表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/6

第二章 三百年後の若者

三百年後。人類は脳と機械を直接つなぎ、物語さえ端子から生み出す時代を迎えていた。だが、一人の若者が開けてしまった「記憶保存冷凍庫」には、三百年前の小説家が書き切れなかった物語たちが、時を止めたまま眠っていた――。

三百年後。


世界は、かつて小説家が生きていた時代とはまるで違う姿になっていた。


人々は紙をほとんど使わなくなっていた。

ペンを持つ者もいなかった。

机に向かい、指で文字を打つ者もいなかった。

音声で文章を作ることさえ、古い技術として扱われていた。


その時代、人間は後頭部に端子を持っていた。


計算端子。

設計端子。

映像構成端子。

感情記録端子。

音楽生成端子。

記憶整理端子。


そして、文章制作端子。


人々は、自分の仕事や適性に応じた端子を持ち、脳と機械を直接つないで情報を出力していた。

考えたことは、そのまま記録される。

構想したものは、そのまま映像になる。

文章もまた、脳内で組み上げた言葉を端子から直接流し出す時代になっていた。


その未来に、ひとりの若者がいた。


彼もまた、後頭部に文章制作端子を持っていた。


けれど彼は、自分に特別な才能があるとは思っていなかった。

学校で習った通りに端子を使い、必要な報告文を書き、簡単な記録を残す。

文章制作端子は、彼にとってただの道具だった。


特別なものではない。

世界中にある、ごく普通の技術の一つにすぎなかった。


少なくとも、その日までは。


その日、若者は交通事故に遭った。


空中交通ラインの制御異常だったとも言われた。

道路管理システムの微細な遅延だったとも言われた。

あるいは、彼自身が一瞬だけ意識を逸らしただけだったのかもしれない。


原因は、はっきりしなかった。


ただ一つ確かなのは、彼が頭を強く打ったということだった。


後頭部。

文章制作端子のすぐ近く。


彼は救急搬送された。

医療用ポッドの中で生命維持処置を受けた。

医師たちは、彼の脳波の乱れを見つめながら、低い声で話し合った。


意識は戻らない。

端子周辺に損傷がある。

脳内の記憶領域にも、異常な反応がある。


彼は一週間、瀕死の状態をさまよった。


外の世界では、時間が普通に進んでいた。

朝が来て、夜が来て、医療ポッドの表示が淡々と変化していった。


だが、彼の内側では、別の時間が始まっていた。


彼は夢を見ていた。


最初は、ただの暗闇だった。


深い、底のない暗闇。

音もなく、匂いもなく、身体の感覚もない。

自分が目を開けているのか閉じているのかさえ分からなかった。


その暗闇の中で、遠くに小さな光が見えた。


若者は、その光へ向かって歩いた。


歩いている感覚はなかった。

けれど、光は少しずつ近づいてきた。


やがて彼は、白い部屋にたどり着いた。


そこには、ひとつの大きな冷凍庫があった。


見たことのない形だった。

未来の機械のようであり、古い家具のようでもあった。

扉は白く、表面には霜が張りついていた。


冷凍庫の前に立った瞬間、若者の胸の奥で、何かが強く鳴った。


開けてはいけない。


言葉ではなかった。

だが、確かにそう感じた。


開けてはいけない。

これは、自分のものではない。

いや、自分のものかもしれない。

だからこそ、開けてはいけない。


若者は扉に手を伸ばした。


指先が触れた瞬間、冷たさが全身を走った。


ただの冷たさではなかった。

時間の冷たさだった。


何百年も閉じ込められていたものに触れたような、深く、重い冷気。


若者は息をのんだ。


それでも、手を離すことができなかった。


なぜなら、扉の向こうから香りがしたからだ。


甘い香りだった。


懐かしい。

知らないはずなのに、懐かしい。


雨上がりの道路。

古い木造の家。

猫の足音。

夏祭りの灯り。

手紙の紙の匂い。

誰かの笑い声。

誰かに渡せなかった物語。


それらが、香りとして扉の隙間から漏れていた。


若者は、扉を開けた。


その瞬間、冷凍庫の中から、様々な色の凍りついた欠片が、ばらばらと落ちてきた。


赤。

青。

金。

銀。

桜色。

翡翠色。

夜の底のような黒。

そして、奥の方に、真白な光。


欠片は床に散らばった。


とんでもない数だった。


百、二百。

そんな数では済まない。


若者は呆然とした。


「これは……食べ物なのか?」


そう思ってしまったのは、欠片があまりに美しかったからだ。

宝石のようでもあり、氷砂糖のようでもあり、どこか菓子のようにも見えた。


彼は、淡い琥珀色の欠片を一つ拾い上げた。


