第十五話 頑張れ安濃津のサトウキビチーム
伊勢の海風は、初夏の湿り気を孕んで重かった。
志摩から伊勢平野へ抜ける街道の先に、安濃津の湊が広がっている。砂浜の照り返しに目を細めながら歩いてきた若者が、掘っ立て小屋の前に広がる小さな開墾地を見つけて立ち止まった。
「佐藤シンジさんですね! 俺、タケルです。安土から回されてきました!」
やたらと張りのある声が、潮騒を突き抜けて響いた。
鍬の手を止めたシンジの横で、手ぬぐいで汗を拭っていた咲が、値踏みするようにタケルを眺める。
「サトウキビ! やっぱりやってる! これ、確かC4植物なんですよ!」
咲とシンジが顔を見合わせ、それから眉を寄せた。
「光合成の回路が違うんです! 通常の植物よりも二酸化炭素の濃縮効率が高くて、高温と強日射の環境下で爆発的な生長を見せるんですよ!」
「あんたバカァ?」
シンジが吹き出す。
「咲ちゃん、それ言いたいだけでしょ」
あぜ道に腰を下ろし、煙管をくわえていた助平が短く息を吐いた。陽に焼けて引き締まった三十前後の頑強な体躯に、泥のついた麻の野良着がよく似合っている。
煙管の雁首を灰落としの竹筒に、カツンと打ち鳴らした。
「ほいでシンジ、タケルはなにか役割があるんか?」
「ええ、連絡は貰ってます。タケルが持ってるスマホはAndroidなんですよ」
「iPhoneとなにか違うんか?」
助平は令和言葉を話せるだけじゃなく、令和文化にも詳しい。
きっと凄く頭の良い人なんだろうなとシンジは思う。
「Androidはセンサーがついているものがあって。タケルの持ってきた機種は、温度を数字にできるんです」
「なるほど。温度か。温い寒いを定量化できるんだったな?」
そういって助平は地面に枝でずるずると線を引いた。
「儂は数字が読めん。その温度を、ここに石を置いておしえてくれ」
(数直線だ。やっぱり凄く頭がいいんだ、この人)
「分かりました。タケルくん、君は写真撮影と温度を記録してくれ。そして助平さんたちが分かるように、この温度石を操作して」
そうしてタケルは記録係として組み込まれた。
地面の数直線はいくつか引かれ、定時に測定することになった。Androidの時計はいずれずれていくが、それほどの精度は必要ないため内部時計でもかなり役に立つ。
苗床の表面温度。
油障子を閉め切った内部と外気の温度差。
朝、昼、夕刻の日照角。
畝の勾配と、風向き。
定点からの撮影データ。
「一番薄いところ、三十四度あります」
「昨日は?」
「同じ刻で三十一度」
「なら今日は少し開けよう」
咲が油障子を持ち上げる。
「こっちは二十七度です」
「そこはそのまま」
熱い、ぬるい、昨日より冷たい。
その曖昧な皮膚感覚が、タケルの液晶画面を通じて明確な判断基準へと変わっていく。
十二日目。
一番薄く土を敷いた苗箱の表面が割れた。
「咲ちゃん!」
シンジが叫んだ。
「出た!」
「えっ、どこ!?」
鍬を放り出した咲が走り、助平が大股で駆け寄り、最後尾からタケルが息を切らせて追いつく。
小さな緑色の芽だった。
「出た……」
「出たね!」
思わずシンジと咲は抱き合った。「やったやった!」と躍り上がる。
シンジはふと、咲の胸の膨らみを意識してしまい、それとなく身体を剥がした。
タケルがスマホを構えた。
「写真撮ります!」
三つの苗箱のうち、芽を出したのは結局それ一本だけだった。
一つは途中で種キビが傷み、もう一つは何日待っても動かなかった。
それでも一本ある。
ある程度まで苗床で育て、暖かな日を選んで畑へ移した。
咲と助平が選んだ、大豆を作っていた水はけのいい畑である。
それから半月ほどして、時期をずらして露地に植えた種キビにも変化があった。
「こっちも出てる!」
今度はタケルが見つけた。
さらに半月。
もう一本。
暖かくなってから植えたものほど、芽の出方は素直だった。
