第一章 青灰スライム
旅先:巨大都市カルセダーン、地下水路区画。王国歴二四五年。
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よく知られているように、カルセダーンは大陸でも指折りの巨大都市だ。人口は三十万とも五十万とも言われ、正確な数字を知る者はおそらく誰もいない。城壁の内側には王侯の宮殿から最底辺の貧民街まであらゆる階層の人間が折り重なるように生きており、その折り重なった生の総体が毎日おびただしい量の廃棄物を生み出す。生ゴミ、汚水、屠殺場の血、染物屋の廃液、鞣し工房の残滓、そして言うまでもなく、三十万人分の排泄物。
これらは一体どこへ行くのか。もちろん地下水路である。
カルセダーンの地下には数百年かけて掘り継がれた水路網が張り巡らされている。総延長の正確な記録はないが、地下水路を管理する王都水路組合の古い台帳によれば、主要幹線だけで王都外壁の周囲を三周できるだけの長さがあるという。その細い毛細血管にも似た枝道まで含めれば、カルセダーンの地下はもはや都市の影絵ではなく、もう一つ別の都市と呼ぶべきかもしれない。
私はその都市の下へと降りた。目的は、暗き水路に住む者に会うためである。
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⋄地下への降口
水路組合の案内人として同行してくれたのはガウドという名の五十がらみの男だった。二十六年のベテランガイドで、顔の右半分に古い火傷跡がある強面。革の厚いエプロンを常に着用していた。私が研究者の身分を証明する書状を見せると、彼は一瞥して言った。
「魔物の先生か。しかもスライム?」
「ええ、そうです」
「変わりモンだな」
それが彼の最初の、そして要約的な感想だった。
降口は城壁に近い裏路地の石畳の下にあった。外から見ればただの排水溝だが、蓋を持ち上げると鉄製の梯子が垂直に五メートルほど続いており、下からむわりと生温い空気が漂ってくる。有機物の腐熟した匂いと微かな金気、それから奇妙なことに甘みに似た何かが混じっていた。
「この甘い匂いは?」
「それがアンタの目当てだろう」
王都のスライムは甘い匂いなど発しただろうか。首を傾げつつ、私たちはさらに降りた。
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⋄最初の遭遇
地下水路は想像を遥かに超えて広大だ。主要幹線は大人が背を屈めずに歩ける高さがあり、足許を流れる水路の幅は両腕を広げたほどもある。壁面は古い石積みで、苔と水垢が幾層にも堆積している。ガウドが手にしたランタンの光が水面に反射し、天井に波紋のような影を揺らした。
そして、壁に目当ての者がいた。青灰色の半透明の粘体。
大きいものはティートレイほどの面積で壁面に貼りついており、小さいものは親指の爪ほど。形は不定形で、微細な震えを持続的に行いながらじわりじわりと壁を這っていた。色は青みがかった灰色、あるいは灰みがかった青色と言うべきか、どちらとも取れる曖昧な色調で、光の当たり具合によって少しずつ変化して見える。
「カルセダーン青灰だな」
ガウドが言った。それは学名ではなく、組合員たちが使う俗称だ。
「こいつらがいなけりゃ、この街は三週間で疫病が出る。昔そういうことがあった」
「およそ百年前の話ですね」
「俺の祖父の代だった。大掃除があって水路を一区画まるごと焼いたらしい。そうしたら翌月から川下の町で腹下しが流行った。死者も出た」
私はランタンを壁に近づけ、粘体を観察した。
表面は滑らかではなく、微細な凹凸がある。指でそっと触れると(注:革手袋越しに。序章で述べた十二歳の失敗を繰り返す気はない)、弾力のある抵抗があり、それから粘体はゆっくりと指の形を避けて横にずれた。逃げているのか、それとも単純に圧力に従っているのか、その判断は容易ではない。
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⋄生態と機能
カルセダーン青灰スライム、暫定学名Dissolutio caerulescens(青化分解体)は、下水環境に特化した腐食分解型スライムの代表種である。
その主要な機能は有機廃棄物の分解だ。
青灰スライムは体内に強力な消化酵素に似た物質を持ち、接触した有機物を体表から直接吸収する。動植物の死骸、排泄物、腐敗した食品残滓。こうしたものを効率的に分解し、より単純な化合物へと変換する。変換された物質の多くは水に溶けて水路へ流れ、最終的に都市外の河川へと排出される。いわば都市の消化器官だ。