指先に触れたそれは、凍っているはずなのに、不思議な温度を持っていた。

冷たい。

けれど、どこか温かい。


若者はそれを鼻に近づけた。


甘い香りがした。


その瞬間、心の奥で警告音が鳴った。


食べてはいけない。


理由は分からない。

けれど、確かにそう響いた。


しかし、香りはあまりに芳しかった。


どんな味がするのだろう。


若者は、ほとんど無意識に、その欠片を口にくわえてしまった。


次の瞬間、彼は慌ててそれを取り出した。


危ないところだった。

もう少しで飲み込むところだった。


飲み込んでいたら、どうなっていたのだろう。


そう思った瞬間、彼は足元の欠片たちの異変に気づいた。


床に散らばった結晶たちが、外気に触れて、ゆっくりと湯気を立て始めていた。


しかし、それはただの湯気ではなかった。


欠片は溶けているのではない。


三百年前に記憶保存冷凍庫へ入れられ、凍結された結晶たちの時間が、再び動き出したのだ。


それぞれの欠片には、それぞれの時間があった。


書かれなかった物語の時間。

語られなかった人物の時間。

閉じ込められた感情の時間。

結末へ向かうことを許されなかった一文の時間。


記憶保存冷凍庫の中では、それらは絶対零度に近い静止の中で眠っていた。

だが、扉が開かれたことで、止まっていた内部時間が再起動した。


赤い欠片は、赤い時間を。

青い欠片は、青い時間を。

金色の欠片は、金色の時間を。

黒い欠片は、黒い時間を。


それぞれが、湯気となって立ちのぼり始めた。


若者は息を止めようとした。


しかし、遅かった。


ひと筋の湯気が、彼の鼻先をかすめた。


甘い香り。

懐かしい香り。

知らないはずなのに、胸の奥が痛くなる香り。


若者は、それを吸い込んでしまった。


その瞬間、彼の中で何かが割れた。


音はしなかった。

けれど確かに、どこかの蓋が外れた。


目の前に、知らない風景が流れ込んできた。


山深い集落。

雨に濡れた道路。

傘を差して歩く少女。

猫の足音。

古い手紙。

月の銀の糸。

夏祭りの太鼓。

水田に映る空。

誰かに渡せなかった物語。

書きかけの題名。

終わらなかった一文。


それらは、映像であり、匂いであり、感情であり、言葉だった。


若者は膝をついた。


「なんだ……これは」


頭の奥で、誰かの声がした。


開けるなと言っただろう。


若者は顔を上げた。


そこには誰もいない。


だが、冷凍庫の奥から、また一つ、欠片が落ちた。


からん。


それは、まだ解凍されていない真白な欠片だった。


その白い欠片だけは、湯気を立てていなかった。

ただ、静かに光っていた。


若者は、それを見つめた。


触れてはいけない。


今度ははっきり分かった。


あれは、他の欠片とは違う。


物語の一部ではない。

物語を生み出した者に近いものだ。


若者は後ずさろうとした。


その瞬間、夢が崩れた。


白い部屋も、冷凍庫も、散らばった欠片も、すべてが遠ざかっていく。

赤、青、金、黒の湯気だけが、細い糸のように彼の中へ残った。


次に目を開けたとき、彼は医療ポッドの中にいた。


現実の白い天井。

生命維持装置の音。

脳波計の表示。

後頭部の鈍い痛み。


一週間ぶりに、彼は目を覚ました。


医師が声を上げた。

家族らしき者が泣いた。

看護システムが回復を告げた。


若者は、しばらく何も言えなかった。


ただ、ひとつだけ分かっていた。


夢ではなかった。


後頭部の文章制作端子の奥で、何かが静かに熱を持っていた。


退院後、若者は端子を接続した。


ただの記録を書くつもりだった。

事故の記憶を整理するための、短い文章。


だが、端子を接続した瞬間、言葉が流れ出した。


彼が考えるより先に、文章が立ち上がった。

彼が選ぶより先に、人物が歩き始めた。

彼が決めるより先に、風景が描かれた。


彼は驚いて端子を外した。


しかし、もう遅かった。


物語は、彼の内側で目を覚ましていた。


朝も。

昼も。

夜も。


彼は書き続けるようになった。


書こうと思って書いているのではない。

書かずにはいられなかった。


三百年前に凍結された結晶たちの時間が、彼の中で再び動き出していた。


そして三百年後の世界には、ペンもキーボードも音声入力も必要なかった。


彼には文章制作端子があった。


三百年前の創作種と、三百年後の脳直結端子。


その二つがつながったとき、物語はもう、止まらなかった。


若者は最初、それを才能だと思った。


けれど、やがて気づき始める。


自分が物語を書いているのではない。


物語が、自分を出口として使っているのだと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