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流体なる隣人たち -諸邦スライム巡見録  作者: Ono


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第三章 灯り玉

旅先:ユールハーゲン、大陸北部・山岳地帯の寒村。王国歴二六〇年。


 ***


 山を越えると世界は一変する。世界とは、魔物の生態、言語、食事、衣服、文化など、生き物の暮らしそれ自体だ。

 東街道の北端から分かれる峠道は見た目よりずっと厳しかった。馬車が通れる幅はなく、荷を背負ったモック・ラビィ一頭と私とで石ころだらけの細道を半日かけて登った。案内をしてくれるペレという名の若いガイドは、無口だが足の速い猟師だった。私が息切れするたびに振り返り、特に気の毒そうでもなく苛立つでもなく慣れた様子で待っていた。

 峠の頂上に立った時、南側とはまるで違う風が吹きつけた。乾いて、刃のように冷たく容赦がない。夏の盛りだというのに息が少し白くなるような気がした。


 眼下に広がる北の谷は、南の緑とは異なる色をしていた。針葉樹の深い緑と岩肌の灰色、集落の茅葺き屋根の褐色が低い雲の下でひっそりと重なっている。

「あそこがユールハーゲンだ」

「小さいですね」

「いつも百三十人くらい。冬は百二十人になる」

「十人はどこへ行くんですか?」

「死ぬ」

「え」

 事もなげに言われて絶句する。ペレは「毎年だ」と淡々と続けた。私は黙って下り始めた。


 ***


 ⋄ユールハーゲンの夜


 集落に着いたのは夕刻だった。宿と呼べるものはなく、ペレが案内してくれたのは村の中央近くにある大きめの民家だった。ここが宿泊所を兼ねているらしい。入口の上に乾燥した野草の束が吊るされており、これが「泊ってもよい」の印らしい。

 扉を開けると、暖炉の熱気と羊の獣臭と食事の匂いが一気に押し寄せてくる。南の宿場町との差は歴然としていたが、寒さで冷えた体にはその乱雑な温かさが有り難かった。

 主人はヘルガという五十代の女性で、体格に相応しいよく通る大きな声の持ち主だった。私を一瞥してから「南の人か」と尋ね、私が頷くと「南の人は寒さに弱い。余分に毛布を取りなさい」と言った。挨拶とも説明ともつかない指示を受け流しながら私はモック・ラビィの背から荷物を降ろし、部屋に運んだ。


 部屋は二階の端、屋根に近い小さな空間だった。藁を詰めた寝台と小さな丸テーブル、椅子が二脚。窓は厚い木の鎧戸で閉じられており、隙間から冷気が忍び込んでくる。私はランタンに火を入れようとした。そこでふと仄かな明るさを自覚する。

 部屋の隅、天井に近い梁の辺りに何かがいる。小さな淡い光の点だった。最初は反射かと思った。ランタンの光が何かに当たっているのかと。しかし私のランタンにはまだ火が入っていないし、部屋は暗い。なのにそこだけ、廊下から差し込むのとは違う、青白い静かな光があるのだ。


 私は部屋の扉を閉めて暗闇に目を凝らした。

 それは浮いていた。梁に触れることなく空中に静止して、内側から薄く光を放っている。大きさは両手で作った椀ほど。形は完全な球ではなく、やや歪んだ不定形で、表面は滑らかに見えるが、よく見ると非常に細かい脈動がある。まるで心臓の拍動のような、ゆっくりとした周期の収縮と弛緩を繰り返していた。光は一定ではない。強さが微細に揺れており、その揺れがまた何かの呼吸を連想させる。


 私が見つめていると、それがこちらに向きを変えた。――向きがあるのかどうかも分からないが、光の中心が私のほうを向いたような気がしたのだ。そして色が少し変わった。青白から、僅かに緑みがかった色へ。

