第二章 酵母粘体
旅先:セアルラス、東街道沿いの温暖な田舎町。王国歴二四七年。
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東街道をのんびりと馬車で進んでいると、丘の一つを越えた辺りから突然、空気の質が変わる。麦の甘みと焦げた皮の香ばしさ、それからもっと深く熟成した、丸みのある温かな匂いが風に乗って流れてくる。御者の老人は「セアルラスの鼻先」と呼んでいた。
「この匂いを嗅いだら、あと一刻で着く」
「パンの匂いですか」
「ああ。雨の日も夜中も変わらないんだ。あそこは一年中パンを焼いているから」
老人の言う一年中とは決して誇張ではない。セアルラスは人口にして五千に満たない小さな町だが、大陸でも有数の製パン産地として知られている。東街道の要所に位置し、南の小麦平野と北の港町を結ぶ中継地として数百年の歴史を持つ。
現在、町には大小合わせて十七の製パン工房が存在し、朝から晩まで窯の火が絶えないという。セアルラスのパンは王都の高級食料品店にも並び、遠征中の軍隊に大量供給される乾パンの多くはここで焼かれる。
しかし私が目指しているのはパンではない。工房の発酵槽にひっそりと住みついている者である。
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⋄町への到着と最初の手がかり
セアルラスの宿に荷を下ろしたのは夕刻だった。
宿の主人に「酵母粘体を研究したいのだが、工房を紹介してもらえないか」と告げると、彼は少し間を置いてから奇妙な顔をした。私の慣れ親しんだ困惑ではなく、何かを懐かしむような、あるいは微妙な問題に触れられたような表情だった。
「粘体というのは、例のあれのことですか。発酵槽の」
「そうです。学術的な調査が目的で、スライムに害を与えるつもりは一切ありません」
「害を与える、ねえ」
宿の主人は繰り返した。
「それを工房の主人たちに言えるかどうか、ですね。あれはちょっとした企業秘密みたいなものだから」
これが最初の手がかりだった。
翌早朝、私は町の中心にある市場広場に出た。セアルラスの朝は早い。夜明け前から窯に火が入り、日の出の頃には焼き立てのパンが市場に並ぶ。広場には工房の直売台が用意され、職人たちが自慢の品を並べていた。
私はパンを一つ買い、売り子の若い女性に世間話のついでに粘体のことを尋ねてみた。彼女は一瞬固まり、それをすぐに笑顔の奥へ隠した。
「発酵槽のスライムですか。さあ、私には分かりません」
別の台でも同じだった。言葉通り「知らない」というよりも、語りたくない、あるいは語ってよいか迷っている、という反応だ。
三台目でようやく違う答えが返ってきた。老齢の職人の頬は酔ったように赤く、白い前掛けに粉が染み込んでいる。彼は私のことをじろりと見てから言った。
「あんた王立研究院の人間か」
「客員調査員です」
「あいつらのことをどこで聞いた」
「宿の主人から少し。それ以上は何も」
広場の喧騒の中で、私たちの間だけ時間がゆっくりと流れるような気がした。
「昼過ぎに工房にこい。ただし、何かを持ち帰るとか、外に公表するとか、そういうことはしないと約束しろ」
「観察記録は残しますが、工房名も個人名も出しません」
男は一度だけ頷いた。彼の名前はアンガスといった。セアルラスで最も古い製パン工房の一つ、「アンガス窯」の四代目主人である。
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⋄アンガス窯の発酵室
昼食をとった後に訪ねると、アンガスは工房の奥へ案内してくれた。表の販売場と窯場を抜けてさらに奥の木の扉を開ける。空気がまた変わった。湿度が上がり、温度も上がり、例の匂いが一段と濃くなった。甘みと発酵の香り。生きた酵母の呼吸とでも言うべき有機的な温かさだ。そこが発酵室だった。
石造りの壁に沿って大きな木樽が並んでいる。中には発酵途中の生地や液種が入っており、それぞれ布で覆われている。天井は低く、外の光は入らないようだ。窓のない部屋の隅にランタンが一つあるだけで、部屋全体が黄みがかった仄かな光の中に沈んでいた。
