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流体なる隣人たち -諸邦スライム巡見録  作者: Ono


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最終章 第三書架室にて

故郷:王都アルメナス、王立湿性魔物研究院・第三書架室


 ***


 王都の城門をくぐるたびに私は立ち止まって街を見渡す。

 長く変わらない石畳、城壁、市場の喧騒。この街を出て帰るたびに私は変化している。しかしその変化を学術的に証明する手段はない。変化というものは比較によってしか確認できないが、変化後の私と変化前の私が同時に存在できないため、自分自身の変化は本質的に確認困難だ。

 これはおそらく哲学の領域だが、城門の前で荷を担いで立ち尽くしながらいつも考えることである。

 後ろから馬車に追い立てられて、私は帰路につく。


 ***


 ⋄帰還と記録の整理


 研究院の第三書架室(注:私が長年使っている作業室であり、ほとんど自宅のようになっている)に戻ると、出発前に積みっぱなしにしていた文献と資料が埃を被ってそのままの状態で待っている。

 助手のブロンが書架室に顔を出した。私の不在中には別の研究者の補佐をしているらしい。その研究者はドラゴン学を専攻している。彼は私の顔を見るなり「随分と日焼けされましたね」とか「痩せましたね」とか「老けたんじゃないですか」とか適当なことを言い、次に決まって「今回の報告書はいつ提出できそうですか」と言うのが決まりだ。

 べつにブロンに悪意はない。ただ研究院というのがそういう場所なのである。私の旅の予算は王立湿性魔物研究院が出している。もちろん「スライムが好きだから調べたい」などという論では通らないため、「人文科学的側面から見た湿性魔物の生態と好人性について」という名目を立てている。

 つまり私は立場上「スライムがいかに人類社会の役に立つかを研究している」わけだ。


 旅の荷を解く。観察記録帳を書棚に収める。旅のたびに十冊近くになり、スケッチが三百枚以上。各地で収集した資料と文書が一箱。そして記録帳には書けなかった記憶が、無数にこの脳に置かれている。

 一度旅に出るたび、情報の整理整頓には三週間かかる。しかしその三週間で、私はまた記憶の中を旅するのだった。


 ***


 ⋄旅の雑感、あるいは旅が変えるもの


 出発前の自分と今の自分を比較しようとすると困難に突き当たる。比較するためには「出発前の自分」を正確に記憶している必要があるが、それは長い旅の記憶と印象によって常に上書きされていく。


 しかし明確に変わったと分かることも時々ある。

 たとえば歩き方だ。私は王都の石畳を歩く時にも無意識に足許を確認する。ヴァイスデン湿原では白喰いの痕跡を見逃さないために常に地面を見ながら歩いた。雪原では温床を踏み抜かないよう足許を確かめながら歩いた。砂漠では砂に埋まった玻璃粘体を蹴飛ばさないよう気をつけた。それらの習慣が、整備された安全な道の上でも現れる。

 石畳には温床も玻璃粘体も埋まっていない。しかし習慣は残った。この習慣がいつか消える時、旅はようやく本当に終わるのかもしれない。


 次に、夜の過ごし方が変わった。旅の間、夜は観察の時間だった。砂漠では玻璃粘体が活動し、ユールハーゲンでは灯り玉が光り、雪原では温床スライムが低い音を立て、海では黒い潮が甲板に飛沫を送ってきた。夜の静けさは彼らを見つめる絶好の時間だ。

 王都に戻っても、夜に眠れない日がある。夜の黒さの中に未だ見ぬスライムを探してしまう。何もないと分かっても探し続けている。これは旅の後遺症だろうか。あるいは研究者としての職業病が、別の段階に進んだのか。


 そして沈黙の扱い方が変わった。

 紺碧樹海で過ごした日々は私の人生で最も沈黙の多い時間だった。イロナたちは長く語ることを好まず、語らない間に多くのことが進んだ。最初は沈黙を埋めたくなったものだが、次第に沈黙の中にも情報があることを学んだ。あれ以来、研究院に戻ってからも同僚との会話の中で自分が沈黙を挟む量が増えた。相手に「何か悪いことを言った?」と聞かれて気まずくなることもある。


 ***


 ⋄「スライム」の定義不能性


 序章で「スライムとは何か」という定義に関する学会の三学派を紹介し、形を持たぬことの分類上の困難を述べた。私は旅をして各地のスライムを観察すれば、いつかはこの問いに何らかの答えが出せるだろうと暗に期待していた。しかし答えは出なかった。それどころか、この問いは旅をするごとに大きくなった。

 魔物学はそこに分類上の定義を求める。スライムをスライムたらしめる条件は何か。液体状であること、生命核を持つこと、有機廃棄物を分解すること――そういう条件の集合によって、スライムを定義できると考える。それが学問だ。

 だが現実を条件に当てはめようとすると、どれかが外れるものである。

 灯り玉は液体状ではなく浮遊する。酵母粘体は廃棄物を分解しない。雲海粘体は地面に触れない。聖なる群れは微細生物の集合であって個体ではない。黒い潮は個体境界がない。温床スライムは捕食と保護を同時に行う。樹液粘体はエルフの文化に「内なるもの」として溶け込んでいる。

 条件を緩めれば、より多くのものがそこに含まれる。緩めすぎればスライムではないものさえ含まれる。雲も、霧も、川も、条件次第では「スライムに近い何か」になってしまうだろう。