しかし最後に植えた一本は、結局芽を出さなかった。
「最初から五月まで待てばよかったんじゃないですか?」
タケルが言った。
「その分、育つ時間が短くなるだろ」
助平が答えた。
「このあとから出た分は、多分、糖は溜まらない。来年の種キビとして増やしているんだよ」
シンジが説明する。タケルが怪訝な顔をする。
「糖は溜まらないって? サトウキビって甘いものじゃないんですか?」
「甘くなるのは育ちきってからなんだよ。だから夏が、暑い時期が長ければ長いほどいいんだ」
その前に秋が来て気温が下がると、十分に成熟せず、糖が乗らないのだ。
「それに、肥料をあげすぎたらいけないってことなんだけど──」
これは咲だ。
「それがどの程度なのかも分からないのよね。今は人肥を水で薄めてみているけど、毎年試していくしかないんだよね。来年はいくつかの畑にわけて、少しずつ違う条件でやってみる」
助平が頷いた。
「種キビをどれだけ来年に向けて増やせるか、今年やることはまずはそれじゃ」
そして夏が訪れた。
生き残った三株のサトウキビは猛烈な勢いで天を目指し始めた。
硬質な葉が擦れ合い、潮風の中でざわめく。
背丈はバラバラである。
温床から先に畑へ出した一本が、明らかに先を走っている。
その後を早く露地に植えた株が追い、遅く植えたものほど小さい。
先頭の一本は、シンジの胸近くまで伸びている。
八月に入ると、それはいよいよ咲の肩の高さに達していた。
細長い葉が風に擦れ、安濃津の田畑の中で、そこだけ妙に南国めいた音を立てている。
「漫画では竹林みたいになってたんだけど……」
不揃いな三株を見て、タケルが呟いた。シンジと咲はそれを笑顔で聞いていた。
タケルの肌は褐色に焼けていた。
農薬のないこの時代、害虫駆除は、虫を見つけて一匹ずつ取るという方法になる。
タケルとシンジは毎日それをやっていた。葉を捲り、茎の節を丹念に調べ、産み付けられていた卵の塊は、爪で剥ぎ取り踏み潰した。雑草を抜き、三株の周辺を綺麗に保ち、水をやった。
梅雨の時期には泥だらけになりながら排水溝を掘った。
そうしてやっと三株を成長させられた。
タケルの台詞は漫画みたいにならなかったという落胆ではなく、現実を口に出して確認する言葉だった。
タケルは毎日写真を撮り、気温ではなく土や葉の表面温度を測り、時刻と天気と一緒に残した。
「もっとこう……」
草を抜きながらタケルが呟いた。
「何?」
「領民に『この通りにやれ』って指示を出したら、次の行で『秋になり、豊作となった』ってナレーションが入るもんじゃないんですか」
「ほんとそうだね」
咲が手ぬぐいの下から白い歯を見せて笑う。
「でも、朝チュンで子供が出来るのも味気ないでしょ? いいとこ飛ばしてるじゃん」
「ちげえねえ」
助平が笑う。
「ねえ、シンジ?」
咲の流し目に、シンジは赤くなって下を向いた。
タケルはAndroidに打ち込む。
八月十八日。
晴れ。
先行株、肩の高さ。
露地一番手、腰より上。
草取り、四半刻。
葉裏に小さい虫二匹。
鹿の足跡、二つ。
砂糖は、まだ一粒もない。
***
一方、その頃、安土城の天守。
「はい、次の問題」
信長が咳払いをひとつして、もったいぶった調子で読み上げる。
「『ある男は、本能寺という言葉を聞いて酷く嫌な顔をした。なぜだろう?』。はい、質問は『はい』か『いいえ』で答えられるものだけにしてください」
「殿、それ書いてないやつwww 今、アドリブで作ったでしょwww」
笑い転げる秀吉の横で、明智光秀が静かに口を開いた。
「殿、本能寺の変の真相、分かりました。『光秀が本能寺イジリに耐えかねた』じゃないですかね?」
信長と秀吉は顔を見合わせて、それから目を伏せた。
二人に説教するように光秀は続ける。
「どう思います? 殿?」
「えーと、はい、そうですかね……」
信長はそっとパンシロンを光秀の袖の下に滑り込ませた。