アンガスは一番奥の樽の前で立ち止まった。
「ここだ」
私はランタンを近づけて覗き込んだ。そこに彼らがいた。樽の内側の上縁に沿って、薄い膜のような粘体が貼りついている。
色は乳白色に近い半透明で、内側からかすかに光を拡散させているように見える。分厚い部分ではランタンの灯りに似た黄色、薄い部分では向こうの木目が透けて見えるほど。表面は滑らかで光沢があり、非常にゆっくりと脈動していた。
発酵室全体の匂いの中でも、この樽の前だけ一際甘く、深かった。
「彼らはいつからいるんですか」
気づけば私は声を潜めていた。なぜか大きな声を出してはいけない気がしたのだ。
「祖父の代からだと聞いている。俺が子供の頃にはもういた。五十年以上は確実だろう」
「増えたり減ったりしますか」
「ある程度はな。季節で変わる。夏は大きくなって、冬は縮む。でも消えたことはない」
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⋄酵母との共生
私がセアルラスに滞在したのは十日間、アンガスの許可を得て発酵室に通い、粘体の観察を続けた。
彼らに正式な学名はまだない。文献を当たる限り、この型の粘体を学術的に記述した先行研究は存在しないか、あるいは存在するとしても私の手の届かないどこかに埋もれているのだ。暫定的にViscum fermentalis(発酵粘体)という仮称をつけた。組合員たちはシンプルに「ぬるもの」あるいは「槽の子」と呼んでいた。
観察から明らかになったことがいくつかある。
この粘体は酵母菌と非常に密接な関係を持っている。樽の中の液種から単純に採取した酵母菌の培養物と、粘体が接触している液種から採取した培養物を比較すると、後者のほうが酵母の活性が著しく高い。発酵が速く、泡立ちが強く、生成されるアルコールと炭酸の量が多くなる。
一体なぜか。これは私の仮説だが、酵母粘体は酵母菌の環境調整者として機能しているらしい。粘体の分泌物が酵母にとって最適な温度と酸性度を局所的に維持し、酵母の代謝を活性化させる何らかの物質を供給している可能性がある。粘体自身は酵母を食べているわけではなく、むしろ酵母が盛んに活動することで生じる代謝産物の一部を栄養源としているようだ。
つまり、これは共生関係である。粘体の活動が酵母のために環境を整え、酵母の活動は粘体に栄養を提供する。どちらが主でもどちらが従でもなく、両者は互いの存在を前提として、単独では到達できない高い活性状態を実現している。
アンガスにこの仮説を説明すると、彼は面倒そうに眉をひそめた。
「小うるさい言い方をするんだな。うちの親父は、『あいつがいると生地が喜ぶ』と言ってたぜ」
「同じことを言っていると思います」
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⋄パンの味と秘密
四日目の昼にアンガスが焼き立てのパンをくれた。それを食べた瞬間、私は黙りこくってしまった。
うまいという言葉では物足りなくなる。市場の売り台で買った同じ工房の品もすでに充分においしかったが、それとも明確に違う。「パンは焼き立てに限る」という文句とも違う。噛むほどに複雑な甘みが出てきて、皮のほろ苦さと絡み合い、後味が温かく続く。
「これは、あの樽から作ったものですか?」
「そうだ。うちには樽が八つある。あいつらがいるのはそのうちの三つだけだ。残りの五つは普通の発酵槽。食べ比べりゃ違いが分かる」
翌日、彼は普通の樽の液種で焼いたパンも出してくれた。もちろん、それも充分においしかったし、王都で並ぶに申し分のないものだ。しかし確かに違った。あるいは粘体を実際に観察したことによる愛着のせいかとも思ったが、明らかに味そのものが違うのだ。
アンガスは腕を組んで私を見ていた。
「分かるだろう」
「はい。普通のパンも優れた技術で焼かれているのに、スライムが介入したものは技術の先に到達しているような……」
