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流体なる隣人たち -諸邦スライム巡見録  作者: Ono


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第四章 白喰い

旅先:ヴァイスデン湿原、帝国南辺境・立入制限区画。王国歴二四四年。


 ***


 この章を書くことを私は長い間避けていた。

 序章から前章まで、私はスライムへの愛着を動機に執筆してきた。それは本心であり、本書の基調でもある。しかしこの章に限っては、愛着という語は正確ではない。ヴァイスデン湿原で起きたことは私の研究者生活における最大の失敗であり、同時に他者の命を代償にした学びであった。

 一切を美化するつもりはない。記録として残す義務があると判断した。


 ***


 ⋄出発の経緯


 ヴァイスデン湿原は帝国南辺境に広がる広大な低湿地帯だ。面積はおよそ王都の十倍以上にもなる。その大部分は未踏に近く、帝国の行政区分上は立入制限区画に指定されている。理由は一つではないが、最大の理由は「白喰い」と呼ばれるスライムの存在だ。

 白喰いの報告は古い。三百年前の辺境調査記録にすでに「霧の如く散じ、骨を残さず喰らう白き魔物」という記述がある。その後も断続的に目撃報告と犠牲者の記録が蓄積され、帝国は五十年前に当該区域への一般立入を法で禁じし。現在では許可なく湿原に入った場合、帝国法により厳しい罰則が課される。


 私は研究者資格と王立研究院の紹介状を用いて特別調査許可を取得した。手続きには四ヵ月を要した。

 辺境の街シュラーゲで現地ガイドを雇う。名はバルドといった。四十代半ば、がっしりとした体格で、顎に白髪交じりの無精髭を生やしていた。湿原猟師として二十年の経験があり、帝国から公認された数少ない湿原案内人の一人だった。

 初対面で彼は言った。

「湿原では俺の指示に従ってもらう。研究者だろうと貴族だろうと関係ない。指示に従えないなら引き受けない」

 私はその条件を了承した。少なくとも、従うつもりで。


 ***


 ⋄ヴァイスデン湿原の入口


 湿原の縁に立った最初の朝は穏やかだった。空は低く、灰色の雲が一面に広がっていたが、雨が降る様子はなかった。空気は湿っており、足許の黒い泥が水を含んで重たい。視界の先には背の低い葦と水面、時折立ちのぼる白い霧の帯が見える。

 鳥の声がまったく聞こえなかった。それが最初の違和感だった。湿地には生物が溢れており、それを狙う水鳥型の魔物がいるはずだ。しかしここはあまりにも静かだった。

「鳥がいませんね」

「いない。ここで生きていけるものは限られている」

「白喰いが食い尽くすから?」

「そうじゃない。白喰いは他の魔物を追いかけて狩るほど機動性がない。だがここの水は強い酸性に偏っている。白喰いの分泌物が長年にわたって溶け出している。それに耐えられる生き物しか棲めない」

 これは興味深い観察だった。白喰いは生態系の頂点に立つが、それは捕食という意味においてではなく、環境そのものを変容させているという意味においてなのだ。一種の生物が水質を変え、それによって棲める生物の種が絞られ、その環境が白喰いにとっては結果的に最適化される。これを生態系工学と呼ぶ研究者もいる。


 私たちは岸辺から入り、バルドが用意した長靴の上に特製の防護スキンを装着した。白喰いの酸に対してある程度の耐性が見込まれる素材で、帝国の研究機関が開発したものだった。完全ではないが、多少の接触程度なら皮膚への影響を軽減できる。

「しかし完全ではない、というのはどの程度なんでしょう」

「短時間なら大丈夫だ。長時間触れれば意味がない」

 バルドは言い、それ以上は説明しなかった。要するに「たとえ防護スキン越しであっても触れるな」と理解すべきだろう。


 ***


 ⋄白喰いの初観察


 湿原に入ってしばらく探索し、最初の個体を見た。水面の低い場所、葦の根元の近くだ。最初は白い泡のように見えた。水面の一部が白く濁り、縁がぼんやりとしている。サイズは平たく広がった状態で民家の食卓ほど。厚みはほとんどなく、水面と区別がつきにくい。

「あそこだ。動くな」

 バルドが囁く声はそれまでのトーンとは違う、平板な声だった。


 白喰い、暫定学名Acida nebulosa(酸霧粘体)は白い。乳白色とも言えるが、より正確には透明に近い白で、水を通して底の泥が見えそうなのに見えない、という感じだ。表面に光沢はなく、光を吸い込むような不思議な質感がある。

