第十六話 サトウキビは甘くない
(秋の到来が随分早い……)
陽暦に直せば、まだ九月半ばのはずだった。
それなのに伊勢湾から吹き付ける風には、もう冷たさが混じり始めている。
一番株は二メートルほどに育ち、タケルは無邪気に喜んでいるが、丈も太さも足りないとシンジは感じていた。
十月に入ると日中の気温も上がらない。もはやこれ以上、畑に置いていても糖分が上がる事は望めないだろう。
サトウキビは光合成で糖を作る。しかし気温が十度を下回ると光合成をしなくなるのだ。
そして霜が降りたら即死する。死んでしまったサトウキビは、溜まった糖分が分解され、ただの酸っぱいゴミになる。
これ以上はリスクの方が高い。収穫するしかないだろう。
「育つ時間が足らんかったってことか」
助平の言葉にシンジは頷いた。
「あーあ、ここが琉球だったらなあ」
とタケルが言う。
それを聞きながらシンジは思う。琉球でも、成功するかは分からない。
この種キビ「Ni27」は四百年後の品種改良の結晶だが、四百年分の試行錯誤を持ち込めているわけではない。
十六世紀後半は、北半球を中心に「小氷期」と呼ばれる寒冷な時期に重なっており、現在より気温の低い時期が多かったと考えられている。
現代の伊勢で栽培実績のある品種とはいえ、現代の温室も農薬も肥料もなく、気候条件まで異なるとなれば、シンジたちの挑戦は厳しいものであったろう。
さて。
あとから植えた二本はそのまま種キビにするとして。
そして戦国ビニールハウスで発芽させた、一番大きく育った一本。
シンジが鋸引きの刃で根元から刈り取り、外皮を削いで手渡した。
咲が受け取り、恐る恐る奥歯で噛み締める。
「……! 甘い!」
咲の目が丸くなった。繊維を噛み砕くたびに、青臭い果汁の中から、はっきりとした甘味が滲み出す。
「どれ」
助平が咲からそれを受け取り、無造作に口に放り込んだ。数度咀嚼し、目を瞬かせる。
「……ほう。甘草なんぞよりよっぽど甘いな。こりゃ驚いた」
次はタケルが助平から受け取って噛んだ。
タケルは首を捻る。
「うーんこんなもんなんですかね……」
シンジもタケルから受け取り咀嚼した。切り口の繊維をじっと見つめたまま、浮かない顔をする。
「……違う」
「え?」
「確かに甘いけど……、Ni27は、こんなもんじゃない。糖度が全然足りない」
シンジは繊維を指先で揉んだ。
甘いことは甘い。だが、ほのかに甘いという程度。それでも甘味の少ないこの時代、咲や助平には十分甘く感じられるが。
記憶にある現代のサトウキビのような、頭が痺れるほどの濃縮された糖分には全く及ばない。本州の短い夏では、茎の背丈こそ伸びても、内部が完熟しきらないのだろう。
サトウキビは夏の暑い時期に背丈がどんどん伸びていく。この時に光合成で作った糖は成長のために使い切る。
秋が訪れ気温が下がると、サトウキビは成長が止まる。この時に充分に成長していないと、光合成で作った糖は成長で消費してしまう。
充分に成長したサトウキビの場合は、昼間に光合成で糖を作り、それが成長に使われることがないため、夜間の気温が下がる時に余ったショ糖が茎の髄に溜め込まれていく。そうやってサトウキビは甘くなる。
シンジたちの作ったサトウキビは、ある程度の糖は溜められたが、やはり成長する期間──つまり夏が短かったのだろう。糖が乗り切っていないのだ。
これじゃ砂糖を作るというより、甘い汁を煮詰めるだけだ。
絞って煮詰めても、茶匙に何杯かの黒い糖蜜が残るだけ。
「これで砂糖、どのくらい取れますかね? 取り敢えず煮てみるんですよね?」
タケルの問いにシンジは首を振った。
「薪を無駄にするだけだよ。タケルくんも薪割り、やってるだろう?」
タケルもシンジも、ここへ来た頃より随分と体が引き締まり、逞しくなっていた。
十六世紀の生活を支える燃料は、すべて薪だ。「令和から来たのでできません」は通用しない。最初の頃はフラフラになりながら斧を振りかぶり、豆を潰しながら繰り返して、ようやく一人前に割れるようになったのだ。
シンジは顔を上げ、咲と助平を見ながら言った。
「全部、種キビにしましょう。上様には、謝罪の手紙を書きます」
数日後。安土城の天主。
