第八章 赤鉄スライム
旅先:ドバイレン帝国、鉱山地帯・鍛冶城塞都市リグバルダン。王国歴二五八年。
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リグバルダンへの旅程は十六日だった。南東に向かうにつれて地形が変わった。平野が丘陵になり、丘陵が山地になり、山地の中腹から採掘の音が聞こえてくるようだ。ドワーフたちが岩を砕く規則的な打撃音のイメージ。近づくにつれてそれは事実として響き、重なり、複雑になり、やがて一つの巨大な通奏低音として山全体から響いてくる。
リグバルダンが見えてくると、そこでは城塞と山が一体になっていた。山の斜面と頂部に石造りの建造物が張りつき、どこまでが岩盤でどこからが人工物か判別がつかない。城壁は山の稜線に沿って走り、無数の煙突から黒と赤の煙が立ち上っている。街全体が鍛冶場であるかのように、熱が遠くからでも感じられた。
空気に鉄の匂いが混じる。それは近づくにつれて濃くなり、街に入る頃には鼻の奥に鉄の味がしていた。
ドワーフの帝国の心臓部、リグバルダン。この年の旅の動機はごく個人的なものであったため割愛するが、己の中の偏屈さと頑強さの両面に向き合いたいという無意識が働いたのかもしれないと今は思っている。
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⋄最初の印象
ドワーフは小さいと人間はよく言う。しかしリグバルダンの街を歩いてみると、その印象が鮮やかに修正される。背丈は確かに小さいが、肉体の密度、体幅が違う。ドワーフの体は人間より横に広く、腕が太く、手が大きく、それでいて指先の動きは驚くほど精密だ。小さいという語から連想される繊細さや華奢さとは正反対の、凝縮された力強さがある。
街の構造も独特であった。まず天井が低い。成人ドワーフに合わせた建物の内部は、私の身長では頭が触れそうになる場所が多く、最初の宿では実際に二度ほど強かに梁へ頭をぶつけた。廊下は幅広く作られており、大きな荷物を持ったドワーフが二人すれ違える設計になっている。出入り口もゆったりとして、しかし低い。一言で言えば、横方向に余裕を持たせた空間設計だった。
私を受け入れてくれたのは、帝国鉱業組合に籍を置く研究者のジャグディという人物だった。ドワーフにしては珍しく外部との交流に積極的な人間で、王立研究院との窓口を長年務めている。私も書面でのやりとりはしたことがあるが、顔を合わせたのはこの時が初めてだった。
ジャグディは私の顔を見るなり言った。
「頭に気をつけろ。一日に三回以上ぶつけると、慣れちまう」
「すでに二回ぶつけました。慣れるとは思えないのですが……」
「あと一回で痛みは気にならなくなる」
後で分かったが、これがドワーフ式のユーモアらしかった。
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⋄赤鉄スライムへの導入
ジャグディに赤鉄スライムの話を持ち出すと、彼の反応は意外なものだった。迷惑そうではなく、むしろ安堵に近い表情だ。
「実はあんたにきてもらった理由の一つがそれだ、ファラマン先生」
「どういうことですか。何か問題でも?」
「帝国内で、赤鉄スライムの扱いについて議論が起きてる。古い世代の名工たちは『工房に欠かせない』と言う。帝国官僚たちは『衛生基準を定めるために鍛冶場への生物侵入は管理すべきだ』と言っている。儂らは作るのは得意だが、変わるのは苦手だ。外部研究者の意見を一度聞かせてほしかった」
「光栄ですが、私はスライム研究者であって産業政策の専門家ではありません」
「知っている。あんたが観察したものを正直に述べてくれればいい。あの頑固岩どもを穿たねば話が進まん」
どうにもスライム以外の揉め事に巻き込まれそうで慄きつつ、やはり赤鉄スライムへの誘惑は断ちがたく、私はジャグディの話を引き受けた。
その翌朝からジャグディの案内で複数の鍛冶工房を訪問した。
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⋄リグバルダンの鍛冶場
