第九章 雲海粘体
旅先:カルカラック高山地帯、大陸中央山脈・雲上集落群。王国歴二五五年。
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山は下から見ると容易に登れそうに見える。これは登山に向かう者が一度は経験するであろう錯覚で、私もその例外ではなかった。リグバルダンへ旅した約三年前のことである。大陸中央にある大山脈地帯に向かいながら、遠くに連なる峰々を見て「あの中腹あたりに目的の集落があるのだ」と気楽に考えていた。標高というものに対する感覚が、平地に住む人間には根本的に欠落している。
実際の集落は、中腹ではなく頂上近くにあった。カルカラックに住む高山民族の主要集落は、標高三千メートルを超える場所に点在している。低い雲が常に漂い、晴れた日でも午後には霧が出て視界が閉じる。麓に比べると極端に息がしづらく、慣れていない者が急いでのぼると頭痛と吐き気と判断力の低下がくる。なお、私はこのすべてを経験した。
案内人として同行してくれたのはカルカラックの若者で、メイヴという名の女性だった。二十代の前半、山育ちの体は細く見えても足腰が鋼のように強く、私が三歩の距離を懸命に歩く間に五歩進む。それでいて息が乱れることもない。背負う荷物の量は私の倍以上だった。
三日かけて山を登り、四日目の朝に集落に着いた。始めこそ魔物避けの香の成分配合や、行商人の往来に慣れた野生生物の観察、特に高山に適応した青灰スライムの亜種たちに目を奪われ楽しんでいたのだが、最後の一日にいたってはほとんど記憶がない。
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⋄高山病
集落に着いた翌朝、私は動けなかった。頭が割れるように痛く、体を起こすと胃が空であっても吐き気がした。視界の端が時々暗くなる。これが高山病だと分かってはいたが、分かっていても辛さは軽減されない。メイヴが持ってきてくれた草の煎じ薬を飲み、ただひたすら横になっていた。薬は苦く、飲んだ後に独特の温かさが喉から胃に広がる。
寝込みながら私はずっと「早くスライムが見たい」とぼやき続けていたようで、メイヴに呆れられた。
「動けるようになってからですよ」
「いつ……」
「先生の身体次第です」
私の身体はそれから三日後に起き上がる許可を出した。
動けるようになってから、私はようやく落ち着いて集落の中を見て回った。高山の集落は想像より複雑な構造を持っている。岩壁に沿って建物が張りつき、通路は岩を削ったものと木で渡したものが混在している。人口は五十人ほどで全員が顔見知りらしく、一つの大きな家族のような結びつきを感じる。
魔動植物の種類は少ない。麓では当然あちこちにいる家畜はこの高度では生きていけない。短時間の飛翔能力を持つウル・カプラ――馴らされた天衝山羊が数頭に、見慣れない毛足の長い犬が数匹。
そして空にスライムがいた。雲の近く、山の峰と峰の間を悠々と漂っていた。
遠目でも大きさがよく分かる。雲と同化しそうな灰白の塊がゆっくりと流れていく。風に乗った雲の切れ端かとも勘違いしそうだが、風に押されているのではなく、自分で動いているようだ。
あれこそが雲海粘体だった。
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⋄雲海粘体との対面
三日後、高地に体が慣れてきた頃にメイヴが「今日は会えますよ」と言った。
集落の東側、岩壁が垂直に切り立った場所がある。そこには長い階段が刻まれており、上に出ると広い岩の台地があった。メイヴはそこに立ち、空を見上げて口を開いた。
発された音は私の耳には聞こえない。ただメイヴの喉が動き、発声している様子が見て取れるのに何も聞こえない。ややあって空が変化した。雲の中の白い塊が、こちらに向かってゆっくりと降りてくる。
大きい、という言葉では足りない。展開した状態での幅は、カルセダーン近くのシャルガラの滝ほどもある。王都の一般的な住宅二軒分だ。形は球体に近いが完全ではなく、全体が微細な揺らぎを持っている。色は白に近い淡い灰色。体の内部は半透明で、空の光が透けて見えると共に、表面には雲の水分が凝結して薄い霧状の帯を作っており、動くたびにそれが後ろに流れた。まさしく周囲の雲と混じり合っている。
スライムは岩の台地の手前、メイヴの前でゆっくりと停止した。私は息を呑もうとして、薄い空気の中では充分に呑めずに噎せた。
