第4章 執筆の檻
ベストセラー作家になった。
富も名声も手に入れた。
それでも彼は、一つの疑問から逃げられなかった。
若者は、記憶の結晶から流れ出す物語を書き続けた。
赤い結晶からは、恋と怒りの物語が生まれた。
青い結晶からは、雨と孤独の物語が生まれた。
金色の結晶からは、祭りと再生の物語が生まれた。
黒い結晶からは、誰にも見せたくなかった痛みの物語が生まれた。
それらは、三百年前の小説家が書き切れなかった物語だった。
しかし、若者が文章制作端子を通して出力したとき、それらは未来の読者にとって新しい物語となった。
本は売れた。
最初の一冊は、事故から回復した若者の奇跡の作品として話題になった。
二冊目は、偶然ではないと評価された。
三冊目が出たころには、彼はもう時代を代表する作家として扱われていた。
やがて、彼の生活は豊かになった。
食べ物には困らない。
住む場所にも困らない。
必要なものはすべて手に入る。
彼の部屋は広くなり、端子設備は最新式になり、記録媒体も、編集補助機も、医療管理システムも最高級のものが用意された。
だが、自由はなかった。
若者は、執筆の生活に沈められていった。
朝、目を覚ます。
端子を接続する。
結晶の物語を出力する。
食事をする。
また端子を接続する。
夜になっても、物語は止まらない。
世間は彼を天才と呼んだ。
出版社は彼を時代の奇跡と呼んだ。
読者は次の作品を待ち続けた。
しかし若者にとって、それは祝福ではなく、静かな監禁だった。
彼は貧しさからは解放された。
だが、物語からは解放されなかった。
彼は次第に、一つの問いに取り憑かれていく。
自分は本当に作家なのか。
それとも、三百年前の小説家が残した結晶を出力しているだけの端末なのか。
自分の人生は、自分のものなのか。
それとも、誰かが書いた物語の続きなのか。
そして、さらに深い疑問が生まれる。
この世界は、本当に現実なのか。
事故。
昏睡。
記憶保存冷凍庫。
結晶。
文章制作端子。
ベストセラー。
名声。
孤独。
自由の喪失。
あまりにも、物語として整いすぎている。
若者は、自分が書いた本を読み返すようになった。
そこには、彼自身の人生とよく似た構造が何度も現れていた。
誰かが何かを封印する。
未来の誰かがそれを開ける。
力を得る。
成功する。
だが、その力によって自由を失う。
そして最後に、自分の世界が本物なのか疑い始める。
それは、彼が書いた物語だった。
だが同時に、彼自身の物語でもあった。
若者は気づく。
自分は物語を書いているのではない。
物語の構造を通して、この世界の正体を探しているのだ。
彼にとって執筆は、職業ではなくなった。
名声のためでも、金のためでも、読者のためだけでもなくなった。
それは、探査だった。
この世界は現実なのか。
誰かの小説なのか。
それとも、現実と物語の区別そのものが、人間の認識が作り出した仮の境界なのか。
若者は、書き続けながら調べていく。
記憶保存冷凍庫とは何か。
三百年前の小説家は、なぜ転生装置を作れたのか。
文章制作端子は、本当に人間が発明した技術なのか。
自分の世界にだけ、なぜ物語的な構造が多すぎるのか。
そして、読者とは誰なのか。
この世界の中の読者なのか。
それとも、この世界の外側にいる誰かなのか。
若者は豊かになった。
しかし自由ではなかった。
彼は書くことで生きられるようになった。
しかし、書くことから逃げられなくなった。
記憶の結晶は、まだ数百個残っている。
そのすべてを書き終えたとき、自分は自由になるのか。
それとも、そのとき初めて、世界の外側にいる作者の存在に触れるのか。
若者は、次の結晶を手に取った。
それは、真白な結晶だった。
まだ一度も、湯気を立てたことのない結晶。
若者はそれを見つめながら、静かに思った。
この結晶を書いたとき、たぶん自分は知ることになる。
この世界が現実なのか。
それとも、誰かが読んでいる小説の一行なのかを。