「これがセアルラスの秘密だ。うちだけじゃない。町の主な工房はみんなあいつらを持ってる。規模の差はあるが、持っていない工房ってものはセアルラスにはない」
そう聞いていささか驚いた。まさか町全体の話だとまでは思っていなかったのだ。
「これはいつから広まったんですか」
「百五十年前か、二百年前か。それより昔か。記録がないからちゃんとしたことは分からない。ただ、ある年代から急にセアルラスのパンの評判が上がったって話は残ってる。その年代と一致しているかもしれないな」
私は王都に帰ってから会うべき幾人かの知人たちの顔を思い浮かべた。文化人類学者、民俗学者、家政学院の者たち。魔物学を修めるのに、魔物の知識だけでは進まない。
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⋄最高級酒造への道
七日目にアンガスが別の場所へ連れて行ってくれた。
町の外れ、小川沿いにある古い石造りの建物だ。看板はなく、外観は他の倉庫と見分けがつかない。しかし近づくとあの匂いがしてきた。甘くて深い、発酵の匂いだ。
中に入ると、そこは醸造所だった。「セアルラス蜜麦酒」の名で知られる高級酒の製造所である。王都の高級酒場では一杯の値が小型金貨一枚を超えると聞く。その醸造所にこそ、セアルラスで最も多くの酵母粘体が住んでいた。
醸造所主のイェルマという女性が醗酵室へ案内してくれる。四十代で、パンの甘い焼き色が移ったような琥珀色の瞳、声は低くて落ち着いていた。彼女は粘体との付き合いを淡々と説明してくれた。
「うちには十三体います。全部に名前がついてますよ」
「名前を?」
「代々の当主がつけてきたんです。今いるものの中で一番古いのは『トルー』ですね。樽の角の一番大きいやつ。私の曾祖母がつけた名前です」
イェルマはランタンを掲げて奥の樽を照らしてくれた。トルーは確かに大きかった。樽の内壁の四分の一を覆うほどの面積があり、縁の厚い部分は指の三本分の厚みがある。表面の脈動は他のものより力強く、光の拡散も豊かだった。
「曾祖母が当主になったのが七十二年前。でもその前から『引き継いだ』と書いてあるから、百年以上は確実でしょうか。ひょっとしたらこの醸造所の創業と同じくらい古いかもしれません。となると二百年ですね」
「二百年……」
私はトルーをしばらく見つめて過去に想いを馳せた。この脈動が二百年続いているとしたら。この古い石壁の中で、戦争があり、飢饉があり、当主が何代も代わり、世の中が何度もひっくり返っては戻るのを、この樽の中からずっと見続けていたとしたら。
イェルマは静かに言った。
「うちの酒が良いのは腕だと思いたいですが、トルーたちのおかげでもある。それは認めています。だから大切にします。具合が悪そうな時……萎んで見える時は酒造を控えます。無理はさせない」
「スライムにも体調が悪い時があるんですか」
「ええ。真冬には特に。そういう時は温度を少し上げてやるとまた戻ります。何が効くか、長年付き合ってきた経験で分かってくる」
積雪期に樽の中でしょげ返るスライムたち、暖炉に多めの薪をくべるイェルマ、そうして息を吹き返す彼ら。そんな光景を想像すると何やら微笑ましい。
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⋄人は恩恵を受けると魔物とは呼ばなくなる
八日目の夜、宿の食堂でアンガスと遅い夕食を食べながら、私は疑問を口にした。
「他の町ではスライム種は大抵が嫌われ者で、駆除の対象になります。なぜセアルラスの粘体は違うんでしょう」
アンガスは麦酒のジョッキを置いて、少し考える。
「嫌われるスライムと好かれるスライムの違いは、あいつらじゃなくて俺たちの側にあるんじゃないか」
「どういう意味ですか」
「俺たちはあいつらを『魔物』とは呼ばない。役に立っていると気づかないか、役に立っていない時、害になる時、そいつらを『魔物』と呼ぶ。ラベルは俺たちが貼るんであって、あいつらは変わらない」
私はその言葉を記録に書き留めた。そして宿に戻って整理をしながら、それが逆もまた然りかもしれないとも思った。
