付録
⋄簡易スライム名鑑
本書で記述した種および関連種を中心に編纂した。学名はすべて著者による暫定分類であり、王立湿性魔物研究院による正式承認を経ていない。掲載順は本書の章順に従う。
▾01 青灰スライム
暫定学名:Dissolutio caerulescens(青化分解体)
体色:青みがかった灰色。光の角度によって変化する。
生息地:都市部の下水道・地下水路。有機廃棄物の豊富な環境を好む。
食性:腐敗した有機物全般。腐敗菌の活動を抑制する分泌物を持つ。
気質:無害。生きた組織への消化能力は低い。
危険度:★☆☆☆☆(長時間の接触で皮膚への軽微な刺激)
特記:都市衛生に不可欠。個体密度が高まると水路閉塞の原因となるが、これは廃棄物量の問題であることが多い。
▾02 酵母粘体
暫定学名:Viscum fermentalis(発酵粘体)
体色:乳白色から淡黄色。内部からの光散乱により半透明に見える。
生息地:製パン工房の発酵槽、醸造所の仕込み桶。糖分と酵母代謝産物の豊富な環境を好む。
食性:酵母の代謝産物(糖類、有機酸)。酵母菌の活性化に寄与する。
気質:穏やか。人への接触意欲なし。
危険度:☆☆☆☆☆(実質的に皆無。分泌物は食品加工に有益)
特記:特定の環境への定着性が極めて強く、自発的な移動はほぼなし。環境を変えると急激に活性を失う。移送不可能とみてよい。
▾03 灯り玉
暫定学名:Luminotheca suspensa(浮遊発光粘体)
体色:通常時は青白から淡水色。感情状態に応じて変化する。緑=快活・機嫌良好、紫=驚き・警戒、赤=恐怖・強ストレス、光量低下=睡眠・衰弱。
食性:不明。長期にわたって食事を必要としない可能性があるが、室内の微細な有機物を吸収しているとも考えられる。
気質:温和。人間の感情に反応する。社会性があると考えられる。
危険度:★☆☆☆☆(確認されている危険なし)
特記:感情的文脈を読み取る能力を持つとみられる。長期定着した個体との間に強い関係性が生まれる。名前をつけて飼育する慣習あり。
▾04 白喰い
暫定学名:Acida nebulosa(酸霧粘体)
体色:乳白色から透明に近い白。光沢なし。
生息地:辺境湿地帯。酸性水質環境を好む。長年の分泌物によって生息地の水質を酸性化する。
食性:接触した有機物全般。強酸性の消化液を体表から分泌。
気質:危険。ただし積極的な追跡行動は限定的。
危険度:★★★★★(接触即危険。骨まで溶解する例あり。霧状分散時は特に注意)
特記:帝国立入制限区域の指定生物。許可なく生息域への立入禁止。事前の装備確認と経験豊富なガイドの同行必須。現地ガイドの指示を重く捉え、必ず従うこと。
▾05 玻璃粘体
暫定学名:Vitrum ambulans(歩行硝子体)
体色:ほぼ透明。僅かに黄みがかり、内部に虹色の屈折あり。
生息地:砂漠地帯。砂の中に潜む。地下の魔力流の強い場所を好む。
食性:不明。砂中の微細な有機物か、魔力流から何らかのエネルギーを得ている可能性。
気質:無害。接触してもおとなしく、毒性・腐食性なし。
危険度:★☆☆☆☆(ただし夜間に踏みつけないよう注意)
特記:地下の魔力流に沿って移動する性質があり、水脈探知の指標として隊商に利用されてきた。固体状態での内部代謝継続の可能性がある。移動範囲が広く、同一個体の追跡調査が困難。
▾06 温床スライム
暫定学名:Caloritheca nivalis(雪中熱床粘体)
体色:橙色に近い濃い赤みがかった色。発熱量により変化する。
生息地:極北雪原。積雪地帯全般。
食性:接触した哺乳類(捕食型)。ただし小型生物との共生関係も確認。
気質:条件付き危険。接触した対象を消化する場合としない場合があり、判断基準は不明。
危険度:★★★☆☆(接触は即危険ではないが長時間は危険。意識を失った状態での接触は致命的になり得る)