鍛冶場の入口からは巨大な熱気が迫ってくるようだ。炉から放出される熱は指向性を持ち、顔の正面を狙いすまして当たってくる。同時に頭を割りそうな轟音がある。金属を叩く音、炉の燃え盛る音、風箱の規則的な呼吸音、鉄と水が接触する瞬間の激しい蒸気音。この組み合わさった感覚の中に、リグバルダンの鍛冶場は存在している。
私が最初に訪れたのは帝国指定の大工房だった。軍用装備を大量生産する施設で、広い工房に二十以上の炉が並び、百人を超えるドワーフが働いている。ドバイレン帝国の急務は、いつの時代も地下空洞のブラストードやシャドウストーカー、マグマサーペントとの戦いだ。戦争と違って終わりのない野生魔物との境界争いのため、工房の規模は大きく効率が優先される。
ジャグディが事前に話を通してくれており、工房長が案内してくれた。
「こちらに赤鉄スライムはいますか」
「いる場所もある。組合が管理している」
「管理? その……飼育、といったことでしょうか」
「炉の周辺に現れた場合は指定の区画に誘導する。そこ以外では除去する」
除去という言葉を彼は抵抗なく使った。この工房での赤鉄スライムは、「管理される存在」なのだ。
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⋄名工の工房
ジャグディが私に見せたかった場所はそこではなかった。「大工房はあんたにいは観光地だ」と彼は言い、二日目の朝に別の場所へ連れて行ってくれた。
街の奥まった区画、大通りから外れた細い路地の先にどこよりも古びた建物がある。外壁は煤で黒ずんでおり、看板もない。扉は厚い鉄製、表面にびっしりと文様が刻まれていた。熱はここからも出ていたが、大工房の激しく主張する熱さとは違う。静かで持続的で、地下の深いところからくる熱だ。
「ザズダの工房だ。帝国でも五指に入る名工の一人。ただし偏屈で有名だ。少しでも気に入らないことがあれば即座に叩き出される。やつの前で余計なことを言うな。周囲のものに触るな。観察記録を取りたい場合は、工房を出てからにしろ」
「分かりました」
「それと、ザズダに『スライムを研究しています』とは言うな」
扉を叩くと、返事はなかったが、ジャグディに「開いてるから入れ」と促された。工房には炉が一つ、作業台が一つ、道具棚が壁一面、散らかってはいるがシンプルだ。天井の高さは私の頭の上に少し余裕がある程度で、ドワーフ向けの設計にしては珍しく高い。
炉の前に、ザズダと思われるドワーフがいた。エルフとは違った意味で年齢が分からない。赤茶の膝まで届く顎鬚は精巧に編み込まれ、髭に、髪に、指先に、工房の生活の痕跡が染みている。煤と油と鉄の匂い。顔の皺は深く、手は巨大で、指の一本一本に鍛冶師の時間が刻まれていた。
「あの頭でっかちから聞いている。外の学者だな」
「はい。アーロン・ファラマンと申します」
「何を調べている」
私はジャグディの言葉を思い出して、一瞬考えた。スライムという言葉が問題なのか、それともかつての紺碧樹海のように分類しようとすることが問題なのか。
「その、種族文化的差異がもたらす鍛冶技術の差異について。ドバイレンでは粘性生物を利用していると聞きました」
ザズダはしばらく無表情に私を見てから、炉のほうに顎をしゃくった。
「いる。見るなら勝手に見ろ。触るな。何か分からんことがあれば聞け」
これがザズダとの挨拶だった。過剰に不愛想ではあるが、拒絶反応のなかったことにひとまず安堵する。
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⋄赤鉄スライムとの対面
炉の正面は鉄板で囲われており、作業時以外は前面が閉じられているようだ。炉の背面と側面は石造りで、その石と炉の鉄枠の間、小さな隙間が各所にある。そこから赤みがかった粘体が滲み出ていた。
赤鉄スライム、暫定学名Ferritheca ignivora(火食鉄床粘体)との最初の対面である。
色は名前の通りの赤みがかった鉄色で、熱されて溶け出す寸前の鉄かあるいはマグマのような色調だ。表面は滑らかな光沢があり、思わず触ってみたくなるが、もちろん触れれば大怪我をする。鉄の光沢とは違って生物特有の微細な動きがある。大きさは握り拳ほど。炉の石組みの一部に貼りついて、熱に向かって身を乗り出すような姿勢でいた。