興味深いのは、青灰スライムが有害な腐敗菌の増殖を抑制する性質を持つことである。具体的なメカニズムは完全に解明されていないが、スライムの分泌物が特定の病原微生物の活動を阻害するらしく、カルセダーンの水路は他の都市の同規模の下水に比べて病原菌の濃度が著しく低いというデータがある。これはガウドが語った「スライムを一掃したら疫病が出た」という経験談と一致する。
分解の速度は廃棄物の種類と個体密度によって変わる。ガウドによれば、幹線水路では週に一度の周期で「仕事をした後」のスライムの薄くなった群落と、新しく増殖した濃い群落が交互に観察されるという。
「こいつらにもペースがあるのさ。食べすぎた後はちっとばかり薄くなって、また増える。人間と同じだ」
私はそれをそのまま観察記録に書き留めた。
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⋄下水夫たちの話
翌日、ガウドは私を組合の詰め所に連れて行った。
詰め所は地下水路のやや広くなった踊り場に設けられており、石造りの小屋に毛が生えたような代物だが、中には木のテーブルと椅子、薬缶と乾燥食料の棚、そして壁一面に水路の略図が張りつけてあった。当番の組合員が常駐しており、私が訪れた昼過ぎには三人の男と一人の老婦人が休憩をとっていた。
マギーと呼ばれる老婦人は組合歴三十八年のベテランで、腰が曲がっていたが眼光は鋭く、私が研究者だと分かると即座に値踏みするような視線を向けてきた。
「スライムの先生だって?」
「はい」
「どこの大学だい」
「王立湿性魔物研究院です」
「聞いたことないね」
「そうでしょうね」
マギーはしばらく私を見てから、薬缶のお茶を一杯注いで寄越した。これは合格の証だとガウドが後で教えてくれた。基準は誰も分かっていないという。
彼女は四十年近い下水道生活の中で、青灰スライムとの付き合い方について独自の哲学を持っていた。
「あいつらはな、賢くはない。でも律儀だ。汚れた水路に必ずいる。空の水路にはこない。ゴミがあるところを知ってる。どうやって知るのかは分からないけど、いるのさ」
「指向性があると?」
「難しい言葉は知らないけどね、あいつらはちゃんと仕事場を知ってるの」
別の組合員、まだ二十代の若者、ペトルスという名の男が話に割り込んできた。
「去年の中頃に東三番水路でスライムが大量発生したことがあったんですよ。なぜか知ってますか」
「報告は聞いていますが、原因が解明したという話は未だ」
「あれ、屠殺場が廃棄物の処理を怠ったんですよ。血と内臓を一気に流した。そうしたら三日後に東三番が詰まりそうになった。スライムが集まりすぎて、水路を半分塞いでしまって」
「それが増殖による事故になったんですね」
「まあ、そうです。でも怒れないですよ。あいつらはただ仕事をしただけだから」
この点は重要なので後述するが、青灰スライムが起こす事故の多くは、スライム自身の問題というよりも、廃棄物を無秩序に流す人間側の問題に起因している。スライムは与えられた環境に素直に反応するだけであり、その反応の結果として水路が塞がったり、場合によっては大型化した個体が地上に現れたりする。
マギーはお茶を一口飲んでからのんびりと言った。
「あたしらが若い頃は駆除隊が定期的にきてたよ。ランタンと長い棒と石灰で、水路を掃除する。でも結局また増える。増えなかった時に何が起きたかは、さっきの話の通りさ」
だから今はバランスよく共存しているのだ、と。
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⋄増殖と事故の記録
組合の台帳を閲覧させてもらった。
過去五十年の記録に、青灰スライムに関連したトラブルが全部で二十三件記載されていた。その内訳を見ると興味深い傾向がある。
うい十七件の事例は水路の閉塞であり、いずれも廃棄物の一時的な大量流入の後に発生している。市場の火災で大量の焼けた食料が下水に流れ込んだ年、特定の食肉加工場が無認可で大量廃棄を行った年、そして洪水で地上の有機物が大量に地下に流れ込んだ年。スライムは増殖し、水路を圧迫し、組合員が対処に追われた。
残る六件は大型化した個体が地上に出現したケースだ。これはスライムが地上に侵入してきたというよりも、水路内の個体密度が飽和状態となり、一部が排水口から溢れ出たというのが正確な表現だろう。出現した個体は大きいもので牛ほどの体積があり、夜間に露店の食料を摂取したり、酔客に接触して軽傷を負わせた事例もある。しかし死者はゼロだ。