特記:内部に雪鼠等の小動物が巣を作る共生関係が確認されている。凍死寸前の旅人を救う事例あり。縁部分は食用可能だが核部分は摂取禁止。
食用:可(縁部分のみ)
▾07 樹液粘体
暫定学名:暫定名称の使用を紺碧樹海の住民から拒否されたため記載なし。
体色:金色から琥珀色。接触する樹種によって変化する。
生息地:紺碧樹海内部。大樹内部への定着種。
食性:木の病害(菌類・腐敗微生物)を体内で処理する。
気質:穏やか。人への反応は確認されているが、積極的な接触を求めない。
危険度:★☆☆☆☆(確認された危害なし)
特記:分類の試みを紺碧樹海エルフが強く拒否している。外部研究者は樹海への入林前に充分な交渉と合意形成を行うこと。採取・持ち出しも含め許可なく行うことは研究者倫理上問題がある。森は思ったより長く覚えている。
▾08 赤鉄スライム
暫定学名:Ferritheca ignivora(火食鉄床粘体)
体色:赤みがかった鉄色。くすんだ朱色と錆色の中間。体表に吸着した金属粒子が付着。
生息地:鍛冶場・鍛治炉の周辺。高温環境を好む。
食性:空気中の金属微粒子(特に鉄精錬過程の不純物)
気質:穏やか。職人の動きに追従する行動が見られる。
危険度:★☆☆☆☆(通常の接触で害なし。高濃度の不純物蓄積個体への長時間接触で微細な皮膚刺激の可能性)
特記:技術水準の高い工房にのみ長期定着する傾向がある。品質検査への活用は本書の発見の一つ。移動・移設は困難とみられる。帝国での法的分類については本文第八章参照。
▾09 雲海粘体
暫定学名:Aethotheca nubivaga(雲行浮遊粘体)
体色:白に近い淡い灰色。雲と見分けがつかない。
生息地:標高三千メートル以上の高山地帯。地面に触れず完全に空中で生活する。
食性:雲の水分・その他不明。
気質:穏やか。人を乗せることへの拒否の意思表示あり(呼んでも来ない形で示す)
危険度:★★☆☆☆(飛行中の落下リスク。個体による意図的な危害なし)
特記:人間の乗用を自発的に許可する唯一の確認種。強制的な捕獲・拘束は不可能。カルカラック高山民族との長期的な関係の上に成立している利用形態であり、外部からの一方的なアプローチには応じない可能性が高い。高山病に注意。
▾10 聖餅虫・聖なる群れ
暫定学名:Congregata sapiens(群体知性体)
体色:白みがかった半透明。夜間・暗所では微弱な青白の発光を示す。
生息地:境界修道院の地下室。特定の環境への強い定着性がある。
食性:薄い小麦液(聖餅水)を毎朝儀礼的に与えられている。
気質:穏やか。訪問者・外界の変化に反応する。
危険度:☆☆☆☆☆(確認された害なし)
特記:境界修道院の管轄に属する存在であり、採取・持ち出し・外部からの調査は必ず院の許可のもとで行うこと。四百年以上の継続記録あり。学術的分類と宗教的理解の両立については本文第十章参照。
▾11 黒い潮
暫定学名:Abyssotheca pelagica(外洋無境界群体)
体色:極めて濃い藍色から黒に近い色。光を吸収する傾向がある。
生息地:ケアノス海洋国家沖合の特定海域。季節変動あり、春に拡大し、冬に縮小する。
食性:不明。
気質:不明だが積極的な攻撃性は確認されていない。
危険度:★★☆☆☆(乗り上げた場合に船が一時的に傾く。転覆事例の記録なし。ただし内部深度・毒性等の詳細は未解明のため慎重な扱いを推奨)
特記:既知のスライム分類体系への当てはめが困難な特異種。個体か群体かの判断も現時点では不能。宗教的文脈での理解は地域の船乗りの経験知を反映しており、軽視すべきでない。
***
⋄食用可能種と著名なレシピ
王都ではスライムを食べることへの批判的な視線が発生するが、倫理とは特定の文化圏のみで適用される偏見にすぎないことに留意されたい。世界各地ではスライム食の習慣があり、その知恵は記録に値する。