彼らが熱を好むということはすぐに分かった。炉の作動中は近い位置にいて、炉が冷めると素直に後退する。この繰り返しが観察から読み取れた。
スライムの表面に何かが付着していた。よく見ると細かい粒状のものが無数に体表に埋まっている。そのいくつかは光を反射しており、夕焼けの空に星々が瞬くような幻想的な姿だった。
「ジャグディさん、あれは何が体表にあるんですか」
「吸着した不純物だ。鉄だの銅だの、微細な金属粒子だ」
実際のところは作業をしていない時にザズダに聞け、と彼は言った。
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⋄金属不純物の吸着
昼の休憩時間、ザズダが短い食事を取りながら私の質問に答えてくれる。言葉数は少なかったが、内容は密度が高い。
赤鉄スライムは溶融した金属に含まれる不純物を体内に取り込む性質を持つ。鉄を溶かして鋼を作る工程では、炭素、硫黄、リン、その他の不要な元素が混入している。これらを取り除くことが精錬の核心作業の一つだが、完全な除去は通常の方法では難しい。しかし赤鉄スライムがいる工房では違う。
「あれは炉周囲の空気中に漂う金属微粒子を吸収する。鉄は蒸発はしないが粒子が飛ぶ。その中の不純物をあれが取り込む。そうすると炉の周囲の空気が清浄になる」
「空気の清浄さで鉄の質が変わるんですか」
「職人はそれを知っている」
科学的な説明ではなく、長年の経験からくる職人の確信である。
「あれがいる工房とそうでない工房では、同じ材料を使っても同じものができない。なぜかは知らん」
私は後でいくつかの仮説を考えた。
空気中の金属微粒子の除去が炉の燃焼効率を上げる。あるいは金属の冷却過程で微粒子の付着が減り、表面の均一性が上がる。あるいはもっと直接的に、スライムが分泌する何かが金属の結晶構造に影響を与えている。どれが正解かは現時点では分からないし、複合的な可能性もある。
空気の清浄化による職人の精神衛生、作業効率向上という側面すら考え得る。いずれにせよザズダの言葉の重みは、仮説の精度より先にあった。
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⋄スライムの仕事
別日。ザズダが作業を始めると赤鉄スライムの動きが変わった。
それまで炉の周囲で静かにしていたものが、ザズダの動きに合わせるように位置を変え始める。ザズダが炉の右側で作業すればスライムも右の石組みに移動する。左に移れば左にくる。距離は常に一定で、近すぎず遠すぎず、ザズダの作業範囲の縁にいる。
作業中に火花が散るとスライムは素早く身を縮め、火花が通り過ぎると元の大きさに戻る。これは回避行動だ。しかし完全には逃げない。その場を離れず、距離を保ちながら留まっている。
そして作業が終わり、ザズダが加工した金属を台に置くと、スライムたちはそれに向かってゆっくりと移動した。金属に接触し、数秒そのままでいて、また炉の周囲に戻る。
「あれは何をしていたんですか?」
ザズダは手を拭きながら、足許にあった邪魔な箱を蹴り飛ばした。
「出来を確認しているんだ。あれが金属に触れて、すぐ離れれば満足している。長く触れているものには不純物が残っている。そういう時は工程をやり直す」
私は言葉をなくした。赤鉄スライムが――鍛冶工房の品質検査を担当している。
「ドバイレンでは常識なのですか? それともリグバルダン、あるいはこの工房だけ?」
「儂は親父に教わった。親父の親父は気づいていなかったかもしれない。ただあれを工房に置いておくべきだと、ドワーフは昔から知っている」
そう言うとザズダは作業台の片づけに戻った。
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⋄工房見学の日々
ジャグディの手配でリグバルダンの複数の工房を見学する。名工と呼ばれる職人の工房には例外なく赤鉄スライムがいた。規模は様々で、小さな工房では一体、大きなところでは複数が炉の周辺に棲みついていた。
そして名工でない、あるいは量産を必要とする工房にはスライムがいないか、あるいはいても「管理」されていることが分かった。
