第十章 聖餅虫
旅先:聖都エルロウ、境界修道院。王国歴二六二年。
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聖都というものを、私は漠然と騒がしい場所だと思っていた。商業都市や工業都市の喧騒とは違った種類の騒がしさを想像する。
巡礼者が絶えず、祈りの声が重なって響き、鐘が鳴り、行列が通り、街全体が何らかの目に見えない熱を帯びている。そしてそれらに好奇心を抱く観光客が集まる。そういう場所だと思っていた。実際にエルロウに入ると、確かにその通りではあった。
中央神殿に向かう大通りは人で埋め尽くされ、土産物を売る露店が軒を連ねている。巡礼の集団が歌いながら通り過ぎ、修道士が群衆の間を縫うように歩いていた。
私の目的地は、その喧騒からは少し離れたところにあった。聖都の東端、市壁に接した場所にエルロウ大墓地がある。
大墓地は面積だけで言えばセアルラスの町全体が収まるほどの広さがある。数百年にわたって聖都で亡くなった者たちを受け入れ続けてきた場所で、中央神殿で生涯を終えた高位聖職者から巡礼の途中で力尽きた無名の旅人まで、身分を問わず埋葬されている。区画によって石碑の大きさと装飾が違うが、土の中にいる者に区別はない、というのが公式の神学的見解だ。
大墓地の中心には境界修道院が建つ。生者の世界と死者の世界の境界を守る場所である。
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⋄境界修道院への道
大通りの喧騒を抜け、墓地の入口から中に入る。街の騒音は石壁に遮られ、墓地の内部は別の音に満ちている。風が石碑の間を通る音、遠くの鐘の残響、鳥が時折鳴く声。それらは集まると独特の静けさを作り出していた。エルロウではこれを「聖域の静寂」と呼ぶ者もいるらしいが、私には「死者が立てる音」とでも呼びたくなるような、重みのある静けさだった。
石畳の道を進みながら区画を幾つか越え、奥に向かうにつれて石碑は古くなり、刻まれた文字が読めないほど苔に覆われてくる。新しい区画と古い区画では蓄積された時間の質量が違うようだ。新しい区画は未だ生々しい悲しみの場所だが、古い区画はもはや悲しみを超えてただ古びている。
境界修道院の前に立つ。外壁は蔦と苔に覆われており、屋根の一部は補修の跡が見えた。それ自体が大きな墓石にも似ている。入口の古い木扉の上部に文様が彫られて、扉の横に呼び鈴が据え付けられている。
鈴を鳴らしてしばらく待つと、扉が開き、老婦人が顔を出した。
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⋄セナラとカラドックの老夫婦
老婦人の名前はセナラといった。年齢は七十を超えているだろうが、腰から背筋までまっすぐで、瞳が鋭く澄んでいた。ほつれ一つもない白い修道服を着ており、学生時代に恐れ慕っていた教師を思い出させる風貌だ。彼女は私を見てすぐに「王都の研究者ですか」と言った。
「何かを探す目をしていますね。巡礼者とは違うし、墓参りでもない」
修道院内部は外見以上に古い建築様式が残っており、暗く静謐だ。石造りの壁に沿って書棚が並び、中央に木のテーブルと椅子が数脚、それらを燭台の仄かな灯りが照らしている。奥に礼拝のための空間があり、そこにも書棚があった。
テーブルの奥側に老人が座っていた。眼鏡をかけ、何か書き物をしている。私が入ってきても顔を上げなかった。
「カラドック」
セナラが声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。目が遠くを見ているような焦点の合い方をしていた。後で知ったが、彼は視力が相当悪く、眼鏡をかけていても遠くはよく見えないそうだ。
「客か」
「王立湿性魔物研究院から参りました。聖餅虫の研究のために」
この場所で研究という言葉を使うべきだったかどうかを一瞬考えたが、正直に答えることにした。カラドックは特に咎めるでもなく頷くと、また書くものに視線を戻した。
「お茶を出します。お掛けになって」
セナラに言われ、私はカラドックの向かい側に腰をおろした。
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⋄聖餅虫との最初の対面