警告:以下に掲載されていない種を安易に食べることは推奨しない。また食用可能種であっても調理方法を誤ると健康被害を招く可能性がある。現地の専門家の指導のもとで試みること。
▾食用種一覧
◎ 温床スライム(縁部分のみ)
▾食用部位:縁の薄い層のみ。核部分は絶対に摂取しないこと。
▾栄養価:脂肪分高め。カロリー密度が高く、少量で体が温まる。
▾調理法:切り取った後に雪で急速冷却し、炙る。表面が固まれば食べ頃。
▾保存:冷凍で一週間程度。
▾著者の感想:独特。最初の一口は「温かい」という印象が先にくる。甘みがあり、大地の風味がある。後味はすっと消える。二口目からは少し慣れる。三口目には悪くないと思う。食料が尽きそうな時に限らず、一度は試してみる価値がある。
◎ 青灰スライム(一部の地域の伝統食。都市部では一般的でない)
▾食用部位:全体。ただし下水道の個体は衛生上の問題あり。
▾栄養価:低い。食料としての実用性は限られる。
▾調理法:充分な加熱(煮沸三十分以上推奨)。石灰を使わない環境の個体のみ。
▾著者の感想:カルセダーンでは試食の機会がなかった。マギーに聞いたところ「食べたことはない。食べようとも思わない」との回答。他の下水夫全員も同様。他地域の伝統としてのみ掲載する。
◎ 酵母粘体(調理ではなく、製造過程への寄与として)
▾直接食用するものではなく、酵母粘体が関与したパンや酒が食用となる。
▾著名な製品:セアルラスの高級パン、セアルラス蜜麦酒(一杯小型金貨一枚以上)
▾著者の感想:酵母粘体ありのパンと酵母粘体なしのパンを食べ比べた。差は確実にある。酒は予算の関係で蜜麦酒の最も安い銘柄を一杯だけ試した。あまりの感動に言葉が出なかった。
◎ 玻璃粘体(緊急時の水分補給として一部地域に記録あり)
▾固体状態の個体を砕いて少量飲む。砂漠での極度の渇きへの最終手段。
▾著者の感想:試す機会がなかった。バラフに聞いたところ「飲んだことはない。死にはしないだろうが、玻璃を飲まなくて済むよう水を管理するのが隊商の仕事だ」とのこと。緊急手段として記録する。ただし実用上は水の確保を優先せよ。
⋄著名なレシピ
シュネル村の温床縁炙り-エイリク提供
材料:温床スライム縁部分(手のひら大)、塩少々、乾燥ハーブ(現地産)
手順:
一、縁部分を鋭利な刃物で慎重に切り取る。核に近い赤みの濃い部分は取り除くこと。
二、すぐに雪または冷水に浸して五分以上急速冷却する。
三、冷却した縁部分を焚き火の網の上に置き、表面が白く固まるまで二分程度炙る。
四、塩とハーブを振って完成。
エイリクの一言:「最初はそういう顔をする」
著者注:確かにそういう顔をした。
極北の温床スープ-シュネル村の伝統料理
材料:温床スライム縁部分(少量)、雪解け水(清潔なもの)、根菜、干し肉
手順:
一、温床縁部分を細かく刻む。
二、雪解け水を沸騰させ、干し肉と根菜を入れて煮る。
三、充分に火が通ったところで刻んだ縁部分を加え、三分ほど煮る。
四、加えすぎると味が変わるため少量を基本とする。
用途:冬の長い夜の栄養補給。体が温まる。寒さで消耗した旅人の回復食として重宝される。
著者注:干し肉の味が強いため、温床独自の味はほとんど感じなかったが、体が温まるのは確かだった。
セアルラス酵母粘体パン(家庭版)-アンガス提供
酵母粘体そのものはレシピに含まれない。
材料:小麦粉、水、塩、天然酵母(セアルラス産を推奨)
アンガスの一言:「一番大切な材料は書けない。だからこのレシピは不完全だ。食べたければセアルラスにこい」
著者注:これは正直なレシピだと思う。
***
⋄誤分類された生物一覧