机の上に広げられたシンジからの手紙を前に、信長が露骨に肩を落としていた。
「『今年は砂糖をお届けできません。申し訳ありません』……えー、クッキーは?」
「ありません」
蘭丸が冷然と即答した。
信長は、添えられていたタケルの報告書──発芽温度の推移、温床の構造、植付時期による成長差の記録──に目を通した。
「ま、経験は積み重ねたみたいだから、来年に期待だな」
信長も、蘭丸も、この時点ではまだ「来年こそは」と楽観していた。
だが、冬はそんな甘い期待を粉々に粉砕しにやってきた。
安濃津の作業小屋の奥で、過酷な越冬試験が始まった。
秋に確保した種キビをいくつかの区画に分け、藁で幾重にも巻く、土中に深く伏せる、屋内の炭火の近くに置く、堆肥の発酵熱を利用する──考えつく限りの手を打った。
タケルは毎日、Androidを片手に土や種キビの表面温度、外気の状態を記録し続けた。
シンジも咲も助平も、朝起きるたびに覆いをめくって状態を確かめた。
だが、冬が深まるにつれて現実が牙を剥く。
暖めようとすれば湿気でカビが生えて腐敗し、風を通せば乾燥して芽が枯死する。土中に伏せれば冷えと湿気で傷み、発酵熱を利用しようとすれば、置き場所ひとつで今度は高温にやられる。
試行錯誤のグラフが増えるのと反比例して、種キビは一本、また一本と真っ黒に変色していった。
天正十二年、春。
最後に藁束を解いたとき、全員が息を呑んだ。
切り分けて保存していた種キビのほとんどは、黒ずみ、あるいは干からびていた。
その中に一本だけ、まだ張りを失っていない種キビがあった。
節に残った芽は、小さく膨らみ、わずかに緑を覗かせている。
だが、誰も「やった」とは言わなかった。
春の陽光の下、四人は押し黙り、その一本を見つめてひどく難しい顔をしていた。
「一本残った」という事実。
しかしそれは、「これが来年の春も残る保証はどこにもない」という絶望的な事実でもあった。
安土城の広間に、シンジ、咲、タケルの三人が通されていた。
畳の上に置かれた、盆の上のたった一本の種キビを見て、信長が軽く首を傾げた。
「一本残ったなら、今年も畑に植えてやってみる?」
問いかけられたシンジは、唇を噛み締め、やがてボロボロと大粒の涙をこぼした。
「……無理です」
絞り出すような声だった。
「今年これを植えれば、夏にはまた数本に増やせます。でも……その増やした種を、次の春まで残す方法が僕らにはありません」
「……」
「今年一本残ったのだって、僕らの技術で残したんじゃない。たまたまです。何十本も腐らせて、偶然一本だけ生き残った。それだけなんです。増やすことはできても、世代を繋げられない……!」
タケルも俯いて唇を噛んだ。草むしりも毎日した。虫取りも丁寧にした。排水溝も掘った。
たった三株のサトウキビを守るために、出来ることはやったつもりだ。
越冬のため、酷い臭気に耐えながら魚のアラを踏みしめた。
そして、自分自身にとっても、これが十六世紀で迎えた初めての冬だった。
防寒具も暖房設備も乏しい時代だ。
風邪をこじらせて高熱を出し、シンジに看病してもらった。助平が貴重な薪を分けてくれたとき、その温もりがどれほどありがたいかも骨身に染みた。
十六世紀に足りないものが多すぎるわけではない。二十一世紀にいると、足りているものが見えなさ過ぎる。
咲は、胡座をかいて腕を組み、考え込むように目を閉じていた。
信長が咲に声をかける。
「咲は? どう思う?」
咲は腕組みを解き、深く息を吐いた。
「シンジの言う通りじゃないすかね。安濃津でも甘蔗には寒すぎるんじゃないですか」
「もっと南ならいけるかな」
「殿、ルソンの辺りに領地ないんすか?」
「ねーよw」
咲と信長のやり取りで、広間の空気が少し緩んだ。
信長は立ち上がり、盆の上の最後の一本を手に取った。
節の硬さ、かすかに覗く緑の芽を、しばらく無言で見つめる。
それからぽいっと、種キビをシンジの膝の上へ放り投げた。
「ま、夢幻の如くなり、っていうね」
信長が肩をすくめて笑い、シンジは膝の上のサトウキビを抱きしめて、手ぬぐいで顔を覆った。
織田家糖業プロジェクト、完全撤退。
サトウキビは甘くなかった。