この対比は偶然ではないと私は考えた。赤鉄スライムは放っておけばどの鍛冶場にも現れる可能性があるが、それを追い出さず、共に働き、その能力を読み取った職人だけが名工になる、という逆の因果関係もあるのではないか。スライムが名工を作るのか、名工がスライムを認めるのか。
この疑問をジャグディにぶつけると、彼は素っ気なく(注:ドワーフ基準で考えればジャグディは非常に親切丁寧である)答えた。
「両方だろう。あれは炉の質に敏感だ。技術の低い炉では不純物が多すぎて、あれも住みにくい。ある程度の技術水準に達した工房にしか長期定着しない。だから最初に名工がいて、次にあれがくる。しかしきた後は、あれがいることでまた技術が上がる。循環だ」
「相互に高め合っているのですね」
「そういうことだ。片方だけでは成立しない」
さらに言えば一つ一つの純度よりも量産が要される大工房などでは、赤鉄スライムはさほど重要視されないのであった。
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⋄ザズダの話
ある夜、ザズダが珍しく自分から話しかけてきた。工房の火を落とした後、ザズダは赤鉄スライムが炉の縁で静かにしているのを見ながら酒を飲んでいた。
「お前の本に、あれのことを書くのか」
「許可をいただければ」
「勝手にすればいい。何と書く?」
「観察したことを書きます。金属不純物の吸着、品質検査としての機能、工房との関係」
ザズダはしばらく黙って酒を見つめる。髭の中に埋没した表情は読み難く、ただこの数日で不機嫌ではないことくらいは分かるようになっていた。
「あれを『スライム』と書くのか」
「暫定的な学名をつけて書くつもりです。でも……そうですね、一般の読者には、スライムの一種として紹介することになると思います」
「儂はあれをそう呼ばない。あいつらは弟子だ。やわらかい弟子だ」
「弟子、ですか。なるほど、確かにそういう働きをしていますね」
「儂が仕事をする時、あれは見ている。学ぼうとしているかは知らん。しかし見て、出来が悪ければ知らせてくる」
「あなたがあれに何かを教えているわけではないのですか」
「勝手に教わっているかもしれん。ドワーフの弟子と同じように、見て覚える。あれが儂の工房以外では生きにくいのは、儂の仕方に合わせてしまっているからか」
赤鉄スライムが工房ごとに異なる行動を取るかどうか、一軒だけの観察では分からない。しかしザズダの言葉は、スライムが環境に適応するだけでなく、特定の個人の技術様式に適応している可能性を示唆する。それが事実なら赤鉄スライムとザズダの関係は汎用的な共生ではなく、固有の関係だ。
「名前をつけないんですか?」
「いらない」
「なぜですか」
「名前をつけると見方が変わる。あれをあれとして見るためには、全部で『やわらかい弟子』だ」
私はこの興味深いことを覚え帰り、後にリグバルダンを出てから記録帳に書きつけた。ザズダは以前訪れた紺碧樹海のイロナと逆の理由から、同じ結論に達していたのである。イロナは「名前は支配だ」と言い、ザズダは「名前をつけると見方が変わる」と言う。
到達の道筋や場所は違うが、エルフとドワーフはどちらも「名をつけないことで対象を正確に見る」という選択をしていた。
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⋄家畜か、職人仲間か、設備か
滞在中、ジャグディの口利きで帝国の鉱業組合本部の会議を傍聴した。出席者は組合員三人、工房経営者二人、帝国官僚二人だ。議題は「鍛冶工房における赤鉄スライムの扱いについて」。
会議の冒頭、帝国官僚の一人が現状の問題点を整理した。帝国の産業衛生規則では、食品加工業と医療施設における生物の侵入を禁止しているが、鍛冶業への明確な規定は今のところない。この空白を埋めるための指針を作る必要があり、選択肢は三つだと彼は言った。
一つ目は「設備」としての分類。工房内の生物であっても、その機能が工房の稼働に有益であり管理可能な場合は生物型設備として存在を許可する。ただし定期的な点検と記録義務を課す。
二つ目は「家畜」としての分類。農業における家畜と同様に有用生物として管理下に置く。移動、繁殖、処分についての規制を設け、帝国が認可した個体のみ使用を許可する。
