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流体なる隣人たち -諸邦スライム巡見録  作者: Ono


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第七章 樹液粘体

旅先:紺碧樹海、大陸中央部・不入の森。王国歴二五〇年。


 ***


 紺碧樹海には入口がない。この言葉は世界各地で囁かれるが、これは比喩ではなく地理的な事実だ。

 大陸中央部に広がるこの広大な森には人間のための街道が通じていないし、交易路もなければもちろん標識もない。外縁部には林道のようなものが断続的に存在するが、それらは人間が作ったものではなく、森そのものの構造として生じた獣道であり、どこへ続くかは端へ行ってみるまで分からない。

 地図を持つことに意味がない森だ、と先達の探検家たちは書いている。私も同じ感想を持った。ただし理由が少し違う。先達は「森が深すぎて測量できない」と言い、私は「森が地図という概念を必要としていない」と感じた。どちらが正しいかは、誰かが長い議論をすれば決められるかもしれないが、その議論は森の中でするより外でしたほうが快適だろう。


 私が紺碧樹海へ旅立つきっかけとなったのは、研究院に届いた一通の手紙だった。

 差出人の名前は書いていなかった。ただ「樹海の外縁、北の石門のそばで待っている。きたければこい」とだけあった。筆跡は細く、インクが濃緑に近い黒だった。研究院の同僚は「怪文書だから無視しろ」と言い、私は「これは招待状だ、行かなければ後悔する」と言って一人で出発した。二十七歳のことである。


 ***


 ⋄北の石門


 外縁の林道を四日かけて歩き、石門と呼ばれる場所を探した。地図には載っていないが、近辺の農村では知られている場所らしく、村人に聞くと「大きな岩が二つ向かい合って立っている場所のことだ」と教えてくれた。それ以上の案内はしてもらえなかった。「俺らはその先には行かない」と彼らは言い、理由は教えてもらえなかったが、こういった地方には暗黙の了解がよくあるものだ。

 じきに石門を見つけた。私が私を肩車した程度の背丈の岩柱が向かい合って立っており、それが森への入口のように見えた。岩の表面には苔と地衣類が厚く覆っており、どちらの岩にも古い文字のようなものが刻まれていたが、私には読めなかった。


 石門の前にエルフの女性が立っていた。肌が人間よりも緑がかって見えるのは、木々の葉を透かした光の加減かと思ったが、後で確認するとそうではなかった。髪は深い緑で腰まで細く伸ばしている。瞳も黒に近い濃い緑――あの手紙のインクに似た色で、縦長の瞳孔がある。年齢は分からない。エルフの年齢を外見から推測するのは、私には不可能だ。

 森というものが人に近い形をとったらこうなるであろう、という姿だった。

「遅かったな」

「すみません、四日かかりました。手紙を送ってくれたのはあなたですか?」

「そうだ」

「名前を教えてもらえますか」

「イロナと呼んでいい」

 呼んでいいという言い方が引っかかったが、その意味を理解するのは後のことだ。イロナは踵を返し、石門をくぐって森の中へ歩き始めた。私は慌てて彼女に付き従った。


 ***


 ⋄森の中


 紺碧樹海の木は一般的な森よりも明らかに巨大だ。これは事前に知っていたが、実際に足を踏み入れると知識と実感の乖離に戸惑わされる。人を何人も縦に並べたような木が当たり前に並んでおり、その根だけで私の背丈ほどの高さがある。

 樹冠は遥か上方、葉の茂りが空を閉じているため地面には直射日光が届かない。光は上から少しずつ漏れ、木漏れ日というより光の雨と呼ぶほうが相応しいほど細かく散乱していた。

 通常の日光は黄色から白の間にあるが、この森の光は明確に青みを帯びている。葉の色素と樹冠の構造によるものだと後にイロナに聞いたが、科学的な説明を超えた何かがそこにあるような感覚もあった。

 音の質も外と違う。遠くの音が近く聞こえ、近くの音がくぐもる。風は遮られてほとんど届かない。代わりに木々の内側からくるような低い振動があった。聴覚というより皮膚感覚で感じるそれは、大木の成長の音だろうか、あるいは別の何かだろうか。