 三十年来スライムを研究してきたが、この瞬間、子供時代の路地裏で感じたのと同じ感覚が戻ってきた。それに手を伸ばしたかった。


 ***


 ⋄ヘルガの説明


 夕食の席でヘルガに尋ねた。

「部屋に光るものがいます。スライムの一種ですか」

 ヘルガは羊の煮込みを配膳しながら、特に驚いた様子もなく答えた。

「灯り玉だよ。あんたの部屋にいるのはウィルフという名前だ」

「名前がついているんですね」

「うちには三体いるんだ。だから区別がいるだろ。ウィルフ、マグナ、そしてコル。コルは一番古くて、私が子供の頃からいる」


 ヘルガによれば、ユールハーゲンではすべての家に灯り玉が一体か二体、多い家では五体以上いるという。この地では数百年以上前から当たり前のように家の中に住んでいて、村人たちは特別なものとして扱っておらず、家具や家畜と同じように、ただそこにあるものとして生活している。

 怖くないんですかと尋ねてしまってから、少し失礼だったかと思った。しかしヘルガは肩を竦めた。

「あんたランタンを怖がるのかい」

「いいえ」

「同じことだよ。ウィルフはランタンより静かだし、油も要らない。冬の長い夜にもあれが部屋にいるだけで明るい。ま、暖かくはないから暖炉に火を入れるけどね。それだけのことさ」

 それだけのことという軽さが印象的だった。軽蔑や諦めからくる軽さではなく、長年の親しみが磨耗させた愛情の手垢のようなものだ。


 ***


 ⋄灯り玉の生態


 灯り玉、暫定学名Luminotheca suspensa(浮遊発光粘体)は、私がこれまで見てきたどのスライムとも異なる特徴を持つ。

 まず、浮遊するのである。スライムのほとんどは地面や壁面に接触して移動するが、灯り玉は何にも触れることなく空中に静止できる。開放的な空間よりも梁や棚の近くといった「囲まれた感」のある場所を好んでいるようだ。移動速度は非常に遅く、急ぎ移動しているらしい時でも人の歩行速度の四分の一程度にしか見えない。ふわふわ漂うという形容が相応しい。

 次に、発光する。燐光を放つ種はいくらかいるが、照明として機能するほどの光度は稀だ。体内で生物発光を行っているとみられ、光源は体の内部に複数点在しているようである。外から見ると均一に見えるが、光量を絞って暗い部屋で観察すると、内部にいくつかの明るい核のようなものが見える。これが生命核に相当するのか、単なる発光器官なのかは、現時点では判断できない。

 発光の色は通常状態で青白色から淡い水色の間にある。しかし――これが最も興味深い特徴だが、色は一定ではない。


 私は三日間、部屋のウィルフとできる限り共に過ごし、様々な状況での色の変化を記録した。

 静止している朝方には青白。私が食事をしている間、近くに浮いている時は僅かに緑がかる。私が本を読んで長時間沈黙している時には変化なし、青白のまま。私が独り言(注:研究者の職業病である)を言った時にはやや明るくなり、緑みが増した。私が咳をした時、一瞬紫がかった色に変化し、すぐに戻った。

 消灯して私が眠ろうとしている時には光量が落ち、光そのものが薄くなる。まるで一緒に眠ろうとしているかのように。これは何を意味するのか。


 ***


 ⋄感情と色彩の問題


 四日目の朝、ヘルガに色の変化について尋ねた。

 ああ、と彼女はなんてことのないように言った。

「緑は機嫌がいい時だよ。紫は驚いたんだ。赤くなるのはめったにないけど、怖がってる。青白いのはいつもの状態。光が消えかかるのは、弱ってるか眠ってるか」

「どうやって知ったんですか」

「知ったというより、長年一緒にいれば分かるさ。ウィルフがきたのは十年前だが、コルとは四十年以上だ。コルがどう感じてるかなんて、見れば分かる」

 ヘルガはさらりと言ったが、私には軽くない情報だった。


 スライムが感情を持つかどうかという問いは学会でも長く議論されている。感情という語を用いる場合、それは主観的な経験の存在を前提とするが、スライムに主観的な経験があるかは証明も反証もできない。意思の疎通ができないからだ。しかし外部刺激に対して体色や体形で応答するという事実は、少なくとも情動に類する反応機構が存在することを示唆している。

 灯り玉の色彩変化が示しているのは環境の物理的変化、すなわち温度と光量への反応ではない。ヘルガの言う「機嫌がいい」や「怖がってる」は、社会的文脈に基づいた反応だ。誰かが近くにいる。その誰かが何をしているか。声のトーンや身体の動き。そういった情報を処理した結果として色を変えている。