聖都特有の魔物である「聖餅虫」については、出発前に断片的な情報を集めていた。境界修道院に神聖な存在が住んでいる。それは聖職者たちに「奇跡の証」と呼ばれているが、一部の学者の記録には「特異な微細生物の群体」としての記述がある。両方の記録を読んで、私はこれがスライムの一種ではないかと推測した。
「聖餅虫を見せていただけますか」
セナラとカラドックが互いを見た。長きを共にした夫婦の間でしか成立しない、多くのことを含んだ視線だ。
「見せられないものではないが、呼び方について先に話をする必要がある。『聖餅虫』という俗称は使わないほうがいい。当院内では『聖なる群れ』と呼ぶ。外の学者が何と呼ぶかは知っているが、ここでは不適切だ」
「分かりました。ご指摘に感謝します」
「セナラ。案内を頼む」
老婦人に連れられて進むと、礼拝空間の奥に小さな扉があった。低い扉で、頭を下げなければ入れない。石の階段が地下へと続いていた。ランタンを持ったセナラの後を降りていく。
石壁に囲まれた、正方形に近い地下空間。天井は低く、私は常に少し腰を屈める必要があった。部屋の中心に台が据えられ、浅い皿が置かれていた。
その皿に、聖なる群れがいた。
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⋄微細生物群体の観察
最初にはそれを液体だと思った。石皿に白みがかった半透明の液体が張っている。表面はセナラのランタンの光を反射し、つるりとした光沢がある。深さは指の第一関節ほど、皿の縁まで満たされている。
しかしすぐに気づく。それは動いていた。液体が動いているのか、液体の中にいる何かが動いているのか。注視すると、正確には液体そのものの動きと中の何かの動きが区別できないほど一体化していた。
表面が呼吸している。規則的な収縮と膨張ではなく、複数の部位が異なるリズムで動いており、しかしその全体が一つの調和した動きを作り出す。波が水面を走るように動きが端から端へと伝わり、また戻ってくる。
セナラにランタンを借りて光を当てると、内部の構造が薄らと観察できる。
無数の微細な粒が存在している。一つ一つは肉眼でかろうじて見える程度の大きさで、それが密集して「液体」の様相を呈しているのだ。実際には液体ではなく、液体に見える固体群の集合。群体だった。
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⋄液体知性
私が覗き込むと、表面の動きが僅かに変化した。特定の部分が盛り上がり、別の部分が引いている。
「これは何かを伝えているのでしょうか」
「私には分かりかねますが、カラドックは『長年一緒にいると分かる』と言います。視力が弱る前は、嬉しい時の動き方、落ち着いている時の動き方、何かに反応している時の動き方を見分けていたそうです」
「具体的にどんな動きか、お伺いしても?」
「嬉しい時――訪問者があった時、天気が良い日、食事の後には表面全体が細かく波立ちます。落ち着いている時は動きが遅く、均一。反応するようなことがあると、一部が突出してこちらを見ます」
「見るのですか。群れに向きがある?」
「ええ。今、あなたのほうを向いています」
言われてみれば表面の動きには確かに方向性があるような気がした。波の伝わり方が私の側に向いている。しかし私の観察眼が事実を確認しているのか、言われた言葉に引きずられているのかの判断が微妙である。
「聖なる群れには知性があるのでしょうか」
「知性という言葉が適切かどうか分かりません。けれど、ただ動いているだけでもないようです。見て、考えている、と言いたくなる動きをします」
「学術的には、群体知性という概念があります。個別の単位は単純な行動しかできないが、群として集まると、複雑な情報処理が可能になる。蟻や蜂のような社会性昆虫が近い概念として使われますが、液体状の群体でそれが起きているとすれば……」
少々暴走した私に苦笑して、セナラはそっと手を振った。
「ごめんなさい。私には難しい言葉です。でも、そういうことかもしれませんね。庭園の蜂たちと、どこか似ているところがありますもの」
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⋄分類学と信仰
翌日から私は日に何度も地下室に降りて観察を続けた。三日目、セナラとカラドックにお願いして少量の採取を試みる。微量を別の容器に移し、より詳細に観察するためだ。しかしカラドックは首を縦に振らなかった。
「分けるということはあれを傷つけることかもしれない」