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⋄浮遊の仕組みを考える
雲海粘体、暫定学名Aethotheca nubivaga(雲行浮遊粘体)は、私がこれまで出会ったどのスライムとも根本的に異なる点を持っている。それは、常に空中にいることだ。
この数年後に出会うこととなるユールハーゲンの灯り玉も浮遊はするが、あれは室内の低空であり、地面や壁面への接触も頻繁にある。雲海粘体は地面に触れない。少なくともこの観察期間中、地面に降りてくることは一度もなかった。完全な空中生物である。
一体どうやって浮いているのか。これは私が直面した最大の謎の一つだ。
スライムが空中に静止するためには、何らかの形で重力に拮抗する力が必要だ。ドラゴンは風を操るし、鳥は翼を使うし、スタースポーンは重力を支配する。では雲海粘体は。
メイヴに尋ねると「気嚢ですよ」と彼女は言った。
「あのスライムの体の中には軽い気体が詰まっているそうです」
「どんな気体ですか」
「さあ、ちゃんとした名前は、私は知りません。でも普通の空気より軽い気体なんでしょうね。だから飛べる」
観察から得た手がかりを加えて考えると、雲海粘体は体内に低密度の気体を生成・貯蔵する器官を持ち、その浮力によって浮遊しているとみられる。体積あたりの浮力と体重のバランスが正確に調整されているらしく、無風状態でほぼ水平に静止することができる。風が吹くと受動的に流されるが、自前の推進力もあるようで、弱い風には逆らって移動することも観察できた。
推進力のメカニズムはさらに謎だ。体の一部を変形させながら空気を押すような動きをするのだが、それで風に抗うのに充分な推進力が得られるとは思えない。何か別の要素が関与している可能性がある。
魔力的な浮力補助を考えると説明が楽になる。しかしそれは「よく分からない」を別の言葉で言い換えるだけでもある。雲海粘体はやはり種としてスライムであり、ドラゴンとも鳥ともスタースポーンとも違っている。それらと同じやり方で飛んでいるのではないことだけが確かだった。
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⋄気嚢としての利用
私が空を飛んだのは翌日のことだ。
「先生、乗ってみます?」
「はい……いえ、待ってください。確認なのですが、スライムは乗られることを承諾しているんですか?」
私の質問に、メイヴは本当に不思議そうな顔をした。
「降りてくるのは乗ることを許しているからです。嫌ならきません。実際、呼んでもこない時があります。それが『今日は嫌』ということです。もしくは忙しいのでしょう」
「忙しい……。じゃあ、昨日降りてきたのは」
「あなたを見て、良いと決めたんでしょう。いつも初めてきた人間を観察してるんです。山を一生懸命に登ってくるあなたのことを見ていて、自分に会いにきたのが分かったのかもしれません」
それか高山病で倒れていたのを可哀想に思ったんですかね、と悪意なく言われ、何とも言えない気持ちになった。私は人生で初めてスライムに同情された可能性がある。
雲海粘体のほうを見た。岩の台地から少し離れた空中に、昨日と同じ個体と思われるものが浮いていた。
こちらを見ているかどうかは分からない。目に類する器官は確認できず、音を感知したり超音波を飛ばしている様子もない。しかしスライムはメイヴの音のない呼び声に応えてやってきた。彼女の言葉を聞いた後では、見られているような気がしてならなかった。
乗り方は思ったより単純だ。メイヴがもう一度あの聞こえない声を発すると、雲海粘体が台地の縁に寄ってくる。その表面の一部が緩やかに凹んだ。椅子の形とまでは言えないが、人が座れる程度の窪みが生じた。メイヴはその窪みに迷いなく足を踏み込んだ。膝までスライムの中に沈み込む。
「こうすると表面が固まって落ちないんです。ウル・カプラの鞍より安定しますよ」
「腐食や刺激はないんですか?」
「地面にいるスライムはぴりっとしますけど、空スライムは平気です」
そう言って彼女は背もたれとなっている部分を撫でる。私は恐る恐る同じ窪みに足を踏み込み、メイヴの隣に腰をおろした。温かく、柔らかく、それでいて弾力があり、ゆっくりと沈んで膝のところで止まった。そして止まった後に足の周囲が緩やかに固まった。完全に固まるわけではないが、動かない程度の抵抗力が生じる。自分用に縫われた寝袋の中にいる感覚だ。
メイヴが合図を出すと、雲海粘体が上昇し始めた。