 これは「情動」と呼んで差し支えないと私は考える。

 もちろん、ヘルガの解釈が正しいかどうかは別問題として考慮しなければならない。人間は他者の行動に意味を読み取りすぎる傾向があり、他の魔動植物に感情を投影することはよくある。しかし十日間の観察を通じても私の印象は変わらなかった。

 灯り玉は少なくとも、周囲の人間に対して何らかの形で「反応」している。単純な刺激反射ではなく、文脈を読んでいる何かがそこにあるのだった。


 ***


 ⋄姉弟のこと


 五日目の夕方、食堂に二人の子供が入ってきた。八歳くらいの女の子と、五歳か六歳くらいの男の子。姉弟らしく、顔立ちが似ていた。彼らはヘルガの姪の子供たちで、隣の家に住んでいるという。しょっちゅう遊びにているようで、ヘルガは追い出しもせず、「夕飯前に菓子は駄目だよ」とだけ言い置いて厨房に戻っていった。

 女の子の名前はシーヴ、男の子はユカといった。二人は遠慮がちに私を観察し――子供は正直で、見ていることを隠さない――それからシーヴが直接聞いてきた。

「おじさんは南の人?」

「そうですよ」

「スライムを調べにきたの」

「ええ。よく分かりましたね」

「ペレのお父さんが言ってた」

 小さな村は得てして情報の回るのが早いものだ。


「どのスライムを調べてるの」

「灯り玉です。ウィルフをお借りして観察しています」

 その瞬間、ユカが初めて声をあげた。それまで姉の後ろに半ば以上隠れていたのに、突然前に出てきて、真剣な顔で私を見た。

「ウィルフは僕のともだちだよ」

 五歳の貴重な言葉として、私はそれを記録に残した。


 ***


 ⋄ともだち、という言葉


 以降の三日間、シーヴとユカはほぼ毎日遊びにきた。正確には、彼らはいつもここにいるのであり、私のほうが来客ではある。

 二人は灯り玉たち、ウィルフだけでなく、マグナとコルとも非常に気さくに付き合っていた。ユカは気が向くと手を伸ばし、浮いている灯り玉の下に手のひらを差し出す。すると灯り玉はゆっくりと降りてきて、彼女の手のひらの真上、触れるか触れないかの距離に静止する。その状態でユカはいろいろなことを話しかけ、灯り玉はその都度色を変えた。

「お話をしてるんですか」

「うん。今日ね、ミルが川に落ちたんだよ、って」

「ミル?」

「ヨーンの家の犬。ウィルフは外に出ないから、外のこと知らないでしょ。だから教えてあげるの」

 灯り玉はその間、緑みがかった色でゆったりと光っていた。


 シーヴは私の観察記録を覗き込んで、書いてあることを読もうとした。字が読めるのは村では珍しいらしく、自慢げな様子が微笑ましい。

「おじさん、この『感情に……反応、きこう?』って何ですか」

「かんじょうにるいするはんのうきこう。灯り玉が感情を持っているかもしれない、ということを難しい言葉で書いたものです」

「感情? 持ってるに決まってるじゃない」

 彼女は躊躇いなく言った。

「どうして分かるんですか?」

「だってウィルフがね、悲しそうにしてる時があるの。お母さんが死んだ時、コルの光がずっと小さくなってた。一週間くらい」

「……ウィルフとお母さんは仲が良かったんですか」

「そうだよ。ウィルフはずっとうちにいたの。お母さんが生まれる前からいたんだって、おばあちゃんが言ってた。それでヘルガおばちゃんのとこにきたの」


 ***


 ⋄スライムへの恐怖を持たない民


 七日目、私はペレに頼んで村を案内してもらった。

 ユールハーゲンの家々を訪ね歩くと、ヘルガが言った通りほとんどすべての家に灯り玉がいた。老夫婦の家では暖炉の上の梁に三体が並んでいた。若い夫婦の家では寝室の天井近くに一体、それが揺れながら明るく光っているのを「子供が生まれてから機嫌がいいんだ」と父親が嬉しそうに言った。鍛冶屋の工房には二体いたが、火を使う仕事場では高温を嫌うのか、隅の低い棚の上で光量を落として静かにしていた。鍛冶師は「あいつらは火が好きじゃないから、仕事中は邪魔しないようにしてるのさ」と言い、それが鍛冶師から灯り玉への配慮なのか、灯り玉が自発的にそうしているのかは判断がつかなかった。