「少量に留めますし、異常があればすぐに中断します」
「少量でも、あれの一部を切り取ることに変わりはない」
私は食い下がることなく諦めた。旅の身においては現地のルールを最も重要視するべきだ。そうでなければバルドに申し訳が立たない。
採取する代わりに、可能な限り現地での観察を続けることにした。小さな波を起こして反応を見る。光の強さを変えて動きの変化を確認する。食事は朝に一度、液状の小麦を与えるとセナラは言った。この国で「聖餅」と呼ばれる儀礼用の薄焼きパンがあり、それを煮溶かして冷ましたものだ。
「聖餅虫という俗称の由来はそこからですか」
「そうですね。巡礼者たちから始まった、外の呼び名です」
「聖なる群れという名はいつ頃から?」
「書庫の記録によれば、四百年前には今と同じ呼び方をしていました。それより前の記録は、境界修道院が建つよりも前ですから分かりません」
それでも四百年である。修道院の始まりと今で、皿の中にいる個体は同じではないだろう。群体として継続しているが、個々の微細生物は世代を重ねているはずだ。そう考えると「同じ存在が四百年いる」と言えるかどうかも分からない。群体の同一性は、個体の同一性とは別の問題だ。
翌日、テーブルでお茶を頂きながらカラドックに尋ねる。
「聖都の宗教的見解では、聖なる群れはどのような存在とされているんですか?」
「神学的な立場を正確に言えば、神の意志が物質に宿った例証、ということになっている。神はすべてのものにいらっしゃるが、その宿り方が特に明確に見えるものとして、あれが挙げられる。奇跡というより、神の在りようの顕現、とでも言うべきか」
「あれをスライムの一種として分類することを、聖都教会はどう考えるでしょう」
「教会の公式見解は外部の学術分類に干渉しない。あれが何であるかを学者が論じることを禁じていない。ただ、境界修道院の中では院の定めに従う。それがここの決まりだ」
「矛盾だとは思いませんか。学術的にはスライムであり、宗教的には神聖な存在である、ということが」
私の真剣な問いかけに、カラドックは初めて笑顔を見せた。眼鏡の奥の目が細くなる。
「エリワール川は神の泉から流れる神聖なる川だ。しかしそこから汲んだ水は聖都で生活用水として使われる。神聖さと事実は、矛盾しない」
また書物に目を戻すカラドックの旋毛を眺めながら、私はその答えをしばらく考えた。
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⋄セナラの話
ある日、群れの観察中にセナラが地下室へ降りてきて私の隣に立った。
「ファラマンさん。あなたは何を探しているのか、分かっていますか?」
「何を……ですか。私はスライムの生態を記録しています。もちろん、聖なる群れは現状スライムとされていませんが」
「長年、研究者と呼ばれる人たちが当院を訪れました。みんなこれを採取し、分析しようとします。何かを証明するために。そしてみな、これが何かを証明できないまま帰っていきます」
「私も採取を試みましたが、断られました」
「ええ。あなたはすぐに諦めました。なぜでしょう?」
「それは、断られたから、としか。カラドックさんの言う『傷つけるかもしれない』という懸念が否定できませんでした。私の役目は、私にできる観察を記録することです。私一人ですべてを解明できるとは思いません」
セナラはしばらく黙って石皿の群れを見つめていた。
「最初からそう言う研究者は少ないものです。大抵は少量なら、知識のため、傷はつけないからと言います。あなたも最初はそう言いました。でも引いた。断られただけなら、別の方法を探すはずでしょう。あなたにできる観察の幅を、広げるために」
ヴァイスデン湿原の愚行から、私は変わったのだろうか。完全には変われていないかもしれない。しかし何かが変わったとすれば、それは「見たいという欲求」と「欲求を貫いてはいけない場合」という認識の間に、大きな空間ができたことかもしれない。
沈み込んだ感情が表に出そうになり、話題を変えた。
「あなたとカラドックさんは、いつからここにいるんですか?」
「四十年になります。私は若い頃に修道院に入り、カラドックはもう少し後からきました。聖なる群れとの付き合いのほうが、少し長いですね」
私は、この年末で四十になる。私が生まれるよりも前から彼女らはここにいて、聖なる群れと付き合っているのだと思うと、奇妙な感慨がある。