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⋄アーロン・ファラマン、生まれて初めて空を飛ぶ
岩の台地が見る間に小さくなっていった。集落の建物が、道が、人々の小さな姿が、ウル・カプラが遠ざかっていく。眼下いっぱいに山の斜面が広がり、前方には別の峰が聳える。麓の平野が遥か下に緑の帯として広がった。
不思議なのは空気の違いだ。高山に登ってきた時の薄い空気とも違う。冷たく刺すようで息は多少しにくいが、清潔な香りがする。深呼吸ができる。肺の奥まで一直線に清潔さが届くようだった。そして、匂いが何もない。人の生活の匂いも、土や草の匂いも、水の匂いもない。純粋な空気だ。
下を見ると鼓動が速くなった。恐怖だけではなかった。鳥が当然のように行っていることを、人間は飛行する魔物や道具の補助なしには決してできない。しかし今、私は飛んでいた。翼も気球も籠もなく、この奇妙な生命の背に乗って、空を漂っている。
記録帳を出して何かを書こうとしたが、手が震えてうまく書けなかった。それは寒さのせいでも高山病のせいでもなく、純粋に感情の問題だったと思う。研究者が感情で手を震わせるのは恥ずかしいことかもしれない。しかし私はそれをここに書き残す。正直な体験の記録として。
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⋄飛行の感覚
飛行中にいくつかのことを観察できた。
まず、制御について。メイヴは時々あの無音の声を使い、進行方向と高度を調整した。といってすべての動きを彼女が指示しているのではなく、大まかな方向だけを示し、細かい調整は雲海粘体が自分で行っているようだ。突風がきた時、メイヴが何もしなくても雲海粘体は自発的に適切な姿勢を取って安定を保った。
次に雲との関係について。飛行中に雲の中を通り抜ける場面があった。雲の中は視界不良で、水分が体表に凝結して服がしっとりと湿った。その時、雲海粘体の体が少し膨らんだように感じた。雲の水分を体内に取り込んでいる可能性がある。あるいは雲の水分の中の魔力を栄養として利用しているのかもしれない。私を乗せた身体が膨らんだ後、皮膚を取り巻く雲が少しだけ薄れた気がした。
そして、見えたものについて。
空からは山脈の構造がよく見える。川がどこからきてどこへ流れて行くかがつぶさに観察できた。森の木々の密度の変化が手に取るようにわかる。昔の人々が作った街道の、地形に対する絶妙な妥協の跡が観察できる。地上では見えない世界の全体像が、純粋なものとして視界に映る。
スライムの研究は長年地面の上で行ってきた。それは当然のことだが、地上の視点では見えないものがある。雲海粘体という空を生きる生命の存在が、そのことを文字通り上から示してくれたのだった。
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⋄著者、高山病に唸る
飛行から戻った翌日、高山病が再発した。再発というより悪化が正確かもしれない。飛行中に体が高度に慣れたと思い込み、戻った後に油断したのが原因だとメイヴは指摘した。その言い方は「あなたが馬鹿で無茶なことをしたからですよ」という内容を、もう少し温かい言葉で包んだものだった。
以降三日間、私はまた寝床から動けなかった。しかしこの三日間は最初の高山病に唸る時間とは違った。今回は雲海粘体のことを考えながら横になっていられたからだ。
空を飛んだ記憶がまだ身体の中にある。あの高度、あの速度、あの風の中、雲海粘体は生きている。地面を知らずに生まれ、地面に触れずに死ぬ。空だけが彼らの生活空間であり、雲が彼らの大地であり、風が彼らの街道だ。
人間は空を「行く場所」として認識する。特別な場所、行くためには努力が必要な場所。しかし雲海粘体にとって、空は単に「ある場所」だ。特別でも何でもない、ただの日常の場。この当たり前のことが、妙に深く感じられた。
日常とは、そこにある者にとっては何でもなく、そこにいない者にとっては特別だ。下水道はカルセダーンの下水夫たちにとって日常だが、一般市民には特別である。紺碧樹海はイロナたちにとって内なる世界だが、森の外とは別世界だった。どこにいるかが、何を日常と感じるかを決める。
そして私は空を日常とする生命の背に乗って、空を少しだけ日常として感じた。しかしその感覚は三日間の回復と同時に薄れていった。
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⋄飛行船の話