 最も不思議なのは、魔物が一切出没しないことである。そしてそれは安全を意味しない。この地は魔物でさえ安穏とは棲めない場所なのだ。


 イロナは振り返らずに歩いた。一時間ほど彼女について歩くと、木の幹に光るものを見た。幹の中ほど、人の目線より少し高い場所に小さな光点がある。淡い金色でゆっくりと脈動している。

「あれは……」

「お前はあれを見るためにきた」

 まるで私が何者であるか知り尽くしているかのように彼女は言った。


 ***


 ⋄樹液粘体との対面


 幹の表面に亀裂があった。それ自体は樹木の成長過程で生じた自然な隙間だろう。その隙間から、金色がかった粘体が滲み出るように溢れていた。

 大きさはまとめれば子供の頭ほどになりそうだ。不定形で幹の表面に沿いながら流れ出す手前で留まっている。色は蜂蜜に似た濃い金色、内部からの光が均一に広がっていた。思わず舐めてみたくなるような、甘やかで温かみのある金色だ。

 表面は半透明で、内部の構造が透けて見える。外側の膜の内側には僅かに濃い部分と薄い部分が交互に並んでいた。まるで木目のように、あるいは年輪のように。


 観察記録を開こうとした私の手をイロナが止める。

「触れるな」

「大丈夫、触れはしません。観察するだけです」

「手で触れなくとも、分類するのは触れることだ」

 彼女の言葉に首を傾げる。どういう意味かと問うても彼女は「後で話す」とだけ言った。


 イロナに促されてスライムを見つめる。すると時間が経つにつれ、粘体の光が少しずつ変化していることに気づいた。脈動の周期が一定ではない。時に速く、時に遅く、それが何かのパターンを持っているように見えた。そして光が強くなるたびに、粘体が接している幹の部分から微細な気泡が立ちのぼった。

「これは……木に何かをしている?」

「病害を取っている。この木には菌が入っていた。外からは分からないが、内側が蝕まれていた。あれがいなければ十年以内に倒れていた」

「粘体が菌を除去しているんですか」

「そう言っていい」

 私は記録帳に書こうとして、また手が止まった。イロナの視線を感じたためだろうか。躊躇いの正確な理由は自分でも分かっていない。


 樹液粘体、とりあえず私は頭の中でそう呼んだ。しかし「樹液」という語が果たして相応しいのか。樹液と共に生きている粘体か、あるいは樹液を模しているだけか、樹液そのものに魔力が宿って変容したものかもしれない。


 ***


 ⋄村への到着


 さらに歩いて、イロナが「村」と呼ぶ場所に着いた。そこは私が期待していた村の像とは大きく異なっていた。建物がないのだ。いや、建物と木の区別がない。

 大木の幹に沿って内部をくり抜いた居住空間があり、枝の上に渡した板の通路があり、それらが数十本の木にまたがって広がっている。地面に接した構造物はほとんどなく、生活の大部分が地面よりも空に近い高さで行われていた。

 そこに三十人ほどのエルフが生活していた。私を見て、好奇心を露わにしたエルフはほとんどいなかった。何人かが視線を向けたが、すぐに自分の作業に戻る。子供たちが二人、遠くから私を観察していたが、近づいてはこなかった。人間の来訪が珍しいわけではないのか、あるいは無関心を装っているのか。

 本当に無関心であるのが実際のところかもしれない。


 イロナは私に居住用の小さな空間を貸してくれた。大木の幹に設けられた、人ひとりが眠れる程度の穴蔵だ。内側は丁寧に磨かれており、乾いた草が敷かれていた。

「私はどのくらい滞在できるのでしょうか」

「お前が決めることではない。森が決める」

 私はその言葉をエルフらしさとして受け取り、荷を下ろした。


 ***


 ⋄分類の拒否


 翌日、イロナと共に森を歩きながら複数の樹液粘体を観察した。

 おそらく同種と思われるものでも、それぞれに個性がある。光の色が異なった。金色に近いもの、琥珀色に近いもの、緑がかったもの。大きさも様々で、指先ほどの小さなものから幹の大部分を覆う大型のものまでいた。接触している木の種類によって形状も違い、柔らかい樹皮の木には薄く広がり、硬い樹皮の木には球形に近く固まっている。

 観察を続けながら、私は学者の性分として自然と分類の言語で考え始めていた。発光の色を基準に種を分けるか、それとも大きさか、あるいは接触する樹種との対応関係か。暫定学名をどう設定するか。属名はViscumでいいとして、種小名は。