「最初は怖かったのです。害がないとはいえ、不可思議な魔物が地下にいるのです。しかし後からきたカラドックが平然としていたんです。あの人は毎朝ここへ降りて、食事を与えて、話しかけていた」
「会話を?」
「当然、答えは返ってきません。言葉では。でもカラドックは話しかけていました。私はそれを見ていて怖さが薄れました。いつの間にか怖くなくなったのは、あの人の影響でしょう」
修道院に勤める者たちもまた一つの群れですから、そう言って目を細めるセナラの表情は、カラドックの笑みによく似ていた。
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⋄カラドックの観察記録
セナラに話を聞いた翌日、カラドックが分厚い手書きの記録帳を見せてくれた。視力が弱るまで、約三十余年分の観察記録だ。
毎日の記録が続いており、内容は簡潔だが精密だった。表面の動きのスケッチ、食事後の反応、天気との関係、特記事項。研究者ではないカラドックの記録は学術的な体裁を持たないが、それゆえに余計なものが入っていない。彼の見た光景が、見た通りに書いてある。
いくつか気になる記述があり、許可を得て私の記録帳に転載した。
▾霜の朝、動きが鈍くなる。温かい水を皿の縁に当てると戻る。
▾新しい修道士がきた。(注:十五年前の日付)通常より動きが活発だった。人の気配に敏感か。
▾満月の夜には自発的に明るくなる。外の光は届かないはずだが。
▾長い雨の後、表面の色が濃くなる。湿度との関係があるか。
▾セナラが病気で寝込んだ週、動きが全体的に少なかった。関係があるか不明。
「セナラさんが病気の時に、動きが少なかったというのは」
「気のせいかもしれない。しかしそう感じたので記録した」
「病に罹っている間にも地下へ? それとも、聖なる群れのほうが何らかの手段で察知したのでしょうか」
「……あるいは、俺の動揺に反応したのかもしれん」
言ってから目を伏せる仕草が恥ずかしがっているのだと気づいた瞬間、私のほうまで照れくさくなってしまった。
カラドックの記録は専門的な分析を欠いているが、長い蓄積の厚みがある。この記録を学術的に解析すれば聖餅虫の生態についていくつかの仮説が立てられるだろう。私は後に王都で書籍化することを踏まえて模写する許可を改めてもらい、重要な記述をすべて書き写した。
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⋄分類学と信仰の調和について
ある時、私はカラドックとセナラと夕食を共にした。修道院の食事は質素だ。パンと豆の煮物と一欠けらのチーズ。カラドックが準備し、セナラが配膳してくれた。食前に二人は短い祈りを唱える。私はその間、黙っていた。
「学術的な分類と宗教的な理解がなぜ矛盾しないのか、もう少し理解を深めたいのですが」
「さあな。分類というのは、何かを理解するための道具だ。宗教的な理解も神学的な道具を使う。道具が違えば、同じものを見ても違う言葉になる。だが、言葉が違うからといって矛盾しているとは言えない」
「見え方が変われば……学術的に『微細生物群体』と分類した瞬間、神聖さは消えませんか?」
「消えるか?」
カラドックはパンを齧りながら首を傾げた。
「水が水素と酸素でできていると知った時、水の美しさは消えるか?」
これはザズダが言ったこととも、イロナが別の角度から示したこととも通じている気がした。
「消えないとは、私には言えません。知識は対象への見方を変えます。その変わった見方が、以前の感覚を失わせることは確かにあります」
「そうだな。だから注意が必要なのだ。分類は見るための有用な道具だ。しかし道具を通じてしか見なくなったら、道具のない時の見方が失われる」
「宗教的な見方が、道具のない見方に近い、と」
「近いとは言えん。宗教も神学という道具を持っている。互いに補完できる、異なる道具だ。どちらかですべてを見ようとするのは、一つの目で奥行きを測ろうとするようなものだ」
だからここでは「聖餅虫」とは呼ばないのです、とセナラが言った。そして夫を静かに見つめる。
「あなたはずっとそう考えてきたのね」
あれと一緒にな、と見えにくい目を逸らしながらカラドックが頷いた。
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⋄聖なる群れと長い夜