スライムと誤認されたもの、スライムとは分類されていないがスライムに近い性質を持つもの、および逆にスライムとして扱われているが異なる可能性が高いものを整理する。分類は流動的であり、本リストも暫定的なものとして扱う。
【スライムと誤認されやすい非スライム生物】
⋄洞窟粘菌類
一般にスライムと呼ばれるが、学術的には菌類に近縁。生命核を持たず、群体微生物の集合体。移動速度が著しく遅い。
判別方法:光への反応を見よ。スライムは光の変化に反応するが、粘菌類は反応が鈍い。
⋄魔力油
一部の地域で「液体スライム」と呼ばれる魔力性の液体だが、生命活動の証拠がない。流れるが、意志を持って動かない。
判別方法:容器を傾けてみよ。スライムは傾きに抗う動きをすることがある。魔力油は純粋に重力に従う。
⋄発光苔の溶解物
一部の洞窟で、壁面を流れる発光する液体がスライムと誤認される。実態は発光苔が水分を吸収して溶解したものであることが多い。
判別方法:溶解物は日に当たって時間が経つと光を失う。スライムの発光は日光のもとでも持続的だ。
⋄珊瑚粘液(海洋生物)
ケアノス海域で「海スライム」と呼ばれることがある珊瑚の粘液分泌物。生命核を持たない。
判別方法:珊瑚粘液は採取すると急速に活性を失う。スライムは環境が整えば活性を維持する。
【スライムとして扱われていないが、スライムの可能性がある生物】
⋄聖都エルロウの「祝福された水」
大神殿の聖水槽の水が、特定の季節に粘性を増すことが知られている。一部の研究者は極小スライム種の存在を疑っているが、宗教的配慮から調査が進んでいない。
⋄鉱山地帯の「生きた鉱脈」
ドバイレン帝国の古い鉱山で、鉱脈が「動いている」という証言がある。赤鉄スライムの大型個体の可能性があるが、採掘作業への影響を懸念した帝国が調査を制限している。
⋄砂漠の「砂嵐の意志」
シャルマーン砂漠で、特定の砂嵐が意図的な動きをするという隊商の報告がある。複数の報告の一致が気になる。玻璃粘体の超大型群体の可能性。
著者の見解:懐疑的だが、完全に否定する根拠もない。黒い潮の例があるため、スケールを理由に否定するのは早計かもしれない。
⋄紺碧樹海の「根の流れ」
森エルフが「木の根を流れるもの」と表現する存在。樹液粘体と別の種なのか、同種の地下形態なのかは不明。エルフは詳細な説明を避ける。
著者の見解:イロナに聞いたが「根に名前はない」と言われたため、これ以上の追及は控えた。
【スライムに分類されているが再検討が必要なもの】
⋄幽鬼スライム(伝説上の種)
古い文献に記録された「死者の怨念が凝固したスライム」。半霊体説の根拠の一つとして引用されるが、信頼できる観察記録がない。
著者の見解:フィンバー博士の半霊体説を証明しようとした研究者たちが「あったことにしたかった」可能性を排除できないのが現代魔物学の見解である。
⋄海神(本書では黒い潮として扱った)
宗教的文脈での「海神」が個別の生物として独立分類されている古い文書がある。本書では黒い潮と同一視したが、厳密には別の存在を指している可能性もある。
著者の見解:「海神」と「黒い潮」が同じか別かを問うことの意味を、テーナたちは「どっちでもいい」と言うだろう。
⋄聖なる群れ(本書では別途扱った)
学術的にはスライム科に分類されているが、本書の観察では群体微生物説に近い特徴を示した。スライムというカテゴリへの帰属そのものを再検討すべき可能性がある。
著者の見解:分類自体の問い直しが必要な事例。
誤分類は分類という行為の必然的な副産物だ。分類するということは線を引くことであり、線は常に正確ではない。線の内側のものが外に出ようとし、線の外側のものが内に入ろうとすることがある。その動きに気づいて線を引き直すのが分類の更新である。
スライムはこの意味で最も分類を困難にする存在だ。線を引こうとすると向こう側に流れてしまう。それがスライムというものの本質であろう。