 分類とは人間が理解のために線を引く行為だ。その線を引く基準に客観的な根拠はない。ただ研究者の判断が線の位置を決め、判断は観察の深さと既存理論の枠組みに依存する。それらはどちらも完全ではない。

 序章で紹介した三学派の論争は、二六三年現在も決着がついていない。立場上言ってはならないのだが、おそらく今後もつかないだろう。それは学者たちの能力の問題ではなく、世界の構造の問題だ。「スライムとは何か」という問いは、答えを持たないかもしれない。あるいは一つの答えでは収まらない問いなのである。


 スライムという存在は、見る者と見られる者の関係によってその姿を変える。これは欺瞞ではなく、存在の多面性だ。同じ石を地質学者と画家と子供が見る時、三者が見ているものは同じ石であり、しかし異なる何かだ。尤も、スライムには石と違う点がある。

 スライムは見られることに反応する。灯り玉は訪問者の感情に色で答える。酵母粘体は持ち出せない場所に根ざす。雲海粘体は乗る者を選ぶ。黒い潮は船を押し戻した。聖なる群れはセナラの病気あるいはカラドックの動揺に反応した。温床スライムは食べる相手と食べない相手を何らかの基準で区別する。

 これらが意識的な行為かは分からない。しかし一方的に見られるだけの石とは違う。スライムを見る行為によって、向こうも何かを感じているのだ。


 ***


 ⋄バルドへ


 ヴァイスデン湿原でのことは、白喰いの章に書いた通りだ。彼はもう戻らない。私の負傷は完治した。この非対称は永遠に変わらない現実として私の眼前に常にある。

 私はよくバルドに手紙を書いた。宛先はなく、すべて封をしてから箱に収める。

 彼への贖罪の機会は求めない。私にできるのは、ただ私が同じ場所へ行く時まであの記憶を書き留め続けることだけだ。


 ***


 ⋄出会った人々、未だ出会わぬ人々へ


 旅を通じて出会った多くの人。彼らは各々の場所で暮らし、時にスライムとすれ違い、あるいは共生していた。その生き方の中に私が研究室で考えていた以上のものがあった。

 これらの人々はスライムの研究者ではない。しかしそれぞれが私より長く密接にスライムと関わっていた。長くいることと深く知ることは同じではないかもしれないが、長くいることでしか見えないものが確かにあると私は思う。

 すべてのスライムに関わる人々へ敬意を込めて。


 ***


 ⋄第三書架室の夜


 本書を執筆するにあたって必要な記録の整理を終えた夜、窓の外では雨が降っていた。王都の秋の雨は細かく、降り始めれば長い。石畳を叩く音が一定のリズムで眠気を誘う。

 机の上に観察記録帳が積まれている。大量のスケッチが脇にある。各地から送っておいた資料が箱に収まっている。それでも書くのに苦労した。

 灯り玉のウィルフに触れた夜の感触を、私は正確に書けたか。雲海粘体の背から見た景色を伝えられているか。黒い潮に押し戻された夜の揺れを。

 おそらく書きれてはいない。すべてを書けないと今の私は知っている。これは若い頃の私が持っていなかった知識だった。


 ***


 ⋄流体なる隣人たちへ


 形とは、輪郭であり、境界であり、定義だ。形があるものは、ここから始まりここで終わるということが決まっている。形があるものは、これであってあれではない。形があるものは、この瞬間こうであり、別の瞬間には変わっているかもしれないが、少なくともその瞬間には固定されている。

 人間の思考は形に依存している。

 言語は、分類は、名前は形を作る。人間が世界を理解する時、世界に形を与えて理解する。形のないものは理解の網から抜け落ちる。


 スライムは形を持たない。輪郭がないという意味ではない。どの瞬間をとっても彼らに輪郭はある。しかし次の瞬間にはその線さえも変わる。変化に固定点がない。これがスライムで、これは違うという境界が、揺れ続ける。

 液体であれば境界は明確でないが、液体は容器に従う。スライムは容器に従いながら、容器をも変える。容器がなければ自分で形を持つし、容器があればその形に合わせ、どちらの場合も形そのものへの拘りがない。彼らにとって形は手段であり、本質ではないのだ。

 形が変わっても、分裂しても、融合しても、そこにいる。水に溶けても霧状に散っても、砂の中に沈んでも、存在としては続く。

 形によって存在を認識する私たちの思考で見れば、形が変わることは消滅に近い。あるいは少なくとも「別の存在になった」ことを意味してしまう。しかしスライムにとって形の変化は、単に存在の継続の一形態にすぎなかった。


 我々の思考は形の持続を存在の証拠とする。スライムは、形の変化を存在の様式とする。

 この根本的な違いが、人間にとってスライムを「理解困難な存在」にしている。

 そうした生涯不可解な彼らを、私は生涯追い続けるだろう。


  王都研究院・第三書架室にて、王国歴二六三年、秋の雨の夜――アーロン・ファラマン。


 ***


 ⋄後記に代えて


 スライムは身近な魔物でありながら、それが何であるかについてほとんど分かっていない。これは悲観ではなく展望だ。分かっていないということは、旅への出発の動機になる。

 スライムとは我々が「形」と呼ぶ思考の外にある生命である。そしてその外側を歩くことが、研究者としての私の仕事だ。終わりなく、形なく、確かに続く我が仕事に愛を込めて。


 以上をもって、「流体なる隣人たち-諸邦スライム巡見録」を終える。

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