身体が本当に回復した日、メイヴと集落の長老格の人物――カルカラックの言葉でヴォイという称号を持つ老人と三人で話した。
ヴォイは八十近い老人で、顔の皺が山の稜線のように深く刻まれており、目は高山の空と同じ色をしていた。カルカラックの言葉しか話さないため、メイヴが通訳してくれる。
私は雲海粘体の利用について聞いた。移動手段としての歴史、乗り方の伝承、どのように関係が始まったか。ヴォイの答えは長く、メイヴの通訳で断片的に届いた。
カルカラックの人々がいつから雲海粘体に乗るようになったかは記録がない。神話の時代にすでに乗っていたと伝承は語る。最初に乗ったのは誰かという問いに対する伝承の答えは「山が許した者」だという。具体的な人物名は残っていない。
利用方法は移動だけに限らない。カルカラックの人々は雲海粘体を使って物資を運ぶこともある。平地との交易に、荷を括りつけて送ることもある。また遠い集落との連絡に使うこともある。この高度では、地上の道など存在しないも同然だからだ。
「飛行船の原型ではないかと言う研究者もいるのですが」
メイヴがそれをヴォイに訳すと、老人はからからと笑った。
「ヴォイは『人間は船を作る前からあれに乗っていた。人間はあれに出会う前からドラゴンを知っていた』と言っています」
その言葉は論説の肯定か否定か曖昧だ。人間の技術の多くは確かに自然から学んでいる。飛行する魔物から飛翔を、水棲の魔物から泳ぎを、魔植物から繊維を知り、得る。水に浮かぶという発想があり、空を飛ぶ生物という発想があり、時代の中で混じり合って飛行船の原型が生まれた。そこに雲海粘体の介入があるかないかは実証が難しい。
少なくとも、カルカラックの人々がこの高山で空を飛ぶことを数百年以上続けてきた事実は、飛行船が実用化される以前から人間と飛翔の関係が存在したことを示している。それだけは言える。
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⋄雲海粘体との関係の本質
メイヴと二人で再び飛んだ。今度はもっと長い距離、山脈の上空を移動した。前回より高山病の影響が少なく、より落ち着いた状態で観察できた。
雲海粘体は、乗客の重量変化に自動的に対応して浮力を調整するようだ。私が身体を前に傾けると、それに合わせて前部が下がり、後部が上がった。体重移動で乗客の意図を読んでいる可能性がある。あるいは単純に物理的な重心の変化に反応しているだけかもしれないが、その反応の速さと正確さは物理反応より精細だった。
「メイヴさん。このスライムは人間を運ぶことを喜んでいますか?」
「どうなんでしょう。私たちが思う『喜ぶ』かどうかは分かりません。でも、呼ぶとよくきてくれる個体と、ほとんどきてくれない個体がいます。毎回のようにくる個体は、人と一緒にいることが『合う』んだと私は思っています。合わない個体は、だから呼んでもこない」
「強制、使役や調教といったことはできない、と」
「無理ですね。あれを捕まえて閉じ込めることはできません。逃げたら追えません。空スライムが言うことを聞いてくれないって、反発するんじゃないです。本当に聞いてくれないんです。言葉通り」
多くのスライムは、特定の環境に定着するか、あるいは環境に従って移動する。人間との共生や使役、戦闘や逃亡もその一部だ。しかし雲海粘体の場合、人間との関係は強制でも飼育でもなく、個体ごとの選択だ。
「呼んでもこない時、カルカラックの人々はどうしてるんですか?」
「うーん。基本的には諦めます。それか、違う時間、次の日に呼びます。別の空スライムがくるかもしれないから。それだけですね」
「でも困りませんか。移動できなくて」
「困ります。でも嫌なら仕方ないですよ」
スライムは近づこうと思うから近づき、乗せたいから乗せる。その選択を、人間は尊重するしかない。
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⋄空に対する恐怖と陶酔
夜、集落の端の岩棚に出て空を見上げた。山岳の夜空は空気が薄い分だけ星の光が強い。光が強い分だけ、星と星の間の黒い空間が平地よりも濃く暗い。そしてその黒と白の間を、何かがゆっくりと動いていた。雲海粘体だ。
彼らは夜でも空にいる。昼と同じように山の峰と峰の間を漂っている。光源を持たないため暗くてほとんど見えないが、星を隠しながら動く影としてその存在が分かった。