「青灰は溶かさないんだ。正確には、溶かせない。あいつらの消化液は腐敗物に特化してて、生きた組織には効きが悪いらしい。まあ、長いこと触ってりゃあ肌荒れくらいはするけど、呑み込まれて死ぬってわけじゃない」
ガウドの言葉は「スライムは危険な魔物」という一般イメージとの大きな乖離である。後の章で触れる種の中には、それこそ人を溶かすものも確かに存在するが、最も身近なこの種に関して言えば適切な距離を保っていれば脅威はほとんどない。
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⋄駆除すべきか、保護すべきか
私は組合の月次会議に同席させてもらった。議題の一つは「南区水路の青灰スライム密度管理について」であった。
南区では近年、人口増加と屠殺場の拡大によって廃棄物の量が増加しており、それに伴ってスライムの個体密度も上昇している。住民からは「下水の臭いが増した」や、「排水口の周辺でスライムを見かけた」という苦情が増えている。市の衛生局は密度管理、すなわち定期的な部分駆除を検討しているという。
会議の中で意見は二つに割れた。
一方は管理駆除派。一定密度を超えた区画のスライムを石灰処理で間引き、個体数を適切な水準に保つべきだという立場だ。この方法は実績があり、水路閉塞の防止に効果的だとされる。
他方は現状維持派。スライムの個体密度は廃棄物の量に応じて自己調整されるのであって、人為的に介入すれば生態系バランスが崩れる可能性がある。そもそも問題は廃棄物の量であり、スライムの数ではないという主張だ。マギーは現状維持派だった。
「南区が臭いのはスライムのせいじゃないよ。ゴミが増えたせいだ。スライムはそいつらを処理しようとして増えてる。間引いたってゴミが減らなきゃ、数週間後にまた増えるさ」
しかし管理駆除派の主任検査員は反論した。
「感情論はよしてくれ。現実問題として、住民に『スライムが必要だから我慢しろ』は通らない。行政とは見える成果を出す義務があるんだ」
この対立は結局その日の会議では決着がつかず、次の会議に持ち越された。私は部外者として口を挟む立場になかったが、内心では考えていた。
これは単なる都市衛生の問題ではない。人間がスライムという存在を何として扱うか、という問いだ。有害な害獣として駆除するか。道具として管理するか。生態系の構成員として共存するか。その答えによって、対応はまったく変わってくる。
そしてこの問題はカルセダーンの下水道だけにあるのではないことを、私は旅の中で何度も思い知ることになる。
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⋄地下を離れる朝
地上に戻る前にもう一度ひとりで水路の入口近くに立った。
ランタンの光の中で壁面の青灰スライムたちが動いていた。流れてくる廃水の中から何かを取り込みながら、ゆっくりと。大きな意志を持たず、声を出さず、姿形を変え続けながら、この都市の暗い腹の中で黙々と働いている。
三十万人の人間が上に住んでいる。そのうちの何人が、足許でこれが行われていることを知っているだろうか。そのうちの何人が、この奇妙で、地味で、おそらくは不可欠な生命の存在を意識したことがあるだろうか。
マギーがそっと後ろに立った。
「どうだい。いい研究材料になったかね」
「それ以上のものになりました」
「どういう意味だい?」
「スライムが見えていなかったのは、私たちが地上しか見ていないからですね」
マギーはしばらく黙ってから、心なしか自慢げに鼻を鳴らした。
「分かったような口を利く。でもまあ、悪くないね」
それが彼女がくれる最大限の褒め言葉だったと私は理解している。
地上に出るとカルセダーンの空は曇っていた。石畳は昨夜の雨で濡れており、路地の排水溝から小さな水流が地下へと流れ込んでいく。私はその流れをしばらく目で追った。
水は地下へ行く。そしてそこに彼らがいる。
世界の見えない部分を支えているものは大抵、人が注意を払わない場所にある。
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次章への案内
カルセダーンから東。人里に住むスライムの中でも、より歓迎された存在について記そう。温暖な田舎町の、パン窯が温める路地へ。