 そうしているとイロナがやや強い口調で言う。

「何を考えている」

「分類の方法を考えていました」

「やめろ」

 私は驚いて振り返った。率直と言って済ませるには怒気がある。

「分類してはいけませんか?」

「この森の中では、そうだ」

「どうして。害を加えるつもりはありませんし、採取して持ち帰るわけでもありません」


 イロナは私を見ず、近くの大木に手を当てた。

「名前を与えることは支配だ。お前たちが何かに名前をつける時、お前たちの思考に、その存在を収めようとする。そうすることでお前たちはその存在を把握したと感じる。把握し、扱い、支配する」

「しかし名前がなければ伝達できません。他の人に伝えられない」

「誰に伝える必要がある」

「それは……」

 知りたいと願う人に、と答えるべきだったが、言葉に詰まった。

「……研究者に。あるいはすべての、この存在を知らない人々に。知ることで理解が深まる人々に伝えるんです」

「お前たちが理解したと感じることと、この存在が生きていることは、関係ない。お前たちの理解は、お前たちの言語に変えた残骸だ。変わる過程で零れ落ちたものに気づかないまま、お前たちは『理解した』と言う」


 反論はあった。言語的理解と直接経験が異なることは認めるとしても、言語化することの利点は確実に存在する。知識の蓄積、伝達、応用。これらは言語なくして不可能だ。しかし同時に、イロナの言っていることが完全に誤りだとも言えなかった。

 学術分類は存在を把握するための道具だ。道具は有用だが、道具越しに見た存在は、すでに道具の形に歪んでいる。


 ***


 ⋄「魔物」のいない文化


 樹海に滞在して三日目の夕暮れ時、イロナと他の数人のエルフと共に食事をした。木の実と根菜、そして液状の何かを木の椀で飲む。その液体が何であるかを聞くと、イロナは「森が分けたもの」と言った。それ以上は説明してくれなかった。


「エルフの文化では、魔物という概念がないと聞きました」

「聞いたとはどこで」

 尋ね返したのは白髪交じりの男性エルフだった。ただし白髪だからと年配なのかは分からない。

「史学者の論文に……すみません、外の世界の文献にそう書いてあった、と言うべきでした。間違っているのですか?」

「不正確だ。魔物という概念がないのではない。魔物という概念を使わない、が正しい」

「正直、同じように聞こえます」

「概念がないとは区別ができないということだ。我々は区別できる。危険な存在とそうでない存在を区別する。しかしその区別を『魔物』という語で行わない。『魔物』とは、強い魔力を持つ敵対者という含意を持つ。その含意が不正確だから、使わない」

「では何と呼ぶんですか。たとえばあの樹液粘体のような存在を」


 イロナが続きを担った。代わりに話せ、というような疎通確認は見られなかった。

「この集落では『内なるもの』と呼ぶ。森の内側で生きるもの、という意味だ。我々も内なるものであり、あれも内なるものだ」

「エルフもスライムも、同じ?」

「我々はエルフではない」

 そこでもう一つ気づかされる。私は石門でイロナを見た時に特徴からエルフだと思ったが、そもそも「エルフ」という分類が人間のものであった。

「人間が、私たちがこの森に住めば、それは『内なるもの』になるのでしょうか」

「ああ」

「あなたがたの誰かが森を出たら?」

「外の名を得るだろう。お前たちは、はぐれエルフと呼ぶ」


 人間の言語に翻訳するのが難しい概念であった、私はそのジレンマの中心に立っている。彼らの概念を人間の言語で書き記すこと自体が、彼らの言う支配の最初の一歩になる。しかしそれを書かなければ、この対話は私の記憶の中でだけ生き、私が死ねば消えてしまう。