私はスライムの影を追いながら、奇妙な感情が自分の中に生まれているのに気づいた。恐怖と陶酔。
恐怖は高さへのそれだ。暗闇が広がる岩棚に立ち、遥か眼下にある平野を想像する時、身体の奥からくる恐怖がある。落ちれば死ぬ。この高さは人間の肉体が想定している環境ではない。本能が離れろと告げている。
そして陶酔。ここにいることの唯一性の感覚だ。地上では知ることのない夜空の色を今、見ている。あの影が雲海粘体であることを知っている。この体験は、今ここにいる者だけのものだ。記録に書けば伝え得る部分もあるが、いくら書いても伝わらない部分もある。その書けない部分が、私の中にあった。
恐怖と陶酔は対立しない。両方あるから、ここにいる。どちらかだけなら、カルカラックにこなかったか、スライムの観察を終えてすぐ帰ったかのいずれかだ。怖く、しかし美しいという状態こそが密度の高い瞬間だった。
彼らはゆっくりと山の向こうに消えていった。
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⋄カルカラックを離れる朝
出発の朝。メイヴが岩の台地に連れて行ってくれた。別れの挨拶のためではなく、見送りのためである。カルカラックの習慣として、旅立つ者はこの台地から送り出すのだという。
台地に着くと、空に複数の雲海粘体がいた。その日は特にはっきりと見えた。朝の空気が澄んでおり、低い雲もなく、白い大きな体が青空の中に悠然と浮かんでいた。遠いもの、近いもの、大きいもの、小さいもの。七体ほどが視野の中にいた。
見送ってくれるのだと感慨深くなっていたのだが。
メイヴが合図を出すと近くにいた一体がゆっくりと降りてきて、台地の縁に寄った。
「麓近くまで運んでくれます。それからは歩きになるけど、三日分くらいの道程が省けますよ。空スライムに覆われてると高山病にもなりにくいです」
「いいんですか」
「きてくれたなら、乗っていいってことです」
私は荷を雲海粘体の上に置き、自分も乗った。沈み込む感触、固まる感触。安堵を感じていいものだと、もう知っている。
メイヴが手を上げ、雲海粘体が上昇した。台地が遠ざかり、メイヴの姿がすぐに小さくなる。私は軽く手を振った。彼女が降り返してくれたような気がしたが、すでに距離があって確認できなかった。
高度が上がるにつれて眼下を集落が過っていく。岩壁に張りついた小さな建物群、通路、煮炊きの煙。そこに五十人の人間が、空のスライムと共に暮らしている。地上から連なる道もなく、集落の場所を示す標識もなく、地図にも載っていない大地の突端で、確かに生活が続いている。
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⋄後記
雲海粘体、暫定学名Aethotheca nubivaga(雲行浮遊粘体)について、観察した範囲での記録をまとめる。
体内に軽質気体を生成・貯蔵する機能を持ち、常時空中に浮遊する。浮力の調整は精密で、乗客の重心変化にも対応できる。推進力の詳細なメカニズムは不明だが、体形の微細な変形と何らかの補助的な力が組み合わさっていると推察する。雲の水分を体内に取り込む行動が観察されたが、これが栄養摂取か水分補給か別の目的かは確認できていない。
人間との関係は完全に雲海粘体側の任意であり、個体ごとの選択に基づく。強制的な拘束は不可能で、意図に反した利用はできない。人間への危険度は低い。乗員自身が強引に飛び降りようとした際の反応は不明だが、雲海粘体が積極的に危害を加える様子は観察されず、むしろ身体を固定することから落下リスクはごく僅かである。
カルカラックの人々との関係は、私が見てきた共生事例の中で最も対等に近いと考える。どちらも相手を必要としているわけではなく、きたければきて、去りたければ去るし、無理に呼びつけも引き留めもしない。相互の自由の上に成立している関係だ。
最後に個人的なことを一つ。麓に降りてから一週間ほど、私は空を飛んだ感覚が身体から抜けなかった。足を動かさなければ進まないということを一瞬忘れ、立ち尽くす癖がついた。その癖は、しばらくの間続いた。
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次章への案内
空から地へ戻ろう。次はスライムであってスライムでない、あるいはスライムとは認識されていないが学術的にはそうである存在たちの話だ。聖都の巨大墓地。そこに住む墓守の老夫婦と、彼らが「神聖なもの」と呼ぶ微細生物群体に会いに行く。




