表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/5

第三章 物語に書かれる者

事故のあと、若者は無限に物語を書けるようになった。


しかし、それは才能ではなかった。


三百年前に凍結された「創作種」が、彼を出口として選んだからだ。


これは、「書く者」と「書かれる者」の境界を巡る、近未来SFファンタジーです。

若者は書き続けた。


朝も、昼も、夜も。

眠っているあいだでさえ、後頭部の文章制作端子の奥では、微かな熱が残っていた。


最初のうちは、それを才能だと思っていた。


事故によって、脳のどこかが開いたのだ。

眠っていた能力が目覚めたのだ。

そう考えれば、説明がつくような気がした。


実際、彼の書く文章は驚くほど精密だった。


人物の指先の癖。

古い家の柱についた小さな傷。

雨の夜に濡れた道路の匂い。

猫が歩くときの足音。

少女が振り返るとき、髪の端に残る光。

手紙を渡せなかった男の胸の痛み。

夏祭りの灯りの下で、誰かが言いかけて飲み込んだ一言。


それらは、彼が考えて作ったものではなかった。


むしろ、彼の方が後から読まされているようだった。


文章制作端子を接続すると、言葉は勝手に流れ出した。

彼が物語を組み立てる前に、人物が歩き始めた。

彼が舞台を決める前に、風景が立ち上がった。

彼が結末を考える前に、誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが別れを告げた。


彼はただ、それを受け取っていた。


端子の向こうから流れ込むものを、現代の文字列へ変換しているだけだった。


最初の一週間で、彼は短編を十二本書いた。

次の一週間で、長編の第一部を書き上げた。

さらにその次の週には、詩、私記、童話、奇妙な論考、幻想小説、誰に宛てたのか分からない手紙まで吐き出した。


周囲の人々は驚いた。


「事故の後遺症ではないのか」


そう言う者もいた。


「いや、これは覚醒だ」


そう言う者もいた。


「文章制作端子の異常出力だ」


技術者はそう言った。


だが、誰の説明も、若者にはしっくりこなかった。


なぜなら、彼自身が一番よく分かっていたからだ。


これは、自分の才能ではない。


自分の中から出ているのに、自分のものではない。

自分の言葉なのに、自分が知らない記憶を持っている。

自分の文章なのに、自分より先に結末を知っている。


彼は、次第に文章を恐れるようになった。


それでも、書くことをやめられなかった。


書かなければ、頭の中で物語が膨らみ続ける。

人物たちが囁く。

場面が光る。

未完の一文が、後頭部の奥で疼く。


書くと少し楽になる。

だが書けば書くほど、次の欠片が目を覚ます。


若者は気づいた。


あの記憶保存冷凍庫の中にあった数百の結晶。

それらは単に保存されていたのではない。


待っていたのだ。


三百年ものあいだ、止められた時間の中で。

誰かが扉を開けるのを。

誰かが湯気を吸い込むのを。

誰かが端子をつなぎ、出口になるのを。


そして今、その出口は自分だった。


ある夜、若者は端子を外した。


もう書かない。


そう決めた。


部屋は静かだった。


三百年後の都市は、夜になっても完全には暗くならない。

空には広告用の光帯が流れ、遠くの高架交通ラインには無音の車両が走っていた。

建物の壁面には、眠らない情報が淡く表示されていた。


若者は窓の外を見た。


この世界は本当に現実なのだろうか。


その疑問は、最初はただの疲労から来たものだった。


書きすぎた。

眠っていない。

事故の後遺症もある。

そう思おうとした。


しかし、一度浮かんだ疑問は消えなかった。


三百年前の小説家。

記憶保存冷凍庫。

転生装置。

交通事故。

昏睡。

夢の中の白い部屋。

数百の結晶。

時間の湯気。

文章制作端子。


あまりに出来すぎている。


まるで、物語の導入そのものではないか。


若者は、自分の人生を思い返した。


事故の前の自分。

平凡な毎日。

文章制作端子を持っているだけの、特別でも何でもない若者。


そこに事故が起きる。

夢を見る。

封印された記憶を開ける。

隠された能力が目覚める。


そんな都合のよい流れが、偶然に起こるものだろうか。


彼は唇を噛んだ。


自分は物語を書いているのか。


それとも。


自分もまた、誰かに書かれているのではないか。


その瞬間、部屋の端末が勝手に起動した。


後頭部の文章制作端子は外してある。

接続は切れている。

それなのに、壁面の白い表示領域に、一行の文字が浮かんだ。


若者は、自分が小説の登場人物である可能性に気づいてしまった。


若者は息を止めた。


その一文は、自分が今まさに考えていたことだった。


いや、違う。


考えるより早かった。


彼が疑問として形にする前に、すでに文章として表示されていた。


若者は後ずさった。


「誰だ」


返事はなかった。


ただ、次の一行が表示された。


彼は、誰かに向かって問いかけた。


若者の背筋が冷たくなった。


「やめろ」


彼は、やめろと言った。


「書くな」


彼は、書くなと言った。


若者は叫びそうになった。


自分の言葉が、言った瞬間に文章になる。

いや、言う前から文章になっている。


それは記録ではなかった。

予測でもなかった。


まるで、彼の行動そのものが、誰かの文章に従って発生しているようだった。


若者は端末の電源を落とそうとした。


その前に、また一行が出た。


彼は端末の電源を落とそうとした。