三つ目は「侵入生物」としての分類。すべての生物侵入を禁止し、現在いるものを除去する。代替技術の開発を支援するものである。
工房経営者の一人が即座に反応し、すぐに他の者たちも続いた。
「三つ目は論外だ。除去した場合の生産品質の低下は計り知れん」
「一つ目か二つ目かという問題だが、設備という分類には違和感がある。あれは交換や修理ができるものじゃない」
組合員や帝国官僚たちも渋い顔をしている。
「家畜というのも違うぞ。弟子らは飼っているわけじゃない。あれは工房に居着いているんだ」
「しかし『居着いている』は法律用語として不適格だ」
会議室に短い沈黙があり、工房経営者がさらに言う。
「職人仲間、という分類は?」
「それも法的に定義できない」
「しかし現実に最も近い記述かもしれん。既存の法に押し込めないものを押し込めたとて、嚙み合わせが悪い」
会議を聞きながら考える。外部の観察者として、どう記録するか。私はセアルラスの酵母粘体を思い出していた。共生関係にある生物。どちらが主でどちらが従かは決定できない。相互に影響を与え合いながら、両者が単独よりも高い水準の成果を出している。その状態を法で規定するのは確かに難しい。
会議はその後も続いたが、結論は出なかった。現実は往々にして既存の答えの形には収まらない。
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⋄最終日のザズダ
リグバルダンを発つ前日、もう一度ザズダの工房を訪ねたところ、彼は炉の火を落とした後片づけをしていた。工具を一本一本確認し、油を塗り、定位置に戻す。この作業を彼は毎日行っている。
炉の縁で赤鉄スライムが静かにしていた。炉が冷めるにつれて少しずつ離れ、今は石組みの温かい部分に落ち着いている。その色が、冷えた炉の周囲では少し暗く見えた。昼間の赤みより落ち着いた、くすんだ鉄色だ。
「明日、出発します」
「聞いている」
ごく淡々として別れの言葉もないことに苦笑する。帰り際に赤鉄スライムをもう一度見た。ザズダの片づけが終わると、スライムは炉のほうに戻ってきた。今日の仕事が終わったことを知っているかのように。あるいはザズダの動きが止まったことを感知しているのかもしれない。
――工房が休む時、やわらかい弟子も休憩に入るのだ。
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⋄後記
赤鉄スライム、Ferritheca ignivora(暫定学名)について観察された事実を整理する。
高温環境への耐性が著しく高く、炉の近傍で安定した活動を維持する。体表に金属微粒子を吸着する機能を持ち、特に鉄精錬の不純物に含まれる元素に対して高い親和性を示す。品質の低い金属への長時間接触と、高品質な金属への短時間接触という行動の差異が観察され、これが職人の品質管理に活用されている。
危険度は低く、通常の接触による人体への悪影響は確認されていない。ただし体内に高濃度の金属不純物が蓄積した状態での長時間接触は、皮膚への微細な刺激を生じさせる可能性があるため注意が必要だ。最もこれはスライムそのものの危険性ではない。
リグバルダンの複数工房で確認した定着状況から、本種は特定の高温環境に長期定着する傾向が強く、工房移転や環境の大きな変化には適応困難と推察される。
最後に、標題に使った「家畜か、職人仲間か、設備か」という問いに、私自身の考えを。
私はそのどれでもないと思う。強いて言えば、職人仲間が最も近いのだろう。設備は意思を持たないし、家畜は明確に従属し、管理される。しかしこの都市の工房群で見た赤鉄スライムたちは管理もされておらず、意思がないとも言い切れない何かを持っていた。
鉄が炉の中で形を変えるように、スライムの定義も一つの答えに固まることを拒んでいる。鉱業組合の会議は長く膠着することになりそうである。
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次章への案内
地下の炉床を離れ、次の旅は空へ向かう。山岳地帯に住む民族が巨大な浮遊スライムを空の乗り物として使っていることをご存知だろうか。著者は生まれて初めて空を飛んだ。そして、高山病に唸った。次章は是非、空の見える場所で読んでほしい。