 誰もが、灯り玉について話す時には隣人を語るように自然な口調だった。怖れがない。驚きもない。珍しがりもしない。ただそこにあるという扱い。

 多くの場合、スライムは人の社会にある異物として扱われていた。有用であれば許容される異物、有害であれば排除される異物だ。しかしユールハーゲンでは、灯り玉は異物ではなく、風景の一つにすぎない。


 村の長老に話を聞く機会があった。七十を超えた老人で、若い頃は遠征に出ていたという。

「外の土地ではスライムは嫌われますね」

「知っていますよ。私も若い頃、外の街で灯り玉の話をして笑われました。「スライムと一緒に寝るのか」と。こちらが驚きました。何がおかしいのか分からなかったから」

「なぜここでは恐怖がないんでしょうか」

「さて。知らないものを怖れるのは本能です。しかしここでは生まれた時から灯り玉がそこにいる。赤ん坊が最初に見る光は、大抵が灯り玉の光です。母親が夜中に授乳する時、灯り玉が近くにいて照らしてくれる。そういう形で命を始めた子供は、灯り玉を怖れない。彼らを知っているから」

「恐怖は無知、あるいは未知からくる、と」

「そう言い換えることもできますな。ただ私はむしろ、知ることが愛することの始まりだ、と言ったほうが、気分がよいです」


 ***


 ⋄去り際のウィルフ


 十日目、出発の前夜に私はウィルフと最後の時間を過ごした。観察記録はすでにまとめてある。荷造りも終えている。あとは明朝ペレと共に峠を越えるだけだ。

 ランタンを消して、ウィルフの光だけで部屋にいた。青白い、静かな光。天井の梁の近くで揺れながら脈動している。十日間、この光と同じ部屋で眠り、目を覚まし、記録を書いた。初日に感じた神秘は親しみに変わっていた。


 ウィルフが少しずつ降りてきた。私の頭上、腕の届く高さまできて静止する。色が変わった。青白から緑へ。落ち着いた、深みのある緑だ。

 私は手を伸ばした。指先が灯り玉の表面に触れる。冷たくはなかった。体温よりやや低いくらいの、ひんやりとした柔らかさ。弾力があり、触れた指の形に少し凹んで、優しく押し返してくる。水に触れるともゼリーに触れるとも違う、他に得たことのない感触だった。

 光が一瞬強くなった。私は驚かせないようそっと手を引いた。ウィルフはまた梁の近くに戻っていき、青白の光に戻って揺れていた。

 その灯りで記録帳を開き、最後の一行を書きつける。

 ウィルフに触れた。温かくはなかった。しかしそこにウィルフの感触があった。


 ***


 ⋄観察後記


 ユールハーゲンを発って峠を越えながら、私はずっとあることを考えていた。

 スライムへの恐怖がない社会ではスライムを特別視しない。特別視しないから観察が丁寧になる。観察が丁寧だから、色の変化の意味を読み取れる。そうして関係が育ち、名前がつき、死を悼む。

 カルセダーンの下水道でマギーは「律義だ」と言った。セアルラスのイェルマは「無理をさせない」と言った。そしてユールハーゲンのユカは「ともだちだよ」と言った。

 この三つの言葉はそれぞれ異なる関係性を表しているが、根っこは同じだと私は思う。見ていること。関心を持つこと。そこに何かがいると、認めること。


 スライムが「何者か」という問いに答えるためには、まず先に私たちが「何者か」という問いのほうが急を要するのかもしれない。スライムとの関係は人間の認識の鏡だ。そこに映っているのはスライムだけでなく、見ている者自身でもある。

 峠の頂上から見ると、ユールハーゲンは谷の低いところに沈んでいた。曇り空の下、家々の窓に仄かな光が見える。灯り玉たちの光か、それともランタンの光か、ここからでは距離があって判別できない。しかしどちらでもよい。あれは暮らしの灯りである。


 ***


次章への案内

南へ折り返し、今度は辺境の地へ。人里を離れて本書はいよいよ危険種の領域へと踏み込むこととなる。湿原の白い霧の中に棲む、骨を溶かすという噂のスライムを追って。旅はいつも、気持ちよく終わらない章を含んでいる。

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