滞在が長くなった夜、私は一人で地下室に降りた。早朝、日中、夕方、夜、深夜と観察は進んでいる。聖なる群れは夜でも動いていた。昼間の動きよりは穏やかで、表面の揺れが小さく、全体がゆっくりとした周期で収縮と弛緩を繰り返す。眠っているのか、あるいはこれが夜の通常の状態なのか。
ランタンの芯を少し下げて光を弱める。薄暗い中で見ると気づいた。皿の中が僅かに発光している。ランタンの光の反射ではない、内発的な光だ。非常に弱く、ランタンを明るくしていれば見えないほどの光だが、確かにそこにある。青白い光が群体の動きに合わせて強くなったり弱くなったりしていた。
学者として、「聖餅虫はスライムではないか」との結論を補強するために事実を歪めるべきではない。しかし、ユールハーゲンの灯り玉に似ている。そういう印象を抱いたのは確かである。
私は長い時間、その光を見ていた。途中からは観察という思考が止まり、ただぼんやりと見つめていた。
四百年ここにある、あるいは四百年ここで続いてきた群体が、今この瞬間も動いている。私がここにいることを知っている。感じている。そして私になにがしかの反応を返して光っている。
この現象を「神聖」と呼びたくなる感情を、私は否定できない。
学術的な分類の言語では「生物発光を持つ微細生物群体」と書ける。それは事象として正確だ。しかし見えるものの表現として充分とは思えない。この光を見ながら感じている想いに、生物発光という語は意味をなさない。
「一つの目で奥行きを測ろうとするようなもの」
カラドックの言葉を繰り返す。聖なる群れが小さくさざめいた。
***
⋄最終日の朝
出発の朝。石皿の中で聖なる群れがいつものように動いていた。しかし今日の動きは少し速かった。昨日より活発だ。これが訪問者が去ることへの反応なのかは、去り行く訪問者である私には確認できない。しかしカラドックの記録の蓄積が示唆することは無視できないだろう。
階段をのぼると、セナラとカラドックが修道院の入口に立っていた。
「ファラマンさん、お気をつけて。神のご加護を」
「ありがとうございます」
「本が出たら一冊送ってくれ。あれに見せる」
「光栄です。王都で最も信頼の置ける配達員に届けてもらいます」
「カラドック、あなたは長い本を読めないでしょう」
「お前が読み上げてくれればいい」
「まあ」
呆れたような声を出すセナラに笑い、私は聖なる群れに関する章に栞を挟んでおくことを約束した。
本書の発行が無事にかなった二六三年、この世に生まれてから四十年を経た私は、本書をエルロウの境界修道院に宛てて送った。
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⋄後記
聖餅虫、境界修道院では「聖なる群れ」、学術的暫定名称Congregata sapiens(群体知性体)について、記録できた範囲での事実を整理する。
本種は無数の微細生物が高度に集合した群体であり、肉眼では液体状の一個体に見える。群体全体として情報処理と外界への反応が可能で、光刺激、温度変化、周囲の人間の存在に対して識別可能な反応を示す。夜間ないし暗所での微弱な生物発光が確認された。四百年以上にわたる継続的な生存記録があるが、群体としての連続性と個体の世代交代の関係は未解明。
危険度は確認された範囲では皆無。接触による悪影響なし。ただし接触や特に採取については境界修道院の管轄に服するべきであり、外部研究者の自己判断で行うことは倫理的に問題がある。
スライム科に近縁の群体型生物として分類するが、この分類が対象のすべてを記述するとは考えない。宗教的文脈における神聖なものとしての理解と、学術的分類としての微細生物群体という理解は、相互に否定しない。両方の言語で記述することが最も誠実な記録だと判断する。
最後に、カラドックの観察記録について触れておく。学術訓練を受けていない一人の老人が、四十年近くもの間毎日継続した記録は、専門的な研究論文でこそないが、それを超える価値を持っていると私は考える。継続の中でしか見えないものがある。研究者が数週間の滞在で見られるのは、その表面にすぎない。
カラドックの記録は私が執筆できる以上のことを含んでいる。
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次章への案内
聖都を離れ、海へ向かう。海洋国家の沖合には船乗りが「海神」と崇める存在がいるという。個体境界が存在しない、海そのもののような巨大な群体と、その表面に乗る小型スライムの話だ。大いに船酔いに苦しむ筆者の有り様も記録する。