若者は手を止めた。


自分が動けば、文章になる。

自分が止まれば、その停止さえ文章になる。


では、自分とは何なのか。


書いている者なのか。

書かれている者なのか。


彼は膝から崩れ落ちた。


頭の奥で、あの声がした。


開けるなと言っただろう。


若者は震えながら答えた。


「お前は誰だ」


声はすぐには答えなかった。


代わりに、部屋の空気が少しだけ冷たくなった。


そして、彼の意識の奥に、あの白い部屋が再び浮かび上がった。


記憶保存冷凍庫。


床に散らばる数百の結晶。

赤、青、金、黒。

そして奥にある、真白な結晶。


若者は悟った。


声は、その白い結晶から来ている。


あれは、まだ解凍されていない。

だが、確かにそこにいる。


三百年前の小説家そのものに近い何か。


あるいは、もっと別のもの。


若者は白い結晶に向かって言った。


「僕は、あなたの転生なのか」


沈黙。


「それとも、あなたが書いた物語の登場人物なのか」


白い結晶が、かすかに光った。


その瞬間、若者の部屋の端末に、長い文章が表示された。


どちらでもある。


若者は目を見開いた。


文字は続いた。


お前は、私が未来へ送った創作種を受け取った者だ。

だが同時に、お前自身もまた、誰かが書いている物語の中にいる。


若者は喉を鳴らした。


「誰かって、誰だ」


それを知ろうとすると、さらに上の階層が開く。


「階層……」


物語には、作者がいる。

だが作者にもまた、作者がいる。

書く者は、いつでも同時に書かれる者でもある。


若者は理解したくなかった。


だが、理解してしまった。


三百年前の小説家は、物語を書いていた。

しかしその小説家自身も、どこかの誰かに書かれていたのかもしれない。


三百年後の若者は、凍結された物語を吐き出している。

しかし若者自身の苦悩もまた、誰かの物語として読まれているのかもしれない。


では、その読者はどこにいる。


この世界の外か。

さらに外の世界か。

それとも、今この瞬間、自分を読んでいる誰かなのか。


若者は窓の外を見た。


未来都市は、静かに光っていた。


だが、もう以前のようには見えなかった。


空中交通ラインも、光帯広告も、端子を持つ人々も、医療ポッドも、すべてが少し作り物めいて見えた。


いや、作り物なのではない。


物語なのだ。


作り物と物語は違う。

作り物は嘘かもしれない。

だが物語は、嘘であっても人を動かす。


若者は、初めて少しだけ笑った。


「じゃあ、僕はどうすればいい」


端末には、しばらく何も表示されなかった。


やがて、一行だけ浮かんだ。


続きを書け。


若者は首を振った。


「それは、あなたの物語だ」


次の一行。


違う。解凍された物語は、もうお前の時間の中にある。


若者は黙った。


白い結晶の声が、静かに続いた。


私は、書き切れなかった。

だから凍らせた。

お前は、それを開けた。

ならば、お前はただの読者ではいられない。


若者は後頭部に手を触れた。


文章制作端子が、微かに熱を持っている。


接続すれば、また物語が流れ出す。

接続しなければ、頭の中で物語が膨らみ続ける。


どちらにしても逃げられない。


だが、今は少しだけ違っていた。


これまでは、自分が物語に使われていると思っていた。


しかし、もし自分も書かれている存在なのだとしたら。


自分が完全に自由でないとしても。

自分の行動が文章になってしまうとしても。


それでも、自分の一文を選ぶことはできるのではないか。


若者は端子を接続した。


今度は、恐怖だけではなかった。


彼は画面を見つめた。


文章が流れ始める。


だが、彼はすぐにはそれを受け入れなかった。

流れてくる言葉の中から、一つを選び、別の一つを削った。


初めて、彼は抵抗した。


初めて、彼は編集した。


物語は彼を使って書こうとした。

彼は、その物語を書き換えようとした。


その瞬間、白い結晶が大きく光った。


若者の前に、第一章の小説家の姿が浮かんだ。


疲れた顔をしていた。

目の奥には、数百の未完の物語が揺れていた。


小説家は若者を見て、少しだけ困ったように笑った。


「やっと、編集者が来たか」


若者は答えた。


「僕は、あなたじゃない」


小説家はうなずいた。


「それでいい。私であってはならない」


「では、僕は何ですか」


小説家は静かに言った。


「私が書き切れなかった物語を、私ではない者として書き直す者だ」


若者は画面を見た。


そこには、また一行が表示されていた。


若者は、自分が書かれる者であると知ったうえで、書く者になることを選んだ。


今度は、その一文を見ても恐怖はなかった。


若者は指先を動かした。

いや、三百年後の世界では指先で書く必要はない。


彼は思考で、その一文を少しだけ変えた。


若者は、自分が書かれる者であると知ったうえで、それでも自分の一文を選ぶことにした。


その瞬間、記憶保存冷凍庫の中で、数百の結晶が静かに光り始めた。


赤い結晶。

青い結晶。

金色の結晶。

黒い結晶。


それぞれの時間が、完全に暴走するのではなく、ゆっくりと順番を待ち始めた。


若者は深く息を吐いた。


物語はまだ終わらない。


むしろ、ここから始まる。


しかし、彼はもう分かっていた。


物語に書かれることは、敗北ではない。

書かれていると気づいたうえで、次の一文を選ぶこと。


それが、自由なのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