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第一章 種が分裂する小説家

書けなかった物語は、消えたのではない。

ただ、未来に預けられただけだった。

ある時代に、ひとりの小説家がいた。


彼は、普通の小説家ではなかった。

物語を書く才能に恵まれていた。いや、恵まれていたという言葉では足りなかった。彼の中では、物語が次々と生まれすぎた。


一つの話を書こうとすると、その途中で別の話の種が飛び出してくる。

その種を書き留めようとすると、さらに別の種が割れて出てくる。


創作は、彼にとって一本の木を育てることではなかった。

種をまき、芽が出て、幹が伸び、枝葉が広がり、やがて一つの作品になる。普通ならそういう流れになるはずだった。


しかし彼の場合は違った。


種が発芽する前に、種そのものが分裂する。


エッセイを書いていると、私記が生まれる。

私記を書いていると、ファンタジーが生まれる。

ファンタジーを書いていると、哲学が生まれる。

哲学を書いていると、また別の小説の冒頭が現れる。


彼は書いた。

朝も、昼も、夜も書いた。


けれど、書けば書くほど、終わりに近づくどころか、未完の種が増えていった。


一つの作品を完成させる。

すると、その背後に五つの未完が生まれる。


五つの種を整理しようとする。

すると、それぞれがさらに分裂する。


彼は次第に、自分の才能を祝福とは思えなくなっていった。


物語が生まれることは喜びだった。

だが、止まらないことは苦しみだった。


眠ろうとしても、頭の中では次の原稿を持った自分が待っている。

休もうとしても、脳内のどこかで登場人物が話し始める。

書かずにおこうとすれば、その種は消えるのではなく、奥で冷たく光り続ける。


彼は、自分が小説を書いているのか、それとも小説に書かされているのか、分からなくなっていった。


やがて彼は悟る。


この人生では、すべてを書き切ることはできない。


どれほど時間があっても足りない。

どれほど体力があっても足りない。

どれほど紙があっても、どれほどインクがあっても、どれほど孤独な夜があっても足りない。


彼の中には、書かれるのを待っている物語が多すぎた。


そこで彼は、一つの装置を作った。


記憶保存冷凍庫。


それは、単なる記憶の保管庫ではなかった。

絶対零度に近い状態で、物語の種を凍結する装置だった。


そこでは、時間が極限まで止められる。

感情も、風景も、登場人物の声も、未完の一文も、すべて結晶化される。


彼は、書き切れなかった創作の種を、一つずつ冷凍庫へ入れていった。


赤い結晶。

青い結晶。

金色の結晶。

銀色の結晶。

桜色の結晶。

翡翠色の結晶。

夜の底のような黒い結晶。

そして、真白な結晶。


それらは美しかった。

しかし同時に、危険でもあった。


赤い結晶には、恋と怒りが閉じ込められていた。

青い結晶には、孤独と雨の匂いが眠っていた。

金色の結晶には、祭りの灯りと太陽の記憶が入っていた。

黒い結晶には、彼自身も見たくない痛みが凍っていた。

白い結晶だけは、彼も中身を確かめなかった。


数は百や二百では済まなかった。

数百個の結晶が、記憶保存冷凍庫の中に並んだ。


彼は冷凍庫の扉を閉めた。


これで、少なくとも消えはしない。

書けなかった物語は、死なない。

時間の届かない場所で、未来を待つ。


そして彼は、もう一つの装置の前に立った。


転生装置。


彼は、自分がどの時代に転生するのか知らなかった。

どこの国かも、どんな身体かも、どんな人生かも分からなかった。


それでも彼は、未来の自分に託すことにした。


自分では書き切れなかった物語を。

分裂し続けた創作の種を。

自分の中に生まれてしまった、数百の未完を。


彼は記憶保存冷凍庫のロックを確認した。

内部温度は絶対零度に近い。

結晶たちの時間は止まっている。


そして転生装置に入った。


最後に彼は、こうつぶやいた。


「いつか、誰かが開けるだろう。

それが私であるなら、なおいい」


彼はスイッチを入れた。


装置が低く唸り始める。

視界が白く溶けていく。


その瞬間、記憶保存冷凍庫の奥で、真白な結晶がかすかに光った。

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