 スライムは静止していた。他のスライム種に見られるような拍動もなく、葦の根元に沿って広がり、水面に溶け込むように存在している。

 私が見つめていると端の部分が僅かに動いた。収縮というよりは拡張だ。触手を伸ばす動きではなく、もっと緩やかに全体が膨張した。

「今、少し大きくなりましたね」

「俺たちに気づいたのかもしれない。離れるぞ」

 その日の観察はそこで終わりにした。


 ***


 ⋄深部


 翌日、私たちはより湿原の奥へと進んだ。バルドは常に先行し、足許を確認してから私に合図を出した。私は彼の足跡に重ねて進む。その繰り返しだった。進みながら彼は白喰いの痕跡の見分け方を教えてくれた。

 岩肌が白く浸食されている場所。金属製の杭が異様に細くなっている場所――かつて誰かが打ち込んだ境界杭が、酸によって少しずつ溶かされている。枯れた葦の茎が根元から断ち切られたように消えている場所。そして最も注意すべき徴候として、空気に微かな刺激臭がある場所だ。

「刺激臭が強くなったら即座に退く。あれが霧状に分散している時の徴だ」

「あのスライムは霧状に分散するんですか」

「そうだ。普段は液体状だが、刺激を受けた時、あるいは特定の条件下で細かい霧のように空中に散る。その状態でも酸性は保たれる。粘膜には特に効く。目、鼻、口」

 私は思わず首元の布を確認した。


 午後、複数の個体が集まっている場面に出くわした。開けた水面に大小六体の白喰いが点在している。大きいものは昨日のものよりさらに一回り大きく、しかし小さいものはそれこそ手のひらほどの面積しかない。それぞれが緩やかに移動しており、時折接近し、接触し、また離れる。融合しているのか、情報交換のようなものをしているのか。

 私は観察記録を書きながら、じりじりと前に出た。バルドが手を上げて制止の合図をした。

 私は仕方なく止まった。しかし足を止めただけで、視線は個体群に向けたまま、記録を続けていた。


 ***


 ⋄約束


 その朝は眠りが浅かった。頭の中が観察記録のことで満杯になっており、もう一歩だけ近づければ確認できることがいくつかあった。白喰いの体内に核らしき構造が見えるかどうか。霧状分散の瞬間を記録できるかどうか。接触した素材が実際にどの程度の速度で浸食されるかを、安全な距離から確認したい。

 その好奇心はいずれも「もう少し近ければ」満たせることだった。


 出発前の朝食で発されたバルドのいつも通り平坦な声を覚えている。

「今日は昨日より少し奥まで行く。ただし昨日より一段と慎重にいく。いいな」

「分かりました」

 分かっていた。分かって、それでも頭の中で計算していた。どこまで近づけば記録が取れるか。どこまでがバルドの許容範囲か。その二つの線の間に、自分の判断で動ける余地があるかどうか。

 今から思えば、その計算をし始めた時点で、私はすでに彼との約束を破っていた。


 ***


 ⋄愚行


 午後の中頃、私たちは湿原の深部に差しかかった。空気がひりつくような感覚があった。皮膚よりも鼻腔の奥のほうが痺れる。バルドは何度か足を止め、空気を嗅ぎ、慎重に方向を変えながら進んでいた。

 その時、私の目は大きな個体を捉えた。水面から半身を持ち上げている白喰いだった。これまで観察した中でも最大で、展開した面積で推定すると牛の体表面積を優に超える。水面に広がりながら、その端の一部を帆のように持ち上げていた。内部構造が透けて見えないか確認しようと私は双眼鏡を取り出した。


 バルドの足が止まった。

「ファラマン」

「見えますか、あれは――」

「下がれ」

 私は双眼鏡を下ろした。帆のように持ち上がっていた部分が崩れ始めていた。いや、散っていく。端のほうから細かい粒子のようなものが空中に放出され、白い靄のように広がる。

 霧状分散だ。見たかったものが、見られる。――そう思った。

 そして同時にバルドが「走れ」と言った。私は一瞬、動けなかった。その一瞬がすべてを断じた。


 ***


 ⋄結果


 私の記録はそこで途切れている。次に明瞭に覚えているのは、湿原の外、岸辺近くの乾いた地面に倒れていたことだった。目が焼けるように痛かった。右腕の防護スキンが一部溶けており、その下の皮膚が赤く爛れている。喉が痛く、声が出なかった。

 バルドは私を押しながら走った。霧状分散した白喰いの粒子が風に乗って私たちの方向に流れてきた。バルドはそれを察知し、私と白喰いの間に割り込みながら後退した。途中で私の目に粒子が触れた。バルドの左半身にも。私の右腕は、転倒した時に地面に残っていた個体に触れたのだろうと後で医師に言われた。


 私の目と喉の炎症は一週間の治療で完治した。右腕の爛れは浅かったが、完全に消えるまで一ヵ月かかった。

 バルドは治療院には入らず、自宅の寝台に戻された。骨まで達した酸性の損傷はもはや治療の対象ではなかった。


 ***


 ⋄最後


 シュラーゲの医者の世話になりながら、私はバルドが生きている間に何も言えなかった。彼は自分が治療不可能であることを知っていた。

 謝罪の言葉は何度も頭の中で作った。しかし口にしようとするたびに、その言葉がいかに小さく、いかに私の側にとって都合のいい行為であるかに気づかされた。謝罪はこちらの罪悪感を和らげるためのものだ。失われゆくものは取り戻せない。