好かれているから役に立っていることに気づける、という順序も成立するのではないか。下水道のマギーが青灰スライムを「律義だ」と言った時、彼女はスライムの役割を功利的に計算していたわけではなかった。長年共にいる中で愛着とも言える感情が先にあり、その感情が観察を丁寧にさせ、役割への気づきを生んだ。
アンガスの工房でも、醸造所でも、粘体たちは名前を持っていた。名前は感情の印だ。功利の対象には、人は意味を持つ名前をつけない。
尤も、この観察は一方向にしか働かない。
感情の印として名前がついているから殺さない事情は確かにある。しかし名前がついていない、あるいは恐怖や嫌悪という感情によって名づけられた無数のスライムが、今この瞬間にも各地で駆除されている。どのような名前を与えるかは出会う人間の側の問題であって、スライム自身の本質には関係がないことだ。
この非対称性はスライムに限らず多くの生き物に当てはまる。
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⋄別れ際のアンガス
十日目の朝、出発前にアンガスの工房へ挨拶に行った。彼は窯の前で仕事中だったが、手を止めて玄関まで出てきてくれた。そして焼き立てのパンを一つ、旅の土産だと言って渡してくれた。さらに小さな陶器の小瓶も一緒に。
「これは?」
「液種だ。あの樽の酵母を少し分けてやる。旅先でパンを焼くなら使えるかもしれない。尤も、あいつらは入ってないけどな。あれは持ち出せない」
「門外不出ですね」
「というより、出て行かないんだ。昔、あいつらを別の容器に移して隣町に運ぼうとしたやつがいた。でも半日後には、移した先でただの白い膜になった。死んだのか仮死なのかは分からんが、樽に戻してやるとまた戻ったらしい」
「なるほど」
これは重要な観察だった。酵母粘体は特定の樽、あるいは特定の環境に深く根づいており、そこから切り離すことができない。場所と一体の存在であるとも言える。
「だから秘密なんですか。持ち出せないから、工房ごと移転でもしない限り、意味がない」
「そういうことだ。セアルラスのパンがここでしか作れない理由の一つはそれだ」
アンガスはそう言ってから照れくさそうに続けた。
「まあ、職人の腕もある。それは言っておく」
「もちろん」
スライムをパン作りに役立てるのもまた、職人の技術あってこそのものだった。
私は小瓶を大切にしまい、パンを抱えて馬車に乗った。離れゆくセアルラスを振り返ると、建ち並ぶ工房の煙が朝の空へ薄くたなびいていた。あの煙の下、発酵室の静かな暗闇の中で、今日も粘体たちが脈動している。名前のあるものも、名前のないものも。
やがて柔らかな風とともに甘い匂いが遠ざかっていった。
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⋄後記
観察のまとめとして、いくつかの基礎的な事実を記録しておく。
酵母粘体、暫定学名Viscum fermentalis(発酵粘体)は、糖分と酵母代謝産物の豊富な環境を好む小型定着型スライムである。体色は乳白色から淡黄色で、内部からの弱い光散乱によって半透明に見える。定着性が非常に強く、一度根を下ろした場所から自発的に移動することはほとんどない。
危険性はないに等しい。強酸性でも強アルカリ性でも腐食性でもなく、分泌物は主に糖類と有機酸から構成され、むしろ食品加工に有益だ。天敵は不明だが、石灰などのアルカリ性物質への暴露で急激に衰弱するようである。
なお、セアルラスを離れた翌朝、私はアンガスがくれた液種でパンを焼いた。旅の野宿でこしらえた粗末なものだったが、それでも充分においしかった。しかしやはりスライムが育てたパンの味には届かなかった。定義可能な差異なのか、私の愛着ゆえの差異なのかは不明である。
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次章への案内
東街道をさらに北上し、山の向こうへ。大陸北部の寒村では夜になると家の中に灯りが浮かぶ。窓の外から見ればただの蝋燭の光のように見えるが、その正体は別のものだ。