「書かないほうがいいのでしょうか」

「構わない。お前たちの言葉に変えたものを書け。森はお前を呼んだ。お前には伝える資格がある。だが、この森の中で我々を支配しようとは思うな」

 彼女のその言葉がエルフと樹液粘体に関わる体験の執筆方針となった。


 ***


 ⋄樹液粘体の機能


 イロナの許可のもとで樹液粘体の機能に関する観察を続けた。

 まず明らかになったのは数日前にも見た病害除去機能だ。樹液粘体が接触している木は一般的に他の木より健康状態が良い。樹皮の状態、葉の密度、成長速度のいずれにおいても差が見られた。樹液粘体は木の内部に侵入した菌類、寄生虫、腐敗を引き起こす微生物を体内に取り込んで処理している。どのようにして病原体を感知するのかは不明だが、健康な木には近づかず、病害を抱えた木に優先的に集まる傾向がある。

 次に魔力循環への関与だ。エルフ(注:森の外においては便宜上この呼称を使う許可を得た)たちは森の魔力の流れを重要視しており、その流れが滞ることを病気に喩えて語った。樹液粘体は、この流れの節点に多く集まっているとイロナは言う。魔力的な観点で言えば、樹液粘体は体内に取り込んだ病害を変換し、それを魔力の流れに適した形で放出しているというわけだ。

 これは私には学術的に検証する術がなかった。魔力の流れを測定する手段を私は持っていない。しかし森の中で樹液粘体の多い場所に立つと、空気の質が違うように感じることが繰り返しあった。それが魔力的なものなのか、単純に森の生態系が健康であることの反映なのかは不明である。


 序章で触れたフィンバー博士の「半霊体」説をここで再び思い出した。物質的な枠組みだけでは捉えきれない何かが、この樹海には確かにある。それが何であるかを分類する術を私は持たない。せめて、持たないことを正直に書く。


 ***


 ⋄名前についての対話


 夜に焚き火を前にしてイロナと話した。

「あなたは名前を与えることは支配だと言いました。しかし私には疑問があります。あなたたちもあの粘体を『内なるもの』と呼ぶ。それも名前であるなら、支配していることになりませんか」

「「私を私と呼ぶことを支配と言うのなら、そうなる。『内なるもの』という言葉はあれを我々の外側に置かない。我々と同じ森の中にあるという意味にすぎない」

「区別ではない、ということですか」

「お前たちが名前をつける時、切り取って輪郭を引く。『これがスライムであり、あれはスライムではない』と言うために。その輪郭は便利だが、実際には存在しない。私とあれと木と土と水と光は、分かれていない」


 炎の揺らぎを見ながら長く考えた。焚き火の輪郭は見えるようでそこに明瞭な線は存在しない。

「しかし輪郭なしには、議論できません」

「議論がお前の目的か」

「いいえ、私の目的は理解することです」

「お前の理解か。それとも森の理解か」

 私には答えるべき言葉がなかった。理解は常に人間の側の行為だと自明視していたが、イロナの言葉は理解の主語を人間以外に置いていた。

 森はどのように人間を理解しているのか。樹液粘体は、どのように木を理解しているのか。それらの「理解」を、私は学術言語で記述できない。あるいは記述できないと認めることが、理解の一部なのかもしれない。


 ***


 ⋄エルフたちの食事


 食事の準備を手伝わせてもらった。紺碧樹海のエルフたちが何を食べ、どのように食べるかを観察することは、樹液粘体の理解とも無関係ではない。

 食事の中心は木の実と菌類と根菜だ。これは予想の範囲内だったが、興味深かったのは調理の方法だ。食材の多くは生のまま、あるいはごく軽い加熱だけで食べる。強い火を使った調理は最小限で、食材本来の質感と風味を残すことが優先される。

 そして食事の前に必ずある儀式があった。に、食材を手に取り、短い言葉を言う。内容はエルフの言語で私には分からなかったが、イロナに後で聞くと「感謝と確認」だという。


「感謝は分かりますが、確認とは?」

「食べてもいいかを確認する」

「ええっと、食材に許可を求めるんですか」

「求めるのではない。確認だ。これは死んでいるか。食べても森を乱さないか。これを食べることで私の身体が何をするかを、私は引き受けられるか」

「すみません。三番目の意味が分からない」

「食べたものは自分の身体になる。それは責任を負うことだ。あなたたちは食材がどこからきたかを確認するだろう。我々は食材がどこへ行く食材かを確認する。食べた後、その栄養が自分を通して何になるかを引き受ける」

