。美琴は背後から身体を当てられても失わず、ひとり、さらにもうひとりを引きつける。


 その瞬間。


 高橋結衣が右サイドで一気に加速した。


 前半はほとんど見せなかった全力のスプリントだった。


 長時間走らされてきたカルメン・ベガが反応する。


 しかし、一歩遅い。


 美琴から右へパス。


 高橋が受ける。


 完全に抜けた。


 前にはペナルティーエリア。


 GKアンドレア・メンドーサ。


 後ろからカルメンが追う。


 高橋の頭に、原町監督の言葉がよみがえった。


 ここぞという場面になったら、躊躇せずゴールまで行け。


 結衣はもう迷わなかった。


 ボールを前へ運びながら、ゴールだけを見た。


 そして右足を振り抜く体勢へ入った。


 次回予告

 第78章「結衣、走れ」


 前半から徹底的にメキシコを走らせた日本。その狙いを見抜いたアレハンドロ・モンテロ監督はプレスの回数を減らし、カウンター狙いへ修正する。


 しかし柚月も、その変化をすぐに察知した。


 追わないなら、追わなければ守れない場所へ入る。


 走らないなら、嫌でも走る状況を作る。


 互いに修正を重ねた試合は、0-0のまま60分を超えた。


 そして62分。


 日本が前半から温存していた高橋結衣のスピードが、ついに解放される。


 長崎美琴から右サイドへ。


 高橋が抜け出す。


 目の前にはGKアンドレア・メンドーサ。


 後ろから追うカルメン・ベガ。


 だが、もう迷わない。


 原町監督から託された言葉どおり、高橋はそのままゴールへ向かう。


 次回、第78章「結衣、走れ」。


 90分すべてを全力で走る必要はない。勝負を決めるために必要な数秒へ、力を残しておくこともまた、試合を読む力なのだ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。