 息を引き取る間際、バルドは自身の溶けた半身を見ながら平坦に言った。

「二十年やってきて初めて怪我をした」

「私のせいです」

「お前が逃げるのを躊躇った。その一瞬が長かった。それは事実だ」

 彼はそれ以上、私を責めなかった。怒りのないことが、責められるよりも辛かった。


「なぜ躊躇った? 死ぬのはお前だったかもしれない」

「……見たかったんです。霧状分散の瞬間を。見れば記録できる。記録すれば知識になる。知識になれば次の研究者が安全に調査できる。そう思っていました。浅はかでした」

「完全に間違っているとは言えない。しかし一部間違ってもいた」

「はい」

「危険な場で計算するな。旅の前に全部やっておけ。その場では、指示に従うだけだ。それが生きて帰る方法だ」

 私は手帳にバルドの最期の言葉を書き留めた。情報ではなく、戒めとして。


 ***


 ⋄白喰いという存在について


 怪我が癒えた後、私は改めて白喰いに関する既存の資料を読み直した。

 帝国の研究機関がまとめた報告書、辺境警備隊の記録、そして過去の犠牲者リスト。白喰いによる確認された死亡例は、過去二百年で八十七件。行方不明者はその三倍以上とされる。行方不明の多くは遺体が発見されていないが、それは当然で、白喰いに触れた遺体は長時間で完全に溶解する。骨も残らない。

 八十七件目の死亡例にはバルドの名前が加えられた。私の名前はない。しかし八十八件目、あるいはその先の事例になる可能性はある。


 白喰いは危険だ。これは明白な事実であり、曖昧にしてはいけない。本書で私はスライムへの親しみと理解を一貫して書いてきたが、だからといって危険を過小評価することは誠実ではない。

 しかし同時に、白喰いを「悪意ある存在」と呼ぶことも正しくない。

 彼らは私を攻撃しようとしたわけではない。霧状分散は防御あるいは繁殖のための行動であり、私がそこにいたことは偶然の不一致だった。白喰いの立場から見れば、自らの生存に関わる行動をしただけだ。

 危険であることと、敵対的であることは、異なる。

 この区別は白喰いだけでなく、自然全般について言えることだろう。山岳の嵐は人間を憎んでいない。深海の水圧は悪意を持たない。魔物も押し並べてそうであり、白喰いの酸もそうだ。それらはただ存在しており、何かがその存在と衝突する時、弱い側が傷つく。


 人間には準備と判断がある。それを怠ることが傷を呼ぶ。

 私の右腕の傷跡はいずれ薄くなるだろう。しかしバルドを失ったことを、私が忘れることは決してない。

 彼を死に追いやったのは、スライムの脅威ではなく、私の愚行であった。


 ***


 ⋄後記として


 ヴァイスデン湿原から離れる馬車の中、私は長い時間を窓の外を見て過ごした。

 好奇心は研究者の命だと信じていた。それがなければ研究など続かない。しかし好奇心は、制御を失った瞬間に傲慢に変わる。見たいという欲求は純粋なようだが、その純粋さは時に「何を犠牲にしてもいい」という論理に、知らないうちに転化し得る。

 私はあの一瞬、バルドの二十年の経験よりも自分の「知的」であるはずの衝動を優先した。それが取り戻すことの叶わぬ代償を支払わせた。


 本書のいくつかの章で、私はスライムと人間の関係を肯定的に描写してきた。その考えを撤回するつもりは今もない。人と魔物の歴史と共に積み重ねられた好奇心こそが、現在の安全な距離感と、穏やかな関係を作り上げたのだ。

 そして正直に書くならば、魔物学に犠牲者は付き物である。学者にせよ、それを守るガイドにせよ、過去に数えきれないほどの者たちが研究のために死に瀕し、時に帰らず、彼らの犠牲を以て成立した学説の中に彼らの名は残されていない。

 必要なのは、どのように見るかを学ぶことだ。知識を得るには代価が要る。その代価を誰が払うかについて、研究者は常に自覚的でなければならない。犠牲があったのならば、それを無駄にしてはならないのだ。絶対に。


 自分の過ちを告白したところで、私はバルドへの負債を返せない。せめてこの記録が、次に湿原に向かう誰かの一瞬の判断に、少しでも作用してくれれば。そう願う以外に、今の私にできることがない。


 ***


次章への案内

東へ、遠い砂漠へ。酸に続いて今度は熱と乾燥の地に向かう。そこにいるスライムは、昼間は死んでいるように見える。しかし夜になるとそれは砂の中を泳ぐという。隊商と共に旅をしながら、蜃気楼と幻覚の中で彼らを探した記録を次章で記す。

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