 私はその言葉を聞きながら、食事ということの意味について別の理解が静かに開くのを感じた。


 エルフたちの食事は彼らの魔力循環機能の高さとも関係していた。エルフは食べた物の魔力的な性質を、人間より効率的に吸収し、循環させているようだ。だからこそ食材の選択が重要で、森のバランスを乱すものを食べることは、自分自身のバランスを乱すことに直結する。

 樹液粘体が森の魔力循環に関与し、エルフたちがその循環の中で生きているとすれば、三者――森、粘体、エルフは切り離せない一つの系をなしている。「内なるもの」という言葉が、ここで新たな意味を持ったのである。


 ***


 ⋄森の答え


 イロナは「森が決める」と言っていた。十二日目の朝、目が覚めると私が宿として借りている幹の入口に葉が一枚置いてあった。昨晩は何もなかった場所だ。普通の森ならば風で飛んできた可能性もあるが、紺碧樹海では風が起こらず、エルフの誰かが集落の中で魔法を使ったとしても、この幹の穴には風が入らないようになっている。

 それをイロナに見せると、彼女は真剣な顔つきで頷いた。

「明日、出発しろ。森がお前の帰還を決めた」

「そうですか……」

 正直なところ未練は多いが、私は素直に従い、この数日で関わったエルフたちに別れの挨拶をした。


 最後の夜、もう一度石門の近くの樹液粘体のところへ行った。初めて見たのと同じ木に棲む、同じ個体だ。金色の光が変わらずゆっくりと脈動していた。

 観察記録帳を鞄に仕舞わず手に持っていたが、開かなかった。ただそれを見つめる。名前をつけず、分類もせずに、そこに在るものとしてその光を見た。学術的な目で見ることを本当にやめられているのか自信はない。私は根から学者なのだ。

 光が一度、強くなったのを覚えている。記録はしなかったが、今も覚えている。


 ***


 ⋄翌朝の別れ


 出発の朝、イロナが石門まで送ってきてくれた。私は礼を言い、本を書く予定だと伝えた。そしてイロナたちとの対話を書いてもいいかを確認した。

「書いていい。森の外には外の理解がある」

「できる限り、分類はしません」

 私がそう言うとイロナはふと笑ったように見えた。無理なことだと知っているようだ。それでも、許すではなく諦めるではなく理解するではなく、外ではそうなのだと知っているのだろう。


 イロナの言葉は明確で、印象的で、引用したくなるものばかりだった。また彼女と他のエルフたちとの間に明瞭な境界は存在しなかった。共同体で一つの意思と言葉を持っている。そしておそらくは樹液粘体も、木々も、森全体がそこに含まれている。


 なお、紺碧樹海を出て最初にしたのは耳を塞ぐことだった。数日を森の静寂の中で暮らした後で急に街に戻ると、荷馬車の軋みや行商人の呼び声、鶏の鳴き声、子供の笑い声――通常の世界の音が物理的な衝撃として身体にぶつかってきた。人間の文明というものがこれほど騒がしかったかと毎度驚く。旅を続けるほど、日常の音量感覚が狂ってくる気がする。


 ***


 ⋄後記


 学者の誠実さとして、樹液粘体に関する学術的な記述を試みる。しかし通常より慎重な言い方をすることを許されたい。

 紺碧樹海に生息する樹液粘体は、大木の内部に定着し、病害を引き起こす微生物や菌類を体内で処理する機能を持つとみられる。発光は金色から琥珀色の間で、接触する樹種や個体によって外見・性質が異なる。自発的な移動はほとんどなく、定着した木の健康状態に強く依存する。人間への危険度は観察された限りでは低く、接触による有害な作用は確認されていない。

 ただし、無闇な接触は文化的緊張を孕む。以上が私が観察した事実だ。


 この記述で樹液粘体の何を捉えたかと問われれば、輪郭だけが辛うじて見えた、と答えるほかない。内側を捉えてはいない。「内なるもの」と呼ぶエルフたちの言葉のほうが、後につけられる学名より正確だろう。

 学術分類を拒否された研究者がここまで書くのは矛盾に見えるかもしれない。しかし矛盾したままで書くほうが、矛盾を消して書くよりも現実を破綻させない。


 ***


次章への案内

深い森を出て、今度は火と金属の世界へ。ドワーフの帝国、鉱山地帯の鍛冶場には金属の不純物を食べるスライムがいる。名工の工房に必ずいるという「やわらかい弟子」に会いに行く。

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